BATTLE ROYALE 2
〜
The Final Game 〜
[ Epilogue ] Now 6 students remaining...
< Epilogue > エピローグ
開け放たれた白い木製の格子に透明度の高いガラスがはめ込まれた窓から、薄いレースのカーテンを揺らして入ってきた気持ちのよいそよ風が、典子の頬を撫でていった。
肩よりも少し長いくらいの典子の美しい黒髪が、その風にふわっとなびいた。
昼のじっとりとした熱気はなく、爽やかに乾いた涼しい風だった。
うとうととまどろみの世界にいた典子は、それで、ゆっくりと目を開いた。
昼間はあれほど煩かったセミの合唱は、いつのまにか聞こえなくなっていた。
うだるような暑さはもうすっかり影をひそめ、窓の外の景色がほんのりと朱に染められていて、西の空に陽が傾き始めたことを物語っていた。
「ん・・・・・・」
典子は、まだはっきりとしない頭のまま、とろんとした瞳でゆっくりと周囲を見渡した。
そこは床に一面に赤い絨毯が敷かれている、大きな部屋だった。
赤レンガで造られた古ぼけた暖炉の上に、いくつかの小さな木製の写真立てが飾られていた。
西側を向いた白い木製の格子の窓からは仄かな夕日が射し込んでいて、絨毯の一部分だけに赤く染められた光があたっている――教会のステンドグラスのようだった、まるで。
同じ形の窓が五つあったが、そのうちのひとつが開いており、部屋に風が舞い込むたびにギィと軋んだ音をたてて揺れてた。
その落ち着いた雰囲気とは不釣合いな、小さな古いテレビが一台、アンテナを天井に向けて置いてあった。
窓と窓のあいだ、とても古そうなグランドファーザー・クロックが、ゆったりとしたリズムで時を刻み続けていた。
その時計の文字盤の上では、美しい形の長針と短針が上下対象を向いており、それぞれ“]U”と“Y”の数字を指していた。
「・・・・・・もうこんな時間? どうりで陽が傾いているはずね」
典子は小さくそう呟くと、それまで座っていたクロッキング・チェアからゆっくりと立ち上がった。
膝の上にかけられていた薄手の赤いカーディガンが、はらりと床に落ちた。
寝ているうちに誰かがかけてくれたのだろう、典子はそのカーディガンを拾い上げると、軽くぱっぱっと埃を払い、座っていたクロッキング・チェアの背もたれにかけた。
「・・・・・・ふぅ」
微かにため息をついた。
まだ頭の中が、いまいちすっきりとしなかった。
典子は目覚めたとき、一瞬、ここはどこだろう、と思ってしまったことに、自嘲気味に笑みをこぼした。
ここに来てもうしばらく経つというのに、なんでそんなことを思ったのだろう。
典子は小さく頭を振りながら、開け放たれていた窓を閉めた。
風に踊っていたレースのカーテンが、ゆっくりとその動きを止めた。
時間が穏やかに流れていた。
そして、もちろん、典子はこの時間の流れが嫌いではなかった。
もっとも、時間に余裕があるぶん、あのときのことを思い出してしまうことを除いては。
もう少し忙しければいいのに、と典子は思った。
そうすれば、少なくとも当座のところは、嫌な思い出を蘇らせるなどということはしなくてすむのかもしれなかった。
典子は意識せず、ふうっと小さく息をついた。
典子は紺のスカートの折れ目をちょっと直すと、もう一度ゆっくりと部屋の中を見回してみた。
造りこそ一見豪華に見えるものの、天上は黒い煤で黒ずんでおり、赤い絨毯もあちこちにコーヒーをカップごとぶちまけたような染みができていた。
レンガの暖炉は外側がかすかに崩れていて、白い壁には、顔のある赤い太陽の下で子供たちが何人も遊んでいるような絵が、クレヨンで描かれていた。
典子はその落書きを見て、思わず小さく微笑んだ。
いつのまに描いたんだろう、――典子は思った。
典子がこの部屋でちょっと昼寝をする前までは、こんな落書きはなかったはずだった。
「もう、まったく・・・・・・」
典子はちょっと困った顔をしながら、それでもやはり微笑んでいた。
そのときだった。
わあっという騒がしい声が、扉の向こうから聞こえた。
それと同時に、たたたたたっと複数の足音が廊下を駆けてくる音。
次の瞬間、重厚な木製の扉が勢いよく開け放たれたかと思うと、小さな女の子が一人と男の子が二人、息を切らせて駆け込んできた。
夕暮れが近づいたとはいえ、まだじっとりとした暑い空気が、子供たちと一緒に部屋の中に流れ込んできた。
「先生! 典子先生! いつまでお昼寝してるの〜? いっしょに遊ぼうよぉ!」
白いワンピースに麦わら帽子をかぶった女の子が、拗ねたように唇を尖らせながら、典子に言った。
外で遊んできたのだろうか、少女の白い服は、膝のあたりがわずかに泥で汚れて、お尻には緑の草や砂埃がついていた。
「ぼく、お腹へったぁ。センセー、ごはん、まだぁ?」
こちらは既に全身泥だらけの男の子が、典子の腕にぶら下がるようにしながら訊いてきた。
ブルーの半ズボンはもうすっかり違う色に変わっていて、オレンジ色のノースリーブがだらりと伸びきっていた。
「おれも、おれも。早くメシにしようよ、メシ〜!」
もう一人の、鼻のてっぺんにバンソーコーを貼って、ぼろぼろの野球帽(白地に黒の縦縞模様で、関西の球団の帽子だったと思う、確か)を被った男の子が、泥のついたスニーカーのまま、絨毯の上で地団太を踏んだ。
それで、赤い絨毯は埃まみれになってしまったのだけれど、典子は優しく笑んだ。
本当はちょっとだけ叱らなければいけないのかもしれない、――ちゃんと入り口で泥を払ってきなさい。
しかし無邪気そうに笑い合っている子供たちを前に、そんなことを言う気にはなれそうになかった、とても。
典子は言った。
「もうちょっとだけ、我慢しようね。夕食の時間は七時だから、それまで、先生とあそぼ?」
「うん!」
子供たちが嬉しそうに頷いた。
「あのね、あのね〜。今日ね、砂場で街を作ってたんだよぉ!」
「すごいんだよ、川もあって、道路もあって。お城もあるんだよ。ね〜?」
「見にきてよ、典子センセー」
大袈裟なジェスチャーを交えながら、それでも典子を誘いだそうと必死に話しかけてくる。
そんな姿が面白くて、ついくすりと笑ってしまった。
「いいよ。お砂場、行こうか?」
「やったー!」
典子が言うと、子供たちはぱっと笑顔を輝かせた。
男の子と女の子にそれぞれ両手を引かれて、もう一人の男の子には尻を押されながら、典子は部屋を出た。
一見、立派には見えるけれど、それでも随分と古い建物らしく、狭い廊下には、あちこちに修繕の跡が見られた。
長い廊下の窓からは、一様に仄かに染まった夕日が射し込んでいた。
子供たちに急かされながら、ここに来たのはいつ頃のことだっただろう、と典子は思った。
随分と長いこと、ここにいたような気分だった。
本当はまだ一年も経っていないのだけれど。
そのときの記憶は、鮮明に残っているようでいて、それでもぼんやりとした感じもあって、よく覚えていなかった。
階段を下り、正面のホールに辿り着くと、いくらか涼しい風が開け放たれた正面の扉から流れ込んでいた。
沈む夕日がその向こうに見え、逆光のために典子はわずかに目を細めた。
数秒後、典子たちはその建物の外にいた。
不意に典子は、足を止めた。
どこか懐かしいにおいを感じた気がしたので。
「典子先生? どうしたの?」
典子の手を引いていた子供たちが、不思議そうに振り返った。
ちらっと笑みをこぼしながら、典子は小さく頭を振った。
「ううん。なんでもないよ」
そう言いながら、典子は心の中でああそうかと思った。
これは、彼のにおいだ。
ここで暮らしていた彼のにおいだ。
もちろん典子はそれ以前、この場所に来たことは一度もなかったのだけれど。
それでも、わかった。
泣きそうになるぐらい、懐かしいにおいだった。
典子は首をまわして、たったいま自分が出てきた建物を見上げた。
カソリック系のことだけはあって、まるで古い欧州の街に迷い込んでしまったかのような、古い西洋風の建物だった。
鉄筋コンクリート造りの2階建てで、決して大きくはないけれど、それでもしっかりした構造だった。
ここが・・・・・・。
典子は思った。
