紫の上の時空旅行



  西の空を美しい夕焼けが彩り、そろそろ本日も暮れようとしていた。
 侍女の茜(あかね)との雑談にも飽きて少し溜息をつく私・・・
「殿は本日もお越しにならない・・・」
 そう、源氏の君はもう4日連続で私のところにはお泊りになりません。
 茜の話では、最近は花散里(はなちるさと)の方のところに入りびたりとか。
 このような際、以前は一晩中溜息ばかりで眠れぬことも多かった私だったが最近は・・・
 私は静かに立ち上がり、隣の自室へと向かった。
 ここは、私の秘密の部屋・・・
 私と2人の侍女のほかは、何人たりとも(源氏の君さえ)決して入れはしない。
 部屋の中には、侍女の梢(こずえ)と楓(かえで)の他、いくつかの機械が並んでいる。
 そして私は、いつものように機械に向かい・・・
 そんな私の心に、ふと疑問が湧いた。
 私、いつからこのようなことを?
 そう、あれは2ヶ月ほど前だったか・・・

 普段のように茜や他の侍女たちと雑談していた際、なにやら気が遠くなったような感じがして、ふとわれに返ると目の前に見知らぬ2人の侍女が静かに座っていた。背の高い方が口を開いた。
「突然、驚かせて申し訳御座いませぬ。私、梢と申します。こちらの楓と共に、紫の上様にお会いしたくて、やってまいりました」
 そして、背の低いほう(楓という名前なのだろう)が続けた。
「信じられぬかも知れませぬが、私共は未来の世界の住民で御座います。われわれは、自由に時空(時と空間)を移動できるので御座います。そう、物語の中の世界にも・・・」
 今度は、梢が話した。
「源氏物語のヒロインの紫の上様がどのような方なのか、直接お話したくなったので御座います。想像以上に気品に溢れたお方で感動致しました」
 目が点になったままの私はやっと口を開いた。
「あなた達、この警備の厳しい屋敷にどのように?」
 楓が答えた。
「先ほど申しましたように、私共はどこにでも移動できるのです。この居間にも突然やって参りました。もっとも大声などを出されては困りますので、特別な方法で皆様に一度眠っていただいて、紫の上様だけをお起こししたので御座います」
 私は、慌てて左右を見た。なんと、茜や他の侍女たちが皆、床に伏せて眠っていた。
 まだ信じられない私は、2人に曲者なら知らぬようなことをいろいろ質問してみた。例えば、私の父の官職や私と源氏の君が結ばれた経緯などを。
 しかし、2人は正確に答えた。微笑を浮かべながら、梢が言った。
「私共は、源氏物語が大好きで何十回と読んでおります。なかでも、紫の上様にあこがれております。もちろん、申し上げは致しませぬが、紫の上様の没年齢も存じております」
 混乱したままの私であったが、もう信じる他はなかった。そして楓が言った。
「私共を、この世界で紫の上様に仕えさせては頂けませぬか? 未来の道具もお持ちしますので」
 未来の道具? それは、面白そう・・・
 と、私は思った。この時代には存在しないものを見れる・・・
「しかし、新参の者を私の部屋の侍女にするのはとても無理・・・」と、答えると梢は、
「失礼ながら、源氏の君や他の侍女の方々の記憶を少し操作致します。皆様には、私共が古参の侍女にしか見えませぬ。ご安心下さいませ」と言った。
 そして、いつのまにか2人は当然のように私の侍女となっていて、2人だけが私の部屋に入れることになっていた。

 部屋の中には、鉄とも青銅とも異なる材質の機械が2つ置かれている。これは、梢と楓が未来の世界から私のために持って来てくれた物。
 大きい方は自動発電機というもので、小さい方はパーソナルコンピューターという名前らしく、どのような理屈で動作するのか私には全く理解できなかったが、梢と楓は丁寧に使い方を説明してくれた。
 これを使うと後世のホームページというものを見ることが出来、毎夜のごとく楽しんでみている。
 このような楽しみを覚えてしまった私・・・
