天使の詩 (てんしのうた)


               著者 YAN





  朝、パタパタと窓を叩く音が聞こえ、僕は目を覚ました。
  パイプベッドから起き上がり、窓の方を見る。
  雨が窓に吹き付け、音を立てているようだ。
  僕は窓を開けた。
  朝霧と共に新鮮な空気が流れ込み、僕の部屋の篭った空気を一掃してくれる。
  窓からは、微かに煙立つアスファルトの道の上を、自転車に乗って新聞配達をしている男の子が見えた。
  すっぽりとカッパを着込み、更に新聞を濡らすまいと、籠にもビニールを掛けている。
 「おはよう。頑張っているね」
  僕が声を掛けると、男の子は苦笑しながら、僕に新聞を差し出した。
  僕は窓から手を伸ばし、その新聞を受け取った。
 「ありがとう」
  僕が言うと、男の子はペコンと頭を下げ、自転車をこいで霧の中に姿を消していった。
  キコキコと言う音が聞こえなくなるまで、僕はその男の子が消えていった方向を見詰めていた。
  新聞の天気予報欄は、傘マークに塗り潰されている。
  僕は窓を離れると、新聞をテーブルの上に置き、コーヒーを淹れた。
  ふと、本棚から落ちかけている、一冊の大学ノートが目に映った。
  僕はそのノートを本棚から引き出し、テーブルに戻って、椅子に座った。
 「久しぶりに見たな・・・・・・」
  僕は、ノートに向かって呟いた。
  僕のノートではない。
  表紙には几帳面な字で、『Memory/立花葵』と書かれていた。
  この少女と僕との出会いは5年前、今日と同じような、気持ちの良い雨が降っている日のことだった。



          §


  僕は、田舎の総合病院の内科医をしていた。
  大学を出たばかりの僕が初めて担当した患者が、立花葵と言う14歳の少女だった。
  ある日、僕がいつも通りに出勤すると、先輩の後藤さんが僕の背中をカルテで叩いた。
 「おい、前途ある若い医師が、そんな縮こまった格好で歩いていてどうするんだ」
 「あ、おはようございます、後藤先輩」
 「おはよう、じゃないよ。なんだい、気分でも悪いのか?」
  僕の顔を見て後藤先輩が眉を寄せたので、僕は慌てて否定した。
 「いや、別にそう言うわけじゃないんですけど、雨の日って嫌いなんですよ、僕」
 「そうなのか?」
 「ええ、なんとなく憂鬱になるじゃないですか、気分が」
  後藤先輩は笑って、「それもそうだ」と言った。
  僕も笑って誤魔化した。
  とてもじゃないが、「朝の4時頃まで小説を読んでいたからです」とは言えない。
 「そうそう、おまえの初仕事を持ってきてやったぞ」
  後藤先輩は、ニヤニヤした笑いを口元に浮かべながら言った。
  僕はなんとなく悪い予感がして、一歩後ろに下がる。
  後藤先輩は、それを見逃さなかった。
  持っていたカルテを、さっと僕に突き付ける。
 「立花葵、14歳。末期の食道癌だ。昨日、大きな大学病院から移って来た」
  事務的な声で、後藤先輩が説明をする。
 「食道癌?」
 「そうだ。すぐにでも手術をしたいところなんだが、何しろ場所が悪い」
 「心臓に近過ぎるってことですか?」
  僕が聞くと、後藤先輩は頷いた。
 「そう。発見した時は、まだ大したことはなかったんだが、手術を躊躇っているうちに取り返しのつかないところまで進行してしまったらしい」
 「じゃあ、助かる見込みは・・・・・・?」
  僕の言葉を、後藤先輩が続けた。
 「残念ながら絶望的だ。両親もそれを承知で、空気の綺麗なこの田舎の病院に移ることを希望したらしい。まぁ確かに、ここは水も空気も綺麗だし、療養にはもってこいの所なんだが・・・・・・」
  それきり、後藤先輩は何も言わなかった。
  その重苦しい沈黙を打破しようと、僕は口を開いた。
 「つまり僕は、その娘のお守りをするわけですね?」
 「そうだ。辛い仕事になるかもしれないが、よろしく頼むよ」
 「・・・・・・分かりました」
  僕は言った。
  こう言う状況は、大学の医学部に入った時から、覚悟していたことだ。
 「それと――」
  その場を立ち去ろうとした後藤先輩を、僕は呼び止めた。
  その少女に会う前に、確認しておかなければならないことが、ひとつあった。
 「その娘は、自分の症状を理解しているんですか?」
  僕の言葉に、後藤先輩は首を横に振った。
 「いや、両親にしか話していない」
 「そうですか・・・・・・」
  白衣を翻すと、後藤先輩は廊下に足音を響かせて、僕の前から立ち去っていった。
  僕は暫くカルテを見詰め、そして視線を窓の外に向けた。
  1階のロビーの窓からは、赤紫色の紫陽花の花が、雨に打たれて濡れている様子が良く見えた。