ここが、彼が十数年間暮らしていた家なんだ。
特に感慨深い感情はなかったが、それでもやはり、胸の奥がちくりと痛んだ。
それから、こうも思った。
ここが、これからあたしが何年、ことによると何十年、暮らしていく家なんだ。
そう考えると、少し嬉しくもあり、また哀しくもあった。
しかし、もちろん、泣いている場合じゃない、悲劇のヒロインではないのだから。
典子はこれから生きていかなければならなかったし、そのためには小説のお姫様のように悲観に暮れているわけにはいかなかった。
自分のために、そしてなにより彼のためにも――。
「頑張らなくっちゃ・・・・・・」
典子は小さく、そう呟いていた。
「何を頑張るの〜? 先生、なんかヘン」
「え・・・・・・」
気がつくと、麦わら帽子の女の子が、不思議そうに典子を見上げていた。
「あ、えと、なんだっけ?」
曖昧な笑みを浮かべる典子に向かって、半ズボンの男の子がため息をつきながら幾分、肩を持ち上げた。
「あ〜もうこれだもんな〜。典子先生、もうトシなんじゃないのぉ?」
やれやれとでも言いたそうな声で、そう言った。
典子はわざと頬を膨らませて見せた。
「もうっ。先生はそんなに年とってません! まだ二十歳前なんだからねっ」
「おれらなんて、まだ十代前だもんね〜」
『ねぇ』と三人で顔を見合わせると、その子供たちはワーッと叫びながら一斉に砂場の方へ駆けて行った。
建物から道路に面した正門までのスペースはそれなりの広さがあり、すべり台やブランコ、砂場などの遊戯施設が整っているので、公園として一般にも公開しているのだった。
入り口に一人取り残された典子は、ふうっとため息をついて両手を腰に当てた。
改めて言われると・・・・・・なんというか、とにかくその、――ショックだった。
もっとも、落ち込むほどのことではないのだけれど。
典子はちらっと、あたしももう若くないのかな、と思い、慌てて頭を振ってその考えを打ち消した。
実際、世間的にはまだまだ十分若い年齢だったのだけれど、ここでは平均年齢が15歳という驚異的な数値なので(つまり子供がほとんどなので)、典子がそう思ってしまうのも不思議はなかった。
まあ、それでもやはり、そのことを認めるのはちょっと――いや実のところかなり――嫌だけれども。
視線を移すと、砂場のところで子供たちが典子の方を見て笑い合っていた。
「もうっ・・・・・・」
典子はすうっと息を吸い――叫んだ。
「こらーっ。笑うなあ!」
典子はそう言うと、黒い髪を揺らしながら、砂場の方へ歩いて行った。
西の空は真っ赤に染まり、山際の夕日が地上にあるものすべての影を長く地面に落としていた。
建物の裏手がすぐ山だからだろうか、もの哀しさを感じさせる蜩(ヒグラシ)の声が、建物に反響して典子の耳を満たしていった。
東の空は薄紫の美しいグラデーションが姿をあらわし、早くも夜の帳が下りはじめていることを告げていた。
宵の明星だろうか、赤く染まった雲の彼方に、ひときわ大きく輝く黄金色の星が見えていた。
黄昏の中を、元気な子供の声があたりに響き渡った。
典子は思った、いまのあたしは十分にしあわせなんだな、と。
秋也が側にいないことは、それはもちろん、寂しいけれど。
彼と一緒に生きていけたら、それはおそらくどこでだってしあわせだったのかもしれないけれど。
しかし、そんなことはもうできない、叶わない夢だった。
この世界には『夢』がある。
叶う夢と、叶わない夢。届く願いと、届かない願い。
秋也と一緒にいたい――、それは叶わない夢、届かない願いだった。
けれど、だからいま自分がしあわせでないかというと、そうではないのだ。
叶わない夢は、そのまま夢として持ち続ければいい、そうしてまた別の夢を追いかければいい。
いまの自分は、なに不自由なく揃う、しかもこの上なく便利で快適な、さらに戦争もしていない平和で自由な国の上で、こうして生きている。
それは、多少の不自由はつきものだけれど、まあそれでも。
秋也は言った。
『――典子、俺がいちばん幸せだと思うことは、なんだと思う?』
『それは、典子――君が生きることだ』
『生きろ。生きて、生きて、もうこれ以上ないくらい幸せになって欲しい』
『それが俺の、望みだから』
だから、典子は生き続けている。
彼の生まれたこの土地で、彼の育ったこの場所で。
典子のしあわせが秋也のしあわせであるのと同様に、秋也のしあわせもまた、典子のしあわせでもあった。
§
古ぼけた養護施設の前の道路に、一台の乗用車が停まっていた。
漆黒に塗装されたボディが赤い夕日をくっきりと反射させている。
ボンネットには、等角に伸びた三本のスポークを円形の輪郭が囲んでいるドイツの自動車会社――ダイムラー・ベンツのエンブレムが美しく輝いていた。
本当に微かなエンジン音は、施設の庭から聞こえる子供たちの笑い声にすっかりかき消されていた。
「もう大丈夫そうだな・・・・・・」
咥えていたタバコを口から離し、左側の運転席に深々と身体を埋めていた若い男が、小さな声で呟いた。
長くもなく短くもない、適当に持ち上げたような髪型で、サングラスをかけていはいたが、それでも一目で精悍な顔つきをしているとわかる男だった。
黒いスーツを着て、襟元のネクタイはわずかに弛められていたが、それでもだらしなく見えないのは男の漂わせる雰囲気ゆえなのかもしれなかった。
「そうね」
助手席に座っていた男と同年齢くらいの女が、小さく頷いた。
こちらは背中まで長く伸ばした少し茶味がかった美しい髪をしていて、左耳には女性らしくない素っ気ないピアスがひとつついており、こちらもやはりすらりとした清涼感溢れるスーツに身を包んでいた。
端整な顔立ちがきっちりと着こなしたスーツと多少不釣合いで、見ようによっては新人のOLにも、ベテランのキャリアウーマンにも見えた。
「まったく、こっちがぎっちり詰まったスケジュールの間を縫ってきたってのに、平和なもんだな」
道路沿いの植え込みの向こう、子供たちが楽しそうに遊んでいる姿を横目で見ながら、男がため息混じりにそう言った。
男の口調はぶっきらぼうだったが、それでも女にはその言葉の中に、微かな安堵と、そして大きな優しさが含まれていることに気がついていた。
女が肩を揺らして笑いながら、言った、とても面白そうに。
「ふふっ、やっぱり健司らしいね」
「ぁあ?」
運転席に座っていた男――黒澤健司が、頓狂な声を出した。
「どういう意味だ、郁美?」
健司は助手席の女――三村郁美を睨みながら、訊いた。
郁美がまた、面白そうに笑った。
「ううん。なんでもない、なんでもない」
「ちっ・・・・・・」
郁美が笑いながら手の平をひらひらさせると、健司は面白くなさそうに舌打ちをして、タバコを咥えなおした(銘柄はもちろんワイルドセブンだ)。
クーラーの吹き出し口付近に漂っていた蒼白い煙が、健司と郁美の目の前をゆるゆると流れていった。
健司は電動ウィンドウのボタンを押して、フルスモークのサイドガラスを少しだけ下げると、タバコの煙を車外に追い出した。
窓の隙間からゆっくりと蒼白い煙が立ち上っていき――しかし風が吹いてるためか、すぐにその煙は立ち消えていった。
窓を開けた途端、まだ昼の暑さが残るむっとした熱気が入り込んできた。
サングラスをかけなおし、健司はしばらく窓の外、赤く染まりかけた建物を眺めていた。
「なんだかヤクザみたい」
「うるさい」
郁美の言葉に健司がいちいち反応すると、郁美はまた可笑しそうに笑みをこぼした。
それから、言った。
「たまには遠くまでドライブに来るのも、いいね」
「あ? ああ――」
健司は郁美の言葉に曖昧に答え、それから再び視線を施設の庭に移した。
背の低い植え込みの向こう、サングラスを通して、小さな子供たちに混じって幸せそうに笑う典子の姿が見えた。
「そうだな・・・・・・」
確かに悪くないかもしれない、と健司は思った。
神戸から随分と時間をかけて久しぶりにこの街に訪れてみたけれど、健司は十分満足していた、典子の元気な姿が見れたのだから。
それは平和な――そう、平和と言ってもなんら差し支えなさそうな日常のひとコマだった。
けれど、それは典子にとって、本当に望んでいた日常と言えるのだろうか?