 源氏の君がお越しにならない夜に溜息ばかりついていた私の生活は、大きく変化した。理由は違えど眠れぬことは同じだったが・・・
 殿(源氏の君)も私が以前ほど寂しそうでないのを見抜いておいでで、ますます他の妻のところにお泊りになることが多くなられた。
 いけない。夫婦の断絶が・・・ でも私、もうコンピューターのない生活は出来ない・・・と、考えたりもしますが、殿がお越しになればそんなことなど忘れて戯れる私です。
 このような生活をしているうちに、私が未来の世界を直接見てみたくなっても不思議ではありますまい。
 そして今夜、ネットサーフィンとやらをしながら、梢と楓に時空旅行を頼んでみた。
 2人の表情に明らかに困惑の色が見られたかと思うと、梢が口を開いた。
「本来、過去の方、まして物語中の方を未来へお連れすることは出来ませぬ。もし、そのようなことをして露見すれば、私共は処刑されてしまいます。なにとぞご容赦を・・・」
 落胆した私を見て楓が言った。
「梢、露見しなければいいのだから、私たちの時代でなく他の時代へお連れすることは出来ないかしら・・・」
 私は、嬉々として、
「もちろん貴女達の時代でなくても、連れて行ってくれるだけで私は嬉しい・・・」
 と答えた。しばらく考え込んでいた梢は、長い髪をかきあげながら言った。
「承知致しました。但し、時空移動の秘密だけはお教えできませぬので、その都度、一時的に眠って頂かねばなりませぬが、ご了解頂けますか?」
 私は、若干の恐怖を感じて尋ねた。
「眠るって・・・ 私を殴ったり、首を絞めたりす・る・の?」
 一寸、声が震えた。
 楓は笑い出しそうになるのを堪えている様子だったが・・・
「そのような乱暴なことは致しませぬ。これを、一寸使うので御座います」
 と言いながら、懐から金属質の筒のような物を取り出した。蓋のところに、妙な形のものが付いていて、現代の方々が見れば「殺虫スプレー」だと思いそうな代物だった。
 楓が説明を始めた。
「これには、一瞬にして意識を消失させる薬が入っておりまして、この上のところを押すと噴き出すので御座います。決して、他の影響があるとか2度と目覚めないというようなことは御座いませんので、安心して下さいませ。ちなみに、私共自身にはこの薬は効きませぬ。時空旅行中に、私共の姿を見られたくない相手に出会った際のために、いつも持ち歩いているので御座います」
 私は、まだ怖かったので念を押した。
「本当に大丈夫なのね? それで眠らされても・・・」
 小さく頷いた梢が答えた。
「はい、大丈夫で御座います。覚えておいでですか? 私共が紫の上様に始めてお会いした時に、既に一度使わせて頂いております」
 私はなるほどと思い、茜達が眠っていた状況を思い出した。あの時、私も眠ったらしいがその自覚がない。茜達も程なく覚醒したが何事も無く、自分達が眠らされていたことにさえ、全く感づいていない様子だった。そうならば、全然怖くない。
「承知したわ。どの時代に連れてってくれるのかしら?」
 私は、すごくウキウキしていた。楓が言った。
「先ずは、このコンピューターが発売されている時代へ行ってみませぬか?」
 私は大きく頷いた。
「では、お連れ致します」
 と言うなり楓は、先ほどの筒を私の方に持ち上げて上のほうを押したように見えた・・・

「無事、到着致しました」
 梢の声がして私は目を開いた。思わず、
「何者!」
 と、叫んでしまった。目の前に梢と楓がいたのなら驚きはしない。しかし、そこにいた2人の若い女は・・・
 1人は、赤茶けた髪、両肩を出した薄い布の服を着て、下半身と両脚は濃い青色の硬そうな布で覆われていた。
 もう1人は、黄金に近い色の髪、肩こそ覆われているもののやはり薄い布の服、そして下腹部は他の1人と同じような材質の桃色の布で覆われていたが、なんと両脚は素肌だった。
 赤茶けた髪の女が言った。
「驚かれるのは当然で御座いますが、大声は出さないで下さいませ。梢で御座います。お分かりになりませぬか?」
