昔ばなし

2008年05月17日
昔ばなしです。
昔はこうだった、ああだった、昔は良かったという、きわめて後ろ向きな懐古趣味のおはなしを、思いつくまま綴ります。
毎日の通勤電車の中で思いつくことがいろいろあります。
そんな思い出話しでもと・・・・
2008年10月20日
1970年代頃までの時刻表を読んでいると飽きません。
昔の国鉄は楽しかった。
特に思うのは、地方の幹線の普通列車の朝の始発が異常に早いことです。
午前3時台に始発駅を出る列車もあり、4時台は当たり前。
旧型客車の運用がほとんど。
東北本線下り福島始発盛岡行きは、午前3時18分発。
山陰本線下り滝部始発下関行きは、午前3時29分発。
このあたりが超早出列車かな。
それはいわゆるかつぎ屋さん、行商の人々のためなんですね。
産地から地方都市へ行き、早朝から商売をするために。
今では見られなくなりました。
地方の商店街は廃れ、車でしか行けない郊外型の大型店舗ばかりになって・・・
昔の流通形態なら、今はやりの食品偽装も事故米の流通もなかったのでは。
流通形態が、輸送手段が変わり、そして何よりもそのような行商に従事するような人がいなくなっているのでしょうか。
2010年02月16日
旧客から50系へ

旧客の話を始めたら、50系のことも触れずにはいられません。

旧客が次第に淘汰されはじめたのは、それは50系に替わり始めたからです。
国鉄は手動ドアのオープンデッキの客車は危険との認識もあり、旅客サービスのためにも地方の客車列車を新型化していきました。

旧客が追いやられていき、50系ばかりになっていくのをさびしく思い、「この50系め!」なんて見ていたものです。
旧客に乗るつもりで行った、紀勢本線の亀山発新宮行きに乗ったときなんか、50系になっていたので、ありゃまと落胆したものです。

しかし、その50系も電車化、気動車化の過渡期の代物に過ぎず、地方路線も客車列車自体が人件費節約、手間を省くために消えていく運命でした。
客車はワンマン化が不可能だし、機関車の付替えなど、JRにとっては前時代の遺物だったのでしょう。

旧客の運用が最後まで残ったのがどの路線か覚えていませんが、山陰本線が昭和61年末で、それ以外では和田岬線が平成の一桁、4〜5年くらいまで?、最後まで旧客運用だったかな。

旧客が消えてからは、50系や12系の普通客車を求めて、山陰本線や羽越本線、東北本線、紀勢本線などに乗りに行ったものでした。
旧客を追いやった50系だったので、最初は「この50系め!」だったのが、いつの間にか50系すら貴重になっていき、50系さえも愛しくなっていきました。

それら12系や50系も急速に消えていき、50系普通列車の最後は、九州で良かったかな。
たしか筑豊本線や久大本線に残っていました。
私が、筑豊本線の最後の50系に乗りに行ったのが、平成12〜13年の秋くらいだったかな。

筑豊本線の門司港発原田行きなんか、約3時間近くの客車の旅ができる良い列車でした。窓を開け放って車窓を眺めながら飲むビールはとてもおいしかった。
原田駅で発車待ちをしているDD51を先頭に50系客車4両の編成は、駅の雰囲気といいとても良い絵になっていました。
晩年にはこのあたりの50系は冷房化改造されてしまいましたが。

もう日本中どこを探しても、窓を開け放って車窓を楽しめる客車列車はありません。

大井川鉄道があるけれど、全車指定席で団体客がうじゃうじゃ乗ってくる、観光列車として特化したものだし・・・
2010年02月13日
旧型客車の記憶


旅行記で居組駅のことを書いていたら、昔の旧客時代のことをもっと語りたくなりました。

私は、蒸気機関車の世代ではありません。ビートルズの世代でもありません。
それらよりもちょっと後なんです。
だから、蒸機に牽かれた列車というのはほとんどなじみも記憶もありません。