不意に健司は、そう思った。
忌々しいあの『会場』を抜け出してからの典子は、いま目の前で優しい笑顔を見せている典子とは、まるで別人のようだった。
じっと黙り込み、誰ともしゃべろうとせず、ただ目を閉じて膝を抱えたままの姿勢を崩さなかった。
その瞳からは涙こそ出てはいなかったのだけれど、それは悲しみという感情すら忘れてしまった人間のように、健司には見えた。
由香里の言葉も、郁美の問いかけにも、なにも答えようとせず、ただ生きている。――とりあえず息をしている、そんな感じだった。
そして、それからとにかく、色々あった。
本当にたくさんのことが、健司たちにも、そしてこの大東亜共和国にも。
失語症のようになった典子から逃げるように、健司と郁美が連れ立ってこの施設を後にしたのは、いつ頃のことだっただろう。
お世話になった館長さんにはこれ以上迷惑をかけられないとか、ただでさえ施設の運営がせいいっぱいなのにいつまでも置いてもらうわけにはいかないとか、理屈はどうあれ、逃げ出したのも同じだったかもしれない、当の典子からしてみれば(どう思ったかはわからないけれど)。
あれから1年ほど――、その間、健司と郁美は神戸に移り住んだ。
まだ震災の爪痕が生々しく残っていて街中がごたごたしていたので、身を隠すにはうってつけの場所だった。
新政府への移行の際の不手際のためか、はたまた難民退去の混乱のためか、偶然にも正式な住民票を得ることができたのだ(本当はあらかじめ石田が政府のコンピュータに細工をしておいたためだが、そんなことは健司たちが知る由もなかった)。
そうして、そこで生きるために必至になって働いて、・・・・・・まあ、とにかく、たくさんのことがあった。
しかし、やはり気にかかっていたのは典子のことで――、なんとか多忙のスケジュールを縫って、この町にきてみたのだけれど。
果たして典子は、本来の彼女に戻っていた。
少なくとも、外見的には。
けれど、内面では――?
典子は本当に現実を克服したのだろうか、秋也が――最愛の人がいなくなってしまったという現実を?
それとも、――。
「だいじょうぶよ、健司」
健司の考えを見通しているかのように、小さく微笑みながら郁美が言った。
目は健司の方を向いておらず、カラスの声に耳を傾けなら遠く沈む夕日を眺めていた郁美の表情は、健司がはっとするほど優しかった。
彼女の左耳についているピアスが、夕日を受けてきらきらと輝いていた。
郁美がちょっと目を伏せ、それから、首を傾げてこちら方に視線を移した。
少し茶味がかった長い髪が、さらっと耳のピアスにかかった。
郁美は健司の瞳をじっと見つめ、言った。
「典子さんは、強い女性だから。あたしなんかてんで比べものにならないくらいに。だから、きっとだいじょうぶよ」
健司は、ちょっと首をまわし(それでぽきっと骨が鳴った)、少し考えるように天を仰いだ。
もっともそこには素っ気ない天井の内張りが見えただけなのだけれど。
そうして、小さく頷いた。
煙草の灰が、もうそろそろ落ちそうだった。
言った。
「そうみたいだな。俺は少し、あの人のことを誤解していたのかもしれない」
ため息ついでに煙草の煙を吐こうと、健司は窓の方を向き――。
「あれ・・・・・・?」
不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの、健司?」
郁美が訊くと、健司が煙草を咥えたまま顎をしゃくって、施設の正門を示して見せた。
角がわずかに崩れかかった煉瓦の石門が建っており、右側の石柱には青銅製のプレートがはめ込まれていた。
そのプレートに掘り込まれているのは、おそらくこの施設の名称だろう。
周囲の石門の風化の具合は相当なものだったが、そこにはめ込まれているプレートはまるで新品同様に光り輝いていた。
「あれが何なの?」
郁美が訊くと、健司はちょっと眉をひそめ、「いや――」と言葉を濁した。
それから続けた。
「俺たちが世話になってたときと、なんか名前が変わってないか?」
「名前って――“ジケイカン”でしょ?」
郁美の言葉に、健司は納得いかなそうに頷いた。
言った。
「ああ、確かにそう読めるんだが・・・・・・。前からこの字だったっけかな。よく覚えてないんだが――」
そう呟いた、そのときだった。
「健司っ!」
唐突に郁美に呼ばれ、健司ははっと我に返った。
ルームミラーを見ると、後方から一台の自動車が走ってくるのが映っていた。
よく目立つ白と黒のツートンカラーに赤色回転灯をつけたそれはもちろん――警察の緊急車輌に違いなかった。
一瞬、どくんと心臓が大きく波打った。
「駐車違反・・・・・・か?」
サングラスを掛けなおし、健司が声をひそめて言った。
「そんなことは、ないと思うわ。それにだいいち、停車してるだけで、駐車はしてないもの」
「・・・・・・そうだな。ま、それより先に無免許だけどな」
「えっ、健司、免許持ってないの?」
「持ってない。そもそも俺たち、まだ18歳になってないじゃないか」
「そうよね――、って、じゃあどうするのよっ」
健司と郁美がそんな囁きを交わしていると、パトカーはゆっくりと、その養護施設の門の前で停車した。
それで、健司はすっと両眼を細めた。
助手席の郁美も、わずかに身体をこわばらせたようだった。
まさか、典子のことがバレたのだろうか。
それで警察が来て、典子を連行するつもりなのだろうか。
以前のように、その場でいきなり銃殺するなどと言うことはないと思うが、しかし――。
「・・・・・・郁美」
健司は小さな声で、郁美の名を呼んだ。
それで、郁美は、すべて了解しているというように頷き、ダッシュボードに手を掛けた。
その中にはいまも、あのときに諒子に支給されたステンレス製の大型回転式拳銃、フリーダム・アームズ・モデル・カースル454が入っていて、そのシリンダーには人間の頭部など一撃で粉々に砕いてしまう威力を持つ454マグナム弾が全弾フル装填されているはずだった。
郁美がダッシュボードから、油紙に包まれたそれを取り出し、健司に手渡した。
あのとき以来の、そのずっしりとした重量感とステンレスの冷たさが、健司の手に伝わってきた。
ルームミラー越し、パトカーの後部ドアが開くのが見えた。
車中から、まず制服姿の警察官らしい人物が降り、それに続いて私服姿の女性が降りてきた。
健司はじっと目を凝らし、右手にカースルを握り締めていたが、――しかしルームミラーに映ったその女性の顔を見て、健司は大きく目を見開いた、それは健司の見知った人物だったので。
その女性は、背はさほど高くはないが、すらっとした均衡のとれたスタイルに、肩までかかる美しい黒髪をゴムか何かでひとつに束ねていた。
彼女は先に降りた警察官に小さく頭を下げ、その警察官は敬礼をひとつするとパトカーの後部座席に乗り込んだ。
ゆっくりとパトカーが健司たちの乗る車の横を通り過ぎ――、健司はサングラスをかけなおし、シートに深く沈みこんだ(拳銃はスーツの腹のところに隠した、もちろん)。
「なるほどな、そういうわけか」
健司はにやにや笑いながら、一人ごちた。
郁美が不思議そうに首を傾げ、健司を見た。
訊いた。
「どういうこと? あのひと、誰だったの?」
「郁美は気づかなかったのか?」
健司が言い、また意味ありげににやりと笑んだ。
「だってあたし、いまはコンタクトつけてないし・・・・・・。で、なんだったのよ、あのひとは?」
郁美の問いに健司は、短くなった煙草をセンターパネルの灰皿に押しつけて揉み消しながら、言った。