 両脚を曝している女が続けた。
「楓で御座います。時空旅行の際には、その時代に合わせた外見になる必要が御座います。この時代では、このような姿が珍しくないので御座います」
 私は、肝を潰しながらも2人の顔をじっと見た。確かに、梢と楓だった。とすると、私も・・・
 そう、着慣れた十二単の感触が無い。思わず、自分の体を見た。髪は後ろで縛られているらしい。やはり、薄い布の服になっていたが、2人とは違って胸の前で合わせる構造になっている様子。下半身は、赤い筒状の布で覆われていて、膝から下は素肌だった。何という姿だろうと思ったが、これがこの時代の服装ならば仕方が無い。そこで、訊ねた。
「眠っている間に、着替えさせたのね?」
 梢が答えた。
「左様で御座います。失礼ながら、裸体も見させて頂きました。本当にお美しくて感動致しました。お肌もとてもつやがありますし・・・」
 楓が続けた。
「私共の時代では、環境が汚れておりまして、とてもそのような美しさは保てませぬ。同じ女として、本当にうらやましゅう御座います」
 私は、頬が赤くなるのを感じた。口ごもりながら、
「そんな、恥ずかしい・・・」
 と言った。それよりここは一体・・・部屋の中であることは確かだが・・・
「ここは、どこなの?」
 微笑んだ楓が答えた。
「東京と申すところで御座います。紫の上様の時代では武蔵の国の田舎で御座いますが、この時代では最も栄えている土地で御座います。丁度、誰も住んでいない部屋を見つけて移動して参りました」
 今度は梢が言った。
「そろそろ、街を御案内致しましょう。驚いた声をお出しにならないように、くれぐれもお願い申し上げます。外では、これを履いて下さいませ。ミュールと申します」
 目の前には、不思議な形の履物が置かれていた。楓が口を開いた。
「服装の名前も簡単に申し上げておきます。梢は、タンクトップにジーパン、私はTシャツにホットパンツ、紫の上様はブラウスにミニスカートで御座います」
 耳慣れない名前を聞いても何も覚えられなかったが、とにかく私達3人はミュールというものを履いて外へ出た。外は、とても夏の光がまぶしかった。
 確かに、街を歩いている若い女達は、私達と大差の無い服装だった。しかし、このミニスカートというもの、太腿の内側まで風が入ってきて何か落ち着かない。この時代の女は、これで平気なのだろうか・・・ おまけに、ミュールというのも歩きにくい。地面も土ではなく、何やら硬いものだし。
 第一外を歩くこと自体が、少女の時以来だった。最近の外出は常に牛車で、外の景色も殆ど見てはいない。私は、開放感に浸っていた。青空を見上げながら歩けるなんて幸せ・・・
 ふと、私は悟った。すれ違う男達の視線に対して自分が全く無防備であることを・・・
 そう、父と祖父そして源氏の君以外の殿方には決して顔を見せたことは無い。それが、今は見られ放題だ。急に視線が気になりだした。顔ではなく、胸や脚を見ている男もいるようだった。怖くなった私は、思わず長身の梢の後ろを歩いていた。私の意図を察した楓が、小声で話しかけてきた。
「耐えて下さいませ。時空旅行の旅先に溶け込むには、そこの人々に合わせるしかないので御座います。見られているのは、私共も他の女性達も同じで御座います。ただ・・・」
 楓は声をさらに潜めて、
「紫の上様の美しさは際立っておられますので、多くの男性の視線を集めやすいかと存じます。どうか、気づかぬ振りをなさっていて下さいませ。慣れれば、自然に無視できるようになってまいります」
 私は、小さく頷いて再び3人並んで歩き始めた。出来る限り、人間以外に注意を向けるようにして・・・
 当然ながら見るもの全てが驚きの連続だった。私の時代と共通するのは、空と一部の植物程度しかなかった。その度に質問する私に梢と楓は丁寧に答えてくれた。確かにこの時代は、私の時代に比べてずっと文明が進歩しているようだった。でも、私の時代のほうが何かほのぼのとしているような感じがし、この鉄筋コンクリートとかいう材料の建物ばかりが並んでいるせいか、この時代が少し殺風景に思えたりした。そんなことを話すと、梢は
