青函連絡船


青函連絡船の思い出


 昭和63年3月13日、青函連絡船はこの日を持って終航、廃止となりました。同日、青函トンネルが開業、華々しい式典とともに一番列車が青森と函館から発車していきました。
 私はこの日、函館駅でトンネルの開業と青函連絡船の終航の場に立ち会っていました。

 青函連絡船に初めて乗ったのは高校3年生の夏休み、昭和56年8月でした。この頃には青函トンネルの工事も進んでいて、青函連絡船はトンネルの開通とともに廃止になるという方向にあったと思います。
 この旅が初めての東北、北海道旅行でした。上野駅から急行十和田5号に乗り、盛岡で降りてから鈍行列車で途中下車を繰り返しながら青森へ夕方到着しました。
 青森に到着した日はちょうどねぶた祭りの日で、夕方、ねぶた祭りを見物してから、深夜の連絡船を待ちました。
 初めて乗った青函連絡船は深夜の0時台に青森を出港する便でしたが、夏休み、お盆前の時期なので乗船すると本当に満員で、座席も桟敷席も埋まっていて居場所がない状態でした。これではと思いそのまま下船してしまいました。そして、青函連絡船待合室で待って、1便あとの午前2時台に出港する臨時便に乗船しました。この便は適度に空いていて、青函連絡船の旅を満喫できました。
 翌朝6時台に函館に着きました。私にとっては初めての北海道です。
 この前日から北海道は豪雨で、函館本線は大沼あたりまでのローカル普通以外はすべて運休でした。ただ松前線、江差線は定時運行でしたので、その日は両線を走破してから函館へ戻りました。夜は函館港の夏祭りで、函館山へ夜景を見るために登ったのですが、たまたま山の上から港で打ち上げられる花火を、上から見下ろすという楽しい花火を見ることができました。
 そしてその夜の連絡船に乗って青森へ向かいました。0時台の定期便に乗ったのか2時台の臨時便に乗ったのかはまったく記憶にありません。ただ、連絡船は空いていて、思いっきりのびのびした船旅ができた気がします。私は青函連絡船の旅情にすっかり魅了されてしまいました。
 青森に到着する風景をデッキ見ながら、この連絡船はいずれ近い将来、トンネルの開通とともになくなってしまう。この青函連絡船がなくなる日には、その時自分がどんな立場にいてもどんな会社にいたとしても必ず、この青森に、そして函館に来て最後の青函連絡船に乗るぞと、この時私は固く誓ったのでした。
 早朝の青森から、東京へ向けて帰路は奥羽本線経由でのんびりと行きました。秋田ではちょうど竿灯祭りの日で、青森のねぶた、函館港祭り、秋田の竿灯と、3つの祭を偶然にも見物できました。
 秋田からは羽越線経由の急行「鳥海」号上野行きに乗りました。普通座席車、寝台車、グリーン車まで連結した旧型客車のフル編成の急行客車列車でした。グリーン車には冷房が付いていて車内は寒いくらいで、自分の乗る冷房のない窓を開けて外の風を感じることができる自由席の普通客車の方が居心地がいいなと思ったことが強く記憶に残っています。列車は夏休みにもかかわらず空いていて、私の乗った自由席には数人しか乗っていなくて、結局途中からもほとんど乗客はなくその状態だったと記憶しています。


 




