BATTLE ROYALE 2
The Final Game




       [ Episode−2 ] Now 6 students remaining and...

          < 58 > エピソード(2)


  午前7時30分の時報とともに、台風一過の晴れやかな朝を象徴しているかのようなタイトル・ミュージックが流れ出した。
  画面にはコンピューター・グラフィックスで描かれた地球に、メイン・タイトルのテロップが映し出される――DHKニュース・おはよう大東亜。
  画像が転換され、スタジオが映された。
  右側に女性アナウンサー、左側に男性アナウンサーが座っており、画面下には【川名清江】【里見秀二】という白字のテロップが表示されていた。
 「おはようございます。6月15日木曜日、朝のニュースをお伝えします」
  里見アナが原稿を読み上げた。
  再び画面が転換し、記者会見のVTRが流れ出す。
  画面下側には【総統官邸報道記者クラブ】のテロップ。
 「まずはじめに、今朝7時に政府が行った“プログラム”に関する臨時記者会見の模様です」
  模様です、の『です』と被るように、画面中央に映し出された専守防衛庁長官の声が重なった。

 『えー、昨晩未明に行発生しました、えー、長野県某市街地の大規模な爆発火災の件につきまして、あー臨時記者会見という形で、えー政府の見解を発表します』

  そこで画面が転換した。
  ヘリコプターを使って上空から撮影されたと思われる映像。
  山に囲まれて盆地状になっている都市が全域に渡って真っ赤な炎で覆い尽くされており、日の出前の空を煌々と照らし出していた。
  上空では赤く塗装された防災消防庁の消火ヘリが消火活動を行っているが、専守防衛軍の攻撃ヘリ・AH-64アパッチがマスコミを威嚇するようにスパロー空対空ミサイルの弾頭を取材ヘリに向けていた。
  取材ヘリはスパローAAMの射程距離――約50キロメートル――をおいたギリギリのところからその光景を撮影していた。
  その映像と専守防衛庁長官の声が重なった。

 『え、先日から同市内にて実施しておりました、えー第68番プログラムにおいて・・・・・・まぁ不測の事態といいますか、参加選手の一部が我が国の国益を、えー著しく害する危険な行動を起こしましたので、その、政府としては断腸の思いで、あー今回の決断を下した次第であります。詳しくは本日8時に行われる総統閣下の演説において――』

  画面が転換され、スタジオの全景が映し出された。
  アナウンサーたちは一様に深刻そうな表情を張り付かせて、カメラに視線を向けていた。
 「えー、今朝は軍事評論家の富樫伸夫氏にお越しいただいております。富樫さん、どういうことなんですかねこれは?」
  映像がスライドし、川名アナの左隣に座っていた富樫氏のバスト・ショットが映された。
  画面下には【国防軍事評論家・富樫伸夫氏】という白いゴシック体のテロップが表示されていた。
 「いや、我々もなんと言っていいのか・・・・・・。まだ正確な情報公開がされていませんから、なんとも言えませんね。今日の、えぇ、8時ですか。総統閣下が演説をなさるそうですが、そこで詳しい発表があるんじゃないですか?」
  なるほどぉ、と大袈裟に頷く川名アナ。
 「えー、総統官邸と中継がつながっております。報道クラブの佐々木さん?」
  呼びかけるように里見アナが言った。

  再び画面が転換され、赤土色のレンガ造りの建物が映し出された。
  画面下には例によって【東京都千代田区総統府総統官邸】のテロップ。
  カメラが徐々に引いていき、画面右端からマイクを持った男性記者が現われた。
 『はい、報道クラブの佐々木です。現在総統官邸前にきています。えー、かなり厳重な警備体制が敷かれていて、えー我々取材陣も時間まで近づくことはできません』
  テロップが消え、画面右下に別枠でスタジオの映像が表示された。
  小さな画面の中の川名アナが、身を乗り出すようにして尋ねた。
 「現在のところ総統閣下の演説に関する政府の正式な会見はまだ行われませんか?」
  画面中央の佐々木記者が原稿の挟まったバインダーを持った右手で、自分の右耳のイヤホンを抑えた。
  半瞬遅れて、大きく頷いた。
 『はい、まだです。現在はどういう状況か、政府内でも情報管制がかかっていて詳しいことはわかりませんが、一体なぜ“プログラム”を中止せざるを得なかったのか、また完全に破壊された都市をどうするのか、10万人を超える住民に対する保障はあるのか・・・・・・などが今後の争点となってきそうです。総統閣下の演説ではそのようなことも含め、説明されるのではないかと――』