「考えることはみんな一緒ってことだ」
「えっ・・・・・・?」
そう言うなり、健司は一度だけ、ちらっと肩をすくませた。
「さて、そろそろ行こうか」
「ちょっ、待ってよ。まだ――」
郁美の言葉を遮って、健司が一言、呟いた。
「さよならだな、もうしばらくは――」
そうして、まるで短い黙祷をするように目蓋を閉じ、――開いた。
「行くぞ。戻ろう・・・・・・神戸に」
静かなエンジン音を響かせて、施設の門の前から高級外車が走り去っていった。
阪神淡路大震災を潜り抜け、国内の混乱で遅れに遅れていた復興の兆しを見せ始めた神戸の街に向かって。
人々の小さな小さな優しさに救われた、とても大きな街に向かって。
数年後、多くの人々が互いに助け合いながら、そして信じ合いながら、神戸市は完全に復興を遂げる。
その活動に大きく貢献したとして、“市民選挙”において圧倒的な支持を得た若い人物がいた。
のちの神戸市議会議員――黒澤健司。
そしてもちろん、その活躍は有能な秘書官、三村郁美の助力あっての賜物でもあった。
けれど、それは、また別の物語である――・・・・・・。
§
典子はぼんやりと空を眺めていた。
施設の庭の一角、藤棚の日陰に作られた砂場に、子供が三人楽しそうに遊んでいた。
男の子が二人、女の子が一人、全員服はドロドロに汚れていた。
ここの施設は金銭的に余裕があるわけではなく、一人が持っている服の数は片手で数えられる程度であるはずだったが、子供たちはそんなことはまったく気にしていないようだった。
典子は砂場の隅にたたずみ、小さく微笑みながらその光景を眺めていた。
藤棚の下を乾いた風が通り過ぎ、典子の髪をさわさわとなびかせた。
典子が視線を転じると、赤く染まる西の空に、真っ黒なカラスが数羽、飛んで行くところだった。
山並みに夕日が完全に沈んでからしばらく経つが、まだ空は仄かな明るみを帯びていた。
しかしもう半刻ほどすれば、東の空から藍色と紫色のグラデーションに変わり、そしてすぐに夜が訪れることだろう。
施設の裏にある雑木林のあたりから、蜩の声がかすかに滲んで典子の耳に響いてきた。
典子は思った。
夜は涼しくていいな、クーラーがないから日中はとても暑くて大変だもの。
もっとも、この土地で生まれたのだから、それはもう慣れっこになっているはずだったのだけれど。
「先生! 典子先生!」
元気な声に呼ばれ、典子は視線を上から下へと移した。
見ると、白いワンピースを来て麦わら帽子を被った女の子が、鼻の頭に泥をつけたまま典子を見上げていた。
「ん? なぁに?」
典子が言うと、女の子はぱっと笑顔を見せて、言った。
「見て見て、先生。あたしたちがつくった街だよー。すごいでしょ、ね、すごいでしょ?」
男の子二人も、ちょっと胸を張って自分たちの足元を指差した。
典子が子供たちの足元の砂場に目をやると、そこには立派な『砂の街』が建っていた。
南端には、砂場の隅から隅までを貫通して太い溝が掘ってあり、そこには茶色く濁った水が溜まっていた。
その溝の一部に枯れた小枝が渡してあり、壊れかけた小さなブリキの玩具の小船が、水の上に浮かんでいた。
「これはねぇ、河なんだよ。大きな橋もあって、船も通れるんだ。ぼくが作ったんだよ」
ブルーの短パンにオレンジ色のノースリーブの男の子が、にこにこ笑いながら典子に説明した。
「へぇ〜。すごいね。ヨシちゃん、頑張ったね」
典子が言うと、男の子はちょっと照れたように、へへへと笑んだ。
砂場の北側に目をやると、そこには周りを砂の壁に囲まれた塔のようなものが建っていた。
「これはお城。おれがつくったんだ。良子先生の本に載ってた・・・・・・えっと、ノ、ノイ、ノッシュ――」
「ノイッシュヴァンシュタイン城?」
「そうそれ! それにそっくりにつくったんだ。どう、センセー?」
野球帽を被った男の子が、興奮したように言った。
典子はそれをちょっと眺めて――言った。
「うん、ホント、そっくりだよ。本物みたい。シュウちゃんもすごいね」
もちろん、子供が作る砂の城のこと、美しいことで有名なそのドイツの城とは似ても似つかない形ではあったけれど。
男の子は典子の言葉を聞くなり、被っていた野球帽を高く投げ上げて喜んだ。
「――だろ!? もうカイシンのできなんだ、ずっととっておきたいくらいだよ!」
「それはちょっと難しいね・・・・・・」
典子が苦笑すると、今度は女の子が典子の腕をちょいちょいと引っ張った。
言った。
「あのね、あたしはね、病院をつくったの。大きなまちだから、きっと怪我とかする人が多いと思うから。これ、あたしがつくったんだよ」
そういって指差した先には、確かに四角い砂の建物が建っていた。
砂を盛り上げて少し丘のようになった頂上の付近にある、直方体の綺麗な病院だった。
その側には白い塗装が剥げて、ところどころ下地の銀色が覗いて見える、救急車のミニカーがちょこんと置いてあった。
典子は目を細めて、足元に広がる『砂の街』全体を見渡した。
街の真ん中には中学校なのか、小学校なのか、とにかく学校らしきものがあった。
「・・・・・・似てるなぁ」
典子はそう呟いて、くすりと笑んだ。
大きな河、西にある城跡、高台にある病院、そして学校――。
“あの街”にそっくりだった。
まあ、もちろん、ただの偶然ではあるのだけれど。
先日の新聞に、復興途中のあの町の写真が載っていた。
かつては病院があった高台の上から撮られたその写真は、まだトタンやバラックの家が乱立していて決して美しい町とは言えないけれど。
しかしそれでも、その都市には人の営みが、活気が、そして小さな優しさが、あるようだった。
典子は思った。
だいじょうぶ、この国は、そしてこの国の人たちは――。
この目の前の少女のように優しい子供たちが、これからの世界を作っていくのだから。
少女の方を向き、典子は笑った。
「困った人のために病院を作るなんて、ノッちゃんは優しいんだね。将来はお医者さんになりたいって言ってたっけ?」
「うん! あたし病気の人とか、怪我した人とか、いっぱい治してあげたいの! だからあたし、丘の上のこういう綺麗な病院で働くのが夢なんだー」
「そう・・・・・・」
典子たちの会話に、男の子二人が割り込んだ。
「ぼくは警察官になりたいな〜。悪いやつとか、捕まえるんだ。ピストルも持てるぞ」
「おれは、ミュージシャンになる! カッコいいんだぜ! ギターとかガンガン弾いちゃってさ!」
子供たちの言葉に、典子は優しく目を細めた。
秋也のギターは、世代を超えて、この施設の子供たちに受け継がれていたのだ。
そしてそれは、もうすでに退廃音楽に使用する有害楽器と言われることはなくなっていた、新政府はそれまでの準鎖国政策の無期限凍結を可決したので。
それはつまり異文化の流入が容認されたということだった。
もちろんまだギターの弾き方なんてわからないだろうが、それでもたまに子供たちは、食堂に大切そうに飾ってあるそのギターの弦を引っ張って楽しんでいるようだった。
「みんなの夢・・・・・・叶うといいね」
「うん!」
典子が言うと、子供たちは全員、嬉しそうに頷いた。
「ねぇねぇ典子先生は? 先生は何になりたいの〜?」
突然、ワンピースの女の子が典子を見上げてそう尋ねた。
「えぇ? うーん、先生はねぇ・・・・・・、」
典子はちらっと曖昧に笑んだ。
いつだったか、そう、あれははじめてのプログラムの最中、秋也が典子に聞いた、――何かなりたいもの、なかったのかい?