唯一記憶にあるのは、まだ幼稚園の頃(昭和43か44年)、母と急用で飛行機で羽田から福岡へ飛んだのです。飛行機の記憶はほとんど残ってないのだけれども、福岡空港に着いて、たぶん博多から、もしかしたら鳥栖からかも知れませんが、母の故郷の最寄の肥前鹿島駅へ向かった列車が、蒸気機関車牽引だったのです。
その記憶だけは唯一、鮮明に覚えています。その日は北九州は大雪で、母は飛行機も乗った以降の便は欠航だったとか。
そんな大雪の中の蒸気機関車の列車に乗った記憶が、私の初めての鉄経験だったのかもしれません。

その後、小6の頃からは一人で東京周辺を電車でうろつくようになりました。
私が中学生の頃は、ブルトレブームの真っ最中。
私も寝台特急を撮りまくり、そしてたまには、親の帰省先である九州へ寝台特急で行きました。
小学生の頃の帰省での寝台特急の旅が、私を確固たる鉄道ファンにしたきっかけです。

あの頃は古いものよりも、新しいものに興味は集中し、EF58よりもEF65を追っかけていたものです。ブルトレ牽引機がEF65からEF66に代わったときは拍手喝采でした。

大学生の頃から、青春18きっぷでの貧乏旅行で日本全国をうろついていました。
自然とローカル線では旧客に乗る機会も増えていき、そしてその良さがわかってきました。
そのうち、わざと計画的に旧客に乗るように心がけはじめ、そのうちに旧客が全国から消えていった時期でもあったので、旧客に乗るために旅をするようになりました。

山陰本線は旧客の宝庫で、昭和61年の12月まで走っていました。
門司発福知山行きや、夜行鈍行の京都−出雲市なんかは一足早く消えたけれど、豊岡発門司行き、京都発浜田行き、大阪発出雲市行きなどは残っていました。