「田舎のほうへ行けば、木造の建物も自然の風景もまだまだ保たれております」
 と答えたが、その表情は少し寂しそうであった。私は、理由を尋ねた。すると梢はこう答えた。
「私共の時代は全てが機械化されておりまして、自然などなにもありませぬ。確かに生活は便利ですが・・・ 例えば、人間の生存には酸素という大気中の成分が必要で御座いまして、本来それは植物が提供してくれるもので御座います。しかし、私共の時代には植物などほとんど残っておりませぬ。従って、酸素製造工場なるものが作られておりまして、酸素は街の至る所から噴き出しております。まさしく人間は、機械によって生かされている状況で御座います」
 私は、自分の表情が暗くなるのを感じた。文明が進歩すれば、いいことばかりだろうと思っていたがとんでもない。
 私は絶対そんな時代には住みたくない。 
 と思った。楓が続けた。
「そのかわりに、私共は自由に時空を移動できる技術を持っております。いつでも、過去の世界に旅立って自然や野生動物を楽しむことが出来ます。ただ、最近はそのまま過去の世界に住み着いて帰って来ない者が、珍しくありませぬ。実は、私共もこのままずっと、紫の上様にお仕えする所存で御座います。今後とも、よろしく・・・」
 突如、話を中断した楓はいきなり私と梢を突き飛ばした。吹っ飛んだ私が見たものは、反対側に飛び退いた楓とその間の空間に突っ込んできた金属質の塊だった。
 何、これ? こんなのに体当たりされたら死んだかもしれない。
楓は、その塊に向かって何か怒鳴っていた。一部に透明な部分があって、中には人間がいるようだった。立ち上がった梢が、私を起こしながら言った。
「これは自動車と申しまして、機械で動く牛車だと思って下さいませ。もちろん、牛車よりはるかに速いですが・・・ ぼんやりしていて、申し訳御座いませぬ。楓が察知して突き飛ばしてくれなければ、少なくとも大怪我を負い、悪ければ昇天したかもしれませぬ」
 自動車から出てきたのは、禿げた初老の男だった。男は、私達3人に何度も謝罪した後、再度自動車とやらを動かして立ち去った。楓が、私に頭を下げながら言った。
「乱暴なことをして、誠に申し訳御座いませぬ。歩行者天国の端まで来ていたことをうっかりしておりました」
「歩行者天国?」
 私は尋ねた。楓は答えた。
「私共が今歩いておりますのは、本来は自動車が通る場所なのですが、時に自動車の通行を禁止して歩行者に開放することがあるので御座います。しかしここは、その端の辺りで御座いますので間違って自動車が突っ込んでくることも有り得るので御座います。本来ならばあの男、酒の臭いもしておりましたし、警察というところに突き出してもかまわないので御座いますが、この時代に籍の無い私共がそのような行為をするとやっかいなことになりますので、今回は見逃すしかありませぬ」
 私は、少し痛む腰をさすりながら楓に礼を言った。
「有難う、楓。一つ間違ったら死んでいたのだから、命の恩人よ」
 楓が首を振りながら答えた。
「とんでもありませぬ。うっかりしていた私共の落ち度で御座いますから。自動車というものの存在すらご存じない紫の上様には、全く予測不能のことで御座いますし・・・」
 今度は梢が頭を下げながら言った。
「言い訳になってしまうかもしれませぬが、私共の時代にも自動車に該当する乗り物がたくさん御座いますが、いずれも空中か地底を通っておりまして、地上は歩行者のみで御座います。従って通常の歩行時には、自動車などに注意を払う必要が御座いませんので、うっかりしてしまったので御座います」
 私は、2人にそれ以上気にしないように告げた。
 2人は微笑を返してくれた。私は頷きながら、何気なく周囲を見回した。