       §

  ぶつっ、と虫の潰れるような音とともに、50インチはある国内大手電機メーカーの大型平面テレビ画面がブラック・アウトした。
  リモート・コントローラーを巨大なガラステーブルの上に放り、石田克利(大東亜共和国総統・24歳)は、大きなリクライニング・ソファに深く腰をかけ、両手を腹の上で組みながら、ため息をついて視線を天井に向けた。
  暑すぎず寒すぎず、完璧に制御された空調設備が小さな音を立てていた。
  天井には、時代錯誤を思わせるようなクリスタルと黄金がふんだんに使われた豪奢なシャンデリアが吊られていた。
  総重量は1トン以上もあると言われている。
  もし地震でも起きてこれに潰されたら楽になれるだろうか、と石田は思った。
  しかし小さく首を振り、その考えを追い払った。
  石田は右手で少し襟を直しながら、もう一度小さく息を吐いた。
  正装をしているためか、どうも喉元が苦しかった。
  アイボリーホワイトのスラックスに鰐皮のベルト、黒を基調とした幹部用最上第一種軍装、襟元にはスラックスと同じ色のスカーフを巻いていて、頭にのせている総統帽からはおさまりの悪い黒髪がのぞいていた。
  襟元には専守防衛陸海空軍を統括する大元帥の証である桃の花をモチーフにした黄金の襟章、右胸元には5つ、左に3つの勲章がついているため、動きやすさを優先してデザインされた軍服はかなりの重さになっていた。
  本来ならばモーニングコートを着用しなければならないのかもしれないが、あの軍服よりもさらに堅苦しい礼服は石田の好みではなかった。
  それにしても眠い、と石田は思った。
  ほとんど徹夜で“プログラム”の管理をしていたのだから、無理もないことなのだけれど。
  エンジンを全開にして航行しているヘリの中で寝ることはさすがに無理だが、会議の前に少し仮眠をとっておけばよかったと、ちらっと後悔の念が頭をよぎった。
  石田が会場を離れてから2時間ほどで官邸に到着して、報道管制の特例の承認やら防衛軍との連絡やらで瞬く間に時間が過ぎた。
  もっとも、すでに議会で採決された書類に承認印を押すだけの仕事だったのだけれど(しかしその書類は200枚を悠に超えていた)。
  ようやく自室に戻って少し休めると思っていたのだけれど、いまのニュースを聞く限りでは、どうやらあと30分ほど後には演説をしなければならないらしい。
  そんなことは聞いていない、という文句は、どうせ受け入れられないだろう、と石田は思った。
  それはいつものことだった。
  そんなことよりも当座のところとにかく――眠い。

  シャンデリアを眺めながら、思わず小さなあくびを噛み殺した、そのときだった。
  コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
  石田がなにも言っていないのに、重厚な木製の扉が開き、こちらはしっかりとモーニングコートを着て鼻の下に立派そうな――しかし見方によってはむかし米帝で活躍した喜劇俳優にも見える――髭を生やした中年の男が入ってきた。
  その男の両脇には、専守防衛陸軍下士官用第一種礼装を身に纏い、銃剣つきの護衛銃を掲げた兵士が二人、付き添っていた。
  どうでもいいことだが、その銃は古くから使用されている三八式歩兵銃で、ここでは実戦を考慮したつくりではなく、以前から宮内の護衛兵士は三八式を掲げるという習慣があった。
  正装をした男が、最高級の皮靴の踵をかつんと合わせ、右腕を高く掲げる形で、最敬礼をした。
  兵士が担え銃の礼でそれに習い、靴底に鉄板を打ち付けた軍靴の踵がかちりと鳴った。
 「総統閣下の演説はあと25分後に開始いたします。こちらが参考書類です。目を通していただきたい」
  男がそう言って、金色の桃印がついた白い封筒を差し出した。
  ご丁寧にも、封筒の表面には『最上級極秘取扱注意』の印が押されていた。
  石田はそれを受け取り、軽く右手を挙げて返礼してから、微かに頷いた。
  言った。
 「わかりました」
  いつものようにすぐに出て行くと思っていたのだが、予想に反して男はその場を去ろうとはしなかった。
  堅苦しさを装ったその表情の奥、妙にぎらついた瞳がなにかを言っているようだった。
  石田は内心でやれやれとため息をつきながら、二人の護衛兵士に向かって言った。
 「任務ご苦労。もうけっこうです」
  兵士は再び担え銃で敬礼すると、背筋を伸ばしたままブリキのからくり人形のようにギクシャクとした動きで回れ右をして、部屋を出て行った。
  ギィ、と扉の蝶番が軋み、バタンという扉の閉まる音が奇妙に大きく響いた。
  広い部屋に、石田と男だけが残った。