一番記憶に残っているのは、豊岡発門司行きに乗ったときのことです。
あの頃は豊岡に宿泊して始発から乗るなんて発想、というか宿泊する金もなく、京都から出雲市行きの夜行に乗って早朝4時頃着の鳥取で下車、5時頃発車する上り列車で浜坂へ戻って、浜坂から豊岡始発の門司行きをつかまえたのでした。
浜坂には6時頃到着し、折り返し門司行きに乗り込んだのですが、その時はなんとなく体調がすぐれませんでした。風邪でもひいたかと心配しましたが、朝食に浜坂駅ホームで駅そばを食べて風邪薬を飲んでから旧客に揺られていると、ケロっと体調はよくなりました。
あの頃は浜坂駅2番3番ホームにもそばやのスタンドや売店もあって、早朝6時には営業していたんですよね。今では信じられません。この前行った浜坂の駅待合室のキオスクはなんと、午後3時に閉店しました。いまでは浜坂のホームに売店があった痕跡すらありません。あのとき将来、カニを求めて何度もこの駅を訪れることになるなど思ってもいませんでした。あの頃は鉄道以外興味なし、旅行中は食べ物もろくなものを食べず、今となってはなんてむなしいことだったも思いますが。
さて、早朝の浜坂から門司までの旅は、旧客の旅を堪能しました。
鳥取、米子、松江、浜田、長門市と主要駅では30分、1時間近く停車することもありました。浜田駅のトイレにはトイレットペーパーがあるなどと、余計な知恵も経験上ついていたので、そこでトイレの大を済ませるなどしていました。あの頃は国鉄駅のトイレにトイレットペーパーがある所はまれでした。
長時間停車は、駅前途中下車が楽しみ。そしてお決まりの入場券を買ったりしていました。写真を撮ったりして過ごす時間は楽しかったです。
三保三隅の前後区間は、山陰本線は海のすぐ脇を走るので、絶好の車窓でした。
DD51牽引の旧客に一日中乗っていると、特に夏は排気ガスで体中べたべたな感じになり、鼻の中は真っ黒になっていました。
真夏の旧客に乗り、先頭車両にいると、トンネルの中では機関車が吐く熱風で車内はすごい環境でした。蒸気機関車時代を彷彿させるものが。
それでも、開け放たれた窓から入る風はとても心地よく、田んぼの稲の香りが、山の中では森の香りが、海沿いでは潮の香りが車中に入ってきました。冷房なんかよりも心地よいものです。今では、夏に窓を開けられる列車に乗ることは困難です。
そんな列車で窓を空けて、景色を見ながら駅弁を食べるのはとても贅沢なことでした。あの頃は駅弁は贅沢品でもあったけれど・・・
早朝から午前中は、かつぎ屋のおばあさんたちが乗り降りし、朝、晩は通勤通学客で一時的には満員近くなるけれど、それも一瞬の出来事で、ほとんどは一日中、ガラガラの車内でワンボックス占領して、足を前の座席に伸ばしてくつろいでいられるので、疲れというものはまったく感じませんでした。よっぽど、名古屋から東京までの新幹線の方が、隣に人がいたら疲れます。
夕方が近づくと、市街地では台所から料理のいいにおいがしたり、日が暮れて民家の窓から一家がくつろぐ景色が見えたりすると、ちょっと家が懐かしくなって、なんで自分は今、汽車に乗るだけの旅をしているのだろうと、自問自答をしてみたり。
門司行きの鈍行は夜23時前くらいに門司に着きます。下関に到着して、ディーゼル機関車が電機に交換されて、最後の一駅を関門トンネルの中を進みます。旧客の最後尾は、貫通扉が開け放たれています。まったくのオープンデッキ、今なら危険性大、事故があったら責任問題だと絶対ありえないのだろうけれど、あの頃はまだおおらかでした。その最後尾から関門トンネルを堪能できました。下関を発車して、トンネルの中急勾配を奈落の底へ行くかのように降りていき、最深部を通過するとこんどはぐんぐん登っていくのがよくわかります。最深部を過ぎるとトンネルは左にカーブしていく様子が手にとるようにわかりました。
列車は門司駅になにごともなく到着しました。早朝の豊岡から来た様子など微塵もなく。

あの頃のあの時間門司駅の発車案内は、遠くの駅名が並んでいたなあ。
大阪、彗星や明星、あかつき、なは まつかぜ、長崎 ながさき号、西鹿児島 かいもん、日南、また早朝の列車の表示も、有明 西鹿児島 出島、弓張 

門司に到着後、私はきっと、長崎行きのながさき号に乗ったのだと思います。記憶はありませんが・・・
夜行2連泊


旧客の良さは、夏は開け放たれた窓から入る、田んぼや土や山や木や海の香り、そして生活感。そして静まり返る車内、そして外からの音。
夏の蝉時雨、昼はくまゼミ、あぶらゼミ、日暮れ時はヒグラシ。カナブンが窓から飛び込み、ブーンと飛び回る。夜の山間の停車駅では、虫がたくさん入ってくる。
秋は田んぼで火を焚く草を燃す香り。夜になると涼しさを超えて肌寒くなる、9月頃であっても。
冬は、音のない静けさ。早朝の列車は暖房の蒸気が通ったパイプが膨張する、キン、カコーンという音。列車が止まると、静まり返り、ブレーキ操作で、ときおりシューと鳴るエアー音。
香りと音の世界。
機関車から時折響く悲しげな汽笛の音。
夏のディーゼル機関車の排気ガスもまた良しとしよう。地球温暖化なんて言葉もなかった。
最後尾は展望車。過ぎ去る線路をいつまで見ていても、飽きない。冬の雪景色では、白い雪の中に2本のレールだけがまぶしく続く長い光跡。