 ふと、少し離れた木の下に立ち止まっている若い女が私の目に留まった。私が気になったのは、服装と髪の色が楓とよく似ていることではなく、その女が1人でいるにもかかわらず、急に笑ったり何かを言っているように見えたことだった。
「変な人がいるわね」
 梢と楓に言い残した私は、そっとその女に近寄った。彼女は、私に気づく様子も無く同じ行動を続けていた。私は、彼女が独語して、1人笑いをしていると確信した。いつのまにか横に来ていた楓が、耳元で小さく囁いた。
「彼女の左手をよく見て下さいませ」
 彼女の右前方にいた私には少し見難かったが、どうやら左手に何かを握って頬の辺りにあてがっているようだった。楓が続けた。
「あれは、携帯電話と申しまして、遠く離れた人と会話できるので御座います。この時代の若者の殆どが持っております」
 つまり彼女は、誰かと楽しい話をして笑っているだけなのらしかった。彼女が、曲者をにらむ様な表情になっていた私に気づかなくてよかった、と感じた。
 しかし、楓はさらに続けた。
「じつは、これも問題なので御座います。あれが普及する前は、各自の家庭の電話を使用しておりました。その頃は、子供が他の子供に連絡する際は、まずその家に電話を掛けて、親に取り次いでもらったので御座います。そうすると、自分の目的の相手と会話する前に、まず他の大人と話さねばならないことになり、これが礼儀や話し方の練習になるので御座います。ところが、携帯電話ならいきなり目的の相手と会話できます。すなわち、特定の相手としか会話しなくても事足りてしまうので御座います。この時代の子供の中には、親・親戚・学校などの教師以外の大人とほとんど会話した経験のない者が多いので御座います。その結果、特定の人間以外との関係をうまく構築できない者が多くなり、全体的にこの時代の人間関係は希薄になっております。さらに、この時代にはゲーム機というものが普及しておりまして、家にこもって1人で遊ぶ傾向がみられます。これも、人間関係の希薄化に拍車をかけており、この時代には理不尽な犯罪の増加が見られるので御座います。私共の時代では、さらに酷くなっておりますが・・・」
 私は、呆然とするほかはなかった。
 追いついてきた梢が、尋ねてきた。
「驚くことばかりで、お疲れではありませんか?」
 確かに疲れている。履きなれない履物のため、足も痛む
 しかし疲れたといえば、帰りましょうと言われる気がした。
 せっかくこの時代に来たのだから、もっともっといろいろな物を見て、新しい体験をしてみたい・・・
 だが、何も答えないうちに楓が言った。
「そろそろ戻りませぬか? まもなく夕刻で御座いますし・・・」
 私は当然渋った。
 すると2人は、また私を時空旅行に連れて行くことを約束してくれた。
 それなら、かまわない。
「了解したわ。今日は帰りましょう」
 と、私は答えた。
「では、人のいないところに移動しましょう」
 梢の言葉に従って、私達3人は細い道に入った。誰もいないようだった・・・
 と、突然物陰から3人の若い男が出てきた。
 その中で、背の高い細身の男が声をかけてきた。
「君達、どこいくの? よかったら、俺たちと遊ばないか?」
 口から、嫌な臭いがしていた。後で梢達から聞いたのだが、タバコというものの臭いらしい。とにかく私は唖然として、声も出なかった。楓が小声で囁いた。
「ナンパで御座います。この時代の男は、しばしばこうして女を誘うので御座います。もちろん、相手にしないに限ります」
 私達は、3人の男を無視して通り過ぎようとした。
 が、男達は素早く私達を取り囲んだ。太った丸顔の男が言った。
「逃げないでよ。俺たちはさっき馬券で大儲けしてリッチなんだ。楽しく遊ぼうぜ」
 馬券とかリッチとかの意味を、楓は私の耳元で説明してくれた。
「何、ゴチャゴチャ言ってんの? おごってやるから付き合えよ」
 もう一人の、目のところに妙なものを付けた(これも後で聞いたのだが、眼鏡というものらしい)男が、少しきつい口調で言った。
