瓜と夕顔 


冬瓜・ゴーヤ・ズッキーニ・へちま、これらの、うり科の実の中で、食べたことのあるのは、冬瓜だけである。ズッキーニはどんなものか、見たかもしれないが思い出せない。

へちまは、へちまのたわしが頭に浮かぶくらいで、その若い実が食べられるというのは知らなかった。へちまの茎から取る液が化粧水になる、ということを覚えているから、どこかで聞いたのであろう。

私の実家では、普通の瓜しか作っていなかったので、ここに上げたうり科の実は、実家に居たころには見たことはなかった。

結婚してから、ひき肉や小さく切った椎茸と一緒に煮た冬瓜が、年一度度食卓に上った。冬瓜は貰い物で、貰うのは1個ということはなかったから、残りはどうしたのだろう。買ってまで食べようという気のなかった妻は、誰かに廻したか、こっそり始末したのか、とにかく、年に一度しか食卓に上ることはなかった。

煮た冬瓜の味は誰でも知っているから、私が解説をすることはないが、普通の瓜も煮たものは、冬瓜のような味と歯ごたえになる。すまし汁の具として子供のころ食べた記憶がある。あまり頻繁ではないが、子供のころは、自給の野菜がそういう形で食卓に上った。

昔は、直径が8センチ、長さが25センチもある瓜もあって、皮をむき種を取り除いた、2センチくらいの厚さの果肉が、一口大に切られ、半透明な具となってお椀によそわれた。

今の瓜は、成長途中で切り取られたような、細く果肉の薄いものが主流で、味も早熟の青臭さがある。これではすまし汁の具にはならない。瓜はどうしてこんな形でないと売れなくなってしまったのであろう。実家の畑にも、この成長途中で切り取られるような瓜が栽培されている。

今年で8年目になるが、9月になると、新潟県の妙高高原へ2泊3日のゴルフツアーに出かける。友人の実家は、スキー客の泊まる旅館で、そこに泊まって、夜はお酒で寛ぎ、昼はゴルフを楽しむ7人のツアーである。

この旅館で出される料理には、刺身や肉も盛られるが、自給の野菜が彩りを添えている。最初、これは冬瓜だ、と言って箸をつけたら、それは夕顔ですよ、と友人の母親が教えてくれた。夕顔は冬瓜と全く同じ味と歯ごたえで、私にはその区別がつかない。この夕顔の果肉を薄く削いで乾燥させたのが、かんぴょうだそうだ。かんぴょうも、あまり巻き寿司を食べない私には、夕顔の果肉同様縁は薄い。

妙高から名古屋へ帰る日の朝、友人の母親に階下の倉庫へ呼ばれ、直径15センチ、長さ30センチほどの、青白い夕顔の並べてある棚から、美味しそうなものを、土産にと選んでくれる。私は貰って帰っても、自分で煮なければならないから、丁重にお断りするが、2つ3つと、車に積む人もいる。

瓜や茄子にトマトなどは、ハウス栽培で、1年中店頭に並び、季節感がなくなって久しい。冬瓜や夕顔は、まだハウス栽培はされていないらしく、時期になると店頭に出て、年に一度くらい旬を味わおうと買い求める人もいる。冬瓜や夕顔は、まだ季節感を失ってはいないが、その存在感は次第に薄れてゆくような気がする。

課題「冬瓜・ゴーヤ・ズッキーニ・へちま」より(2006-6-30)


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