  僕は、302号病室と書いてあるプレートが貼り付いているドアの前に立った。
  どうしようかと少し躊躇ったが、僕は結局、三回ノックをしてからドアを開けた。
  純白のシーツが敷かれたベッドの上に、上半身だけを起こして、窓の外をぼんやり見ている一人の少女が目に入った。
 「こんにちは、立花さん」
  僕は、でき得る限りの笑顔で言った。
  少女は、驚いた風もなく、ゆっくりと僕の方へ顔を向けた。
  艶のある長い黒髪が、さらりと肩から滑り落ちる。
  まだあどけない顔立ちの少女は、しかし年齢の割には落ち着いた様子で、じっと僕を見詰めた。
 「立花葵さん、だよね? この度、君の担当になった、若月だ。よろしく」
  僕がそう言うと、少女は僅かに頭を下げ、また視線を窓の外へ向けた。
  一言も喋らない。
  僕は特に気にしなかった。
  人見知りだったり内向的な性格の患者は、初対面の医者とはあまり口をきかないと、先輩の医師たちに言われたことがあったからだ。
  患者との信頼関係を確立することが、担当医の第一歩だ。
  僕はとにかく、何でも良いので話し掛けてみた。
 「14歳だったよね?」
 「・・・・・・」
 「昨日移って来たんだって?」
 「・・・・・・」
 「趣味はなにかな?」
 「・・・・・・」

  この後の幾つかの僕の質問は、尽く無言で返された。
  少女は、雨が叩き付ける窓をじっと見詰めたまま、何も言わない。
  僕は溜息をつくと、立ち上がり、窓から外を見た。
  晴れていれば、中庭に面した3階のこの病室からは、丘の下の街並みが良く見えるのだが、今日は窓が結露している上に薄い霧がかかっていて、遠くの自動車のフォグランプが時折光るくらいだった。
  どんよりとした雲を見て、僕の気分は更に重くなっていく。
 「でもさ、雨って嫌だよね」
  僕はあまり意識せずに、そんなことを言ってみた。
 「ジトジトして湿っぽくなるし、肌寒いし。そう思わない?」
  多分、また無言の返事が返ってくるだろうと思っていたのだが、その予想は外れた。
 「――好き」
  とても微かな、雨の音にでも紛れてしまいそうな声が、僕の耳に届く。
 「えっ?」
 「わたし、雨の日って好き」
  初めて聞く、少女の声だった。
 「そ、そう? どう言うところが?」
  僕は、なんとなく慌てて、聞き返した。
  何か言わなければ、また少女が自分の世界に入っていってしまいそうに思えたからだ。
 「――なんとなく。気持ちのいいところ、とか・・・・・・」
 「気持ちのいいところ?」
 「そう。それに、静かなところ、とか・・・・・・」
 「へぇ・・・・・・」
  僕は、この少女に興味を抱いた。
  喋り方は子供っぽいが、詩人や芸術家のような大人の雰囲気を感じた。
 「じゃあ、晴れた日は嫌いなの?」
  僕は聞いた。
  少女は首を横に振る。
 「――晴れた日も、好き」
 「どう言うところが?」
 「――なんとなく。気持ちのいいところ、とか・・・・・・」
 「あれ、雨の日と同じ?」
 「うん」
  どうやら、僕との会話に慣れてきたようだ。
  僕はもう暫く、どうでも良さそうな会話をしてみることにした。
 「それならさ、季節はどの季節が好き? 春夏秋冬の中で」
  少女は、人差し指を唇に当て、少し考える仕草をした。
 「――全部、かな」
 「全部?」
 「うん、全部。春も、夏も、秋も、冬も、全部好き」
 「ふ〜ん。変わってるなぁ」
  僕は率直に意見を述べた。
  全部の季節が好きだと言う娘は、結構珍しいと思う。
 「そうかな?」
  そう言って、少女は少し首を傾げ、微かに笑った。
 「――あ」
  僕は思わず、声を出した。
  少女が不思議そうに、僕の顔を見詰めている。
 「なに?」
 「あっ、いや、うん。笑った顔が可愛かったから・・・・・・」
  僕はしどろもどろになって答えた。
  既に、医者と患者の会話ではないような気がした。
  少女は微かに俯いて、「・・・・・・ありがとう」と呟いた。