今の旅で、こんなにも土地のにおいを感じる機会はほとんどなくなってきたように思います。





2008年05月17日
キオスクのお話

最近のJR駅の売店、キオスク(kiosk)の営業時間って、きわめて短くなったと感じませんか。
昔は、どんなローカル線に行っても、キオスクがあれば早朝から深夜まで、列車がある時間は営業していたと思います。
昔はコンビになどなかったからもその頃は地元のコンビニ的にも使われていて、駅利用者でもない人が買い物だけして帰っていくような風景もよく見られました。
最近は、田舎などは夕方6時頃には店じまいするケースが多いような。
毎日通る新幹線岐阜羽島のホームの売店も昼間しか開いてません。
コスト縮減だか人件費削減かしりませんが、ちょっと不便です。
旅先の夜、特に地方では酒類はキオスクでしか手に入らないこともよくあるし。
2008年05月18日
米原駅のこと

米原駅は、東海道線でありながら、北陸本線にも接続することから、裏日本の雰囲気があります。
冬はたくさん雪も降ります。
米原駅は平成8年頃?から改良工事が続けられていて、昔の姿はほとんどなくなってきました。
現在は最終段階の工事に入っているようで、橋上駅舎化が最終段階に入っています。
昔の米原駅、特に新幹線とは反対側の表口は古き良き時代そのままでした。
待合室があり、冬ならストーブが焚かれていて、本当に鄙びた小さな喫茶兼食堂が構内にありました。
駅前にも、映画の「駅」に出てきた増毛駅前の「風待食堂」みたいな駅前食堂がありました。
駅の東西を結ぶ乗り換え通路は、昭和の雰囲気そのままでしたが、今年、平成20年の2月から取り壊し工事が始まり、現在は通路の屋根やホームから接続した階段も撤去されて、全体が撤去されるのもまもなくかという感じです。
幹線駅の雰囲気そのものの堂々とした、蒸気時代を彷彿させる洗面所なども現存していた1番線ホームは撤去されてもう10年近く経ちます。米原駅1番線ホームは、一番好きなホームでした。
米原駅表口は現在は、区画整理の途中でがらんとしています。
昔の1番から3番線あたりまでが撤去されて、ずいぶんと細く貧弱になってしまった米原駅です。改良工事が完了したら、どこにでもあるような特徴のない無機質な駅へ変わるのでしょう。あと1年で。
2008年05月25日
最長片道切符の旅

宮脇俊三が書いた「最長片道切符の旅」取材ノートなる本が最近出ました。
さっそく買って読みました。
「最長片道切符の旅」は昭和54年の出版で、私は高校1年生でした。
もちろんそれも当時読んでいますし、今でも本棚にあります。
この「取材ノート」は、最近の週刊誌や新聞でも取り上げられてます。
宮脇俊三が当時、ここまでメジャーになるとは思っていませんでした。
今では一流紀行作家として名前が一般的になっています。
取材ノートの方は、当然私は「最長片道切符の旅」も読んでいる鉄道マニアなので、中身のおもしろさは格別です。
宮脇俊三がエッチな視点でいろいろ見ている点など、もとの本では書かれていない面もあり、自分と変わらないなあなんて思ったり。
昭和53年の国鉄、なんて楽しい列車がたくさんあるのだろうか。
いたるところをたくさん走る旧型客車。
山陰本線、東北本線、紀勢本線、関西本線、北陸本線、・・・・・。
新幹線のない東北線、在来線をたくさんの特急が走り、旧客の鈍行が退避待ちで長時間停車する。
私が本格的に全国の鉄道旅行をはじめたのは高校1年生から。
もちろん、この「最長片道切符の旅」や「時刻表2万キロ」に感化された部分が大きい。
当時は鉄道写真に重点があったのが、このような本の影響を受けて、今風に言えば「乗り鉄」にもなってしまったのです。
もともと幼い頃から、ブルトレとか乗るのは大好きだったし。
とても懐かしく、この新たに出版された「取材ノート」を読んでいます。
そして、改めて「最長片道切符の旅」も読んでいます。
あの頃はよかったなあ・・・


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