月水金感覚と、火木土感覚。 ムーンライダーズにおける月と水と金 (POP-IND'S Vol.6 1991年5-6月号掲載) |
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理科や算数は、月水金曜日っていう感じがする。国語や社会は、火木土曜日だな。小学生のとき、わたしはふとそう思った。朝礼が終わり、四年六組の下駄箱へ向かう途中だった。 |
つまり、月水金曜日感覚というのは、まさに月であり水であり金属なのである。火木土曜日感覚も、火と木と土のイメージからくるようだ。もっとも、「深い森」は木の群れから成り立ちながらも、月水金に含まれるのだが。そして、マジョリティとマイノリティという区別はこの定義の中にはないけれど、火木土のアイテムの方がマジョリティに傾きやすいということを、最近発見した。 音楽に目覚めた十代の頃。やはり、頭のどこかで好きなアーティストたちを、こんな風に類別していた。 七十年代でいえば、はっぴいえんど、山下達郎、南佳孝、センチメンタル・シティ・ロマンス、夕焼け楽団、ココナッツ・バンク(伊藤銀次)などは火木土。シュガー・ベイブ、吉田美奈子、ティン・パン・アレイ、佐藤奈々子、坂本龍一、そしてムーンライダーズなどなどは、わたしにとって月水金だった。 シュガーベイブが月水金ぽかったのは、大貫妙子の透明感ゆえかもしれない。はっぴいえんどに関しては、大滝詠一と松本隆は火木土、「はらいそ」以後の細野晴臣と「ラグーン」までの鈴木茂は月水金。ムーンライダーズも、今思うとはちみつぱい時代や「火の玉ボーイ」付近は火木土的に感じる。けれど、あの時代ではとても月水金だった。「スペイシー」までの山下達郎や、「忘れられた夏」までの南佳孝もそうだ。考えても見れば、七十年代の日本の音楽界において、この辺りの音楽はすべて月水金だったのかもしれない。 外国映画の風景。あるいは、そこから切り取ったような日常。そうした彼らの世界は、洋楽を聴かないわたしを刺激し、高揚させた。中でも、ライダーズの世界はフランス映画の真摯な軽やかさとエロティシズム(カルト映画の猥褻さという方がふさわしいものも)があって好きだった。今は映画的情景描写より、彼らの月水金な映画的心理描写に心震えるけれど。ムーンライダーズが、十五年間もわたしのアイドルであるのは、やはりその秀でた月水金性にあるようだ。 「ペーパー・ラブ/帝国の中で腐ってゆくぞ」「物は壊れる/人は死ぬ/三つ数えて/眼をつぶれ」「哀しいとき/タイルを舐める」「二十世紀鋼鉄の男」「垂直な男はみんな/鋼鉄をまげる/光の粉とほこりと汗を散らして/平行な女はみんな/石炭を燃やす/時間の花と元素と汗を散らして」「抱き合う/ぼくと振子」「けものの言葉を/二人で話して/心の中身を/木陰でひろげる」「ぼくらの夢/腐りやすくて/森でしたい/堕落したいや/海でしたい/自滅したいや」「ぼくは街にダムつくって/そして/あなたは夜のパール身につけ/また旅に戻る」「悲しい知らせがあるよ/今日/ボクが死んだ」「歩いて/車で/スプートニクで」「ハトを飼っているんだ/ぼく/ツメをのばしているんだね/キミ」 彼らの詞やタイトルを書き出すと、月水金な言葉がいくつも出てくる。あるいは、月水金な行動が出てくる。意味なく飛び降り自殺して、チョークで描かれるジャック。通信に気づかれず、蒼ざめた声でさよならを言った、ガラスの気球。そして、自分の声を入れたテープレコーダーを、土の中に埋める私。 ムーンライダーズにおける月水金性は、哲学する労働者という印象の「マニア・マニエラ」あたりから、急速に高くなっていったような気がする。それが、タイトルを記号化した「アマチュア・アカデミー」へと続き、「アニマル・インデックス」でピークに達する。個人的には「アニマル・インデックス」が、一番好きだ。特に鈴木慶一の詞は、次第に映像の世界から抜け出して、現代詩のようになっていく。そして、ますます月水金に磨きをかけてくれた。 けれど、「DON'T TRUST OVER THIRTY」ではそんな月水金性が希薄な気がして、わたしは少しだけ物足りなさを感じた。今回の「最後の晩餐 CHRIST,WHO'S G ONNA DIE FIRST?」には、「犬の帰宅」「10時間」など月水金な詞がある。音楽的にも、五年のブランクに対するファンの心配を、安息に変えてくれた。けれど、このアルバムの静けさは何なのだろう。 ムーンライダーズは、いつもファンの思惑を裏切りながら先へ進んでいくバンドだ。いつも、迫りくる先鋭的な月水金でわたしを驚かせてくれる。でも、今回はわたしに驚きより不安を抱かせる。はかなげで、オマージュのような詞。それは、彼らがこれを最後のアルバムにするかのように思わせる。始まる前の静けさなのか、終結の静けさなのか。 天体望遠鏡で初めて見た月の表面は、恐いほど静かだった。白く崇高に輝く月の、あの奇妙な静けさがこのアルバムにはある。 |