          §


  僕は一口、コーヒーを啜った。
 「あちっ!」
  あまりの熱さに、舌が少し痺れたような感覚に襲われる。
  僕はカップを机の上に戻すと、ミルクを少しだけ注ぎ足した。
  それは冷めるまで放っておくことにして、僕は新聞の上のノートを取り上げ、暫く考えた。
  僕は今まで、このノートを一度も開いたことがなかった。
  読むべきか、読まざるべきか。
 「う〜ん・・・・・・」
  僕は視線を、窓の外に向けた。
  雨は今もしとしとと降り続き、雨樋から落ちる雫が美しい重奏となって僕の家に響き渡る。
  窓の外の紫陽花の上で、小さなカタツムリが嬉しそうに伸びをしていた。
  僕は少し躊躇ったあと、思い切って表紙を捲った。
  中表紙には、中太のフェルトペンかなにかで、綺麗なブロック体の単語が綴られていた。

 『 Memory is my treasure. 』
     ( 記憶は、わたしのたからもの )

  中表紙を捲ると、これもまた綺麗なシャープペンで書かれた字が、一行飛ばしで並んでいた。
  あの日、あの時、あの少女の言葉が、遥かな時間を飛び越えて、僕の中に蘇る。
  僕は、あの紫陽花のカタツムリのようなスピードで、一字ずつゆっくりと、その文字を拾っていった。



   6月10日(金) 朝から雨

  今日、先生にこのノートを貰った。
  先生は、「これから日記をつけるんだ。僕のこの使っていないノートをあげるから、毎日の君の思ったこと、感じたこと、なんでもいいから書き込むといいよ」と言って、笑った。
  先生は優しい。それに、先生はかっこいい。わたしは先生が大好き。
  でも、初めて会った時、先生は雨が嫌いって言っていた。
  どうしてなんだろう? こんなに気持ちいいのに。
  この病院は、前の病院みたいに、気持ち悪くない。
  空気が綺麗だし、景色も、3階の私の部屋からの眺めは最高だそうだ!
  病院の人が、一番眺めのいい部屋を用意してくれたらしい。感謝しなくちゃ。
  あ、そろそろ午後の回診の時間だ。
  先生、まだかなぁ。
  わたしの生まれて初めてのプレゼント、一生大事にするね、先生・・・・・・