 私は恐怖で全身が震えるのを感じた。殺されるかもしれないとまで思った。
 梢は、背筋を伸ばし男達をにらみつけながら言った。
「悪いけど私達、急いでるの。そこを通してもらえない?」
 背の高い男が答えた。
「そういう気の強い女の子も大好きだな。でも君もいいけど、俺は特にそのミニスカートの子と仲良くしたいな」
 何と、私を指差している。私の恐怖は絶頂に達した。
 実際は取り囲まれていて逃げられないが、もし逃げられる状況でも足の震えが酷くて動けない感じだった。今度は太った男が口を開いた。
「ほう、趣味が俺と同じか・・・ 俺もその子が狙いなんだよ。さあ、怖がってないで遊ぼうよ」
 男は私の方に手を伸ばしてきた。私は肩をすくめて楓の陰に隠れようとした。
 が、梢が素早く私と太った男の間に立ちはだかった。
「この子に手を出したら絶対許さないからね。早くどいて!」
 急に男達の表情が変わった。背の高い男が怒鳴った。
「優しく声を掛けてればいい気になりやがって・・・ 痛い目に逢ってもらおうか!」
 というなり、男は右の拳で梢の水月を強打した。
 梢もいきなり拳が来るとは予想できなかったらしく、まともに突きを食らってしまい、声も上げずに道に崩れ落ちてしまった。
 今度は、眼鏡の男が楓をにらみながら言った。
「邪魔すると君も同じ目に遭うよ。どうやら俺達3人とも好みの子が一致したようだし・・・」
 そして太った男は、私に飛びかかろうとした。
 私は観念した。
 この3人に遊ばれた上にきっと殺される・・・
 こんな、誰も知り合いのいない時代で・・・
 ああ、あなた(源氏の君)、助けて・・・
「仕方ない」
 と、楓がつぶやくのが聞こえたような気がした。

「紫の上様、もう大丈夫で御座います」
 声が聞こえて、私は身を起こして目を開いた。
 そこは、見慣れた自分の部屋で、微笑んだ梢と楓が目の前にいた。
 服装もいつもの姿に戻っている。
「えっ、私・・・ 夢、見てたのかしら・・・」
 梢は静かに首を振って答えた。
「いいえ、全て現実で御座います。予想しない事態になりましたので、いきなり時空を飛ぶことになって驚かせてしまい、申し訳ありませぬ」
 私は記憶をたどった。男達に襲われそうになったことを明確に思い出したが、その先の記憶が無い。そこで、尋ねた。
「私達、どうやって逃げて来たの?」
「これで御座います」
 答えながら楓が、懐から筒のようなものを取り出して見せた。例の筒だった。
 そう、人の意識を一瞬で失わせる薬の入ったあの筒だった。
「成る程ね。それを使ったわけね・・・」
 頷いた楓はさらに状況を説明した。
「本来この薬は、時空移動の際の問題予防以外には、使用を禁じられております。しかしあの状況では、本当に殺される可能性も御座いましたので、やむを得ず使ってしまいました。男達は、即座に眠って道に転がりましたので御座います」
「で、当然私も眠ったわけね?」
 私の質問に、楓は答えた。
「左様で御座います。もちろん、紫の上様のお体が道に崩れ落ちることの無いように、私がしっかりとお抱え致しましたが・・・ そして梢が立ち上がるのを待って、帰ってきたので御座います。予告も無く、紫の上様に眠っていただいたことには、深くお詫び致します」
 頭を下げた楓に、私は言った。
「そんなこと・・・ 助けてくれたのだから・・・ それに帰ってくる際には、結局眠る必要があるわけだし・・・」
 そこまで言って、私は梢が男に当て身を食わされたことを思い出した。
「そんなことより、梢は大丈夫なの?」
 と、尋ねた。梢が答えた。
「まだ少し痛みますが、大丈夫で御座います。まともに食らってしまいましたので、しばらく息が詰まってしまい動けませんでしたが・・・ 油断いたしました。申し訳ありませぬ」
「梢、謝らなくていいのよ。とにかく、3人とも無事だったからよかったじゃない」
 と、言いながらも私の頭に大きな疑問が浮かんだ。