典子は答えた、――先生になろうと思ってた、あたし。
「ねぇ、先生?」
学校の教師だけが先生じゃない、子供に勉強を教えるのだけが先生じゃない、もっと大切な――そう、生きるために勉強よりも大切なことを教える人材が必要なのだ、この施設には。
そして、それは即ち典子のなりたかった『先生』そのものに、違いなかった。
そう考えて、典子ははじめて気がついた、自分の夢が、もういつのまにか叶えられていることに。
ひょっとしたら、秋也はこうなることを見越していたのかもしれない。
だから、あのとき典子に渡したメモで、この施設を指定したのかもしれない。
もっとも、本当のところはどうなのか、それはもうわからなくなってしまったのだけれど。
女の子の問いかけに、典子が答えようとした、ちょうどそのときだった。
「典子先生?」
不意に背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、長い黒髪をした美しい女性が微笑みながらこちらを見ていた。
この施設の館長をしている人で、そのふんわりとした優しい物腰にもかかわらず、年齢は典子よりもふたつくらいしか離れていないはずだった。
「典子先生」
その女性がもう一度、典子を呼んだ。
「あ、はい、なんですか、安野先生?」
典子が慌てて答えると、彼女はまた柔らかい微笑を浮かべた。
安野良子――それが彼女の名前だった。
彼女がつらい過去を持っていることはすでに知っていたし、そのことを良子も承知しているはずだったが、そんなことは表にはまったく出していなかった。
本当に強いひとなんだな――、典子は良子にはじめて会ったときそう感じたし、いまでもその思いは変わっていなかった。
良子はちょっと首を傾げた。
言った。
「あなたのお友達が尋ねていらっしゃいましたよ。子供たちの面倒はわたしが見ますから」
「ともだち・・・・・・ですか?」
典子はちょっと眉根を寄せた。
良子は多くは語らず、ただゆっくりとひとつ、頷いただけだった。
「南由香里さん。正門で待っているそうです。もしお時間があるようだったら、上がってもらってくださいね」
そう言うと、良子は子供たちに向き直った。
「あらあら、みんなこんなにお洋服を泥だらけにして・・・・・・。入るときはちゃんと洗わなきゃダメよ?」
良子の穏やかな声が、その場に響いた。
鉄棒の少し手前で、典子ははたと歩みを止めた。
もはや沈んでしまった夕日の残滓を背に受けて、彼女はそこに、立っていた。
ちょうど施設の正門にあたる石柱の脇、桜の木の下で、じっとこちらを見守っていた。
由香里は典子と同じくらいの身長だったが、身に纏った大人っぽい洋服が、すらっとした身体のラインを自然に引き立たせていた。
しばらくぶりに見た由香里は、以前よりは遥かに大人らしい雰囲気を漂わせていた。
そろそろ南の空全体にグラデーションが広がり、西の空の赤い光も徐々に薄れはじめてきていた。
誰彼(たそがれ)の涼しい風が、由香里のいまだ変わることのない美しい黒髪を、さらさらと風になびかせていた。
典子は由香里のいる桜の木に向かい、ゆっくりと脚を動かした。
シーソーの横を通り、ブランコの前を抜け、すべり台の後ろを通過した。
典子は由香里の目の前まできて、脚を止めた。
由香里は、風で髪が乱れないように右耳のあたりの髪を手で押さえながら、典子に小さく頭を下げて挨拶をした。
「こんばんは。お久しぶりです」
透き通った由香里の声が風に乗って、典子の耳に届いた。
ほっとさせてくれる笑顔、心が温かくなるこの声。
以前と少しイメージが変わったものの、彼女はいまでも典子の知っている由香里だった。
「久しぶりね、ほんとうに・・・・・・。あなたが出て行ったのが1月だから――ちょうど半年かな。元気そうで安心した」
典子の言葉に、由香里はにっこり微笑んだ。
「よかった、すっかり忘れられてたらどうしようって、思っちゃいました」
くすっと由香里は照れ隠しで笑い、典子もわずかに口元を弛めた。
「体調は、もうだいじょうぶなんですか?」
由香里がちょっと目を細めて、典子の瞳を覗き込む。
典子は笑って、頷いた。
「ええ、もうだいじょうぶ。いつまでもベッドで寝てるわけには、いかないもの」
「・・・・・・そう、ですね。よかった」
由香里がほっと安堵の表情を見せて、言った。
その言葉の隅々にまで、優しさが満ち溢れているようだった。
会うのは半年ぶりだけれど、由香里とはたまに手紙などで近況を報告していたのだ。
たしか、現在は父方の実家――和歌山県だったと思う――で暮らしているらしい。
祖父がけっこうな資産家で、全国チェーンのスーパーだかコンビニだかの店舗を経営していて、そこで正社員として働いているということだった。
由香里は続けた、ちょっと恥ずかしそうに。
「こっちにフランチャイズの研修施設があるんです。近くまできたから、寄ってみようと思ったんだけど、道がわからなくて」
由香里は照れたようにそう言い、ぺろっと小さく舌を出した。
一見、大人びて見える由香里のあどけない一面も、典子は垣間見た気がした。
由香里はハンカチで額の汗を慎重に拭い、胸元のシャツの襟をちょっと直した。
そして、続けた。
「交番に行って道を聞いたら、巡回経路の途中だからって、パトカーで乗せてきてもらったんです、ここまで」
由香里の言葉に、典子は少し驚いたように目を見開いた。
「警察に行ったの? だいじょうぶだった?」
典子が訊くと、由香里はちらっと苦笑して、肩をすくめた。
言った。
「この国が変わったのとおんなじで、お巡りさんも以前とは随分、違いますよ。道を教えてもらえれば一人で行くからって言ったんだけど、夜道に女の子が一人で歩くのは危ないからって、ここまで送ってくれて」
「・・・・・・ホントに?」
典子が訊き返すと、由香里は小さく頷いた。
「すべてのものがいつまでも同じってことはないでしょ。もちろん良いところも、そして悪いところも」
「・・・・・・」
由香里が大人っぽい口調でそう言い、典子は少しのあいだ黙り込んだ。
思った。
それはもちろん――そのとおりだ、すべてのものは移ろい、時々刻々と変化していく。
この国自体もそうであるし、そこに住む国民全員にも同じことが言えるはずだった。
専制政治から立憲民主政治への移行、――それはつまり、この国の未来を決めることのできる人物が、一人の支配者から大勢の国民へと変わったということである。
この大きな時代の流れも、しばらく時間が経ってしまえば、当然のことのように忘れ去られ、教科書の中にのみ『歴史』として、その存在をとどめるだけになってしまうのかもしれない。
この国を変えようとして叶わなかった大勢の人々と、自分の命を賭してまでこの国を変えてみせた少年と少女たちのことは、まったく語られることのないままに。
けれど、それはそれでいいのかもしれない。