          §


  少女と初めて会った次の日、僕は文房具屋で買ったA4の大学ノートを持って、302号室のドアを開けた。
  僕が部屋に入ると、彼女は窓から僕へと視線を移した。
  窓の外は、今日もしとしとと雨が降っている。
  しかし、昨日よりも霧は薄いようだ。
  丘の下にある街並みが、うっすらとした霧に包まれて幻想的な姿を浮かび上がらせていた。
 「おはよう、葵ちゃん。昨日は良く眠れた?」
  僕は言いながら、ベッドの脇にある、中央に穴の開いた丸いパイプ椅子に腰を下ろした。
  彼女は、微笑んで頷いた。
 「良く眠れたよ。この病院、前の病院みたいに、夜中にトラックの音とかしないから、ぐっすり寝ちゃった」
 「それは良かった。ここは田舎だから、環境はいいんだよ」
  僕は心の中で、彼女が以前入院していた大学病院の環境の劣悪さを罵った。
  こういう娘には静かな環境が必要なのに、夜中にトラックの音が煩いなんて。
 「そうそう。今日はね、僕が葵ちゃんに、プレゼントを持ってきたんだ」
  僕はそう言いながら、カルテと一緒にバインダーに挟んであった大学ノートを、彼女に渡した。
  何の変哲もないノートを見て、彼女はどう言って良いのか分からず、困ったような表情をしている。
 「これは葵ちゃんの、日記帳だ」
 「日記帳?」
 「そう。君は、これから日記をつけるんだ。僕のこの使っていないノートをあげるから、毎日の君の思ったこと、感じたこと、なんでもいいから書き込むといいよ」
  僕は笑いながら言った。
  買ってきたと言わなかったのは、彼女が気を使わないようにするための、軽い嘘だった。
  彼女は、僕のあげたノートを食い入るようにじっと見詰めている。
  僕は少し、心配になった。
 「ちゃんとした日記帳の方が良かったかな?」
 「えっ? う、ううん。・・・・・・ありがとう」
  僕の言葉を、慌てたように否定した。
  少し頬が赤くなっているところを見ると、大方照れているのだろう。
  僕は暫く、彼女と雑談を楽しんだ。
  そして、その会話の中で、彼女は僕に色々なことを教えてくれた。
  友人のこと。
  学校のこと。
  両親のこと。
  前の病院のこと。
  雨――特に梅雨の季節が大好きなこと。
  僕は次第に、その少女に惹かれていった。
  僕たちの会話に加わるように、雨がえるの合唱が窓の外から聞こえていた。