 「どういうつもりかね?」
  先に言葉を発したのは、男の方だった。
  いままでの敬語が嘘のように、いきなり姿勢を崩して尊大な態度に豹変していた。
 「どういう・・・・・・と、いいますと?」
  石田は恭しく上目遣いで相手を覗き込んだ。
  相手の男は石田よりも背が低かったが、それで内心の優越感がわずかに刺激されたようだった。
  ふん、と鼻の穴を広げて息をつくと、言った。
 「なぜ君はあんなことをしたのだ? 我々はそんな指示を出した覚えはない」
  男の変わりように、石田は内心肩をすくめた。
  そんな指示を出された覚えもない、とでも言ってやろうかと微かに思ったが、いまさらそのような些細な反抗心を持っても無意味だと思い直し、やめた。
  思った。
  小学生を前に大人ぶった口調で説教をする中学生だ、まるで。
  真面目に相手をするだけ無駄というものだった。
  石田の無言を反省ととったのか、男はさらに尊大な態度で胸をそらせた。
 「君は、我々議会の指示に従ってさえいればいいのだ。官邸の外側の世界もあまり知らないくせに、よくもまああんな思い切った行動がとれたものだな。本来ならば厳罰ものだが・・・・・・」
  男は髭を整えながら、そう言った。
  石田は小さく頭を下げた。
  形だけだ、もちろん、首の体操とでも思っておけばいい。
  それから、言った。
  これはついでの口の体操。
 「勝手な行動だったということは認めます。寛大な措置に感謝します」
 「うむ。自分の身を案じるのなら、今後はあのようなことは慎みたまえ。こちらとしても、一国の指導者がちょくちょく変わるとあっては、国民の忠誠心に影響するのでな」
  本当に国民に忠誠心などあると思っているのか、石田はよっぽどそう言ってやろうかと思ったが、やはり、やめた。
  どうせ言っている本人もそんなことは微塵も考えていないに、違いないので。
  国民が政府に従っているのは、総統への忠誠心などではもちろんなく、ただ逆らえば武力を行使されるという恐怖感からに過ぎない。
 「ところで――」
  石田が言葉を紡いだ。
  ここでひとつ、ちょっとした反撃をしておくのも悪くないかもしれない。
  そう思っての行動だった。
 「これが今回の台本ですか? いつもに比べて薄いですね」
  石田は先ほど受け取った封筒をちょいと挙げた。
  兵士の前では参考書類などと言ってはいたが、なんのことはない、これは今日行われる演説で自分が読み上げるべき台詞を書いた台本にすぎなかった。
  いつもそうなのだ、演説の直前になって台本を渡して、その内容通りのことを言わせる。
  いつの頃からかは知らないが、石田が総統に就任(表向きは万世一系の世襲制度ということになってはいるが)させられたときには、すでに当然のようにそうなっていた。
  その言葉に、男は太く濃い眉の端をぴくっと動かした。
 「――あれだけの大事だ。議会とてそうそう容易な決定はできん。今回は暫定的な事柄を発表する演説しか予定しておらん」
  行き当たりばったりか、という言葉のかわりに、石田は小さくため息をついた。
  議会ではくだらない事柄すら決められないまま堂々巡りをして、結局泥沼状態のまま時間を費やしてしまったに違いない。
  最終的に決定したのは、『プログラムの廃止』というただそれだけのことだった。
  もう政府はプログラムの実施自体に何ら現実的な利益を見出せないでいたのだから、真っ先にこの『プログラム廃止事案』が可決されたのは納得できる。
  一部政府・軍部高官の間では、プログラムを賭博対象にしたゲームが行われていたが、そもそもそこで流通する金額などはプログラムの実施に必要な多額の資金(国防費ということになっているが)に比べればほんのわずかなものであるうえに、それで得をする者の人数も限られてくるため、そんな一部の人間の利益のためだけに税金を使うことが無駄だという考えにようやく至ったのだろう。
  だいいち、この国はすでにそんなことをしている場合ではなくなっているのだ。
  現在、大東亜共和国は米帝から流入した難民が原因で、各主要都市での人口が爆発的に増加し、それに伴い食料不足が起こり、経済が混乱してスタグフレーションが発生、凶悪犯罪や殺人事件が急増し、治安が極度に悪化していた。
  その対応に追われる警察力はすでに弱体化しており、警察公安庁は専守防衛軍に応援を要請したが、防衛軍の大半が旧米帝領への侵攻に駆り出されているため人的物的資源はゼロに等しく、そんな余剰兵力はないという理由で当然ながら専守防衛庁はその要請を拒否した。
  それに腹を立てた警察側は、挙句の果てには住所不特定者(いわゆるホームレス)の強制立ち退き、犯罪被疑者の可能性がある者――事実とは無関係に――は、裁判所の逮捕状なしにその場で逮捕、抵抗したものは容疑認知と公務執行妨害ということで、現場での銃殺が黙認されることになった。
  また、それが原因で存在意義を無くした司法力も衰弱し、何かしらの問題を起こしたものは最高裁判所はもとより、地方裁判所、家庭裁判所の一審から『極刑』を乱発するようになり、上告は一切認められなかった。
  それらは当然国民の反発を呼び、各地で大規模なデモ活動が展開されたが、現在のところはそれが大きくなる前に警察と出動命令を受けた防衛軍残留組の一部が暴徒鎮圧弾を群衆の中に撃ち込んで武力を誇示し、辛うじて押し止めているという状況だ。
  もちろん、利益を見込めないこの状況に各企業は操業を無期限で停止、そのため生産力は著しく低下して需要が供給を大きく上回り、また失業率は50パーセントを超え、さらに経済を圧迫することとなった。
  誰が見ても、この国の社会は破綻寸前だ、ということは明らかだった。
  いましかない。
  石田は思っていた。
  この国自体を変えることができるとすれば、国力が衰退しているいましかない。
  だからこそ、かなり無茶をしてまで下級兵士のふりをして、今回の“プログラム”に潜入したのだ。
  すべては石田の想定したシナリオだった。
  そしてこの演説で、石田の仕事は終わる・・・・・・はずだ。