典子たちは、ただキッカケを与えることをしただけに過ぎないのだから。
あとはこの国の人間全員が、自分たちの国を、――世界を作り上げていくしかないのだから。
もしその結果が、旧大東亜共和国以上にひどい世界であったとしても、それは誰のせいでもない、国民一人一人の責任なのだから。
典子が黙り込んだのを誤解したのか、由香里が少し照れたように言った。
「――なんて、ちょっと偉そうなこと言っちゃいましたね。ゴメンなさい」
「そんなことは、ないわ」
典子はそう言いながら、小さく笑んだ。
それから、ふと不思議に思い、訊いた。
「そういえば、一体どうしたの? わざわざこんなところまで、あたしに用があったのかな?」
「あ、えっと、それは・・・・・・」
由香里が少し躊躇ったように、視線を下げた。
西の空の光は、もうすっかり薄らいでいた。
その空は、人間の手ではとうてい作り出すことのできない、とても美しい色合いに染まっていた。
けれど由香里は、その美しい景色を見ることを拒むように俯いていた。
「あの、わたしは・・・・・・」
由香里は口を開きかけ――、しかしやはり苦しそうに、次の言葉を飲み込んだ。
典子はすっと背筋を伸ばした。
それから、言った。
「あたしのことなら心配しないで。教えてくれないかな、あなたがあたしに会いにきたわけ」
典子の言葉に、由香里はゆっくりと視線を上げた。
その瞳には、まだわずかな迷いがあった。
由香里がゆっくりと口を開き、言葉を紡いだ。
「わたしは――あるものを典子さんに渡したくて、きたんです」
「あたしに? なに?」
典子が訊くと、由香里は右手を胸元に当てた。
それからゆっくりと、自分が着ている洋服の胸のポケットの中から、白いハンカチを取り出した。
典子の目の前で、きれいに畳まれたそのハンカチを、由香里が丁寧にひらいていった。
ハンカチの中から出てきたものは、角がわずかに丸くなった三角形をした、銀色に光る金属片だった。
本来ならばきちんとした平面で、美しい金属光沢があるはずなのかもしれないが、それは奇妙に変形しており、縁の部分が錆びはじめていた。
その金属片に目を落としながら、由香里が言った。
「わたしは、これを届けにきたんです。これは、あなたが持つべきものだと思って――」
典子は訝しげに眉を寄せ、由香里を見つめた。
「これは――ギターピックね? どうしたの、これ?」
典子の言葉に、由香里は小さく息を吐いたようだった。
それから、言った。
「これは七原さんが――、」
その言葉に、典子の心臓がどきっとした。
きりきりと胸が痛み、詰まるような感覚だった。
典子は自分の胸の前で、ぎゅっと両手を握り締めた。
由香里が続けた。
「七原さんが、最後にわたしに託したものです。あのあと――」
そこまで言って、言葉の語尾がわずかに震えた。
それで、典子は、由香里が必至に涙を我慢しているのだということを知った。
典子にはわかっていた。
自分がそうであるのと同様に、由香里にとってもまた、彼はただのクラスメイト以上の特別な存在だったということを。
女のカン、というやつだろうか、そこのところはあまりよくわからないのだけれど。
しかし、とにかく、典子には由香里の気持ちが痛いほど理解できた。
ごしごしと乱暴に濡れた目を拭い、由香里は続けた。
「あのあと――七原さんが典子さんに想いを伝えたあと、わたしがこれを預かったんです」
「秋也くんが、あたしにって?」
由香里は典子の言葉に、首をゆっくりと横に振った。
「そうは言われてません。でもわたしは、これはわたしが持つべきじゃないような気がして――」
そう語尾を引っ張ってから、由香里はきっと典子の瞳を見据えた。
それから、言った、きっぱりと。
「わたし、七原さんの――、秋也さんのこと、好きでした」
「・・・・・・」
「3つも年上だったし、それまでは全然、話とかもしたことなかったですけど。彼がとっても優しい、強い人なんだって、目を見てすぐにわかりました」
「そう・・・・・・」
典子は小さく、相づちを打った。
由香里は、どこまでも本気のようだった。
ほんとうに真剣に、秋也のことを想っていたのだ。
まあ、当然かもしれない、いつからかはわからないが、そうでなければとてもではないけれど“プログラム”で行動を共にすることなど、できるはずもなかった。
由香里はじっと睨むように典子の瞳を見つめていたが――、やがて小さくため息をつくと、すっと視線を外した。
言った。
「でも、やっぱり、わたしなんかじゃ、とても典子さんには敵わない。ちょっとだけ、――ううん、実のところかなり、悔しいけれど」
そうして、由香里は微かに笑った。
多少陰のある、憂いを残したその笑みは、由香里の美しさをさらに引き立てているような感じだった。
「だからこれは――秋也さんの最後の形見は、典子さんが、持っていて欲しいんです」
そう言って、由香里はハンカチの上から小さな金属片をつまみあげ、典子の方に差し出した。
典子はなにも言えず、ただ黙ってそれを受け取った。
表面はわずかな錆でざらざらしており、ちょうど真ん中くらいにひとつ、それから縁にひとつ、釘を打ち込もうとしたかのような小さな凹みが穿たれていた。
それは、ショットガンかなにかの散弾が命中した痕に、違いなかった。
秋也のあの傷は、おそらくこの金属片を変形させた散弾と同じものによるのだろう。
この金属片がなかったら、ひょっとしたらこの散弾は、秋也の心臓にまで達していたかもしれなかった。
少なくとも、これが秋也の傷を致命傷にさせなかった原因であることは、疑いなかった。
ギターピックに命を救われたのだ、秋也は。
秋也くんらしい――、典子は心のどこかで、そう思った。
遠くでカラスが鳴いていた。
太陽の光は、もはや欠片も残っていなかった。
セミの声はぱったりと止んでおり、裏の雑木林から聞こえていた蜩の声も、微かにしか聞こえなかった。
そのかわりに、道路と公園とを仕切っている植え込みのあたりから、リーリーリーという涼しげな虫の音が聞こえていた。
あれほど暑かった気温は徐々に下がりはじめ、冷気を帯びた涼しい風が、二人のあいだを吹き抜けていった。
典子は右手でなびく髪を押さえ、由香里は舞い上がりそうになったスカートの裾を押さえつけた。
静寂が、二人の周囲を包み込んでいた。
西の空には、そこだけ切り取ったように黒く見える積乱雲の隙間、ひときわ明るく輝く星が、姿をあらわしていた。
宵の明星だった、それは。
たったひとつ、西の空に凛とした輝きを放つその星は、しかしときおり哀しそうに瞬いていた。
しばらくすれば、ぽつぽつと別の星が見えはじめ、世界が眠りに落ちていくのだろう。
夜の帳が、じりじりと典子たちの背中を押しているようだった。
おねえちゃんたち、いつまでそうしているつもりですか、日が暮れて、朝日が昇るまでですか?