  その翌日は、梅雨の只中にも関わらず、珍しく澄んだ青空が見えた。
  どんよりとした黒い雨雲が、天頂付近でドーナツのように途切れている。
  雨上がりの澄んだ空気が、久々に差し込んだ日の光を良く通し、清々しい風を丘の上に運んでいた。
  僕は急かされるような気持ちで、車を病院へと走らせる。
  いつもよりも、かなりスピードを上げていたのだろうか。
  僕が自宅から病院に着くのに、15分と掛からなかった。
  駐車場に乱暴に車を停めて――1.5台分くらいのスペースを、僕の車が占領した――、白衣を着るのもそこそこに、僕は302号室に駆け込んだ。
  綺麗なシーツの上で夢うつつだった彼女は、突然現れたの僕の慌てように、何事かと驚いた様子だった。
 「葵ちゃん、ほら、晴れたよ! 綺麗な景色が見えるぞ!」
  僕は、目覚めてからどうしても言いたかった一言を、やっと言うことができた。
  入院してから――と言っても、まだ3日目だが――ずっと天気が悪く、折角の特等室の窓も、雨の雫に濡れて霞がかった景色を映す、ただの四角いスクリーンでしかなかったのだ。
  そんな病室に一日中閉じ込められて、さぞつまらなかっただろう。
  せめてここからの美しい眺めを、一秒でも良いから多く見せてあげたかったのだ。
  彼女が見ることができるうちに。
  黒髪の可愛らしい少女は、僕の言葉で、その寝ぼけまなこを窓の外に向けた。
  それは、すぐに輝いた。
 「わぁ! すごい!」
  彼女は叫び、窓に跳び付いた。
  それは、ただ霞んだ街を映すスリガラスの窓ではなく、雨上がりの朝の街並みを余すところなく透過させる硝子の窓になっていた。
  僕は窓の鍵を外し、50インチはあろう大きな窓をいっぱいに開放した。
  涼しい風と雨の匂いが、病室内を駿馬のように駆け抜ける。
  デスクの上にあった花が揺れ、僕の書類が紙吹雪のように宙を舞う。
  彼女はこの病院に来て初めて、光を透過させる物質を通してでなく、自分の瞳で外を景色を見ることができたのだ。
  小高い丘の上にある病院からは、ドイツのような趣のあるこの街並みを一望できる。
  家々の間を縫うようにして、短いローカル電車がゆっくりと走っていた。
  自動車の台数もさして多くなく、半日授業でうきうきと学校に通う小学生や、手を繋いで仲良く歩く中学生カップル、その側を友達とお喋りをしながら自転車で走り抜ける高校生たちが、道を進んでいく。
  街の向こうにある山々は、たっぷり雨水を蓄えて嬉々としているのだろう、広葉樹の若い緑がとてもさわやかに見えた。
  ガラス張りのビルディングの窓と道が、雨の雫に陽光を受けてきらきらと反射し、とても眩しかった。
 「きれい・・・・・・」
  窓枠に肘を突きながら、彼女は小さく呟いた。
 「これを見せてくれるために?」
  そう言って、僕の方に顔を向ける。
  途端、僕はなんだか、とても子供らしい自分の行動に赤面してしまった。
 「うん、まぁ・・・・・・なんだか嬉しくってさ。気付いたら車ぶっ飛ばして、ここに来てた」
  頭を掻いて、僕も彼女に倣って窓枠に肘を突き、外を眺める。
  本当にきれいだ。
  僕は、この街が好きだ――格別、この娘と、この部屋のこの窓から見る、この街が。
 「一刻も早く見せたいと思って・・・・・・」
  僕の言葉に、彼女は微笑んだ。
  この景色にも断然引けをとらない、眩しい微笑み。
 「ありがと。先生、優しいね」
 「あれぇ? 今ごろ気付いた?」
 「ううん。会った時から気付いてた」
 「そ〜だろそ〜だろ。うんうん、僕も優しい娘は大好きだよ」
  僕は彼女の黒く艶やかな髪を撫でた。
  彼女は暫く恥かしそうにしていたが、思い出したようにベッドに腰を掛けると、デスクの引出しから僕がプレゼントした大学ノートとシャープペンを取り出し、さらさらと何か書き始めた。
 「あれ、もう日記をつけてるの? まだ朝だよ?」
  僕が言うと、彼女はうふふと笑った。
 「――詩とか、描いてるの」
 「へぇ、詩かぁ・・・・・・。どれどれ、ちょっと見せて」
 「あっ! ダメだよぅ・・・・・・」
  僕がノートを覗き込もうとすると、彼女はぱっとノートを胸に当て、隠してしまった。
  どうやら、あまり見られたくはないらしい。
  僕は無理に見るようなことはせず、「じゃあ、またの機会に見せてね」と言って、諦めた。
  彼女は、少し考える風に指を唇に当て――これが彼女の思考する時の癖のようだ――、小さく頷いた。
  僕と彼女の間を、少し湿ったさわやかな風が、ひゅうと通り過ぎる。
  床に散らばった僕の書類がまた、新たな命を与えられたように舞い上がった。
 「窓、閉める?」
 「ううん、開けといて。空気の入れ替え、しなくっちゃ」
 「そっか」
  僕はゆっくりと散らばった書類を集め、バインダーに挟んだ。
  そして、彼女の体温と脈拍を測ったあと、彼女の病室をあとにした。
  僕が退室する際、彼女は僕に、こんなことを聞いてきた。
 「ねぇ、先生。雨の日も・・・・・・好き?」
  その顔は、とても心配そうな、困ったような、複雑な表情だった。
  僕が「好きだよ」と答えると、とても嬉しそうに笑った。
  僕は部屋を辞したあと、雨の日も悪くないな、と呟いた。
  雨降りのあと、もし晴れたら、あの笑顔が見れるのだから。