 「そろそろ時間ですので、かまいませんか?」
  目の前にいる『政府高官の見本』とも言える態度の男に、石田は言った。
  言葉自体は丁寧だったが、その声からは敬意の感情は微塵も感じ取れなかった。
  男はかつてない意思のこもった石田の口調にやや気圧されるようにひとつ頷くと、こちらに背を向けた。
  無闇に豪華なつくりのドアノブに手をかけ――背を向けたまま言った。
 「わかっていると思うが、しっかりと台本を頭に叩き込んでおくんだ。いいかね?」
 「・・・・・・」
 「返事はどうしたか?」
 「わかっていますよ」
 「――ふん」
  男は荒い鼻息をひとつ残し、大股に部屋を出て行った。
  バタン、と扉の閉まる音が部屋中に響いた。
  石田はやれやれといったふうに首を振りながらため息をついた。
  そして右手に持っている白い封筒に視線を落とした。
  この中にはいつもどおり、演説で読むための原稿が入っているはずだった。
  しかし実際は読んではならない、すべての内容を一字一句間違えずに暗記しなければならないのだ。
  ただ、今回は違った。
  石田はくだらなそうにその封筒をくしゃっと握り潰すと、暖炉の上に置いてあった置物の形をしたライターで火をつけ、暖炉の中に放り込んだ。
  紙の封筒は入っている原稿とともに一瞬にして燃え上がり、かさかさした炭に変わっていった。
  その炎をしばらく見つめていた石田の脳裏に、先ほどテレビで見たニュースの映像が不意によみがえってきた。
  黒煙を上げながら燃えさかる都市。
  あそこに暮らしていた住民には国庫から保障をしておくべきだな、と思った。
  それから、左腕にはめているドイツ製の腕時計にちらを視線を落とした。
  演説が始まるまであと15分というところだ。
  いままでの経験から演説というものは少なからず時間通りに始まったためしがないので、10分ぐらいの遅刻は大丈夫だろう。
  こちらはまる3日は徹夜だったのだから、20分くらいは仮眠しても文句は言われないだろうし、時間になれば誰かしら起こしにくるだろうと思い、ソファに身を預けると目蓋を閉じた。
  石田は、すぐに意識が遠退いていくのを感じた。




       §

  目を開けると、そこは見慣れない教室だった。
  ずれていた眼鏡をかけなおし、ぼんやりとあたりを見まわすと、クラスメイトが石田と同じように机に突っ伏して眠っていた。
  ああ、なるほど――。
  石田は思った。
  これは夢だ、自分の過去の記憶がリピートされているだけに過ぎない。
  いま見ているこの夢は、“石田がプログラムに参加させられたときの夢”に違いなかった。
  そう、石田は、プログラム経験者だった。
  当時はなんということはない、ふつうの群馬県にある市立中学の3年生だった。
  毎年行われるクラス換えの度にあるオリエンテーションに行く途中のバスの中で拉致されて、“ゲーム”が行われたのは確か、やはり長野県の山岳地帯だった。
  窓の外に視線を移すと、暗い夜の闇の中、しんしんと雪が降り積もっていた。
 「雪か・・・・・・」
  そういえば、このプログラムは寒冷地戦闘訓練とかなんとかで、冬の雪山で行われたことを思い出した。
  結果、クラスメイトのほぼ半分は凍死、そうでないもののさらに半数は霜焼けや凍傷で戦うどころの状態ではなかったのだけれど。

  そんなことをぼんやりと思い出すうちに、カチッとテレビのチャンネルが切り替わるような感覚とともに、石田はいつのまにか雪の降る雪原に突っ立っていた。
  先ほどの暖房のきいた教室は跡形もなく消え去って、周囲には雪の白と夜の闇以外には何もない世界だった。
  手には支給されたシグサワーP226自動拳銃を握り締め、持っていた防寒着をいっぱいに着込んでいたが、それでも背中の芯を震えさせる寒さを感じた。
  やれやれ、この脈絡のなさはまさしく夢の世界ならではだ、と石田は思った。
  もちろんこの後どうなるかもわかっていた。
  雪の降る静寂な世界、その暗闇の中から、ひとりの少女がよろよろと現われた。
  肩よりも長い、少し茶色の混じった黒髪が2本の三つ編みに編まれており、スカートからのぞく脚はほとんど凍傷になりかけていた。
  少女の歩くその足の下の雪が、サクサクと小気味のいい音を立てて沈んでいた。
  着込んだコートの胸元、赤色を基調とした珍しい制服が白い雪の中に際立って見えた。
  その少女の目が石田を捕らえ、さらに大きく見開かれた。
  彼女の名前は確か・・・・・・。
  石田がそう考えようとしたのも束の間、少女は大きく腕を振り上げ、石田に向かってきた。
  その手には――銀色に光るバタフライ・ナイフが握られていた。
  バタフライ・ナイフの刃の部分にはぬらぬらとした赤黒い液体が付着しており、それも半ば凍りかけていた。
  しかし石田は、気がついたときには少女に向かって腕をまっすぐに伸ばし、シグサワーP226自動拳銃の引き金を引き絞っていた。
  こうなることは予想できた――いや、“知って”いたのだ。
  パン、という火薬の撃発音は、雪の結晶に吸収されてまるきり響かなかった。
  その少女が目を見開いた、そのときにはもう、少女の胸の大きなリボンとその下の布地に――そしてもちろんその奥にあるであろう少女の身体にも――小さな穴があいていたのだけれど。
  弾丸が心臓を傷つけたのか、胸の傷からは赤と黒が混じった鮮血が噴き出し、白い雪がまるでかき氷のイチゴシロップをぶちまけたように赤く染まっていた。
  しかし外気温が氷点下の状態で、その外気に直接さらされた血管が収縮したのか、出血はすぐに収まっていた。
  そのまま直立不動で突っ立っていた少女は、苦しそうに何度か喘ぎ、石田を睨みつけるような表情のまま2度びくんと痙攣を起こし、ゆっくりと倒れていった。
  途中、「殺してやる・・・・・・ころしてやる、ちくしょう」という禍々しい呪詛のような呟きが聞こえたが、石田は表情を変えなかった。
  はじめて犯した殺人だった。
  そしてそれが、石田の優勝が決定した瞬間でもあった。
 『試合終了だ。石田、よく頑張ったな。本部に戻ってこい、温かい茶でも用意しておくからな』
  どこにあるのかもわからないスピーカーから、プログラム担当官の声が石田の鼓膜を震わせた。
  やっと終わった――寒さでよく働かない思考回路がようやくはじき出した感情は、その一言だけだった。