呆れたような声を上げて、カラスがどこかへ向かって飛んでいった。
道路のずっと向こうの端から、順番に街灯がつきはじめた。
蒼白い蛍光灯の光が、等間隔に夜の道路を照らし出す。
典子と由香里は、いつしかまっすぐに伸びた道の先を眺めていた。
先に静寂を破ったのは、由香里だった。
「あっ、そういえば――」
由香里は思い出したように、典子に言った。
「わたしがここに着いたときのことなんですけど、気づいてました? 表に停まっていた自動車」
「自動車?」
典子が首を傾げて聞き返すと、由香里は小さく微笑んだ。
「やっぱり、気づいてなかったんですね。わたしもちょっと見ただけなんだけど――、あれは多分、健司くんと郁美さんだったと思います」
由香里の言葉に、典子はちらっと眉根を上げた。
「健司くんと郁美さんが?」
「ええ。随分高そうなクルマに乗ってましたよ。まさか盗んだわけじゃないと思いますけど」
気まずい雰囲気を和ませようとしたのか、由香里はちょっとおどけたようにそう言った。
それで、典子は、口元を弛めた。
こうやって相手の心を知らぬ間に開いてしまう由香里の性格も、典子が由香里を好きなひとつの要因になっているのかもしれなかった。
典子は笑いを収め、健司たちが走り去ったであろう方向に視線を転じた。
向こうから歩いてきた、犬の散歩をさせている近所の主婦と目が合い――、小さく頭を下げて挨拶を交わすと、典子は小声で呟いた。
「わざわざ来たのなら、寄ってくれればよかったのにね。お礼もしたかったのに」
「例のお金ですか? 毎月送られてくるっていう・・・・・・」
「うん。おかげで随分助かってるの。でも住所も書いてないし、連絡先もわからないでしょ、お礼のしようがなくて」
由香里も街灯が灯った道路の先に視線を転じ、二人は揃って、自分の健司たちが去っていった方向を眺めていた。
そうして、由香里が言った、穏やかな声で。
「黒澤くんらしいですね」
「そうね。ホントに――」
そうため息交じりで返した典子と由香里の視線が合い、ほんの半瞬見つめあったあと、――二人は同時に吹き出した。
なんだかわからないけれどとにかく、笑った。
由香里のこういう笑顔を見るのは、随分久しぶりのような気がした。
その笑いが収まらないうちに、由香里は訊いた。
「諒子ちゃんは、いま、どうしてます?」
由香里が訊くと、典子は「ん――」と言葉を引っ張った。
空の光がなくなって、その表情はハッキリとはわからなかったけれど。
そういえばいつのまにか、蝉の声もまったく聞こえなくなっていることに気がついた。
「気になる?」
典子が言った、ちょっと意地悪そうに。
由香里はちらっと笑いながら、軽く頷いた。
「そりゃあ、――友達ですから」
由香里の言葉に、典子はすっと目を細めた、優しそうな表情だった。
「彼女はだいじょうぶよ。いまは、ここにはいないけれどね」
言いながら、典子は左の手首を返して、腕時計を見た。
「何しているかな、この時間は・・・・・・。多分、アルバイトでもしてるんじゃないかな?」
「アルバイト? どうして――?」
由香里が首を傾げると、典子はちらっと視線を空に向けた。
言った。
「高校にね、通ってるの。どうしてもお医者さんになりたいんだって。前ほどではないけれど、お医者さんになるにはやっぱり、まだ学歴がいるものね。でも、ほら、授業料って高いでしょう? だから奨学金と、あとはアルバイトで、なんとかやってるみたい」
「へぇ・・・・・・」
由香里は思わず嘆息した。
前からしっかりした子だとは思っていたけれど。
医者になるには、大学、いや大学院を出なければならないのかもしれない。
しかもどういうわけか、医学部は私立大学はおろか、国立大学の学費も跳び抜けて高いのである。
話を聞いただけでも、諒子が苦労しているであろうことは容易にわかった。
勉強をするためにアルバイトをしてお金を稼ぐなんて、高校に通うことが義務教育のように当前に思っている学生たちから見れば、信じられないかもしれないけれど。
「あたしも応援してあげたいんだけど、この施設も維持費だけでギリギリだし、それに彼女、絶対にお金は受け取らないから」
典子が、嘆息しながらそう言った。
由香里は小さく笑って、頷いた。
「諒子って、見かけによらず、頑固ですからね」
「でも、あの怪我で後遺障害とかが残らなかっただけよかったわ。一歩間違えば、命を落としかねなかったそうだし・・・・・・」
「典子さんの応急手当のおかげですね」
由香里の言葉に、典子は小さく首を振った。
「あたしはたいしたことはしてないわ。彼女が生きれたのは、あなたたちみたいな仲間がいたのと、彼女自身の生命力ね」
由香里は、それで、ちょっと照れくさい気持ちになった。
涼しい風に乱れた髪を少しなおし、それから、訊いた。
「それじゃあ、飯田くんは――?」
「・・・・・・」
由香里の言葉に、典子は視線を地面に落とした。
ヒールが少し高くなっている由香里の靴をしばらく見ているようだった。
典子はサンダルで、乾きかけた砂場の砂が所々に付着していた。
それで、由香里は了解した。
飯田浩太郎は、由香里たちが慈恵館に到着したその日、いつのまにかもういなくなっていた。
失踪してしまったのだ。
何らかの理由があったのか、それとも逃げてしまったのか、それはわからない、誰にも。
ひょっとしたら自分の家に戻っているのかもしれない、いまごろ父親とテレビを見ながら談笑でもしているのかもしれない。
由香里の頭に、訊かない方がよかったかなと、少し後悔の念が過ぎった。
「あの、やっぱりまだ・・・・・・?」
由香里が口を開いたとき、典子が足元に落としていた視線を上げた。
それから、言った。
「それは、誰のせいでもないと思うの。彼が逃げ出したのは――、ううん、逃げたとか、そういうんじゃなくって――」
典子がゆっくり息を吸い、そして、吐いた。
続けた。
「他人を信じることって、すごく、難しい。だから、彼があたしたちの前から姿を消してしまったとしても、仕方のないことだと思う。彼が悪いんじゃなくって、彼を取り巻いていた環境とか、精神的なものとか、一概に彼が悪いわけじゃないのよ、それはきっと」
典子は少しむきになってそこまで言い、それからまた、小さく息をついた。
由香里にはほんの一瞬だけ、典子が哀しそうな表情していたような気がしたのだけれど、誰彼のなかではその表情を正確に読み取ることはできなかった。
由香里は目を細め、頷いた。
「そう――ね。誰のせいでもないんですね、きっと」
遠くでまた、カラスの鳴き声が聞こえた。
制服を着た女子中学生の一群が、自転車で由香里たちの前を走っていった。
典子はその中学生たちの姿を眺めているようだった(ひょっとしたら以前はあの制服を着ていたのかもしれない、典子は)。
幾つかの自転車のライトが、遠ざかっていく。
しばらくして、街灯とは別に、施設の庭に設置されている幾つかの水銀灯が、ぽうっと仄かな光を放ちだした。
典子たちの周囲が、そのほのかな光に照らし出され――。
あれ、と由香里は思った。
この施設の正門には、まるで学校の校門のような石柱が立っているのだけれど、由香里の記憶が確かならばその石柱はぼろぼろのはずだった、少なくとも数ヶ月前は。