          §


   6月11日(土) 朝から気持ちの良い晴れ空

  晴れた日が好き――気持ちいいところ さわやかなところ きれいなところ

  雨の日が好き――気持ちいいところ 静かなところ 落ち着くところ

  晴れの日は好きですか?

  雨の日は好きですか?

  晴れの日は気分良く 雨の日はゆううつ?

  そんなことない

  雨の日にも 楽しいことがきっとあるはず

  だから あなたも 心を開いて 全てのものを受け入れてください


   今日は、先生がふたつ目のプレゼントをくれた。
  ひとつ目は日記帳。大事な大事な日記帳。
  ふたつ目が景色。この街の、とってもとってもきれいな景色。
  私は、先生からのプレゼントを大切にしよう。
  私はいつも、もらってばかり。
  先生に何か良いプレゼントをあげたいけれど、お店には行かれないし。
  先生が喜ぶようなプレゼント、ないかなぁ。



  僕は一旦ノートを置き、もうすっかり冷めてしまったコーヒーを口に含んだ。
  とても大人しい、ちょっと無口な普通の少女が、あの時考えていたこと、感じていたことが、このノートには記されている。
  後ろめたさよりも、少女が感じていたことを知りたいと思う好奇心に、僕は突き動かされていた。
  僕は今、彼女のノートを読んでいるのではなかった。
  彼女と、ノートを通して会話をしているのだ。
  彼女はノートで、ノートは彼女。
  目の錯覚ではない。
  確かに彼女は、そこにいた。
  僕はノートの字の上に、彼女の姿を見ていた。
  僕は、彼女に語り掛ける。
 「久しぶりだね、葵ちゃん」
  彼女は、僕に話し掛ける。
 「久しぶりだね、先生」
  彼女は笑う。
 「何年ぶりかなぁ」
 「そうだね、かれこれ5年ぐらいじゃないかな」
 「5年も? じゃあ先生、わたしのこと忘れちゃってたんじゃない?」
 「うん、ごめん。今さっきまで、忘れていたのかもしれない」
 「ひどいなぁ」
  彼女はちょっと拗ねたように、唇を尖らせた。
 「ホントに、ごめんね」
 「いいよ」
 「お詫びに、コーヒーでも淹れてあげるよ」
  僕は席を立ち、コーヒーをもう一杯、用意した。
  白い湯気が立つコーヒーを、彼女の前に置く。
  彼女は少し、困ったような顔をした。
 「先生、わたし飲めないよ」
 「・・・・・・そう。気付いていたんだね、病気のこと」
  彼女は頷く。
 「うん。なんとなく、分かってた」
 「でも知らない振りを?」
 「うん。お父さんやお母さん、悲しむもん」
 「そっか・・・・・・」
  僕は彼女の長い艶やかな黒髪の上に手を置き、ゆっくりと撫でた。
 「偉いな、葵ちゃんは」
  彼女は僕に撫でられながら、少し恥かしそうに頬を染め、俯いていた。