  そのとき、またあのカチッというテレビのチャンネルが切り替わるような感覚がした。
  次の瞬間には、石田は恐ろしく豪華なソファの上に座っていた。
  幾人かの偉そうな顔をした大人たちが、その周りを取り囲んでいた。
  そういえばこんなこともあったな、と石田は思った。
  これまで孤児院で生活していたのだが、プログラムに優勝して帰ってきた石田は、院長の「人殺しを置いておけるか!」の一言で即日孤児院を追い出されたのだ。
  そのときどういうわけか、その孤児院の門の前に黒塗りのセンチュリー(トヨダ自動車の最高級車だ)が停まっており、ほとんど誘拐まがいの方法で石田はここまで連れてこられたのだった。
 「これが、今回のプログラムで優勝した生徒です。成績優秀、記憶力に富んでいますが自主性に欠け、これといった特記事項はないそうです」
  石田が優勝したプログラムで担当官をやっていた教師――まあ役人と呼んだ方が適切かもしれないが――が、手元の資料に目を落としながらそう言った。
  目の前の妙な形の髭を生やした男が、値踏みするような視線で石田を眺めた。
  それで、石田は、少し不快な感じがしたのだけれど、それだけだった。
  髭の男が言った。
 「素質はありそうですな。言われたことだけこなす、という性格は適任だと思うが?」
  髭の男の隣にいた、でっぷりと太った脂肪の塊のような男が頷いた。
  頬の肉がぷるぷると震えていた。
 「先代の総統役は議会に随分と刃向かいましたからな。まあ、急性の心筋梗塞で早々に崩御されたのは不幸でしたが」
 「幸いとも言える、我々にとって見ればな」
  これは石田の後ろ側にいた、丸い眼鏡をかけた初老の男の言葉だった。
  あとの数名が口々に喋りだした。
 「しかし、こんな少年が総統閣下になって、国民が不審がりませんかな?」
 「いや、先代総統の年齢からして、それ以上の人間が継ぐのは不自然だ。総統の地位は万世一系の世襲制度ということになっているのですからな」
 「表向きは、ということでしょう?」
 「やむをえんか・・・・・・」