青函連絡船の終航と青函トンネル開業


 昭和63年3月13日を迎えるために、私はビデオカメラを購入しました。で、その頃はVHS-Cの規格の小さめのビデオカメラが出始めてはやっていたのですが、録画時間がテープ1本20分という制限があったので、私は迷わず肩に乗せるごっついVHSフルサイズのカメラを買いました。しかも出たばかりのS-VHS規格のものです。新宿のヨドバシカメラで購入しましたが、まだ就職2年目にもかかわらずそのカメラは25万円もしました。それを購入したのも青函連絡船を撮影するためだけ。そのくらい青函連絡船の最期を見届ける意気込みは強かったのです。テープもS-VHSは一本(2時間分)で1800円もしました。それを3本買って意気込んで青森へ乗り込んでいきました。
 その頃はビデオカメラはまだ一般には普及していなくて、肩に載せるカメラを使っていると放送局のプロと勘違いされて都合が良かった面もありました。青森駅で撮っていると中年の客が手を振ってくれたりピースサインを出したりしてきました。きっと放送局だと思っていたのでしょう。
 最期の日の数日前から青森で連絡船の出港、到着風景などを撮影、そして終航前日には函館へ連絡船で移動して、船内風景や函館の風景など、たくさんビデオに収めました。当然、終航前からずっと連絡船は満員で、自由席は乗るためには何時間も並ばなければなりませんでした。
 私は苦労して寝台券や指定グリーン席券を1ヶ月前に購入してました。きっぷを持っていない並んでいる客を横目に、私は自由に連絡船桟橋の改札も出入りしていました。きっとでかいビデオカメラを抱えていたので、報道関係かと思われていたのかも。
 函館に到着した翌日、私は青函連絡船の終航と青函トンネル開業の日、3月13日の朝を函館で迎えました。早朝にホテルをチェックアウトし函館駅で青函トンネル開業のセレモニーを撮影しました。一番列車は函館の関係者や大勢の見物客に見送られて、長い汽笛を鳴らしながら出発していきました。
 その後青森を出た開業一番列車の到着をホームで撮影していました。ホームではいろいろなセレモニーをしていました。周りにはなんか仰々しい背広姿の人たちや報道関係者、テレビクルーなどやたくさんのJR職員が集まりはじめました。そんなことを気にせず私はホームでビデオカメラを回していました。私の周りは報道カメラマンやテレビカメラマンだらけになっていました。そして一番列車は青森駅に到着しました。
 私のいたポジションの目の前に12系客車のドアがちょうど止まりました。そしてそこからなんと石原慎太郎が降りてきたのです。当時、運輸大臣をやっていて青森での開業式典出席のあと一番列車に乗り込んだようでした。
 報道陣が一気に私の周りに群がって写真やビデオを撮り始めました。私は最初から知らずにドアから降りる人を撮っていたので、偶然にも石原慎太郎をばっちり目の前で撮影しました。
 これもでかいビデオカメラを肩に載せていたからそこから追い出されなかったのかなと思っています。もっとも、テレビカメラマンなどのプロから見れば素人用のカメラとはわかるんですけどね。
 そなんこんなで函館駅で青函連絡船の最終日の姿なども撮りながら過ごし、いよいよ私が乗る青函連絡船最終便の1本前の出発の時間になりました。そうなんです、私は最終便に乗りたかったのですが、念願は叶わなかったのです。1ヶ月前の10時ジャストにみどりの窓口で最終便の指定グリーン席を打ってもらったのですが、玉砕しました。窓口氏はあまりそのキップの意味を認識していないくて、次は寝台を頼むと言ってもなんか動きは鈍かったのでした。
 私は最後の1本前を頼んだところ無事、グリーン指定席を取ることができました。
 指定を持っているので、乗船は問題なくできます。自由席は整理券制で当然何時間も待ってしか乗ることはできません。しかも、当日分は早朝からもう整理券は配り終えているような状態でした。
 最終便の1本前でも当然満員です。乗船後は出港の風景や、船内風景や船長の最後の挨拶などをビデオに収めていました。席にはほとんど座っていませんでした。席に座るためではなくて乗船する権利を得るためにグリーン指定券を買ったのです。
 ロビーで青函トンネルのイラストの描かれた缶ビールを飲みながら、最後の青函連絡船を楽しみました。本当は最終便の出港風景を見て撮りたかったのだけど、最終の1本前に乗ってしまったので、見ることは後のニュースや市販ビデオでしか見ることはできませんでした。最終の1本前の指定を手に入れてから、最終便の出港が見られないじゃないかと気が付いて、実は悩みました。でも乗ってしまえばそんなことはどうでも良いことで、最終1本前の十和田丸を楽しみました。
 いよいよ青森へ到着する時間、私はデッキでビデオを回し続けました。人が多いこと意外はいつもの到着風景でした。最終便はお祭り騒ぎだっけれど、普段の雰囲気を味わえたことが、反対に良かった気がしました。大勢の人が青森桟橋で手を振りながら待っていました。これで最期なんだ、もう二度と青函連絡船に乗ることはできないんだと思いながら、私はビデオカメラのファインダーに目を当てながら、涙を流していました。そして、高校3年生の時の「最期の日には必ず来るぞ」の誓いを果たすことができたと、思い返していました。
 青森に到着後、デッキで降りていく乗客一人ひとりと握手をしながら挨拶する船長さんを撮影して、自分も最後に握手しました。
 その後食事を摂ったあと、最終便の到着をアスパム前の岸壁で待って、最終便の到着風景をビデオに収めました。岸壁にはたくさんの地元の人たちがぎっしりと、最終便の到着を見に来ていました。みんなでの蛍の光の合唱の中で最終便を迎えました。
 その後もう一度桟橋に戻ると、ちょうど到着した最終便が函館に向けて回送されるために出港していくところでした。そこに残っていたのは若干数のファンと関係者だけでした。
 出港の汽笛を何度も何度も、長く長く鳴らしました。船からは「青森の皆さんお見送りありがとうございました」、「青森の皆さんお見送りありがとうございました」と何度も船のスピーカーからアナウンスがありました。着岸のときに船を押すタグボートからも何度も汽笛が鳴らされています。
桟橋のファンらも「ありがとう」とみんなが叫んでいます。岸壁ではJR関係者が、船からは船員らが手を振っています。
 なんて良い風景に出会ったのだろう、偶然来てこの場に立ち会えたこと、とても運がよかった。
 私がこの時撮影したビデオ、この最期の回送シーン、今までに私が撮影したビデオの中の最高傑作だったと、今でも思っています。
 感動の中、すべて終わったという満足感の中青森駅のホームを戻っていると、八甲田号かなんかの夜行を待っている客から、「今さっき青函連絡船の汽笛が何度も鳴っていたけれどなんだったの」と聞かれて、「最終便が函館に帰っていったんですよ、とてもよかったですよ」と説明しました。


 




オレンジカード


青函連絡船はビデオ撮影中心だったので、写真があんまりないんです。








































最終日の乗船券です。












船上にて







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