          §


  僕が彼女の体温と脈拍を測りに302号室に赴くと、彼女はやっぱりぼんやりと雨に霞む窓の外を眺めていた。
 「退屈かい?」
  僕が尋ねると、彼女はこちらを向いて、首を振った。
 「退屈じゃないよ」
 「そう?」
 「うん」
  僕は彼女に体温計を渡すと、結露した窓ガラスをハンカチで拭いた。
  ぼんやりと、霧の中にあの街並みが浮かんでいる。
  僕は溜息をついた。
 「晴れていれば、またあの綺麗な街並みが見えるのにね」
  僕は言った。
  雨降りでは、折角の特別室も台無しだ。
  良く晴れたのは先日の一回きりで、あとはもうずっと雨が降り続いている。
  僕は少し、彼女のことが可哀想だと思った。
  しかし彼女は、首を横に振った。
 「わたし、雨でもいいよ」
 「なんで? 気持ちいいから?」
  僕は尋ねた。
  彼女はちょっと唇に指を当て、考え込む仕草をした。
 「それもあるけど、ちょっと違うかも」
 「違う?」
 「晴れた日は、良く見えるよね。眩しい街並みとか、ゆっくり走る電車とか、可愛い小学生とか・・・・・・」
 「綺麗な緑とか、清々しい風とか、さわやかな雨の匂いとかね」
  僕が言葉を続けると、彼女は微笑んだ。
  僕は心の中で、君の笑顔とかね、と言う言葉を付け足した。
 「でも、雨の日だって、そうだよ」
 「なにが?」
 「雨の日だって、綺麗な街並みはなくならないよ。電車だって、人だって、緑だってそこにあるもの」
 「・・・・・・」
 「わたし、昔は雨の日って嫌いだった」
 「えっ?」
 「ジトジト湿っぽいし、肌寒いし、ベッドの上で退屈だし・・・・・・」
  彼女は呟くように言った。
  ゆっくりと、詩を読むように。
  僕は黙って、その詩に耳を傾けた。
 「でも、ある時気付いたの。雨の日にも良いことはあるって」
  彼女は、デスクの上の花瓶に入った白い花を眺めた。
 「雨の日には、雨の日しか分からないことがたくさんある。窓からは見えないけれど、でも雨の日だって、晴れの日にそこに見えたものが、確かに存在するんだもの」
 「・・・・・・そうだね。雨の日は見えないけれど、でもその霞みの向こうに、確かに人のいとなみがあるもんね」
  僕は窓の外に視線を移して、呟いた。
  晴れの日は気分良く、雨の日は憂鬱。
  僕は今まで、いつのまにかそう思うようになっていた。
  でも、そうではなかった。
  晴れの日には晴れの日の、雨の日には雨の日の、どちらにも良いところは存在するのに。
  そしてその中で、確かに人は生きているのに。
  僕は、胸に何か熱いものが込み上げてきて、危うく涙を溢すところだった。
 「葵ちゃんは、将来詩人になれるかもね」
  僕は言った。
  彼女はちょっとだけ微笑み、思い出したように引出しからノートを取り出し、シャープペンでさらさらと書き付けた。
 「いい詩、できたの?」
 「うん。今度先生にも、見せてあげるね」
  そう言って、彼女は笑った。
  それきりだった。

  翌日の朝早く、僕の部屋の電話が鳴った。
  寝ぼけた目を擦りつつ電話に出ると、後藤先輩からだった。
 「――ついさっき、彼女が亡くなった。4時27分だ」
  事務的な声で、後藤先輩が言った。
  僕は寝間着のまま家を飛び出すと、車を飛ばし、病院へ急いだ。
  フロントガラスに勢い良く叩き付けられる雨を、ワイパーが規則的に払い除けている様を見て、苛々しながら車を走らせた。
  病院へは、10分で着いた。
  僕が彼女の部屋に飛び込むと、彼女の両親と後藤先輩が、彼女のベッドの傍らに立っていた。
  彼女の顔には、デスクの上の花と同じ、純白の布が被されている。
  息を弾ませている僕の肩に、後藤先輩が軽く手を乗せた。
 「朝方、容態が急変したんだ。苦しまずに逝ったよ。君に知らせる時間もくれなかった・・・・・・」
  僕はよろよろとベッドに近付き、彼女の顔の上の白い布をそっと持ち上げた。
  そして僕は、先輩の言葉が嘘ではないと分かった。
  彼女の顔は、とても優しく穏やかに、僕に笑い掛けていたから。
  まるで、夢を見ながら眠っているような、安らかな表情だった。
  僕は彼女の顔に布を掛け直してから、窓の鍵を外し、開放した。
  雨が吹き付けるように病室に降り注ぎ、僕の服を、顔を、身体を濡らした。
  そして僕は、声を殺して、泣いた。