けれど、水銀灯の淡い光に照らし出されていた石柱は、由香里の記憶にあるそれとは多少違和感があった。
原因はすぐにわかった。
石柱にはめ込まれている、この施設の名前を書いた青銅製のプレートが、新しくなっていたのだ。
そしてそれは、由香里が知っている名前とは、幾分内容を異にしていた。
由香里の疑問を見抜いているかのように、典子が小さく微笑んだ。
「それ――、ちょっと新しくしてみたの。どう?」
「名前、変わったんですね。『慈恵館』じゃなくて・・・・・・」
由香里が言うと、典子はそっと目蓋を閉じ――、また開けた。
言った。
「館長先生の提案でね、その字を使うことにしたの。読みはいままでどおりなんだけれどね」
「そうなんですか・・・・・・」
由香里が曖昧に頷いた、ちょうどそのときだった。
チャイムが聞こえた。
懐かしい、あの学校のチャイムだった。
それは、いつも変わらずに鳴り続けていた、時を告げる鐘の音だった。
桜の花びらとともに暖かい陽射しが舞い降りる春の日でも。
気持ちよく晴れ渡った空に太陽がじりじりと照り付ける夏の日でも。
色づいた草木が山を染め上げ葉を落としてゆく秋の日でも。
すべての世界を銀色に変えてしまう白い雪がしんしんと降る冬の日でも。
その鐘の音は、聞こえていた。
大気をわずかに振動させて。
鐘の音が聞こえた。
それは、終業のチャイムの音だった。
「――もうこんな時間? ごめんなさい典子さん、遅くまでつきあわせちゃって。わたし、そろそろ行きますね」
由香里が腕時計を見ながら言った。
典子は少し寂しそうに、「そう」と言った。
「もう少し時間ができたら、またきますね」
由香里の言葉に、典子は曖昧に微笑んだ。
言った。
「楽しみにしてるわ。子供たちも、喜ぶと思う」
「それじゃ――」
そう言って背中を向けようとした由香里を、「ちょっと待って」と典子が呼び止めた。
由香里が不思議そうに振り返ると、典子がゆっくりと右手を差し出した。
どう見ても、握手を求めているようだった、それは。
「また、いつか会いましょうね」
典子が言った。
「あ・・・・・・はい、もちろん」
少し怪訝に思いながらも、由香里は典子の手を握った。
まるで母親の手を握っているように柔らかく、そして温かかった、典子の手は。
そしてその手の平の一部分に、冷たい感触があった。
典子が不意に手を離した、言った。
「それは、あなたが持っていて。あたしには、もう必要ないものだから」
見るとそれは、由香里が典子に渡したあの三角形の金属片――ギターピックだった。
驚いて典子を見返した由香里に、典子は優しく笑いかけた。
そして言った。
「あたしの夢は――、もう、終わったから。だからあたしには、もうそれは必要ないの」
「・・・・・・」
由香里は黙っていた。
口を挟んではいけない気がした、なぜだかわからないけれど。
典子が続けた、暖かい笑みを浮かべたまま。
「終わらない夢があったら、ひとってずーっと幸せなのかもしれないけれどね」
典子の言葉が、涼しい風に乗って流れていく。
もし、由香里が非常に鋭い感覚の持ち主であったとすれば、また典子の表情が暗闇に隠れていなかったとすれば、典子の言葉には、いささかの憂いが含まれていたことに気がついたかもしれない。
典子が続けた。
「でも、終わらない夢なんてありえないから。あたしたちはいつか目覚める、そして歩き続けないといけないから・・・・・・」
典子が由香里の瞳をじっと見つめた。
とても、真剣な表情だった。
だから由香里も、目をそらさずに見返した、典子の黒くて美しい瞳を。
「この世界を終わらせるのことも、新しく作りなおすことも、あなたなら――あなたたちならきっとできる、あたしはそう信じてる」
そう言って、典子がにっこりと笑顔を見せた。
それで、由香里は、はっとした。
その笑顔が、あまりにもしあわせそうだったから。
典子の唇がゆっくり動いた。
「ぜったい、しあわせになってね・・・・・・」
それは、まるでこの夏の夜空のように、澄み渡った声だった。
意識しないうちに、由香里は右手を胸元に当てていた。
手の中にはもちろん、薄汚れた銀色のギターピック。
その金属片をきゅっと握りしめ、由香里は言った。
「はいっ。わたし、ぜったいしあわせになりますから! 典子さんに負けないくらいに!」
そうして深く頭を下げた。
涙を見られなくなかったのかもしれない、わからない。
ほんのわずかな沈黙が流れた。
由香里はふと、不思議に思った。
なぜ、典子はこんなことを言ったのだろう?
それは――まるで――。
「・・・・・・」
由香里が、ゆっくりと頭を上げた。
窓から温かそうな光が漏れる養護施設の正門、その近くに植えられている桜の木の下には――。
そこにははじめから誰もいなかったかったように、夜気を匂わす風が静かに通り過ぎていた
夜風がさわさわと桜の木の葉を揺らしていた。
輝度を増した白熱灯が、スポットライトのように朽ちかけた正門の両脇の石柱を照らし出していた。
由香里は、その石柱にはめ込まれている青銅製のプレートに目をやった。
『時慶館』
いま生きている、この時間を慶びなさい。
いま生きていられる、その事実を慶びなさい。
いまという、慶びに溢れた時間を過ごしなさい。
いまを、慶びに満ちた時間にしなさい。
それと同時に――。
自分のもっとも信頼できる友人を・・・・・・親友を作りなさい。
自分が愛するものが傷つけられたときにはじめて怒り、そして自分の愛するものを守り続けなさい。
そういう意味が、込められていた。
けれど、由香里にはわからなかった。
この短い言葉に、どれほど多くの想いが込められているのか。
このたった数文字に、どれほどの時間の流れが込められているのか。
そうして――。
なぜ、この字が使われているのか。
スポットライトに照らされたその青銅版には、それだけ多くのものが、多くの願いが、希望が、込められていた。
静かに吹く風が、由香里の髪をなびかせた。
電球の光が漏れる窓の向こう、涼しい風に混じって、楽しそうに笑う子供たちの声がわずかに聞こえた。
由香里はしばらく、じっとそれを見つめていたが――。
やがて、くるりと踵を返すと、街灯が等間隔に照らし出すその道を歩きだした。
健司たちが去っていったのとは正反対の方向へ向かって。
それぞれ別々の道の上を、ゆっくりと、けれどずっと、まっすぐに。
その手の中に、銀色に光る、小さな思い出だけを握り締めて。
道はまだ、続いている。
遥か彼方――無限の終わりに向かって。
そしてその道の上を、自分たちは懸命に歩いている。
急ぐことはない、道草を食ってもいい、遠回りをしてみてもいい。
平坦な道ではないかもしれない、いつかは壁に突き当たってしまうかもしれない、ひどい上り坂になるかもしれない。
けれど、それでも――。
一歩一歩ゆっくりと、けれど確実に、歩き続けなければならない、わたしたちは。
それぞれの思い出をその手に抱いて。
多くの人に支えられながら、それでも自分ひとりの脚で。
道はまだ、続いている、どこまでも、いつまでも――・・・・・・。
【 終幕 】
BATTLE ROYALE 2 【完】