  ――こんな調子で石田の意思などまったく聞かずに、男たちが話を進めていった。
  そして次の日から、石田は『総統閣下』と呼ばれるようになったのだった。
  当の石田は、どうでもいいというようにその事実を受け止め、議会と呼ばれる連中の指示には大人しく従うふりをしていた。
  彼らは石田に細かいことなどは何も教えていなかったが、石田は高校生になる年齢になってようやく、自分の役割が見えてきていた。
  神聖にして絶対不可侵の総統閣下などという存在は、他の政府高官、特に実務レベルにおいて国家を運営する内閣(彼らは自分たちの組織を『議会』と呼んでいた)あたりにとっては、決してありがたい存在にはなりえなかった。
  そのため彼らは、それまで絶対的な権力を持っていた総統と呼ばれる人物を半ば軟禁し、政府は執政をすべて総統閣下の指示の元に行うということにして、自分たちの政治方針を正当化したのである。
  国民の生活を保障し安全に生活させるべき政府の横暴には国民も黙ってはいなかったが、その上の存在である崇高なる総統閣下(神の生まれ変わりだという説も飛び交っていた)に逆らうことは大逆罪であり、その総統の勅命を行使している政府に逆らうことも同罪とされたのだった。
  つまり政府は総統を神格化して権限を際限なく引き上げ、『議会』が決定した事項を総統に認めさせることで、『勅命』という形で堂々と執政を執ることができるシステムを作り上げたのである。
  このシステムによって、政治は『議会』の話し合いにより“民主的”に執り行われ(議会の中では確かに全員が平等で民主的だった)、絶対的な権力を盾に実務レベルで強引にそれを実行してきたのだ。
  つまり、総統閣下という存在は、国民にとっては神聖不可侵の存在であるだけでよく、政府にとって必要なのは『総統』という名前だけで、実際には存在しないに等しいものだったのである。
  ただ、総統閣下が国民に姿を見せる機会が1年のうちに数回は必要で、そのための役者が不可欠だった。
  その役者に石田がなった、という、ただそれだけのことだった。
  しかし、その総統閣下役は、国家という巨大な組織のいちばん薄汚い部分をまざまざと石田にみせつけた。
 『保険定理』というやつで、大勢の国民を守るためには多少の犠牲はやむを得ない、という大義名分のもと、多くの無実の人々――それは男性はもちろん、女性や子供に至るまで――政略と謀略の名のもとに、いくつもの命が公に、しかも無益に奪われていた。
 “プログラム”もその一環だと知った石田は、いつしかこの国の国民に疑問を抱き始めた、――そう、政府にではなく、国民に対して、だ。
  なぜこんなことをしている政府を放っておくのか、いくら政府が『国家権力』というマントを纏っていたとしても、そのマントには綻びがいくつもあるはずだった。
  その小さいが、しかし決定的な綻びを、なぜ国民は見て見ぬふりをしているのか。
  それは結局、この国の国民が他者依存主義、付和雷同に慣れすぎたためだという結論に至ったとき、石田はこの大東亜共和国という国家の改革を決意したのだ。
  しかし、作ることよりも壊すことの方が遥かに容易であるとはいえ、いったん出来上がったシステムを崩すには、なにか決定的な打撃が必要不可欠だった。
  そのうえ、壊すべきは『狂った政府システム』であって、間違っても『国家』それ自体を崩壊に至らしめることは避けなければならなかった。
  良かれ悪しかれ、この国の国民が何百年、何千年かけて作り上げてきたものを、すべて捨て去ってしまうことは許されないことだった(少なくとも石田にはそう思えた)。
  そこで石田は、“プログラム”に目をつけたのだった。
  2世代前の政権に出来上がった法律で、議会の誰もが反対意見を出さなかったために、だらだらといまも続いている存在価値が皆無の椅子取りゲーム。
  これを利用して、なんとか国民に影響を与えられないだろうか。
  石田がそう思っているとき、1997年、ちょうどあの事件が起きた。
  そう、プログラム史上初の男女ペア脱走事件である。
  石田はこれを最大限に利用しようと思い立った。
  演説の回数を意図的に増やし(そうせざるを得ないように議会にけしかけるまでが大変だったが)、台本にはないアドリブを微妙に取り入れて、国民に互いの信頼と自立の精神を促す。
  絶対的な存在(と思っている)総統閣下の言葉を聞いた国民は、涙を流して同意する。
  議会の人間も気がつかないほど微妙な言葉の言い回しを多用して、石田は徐々に国民の意識改革を進めていった。
  この調子で行くと10年か15年くらいはかかるかもしれない、と思っていたところに、米帝崩壊の一報が入ったのだった。
  議会は浮かれて、専守防衛の名前とは裏腹に、ろくな話し合いもせぬまま米帝領に軍隊を大挙侵攻させたのだ。
  結果は石田の予想通りだった。
  ほとんどの専守防衛軍兵士が不在になった国内の治安維持力は衰弱し、社会は混乱した。
  あと一押しで、この国は倒れる。
  石田はその確信を強め、そして最後の一石を投じるために、今回のプログラムを利用したのだった。
  事前調査で、偶然97年の脱走者、七原秋也が参加していることを知り、役人のひとりを唆して共犯者である中川典子を巻き込ませた(もっともその役人は詳しいことは知らされていなかったし、石田も彼が典子に卑猥な行為を要求して返り討ちにされたことなどは知らなかったのだけれど)。
  前回のプログラムでは見事なまでに信頼しあっていた彼らのこと、今回もまたそうなるだろうという予想のもとの計画だった。
  そしてその予想は的中した。
  それから、石田は前日から休暇をとり――役者とはいえ休暇くらいはもらえる――兵士のひとりになりすまして潜入したのだ。
  防衛軍の大元帥という役割もある石田は、射撃や格闘技も実戦で十分通用するレベルに訓練されていたし、防衛軍のしかも下層階級では総統閣下の顔など知っている人間は誰もいなかったので、比較的容易になりすますことができた。
  いやはや、こんなところで役者としての技術が役立つとは思いもしなかったけれど。
  そしてそのプログラムは――石田の予想通りの結末を迎えた。
  そうなることに罪悪感がなかったわけではない、当然だ、自分自身も経験者なのだから。
  しかし、そもそもこの結末は石田が計画していたものではない、すべては彼ら自身が決め、そして招いた結果なのだ。
  石田は状況から判断して、はじめからこうなることを予想していただけに過ぎない。
  もっとも――最後の最後のところでプログラムの中止が即時決定し、最終的な生存者の人数や死因は明確なデータにはなっていなかったのだけれど。
  そしてこれから、いよいよ、最後の一仕事だ。
  石田は夢の中、自分の予想が的中することを確信した。
  人間を信じることは難しい――それゆえ、いまの国民のほとんどは他人を信用しないどころか、自分すら信用していないのだ。
  人間は自分を信じることをしなければ、生きていくことはできない。
  そして他人を完全に信用できる人間などいるはずがなかった。
  自分を信じられる人がはじめて、他人を信じることの可能性を見出せるのである。
  ほんのわずかでもいい――そのことに国民が少しでも気がついてくれれば、石田は十分だと思っていた。
  今回の演説に、議会の台本はない。
  石田が自分で決定し、そしてその決定に従って行動する、最初で最後の試みだった。
  それにもうひとり。
  彼は――必ずくるだろう。
  石田は確信に近い予感を覚えた。
  眠りの中にあった意識が、休息に現実世界に戻りつつあった。
  意識の奥、自分によく似た顔をした、しかしカラスのように真っ黒なスーツに身を包んだ男が、微かにこちらに微笑みかけた気がした。
  やあ、準備万端、整っていますよ。もうすぐですね、お会いできるときを楽しみにしていますよ、おにいさん。