          §


  僕は目を開いた。
  目の前のテーブルの上に、古びた大学ノートと新聞、そしてコーヒーカップがふたつ、載っていた。
  そのコーヒーカップのひとつからは、不思議なことに、未だに白い湯気が立ち昇っていた。
  僕はふと、そのノートの一番最後のページが、ホッチキスで綴じられていることに気が付いた。
  僕は再びノートを見詰めた。
  最初の7ページだけが使ってあり、後はずっと空白のページが続いている。
  彼女は、僕のいる病院に移って来た一週間後に、この世を去った。
  短いようでいて、とても長い一週間だったような気がする。
  そして今、5年の歳月を経て、僕は彼女の封印に気が付いたのだ。
  僕は、このノートの空白の時間を読み終えるのに、5年の歳月を費やしたということになる。
  僕は彼女に謝った。
 「ごめんね、気付かなかった」
  彼女が笑った。
 「いいよ。だって今、気付いてくれたもん」
 「僕が開けていいのかな?」
 「うん。約束したでしょ、今度先生にも見せてあげるねって」
 「そう・・・・・・。そうだったね」
  僕は、そのノートの一番最後の封印されたページを、解放した。
  ホッチキスでとまっていた部分が破れ、中のページが露わになった。
  そこには、どんな綺麗な書体よりも綺麗な字で、どんな美しい詩よりも美しい詩が、シャープペンで描かれていた。




   6月17日(金) 気持ちのいい、雨

   先生へ

  ありがとう

  そして おやすみなさい

                立花葵


  このとても短い天使の詩は、彼女が今、僕に向けた言葉だった。
  僕は、涙を流しながら、何度も何度も読み返した。
  短くて、そしてとても長い詩は、いつまでも僕の心に残るだろう。
  僕はそっとノートを閉じて、窓の外に視線を移した。
  雨はすっかりやんでいて、雲の切れ間から、眩しい陽光がさっと差し込んだ。
  壁に掛かったカレンダーを見て、僕は今日が6月17日だと知った。
  僕は、車のキーとノートを持ち、家を出た。
  雨上がりの気持ちの良い匂いが、僕の鼻をくすぐる。
  空は、さっきまでの雨が嘘のように、青空が広がっていた。
  彼女が好きだった街並みが、ゆっくりとした電車が、可愛い小学生たちが、深い緑が、気持ちの良い風が、僕の目の前に姿を現わす。
  彼女の言った通りだった。
  晴れた日でも、雨の日でも、それは変わらず、そこにあった。
  僕はそれらを横目で見ながら、ゆっくりと車を走らせた。
  途中、街の中の小さな花屋で、彼女の部屋に飾ってあった白い花束をたくさん買った。
  僕はそれを抱えて、車に乗った。
  白い花束を、助手席に置いてある大学ノートの上に載せる。
  そこには、彼女が座っていた。
  僕の持って来たその花束を見て、暖かく微笑んだ。
  彼女は言った。

 「雨の日のあとには、必ず気持ちいい晴れの日が来るもんね」

  僕は車を走らせながら、涙を拭った。
  涙よりは、笑顔の方が良いに決まっているからだ。
  僕は、彼女が一日しか見れなかった雨上がりの美しい街並みを、彼女が見れるようにゆっくりと車を走らせる。
  彼女は、僕の車の助手席で、とても嬉しそうにはしゃいでいた。
  僕の車は、さわやかな風に押し上げられるように、丘を登る。
  病院が見えてきた。
  302号室の窓が開いている。
  僕は、車の窓から手を振った。



  ・・・・・・おやすみ

  そのまま 夢見て眠るといい・・・・・・




          [ 天使の詩  ― 完 ― ]


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