「でも、どうしてあなた達にはその薬は効かないの?」
 梢は、その疑問は当然という表情で答えた。
「私共は、その薬を無効にする薬を毎日飲んでいるのです」
「毎日?」
 驚いた私に、楓が語った。
「時空旅行の緊急時以外使用禁止の規則は御座いますが、私共の時代にも違反して悪用しようとする者がいるので御座います。盗みとか、かどわかしとか・・・」
 梢が続けた。
「ですから、自分の身を守るためにも、これを毎日飲み続ける他はないのです。効き目は1日しか続きませぬし。今の所、害はなさそうですが・・・」
 私は唖然とした。
 いつ誰かに突然意識を奪われて何かをされるかもしれない世界。
 護身のため、毎日薬を飲まなければならない世界。
 何てとんでもない世界なのだろう。
 今日ほど、この時代に生きている自分を幸せと感じたことは無い。
 思わず、つぶやいてしまった。
「文明って、何のために進歩しているのかしら・・・
それじゃ、人間のためになってない」
 寂しそうな表情になった楓が口を開いた。
「一度、ゆがんだ方向に向かいかけた流れは簡単には変えられませぬ。文明は人間が作るもので御座いますが、いつのまにか文明の方があたかも意志があるように暴走を始め、人間の方が翻弄されてしまったので御座います。先刻、お連れした時代にも既にその傾向が芽を出しかけているので御座います」
「どんなふうに?」
 思わず訊いた私に、楓は続けた。
「あの時代では、石油というものが大量に使われております。例えば、このコンピューターなどにも石油を材料にした部品が多数含まれております。石油の発見自体は大変な『文明の進歩』をもたらしたので御座います。しかし、それにより空気などの環境は汚され、人々の健康が脅かされているので御座います。しかし、石油の使用は大変便利で御座います。一旦、便利なものを入手した人間がそれを手放すことは出来ませぬ。また、それによって金を儲ける事の出来る人は絶対にやめられないので御座います。自動車などの交通機関が発達し、さらに環境汚染と自然破壊が進みます。しかし、人間が『便利』を追求する限りこの方向性は変化いたしませぬし、追求するのをやめることも不可能なので御座います。まさに、人間が文明に踊らされているので御座います」
 ため息をついた梢が付け加えた。
「その結果が、私共の時代で御座います。間違いなく、全てが『便利』で御座います。しかし、自然などかけらもなく、ほのぼのとするものが何も御座いませぬ。過去への旅行のみが、心を癒してくれるので御座います」
 暗澹たる思いになった私の頭に新たな恐怖がよぎった。
「一寸待って。だったら、もっと将来の時代は・・・ どうなってるの?」
 楓が答えた。
「未来への旅行は、禁止されているので御座います。私共の時代には、時空警察という組織が御座いまして、時空旅行者を厳しく見張っております。過去に関しては自由に旅行してもあまり監視されませぬが、未来へ旅立とうものならたちどころに捕縛され、過失であることを証明できない限り、確実に処刑されるので御座います。ですから、未来を見たものはおりませぬ」
 暗い表情の梢が続けた。
「正直に申しまして、私は万一許可があっても、未来を見たくありませぬ。嫌な予感がするのみで御座います。おそらく政府も、未来を見て帰ってきた人間がいれば人々が恐慌状態に陥ることを予測して、あのような組織を作ったので御座いましょう」
 そして、突如目を見開いて、こう続けた。
「ですからこそ、紫の上様の時代に住み着きたいので御座います」
 その時、外から茜の声がした。
「紫の上様、殿のお越しで御座います」
 私は、急に自分の表情が明るくなるのを感じた。
 私はやっぱりこの時代がいい。殿がいらっしゃるのだもの。
 あ、でも、また時空旅行には行きたいけど・・・


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