  コンコン。
  扉をノックする音が聞こえ、石田はひとつ伸びをして、ソファから立ち上がった。
 「総統閣下、演説のお時間です。ご支度は整いましたでしょうか?」
  若い兵士の声だった(もっとも自分とさして歳は変わらないと思うが)。
  石田はひとつ息を吸い込み、「いま行きます」と答え、扉に向かった。
  ふと立ち鏡の前で足を止めた石田は、一度だけ自分の姿を頭の先からつま先まで見渡すと、小さく頷いた。
  第一種軍装は一糸の乱れもなくきっちりと着こなせていた。
 「せめて喪服を着て死にたいものですが・・・・・・」と思わず呟き、微かに苦笑した、それだと先ほど夢の中で見た黒服の男とそっくり同じになってしまうことに気がついたので。
  石田は身を翻し、律動的な動作で『総統執務室』のプレートが外側にかかっているはずの扉を、内側から開けた。
  そこからはまっすぐな廊下がどこまでも続いていて、その廊下の中央には赤い絨毯が敷かれていた。
  塵のひとつも落ちていないその美しい絨毯の上を、石田は躊躇うことなく歩き出した。
  軍靴の下、柔らかな感触が心地よかった。
  廊下の両脇には、十数メートル間隔で、護衛の兵士が担え銃の礼で突っ立っていた。
  その兵士のひとりに、石田はちらと視線を投げかけた。
  自分よりも年上の、それでも社会的にはまだ若いと呼べそうな年齢の兵士だった。
  その兵士は一瞬目が合うと、慌てたようにそれをそらした。
  石田は歩みを止めることなく、その兵士の前を通り過ぎた。
  頑張ってください、頼みますよ――そう心の中で呟いてから。
  その兵士のために、石田は官邸内のほとんどのセキュリティ・システムを事前に細工したのだから。
  すべては計画通りだった。
  大東亜共和国第325代目(実際は第12代目)総統――石田克利。
  事実上、彼が大東亜共和国最後の総統になるのは、もはや時間の問題だった。




       §

  渡一曹は背筋を伸ばし、担え銃の礼で目の前を通り過ぎる人物を注視していた。
  大東亜共和国の最高権力者にして絶対不可侵の存在――第325代目総統閣下。
  総統は政府の指導者であると同時に、軍部の大元帥をも兼任しているため、自分の属する組織の文字通りトップだった。
  大柄で高圧的な瞳を持つ迫力のある人物を想像していた渡は、自分の目の前を通ったすらりとした長身の、銀フレームの眼鏡の奥で穏やかな眼光を湛えているその人物を見て、いささか拍子抜けしてしまった。
  自分よりもかなり若い、まだ青年と呼ぶに相応しいその最高権力者は、担え筒をしている渡の前を通る際、ちらりと視線をこちらによこした。
  すべてを見通しているかのような澄んだ茶色の瞳に、慌てて目をそらした渡は、背中にびっしり冷や汗を流していることに気がついた。
  もちろん、総統閣下ともあろうものが一介の護衛官に話しかけるわけもなく、目が合ったのはほんのコンマ数秒のことだったのだけれど。
  赤絨毯の上を音も立てずに大公演台の方に歩き去った背中を見送ると、渡は全身でほうっとため息をついた。
  やはり一国の総統は一味違う――感嘆の念が頭を支配しかけ、しかし慌てて首を振ると、その考えを追い払った。
  つい昨日までは二曹だった渡は、いつのまにか一曹に昇進していた。
  だが、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
  どうせこれから先、肩書きなどまるで意味のないものになるのだから。
  総統閣下の姿が見えなくなると、渡は足音を忍ばせて、廊下を反対方向に進み始めた。
  本来は廊下の赤絨毯は総統と政府・軍部高官の者以外踏むことはできないが、軍靴は底に鉄板が打ち付けてあるために大理石の廊下を歩くとやたらと響くので、渡は見つからないように赤絨毯の上を走った。
 『会場』から駐屯地に戻り、そのときに必要なものはすべて用意してあった。
  以前に一度だけ、三曹だったころに総統官邸の護衛を拝命されたことがあり、総統官邸のおおまかな間取りは頭に入っていたし、監視カメラが設置されている大体の位置はわかっていた。
  総統閣下の演説は、ほとんどの護衛官が演説台とその周辺を固めるので、官邸自体の警備は必然的に手薄になる。
  米帝派兵によりかなりの人的資源を費やしている現在では、人手不足も手伝って、相当数の人数削減が行われているはずだった。
  官邸の廊下を走りながら、なにをやってるんだろうな、おれは、という心の中の自分の声と、もうひとつ別の声が聞こえた。

 『あんたは――なにもできない、いや、なにもしないじゃないか』

  未神三曹――彼は殉職したことになっているので二階級特進で同じ一曹になっていたが――の言葉だった。
  未神の言うとおり、自分はいままでなにもしなかった。
  なにかをやって、その責任をとるのが恐くて、なにもできなかった。
  間違っていることを間違っていると言うことさえ、しなかったのだ。
  しかし、いまは違った。
  いまならおれは、間違っていることを間違っていると大声で言えるはずだ。
  この国は、間違っている。
  ちくしょう、そんなこと、言わなくてもわかっていたはずだろう、ばかばかしい――。
  そう思いながらも、目的の官邸内警備室の扉の前まで辿り着いた渡は、汗を拭って息を整えた。
  ここからは、もう余計なことは一切考えず、ただ戦場の兵士の態度でいなければならない。
  ふっとひとつ息を吐き出すと、渡は全神経を集中させた。
  官邸内警備室は、総統官邸のすべてのセキュリティ・システムを管理する部屋だ。
  まずは真っ先にここを潰しておかなければならなかった。
  そっとその部屋の扉を開けた渡はしかし、目の前に広がる光景に呆然となった。
  室内にいた警備員が全員、ぐったりと椅子にもたれて眠りこけていたので。
  思った。
  おいおい、いくらなんでも職務怠慢もいいところだろ、これは?
  しかし室内の床の上に転がったスプレー缶のような物体に目がとまり、はっとした。
  催眠ガスの発生装置だった。
  そして渡自身、同じように警備員を眠らせるために持参している代物だった。
  官邸内の監視カメラの映像を受信してモニタするディスプレイは、すべてが一発の銃弾をぶち込まれて、ブラックアウトしていた。
  どういうことだ・・・・・・?
  渡は混乱した。
  まさか自分と同じことを企んでいる人間が他にいるのか、それともこれはひょっとして――?
  理由はわからないがとにかく――どうやらここはいいらしいと判断した渡は、警備室のドアを閉め、官邸のいちばん西側にあるボイラー室に向かった。
  そこにはあらかじめ道具が用意されているのだ。
  小さいものではないだけに持ち歩くのは危険だが――大丈夫だ、警備員の配置はすでに頭に入っている、と渡は何度も自分に言い聞かせた。
  隙をついて移動すれば、比較的楽に動けるはずだった。

  ボイラー室は、すぐに見つかった。
  道具を持ち込むとき、あらかじめ鍵は壊してあったので、鉄製のドアをそっと押すと、錆びついた蝶番がわずかに軋んだ音を立ててドアが開いた。
  渡は素早く室内に入り、鋭い兵士の瞳で異常がないかを確認した(プログラムの会場警備ではあまり発揮されなかったが、渡が一番得意とする任務は潜入作戦だった)。
  猫のように無駄のない動作で、室内に張り巡らされた配管の間を擦り抜ける。  
  ボイラー室の隅、太い配管の後ろ側に、エレクトリック・ギターを連想させるような形状のソフトビニールのバッグが隠されていた。
  しかしそれはギターにしては細すぎたし、なによりも比べ物にならないほど長かったのだけれど。
  渡はそのバッグを肩に担ぐと、ボイラー室の扉を少し開け、周囲に誰もいないのを確認してからその部屋を出た。
  底に鉄板が打ち付けられている軍靴は厄介なので、その場に脱ぎ捨ていこうかとも思ったが、万が一警備員に見つかった時に護衛兵が裸足というのは不自然すぎるので、やめた。
  渡は軍靴のまま、一段飛ばしで近い階段を登った。
  総統が演説をする大公演広場は、東側に総統閣下が立つ演説台、そしてその西側の下は大きな広場になっていて、いまごろは聴衆がそこを埋め尽くしているはずだった。
  渡はその広場の西側、聴衆たちのさらに後ろに建つ建物の屋上を目指していた。
  屋上といっても、基本的に総統官邸は3階建て(もちろん地下には実はその倍のスペースが広がっているが)なので、そう高いわけではなかった。
  1階のいちばん西側にボイラー室があったので、その隣の階段をそのまま登りつめればいい。
  総統閣下の執務室や政治中枢とは違う棟なので、予想通り警備員と鉢合わせをすることはなかった。
  3階まで登りつめた渡は、屋上に出るための鉄製の扉のノブに向かって、腰から引き抜いたサイレンサーつきのコルト・ガバメント45口径を一発ぶちかました。
  ばすっという軽い音とともに、45口径のAPC弾がステンレス製のドアノブを砕き、ついでに南京錠のついたチェーンも引きちぎっていた。
  警報機は鳴らなかった、ここにはついていないらしい。
  無用心だな、と思いつつも警報機が鳴らなかったことに安堵のため息を漏らし、ドアを開けた。
  ひゅうと強い風が吹き込んできた。
  渡はさっと身体をドアの外に出すと、音が鳴らないようにドアを閉め、内側に巻かれていたチェーンを外側からドアノブに巻きつけ、固定した。
  これで風がドアを勝手に開ける心配はない。
  避難用の鉄製のラッタルを登ると、あとはだだっ広いコンクリートが敷き詰められた屋上に出た。
  数台設置してある監視カメラも、警備員室が無力化している現在は、何の役にも立たない代物だった。
  テープにはおそらく録画されているのだろうが――そんなことは知ったことではなかった、はっきり言って。
  ひゅう、とコンクリートの建物の最上階を乾いた風が通り抜け、軍用ベレーからみだしている渡の髪を微かに揺らした。
  その風に混じって、声が聞こえた。

 『長らくお待たせいたしました。わが大東亜共和国、第325代目総統閣下が御登壇されます。起立敬礼をしてください』

  いよいよ演説が始まるらしい。
  ガタガタと聴衆が立ち上がる音が聞こえた。
  演説を行う大公演広場は、総統官邸の東西南北4棟に囲まれた屋外広場だ。
  東側に公演台があり、渡はその対局する西棟の屋上にいた。
  すうっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
  震えそうになる手足を、ぐっと踏ん張って押さえ込んだ。
  ああ、ちくしょう、煙草が吸えれば少しは楽になったかもしれないのに・・・・・・。
  そう思い、無意識にポケットに手を伸ばしていた渡は、慌ててその考えを打ち消した。
  煙草など吸ったものなら、その煙と臭いで自分の居場所がばれてしまうかもしれなかった。
  小さく首を振った渡は、背中に背負っていたソフトビニールのバッグを下ろし、側面についているジッパーを開けた。
  黒いつや消し塗装が施されたそれは、まるで細長い配管を思わせた。
  アキュラシー・インターナショナル・AWS――消音機を標準装備した世界最高と呼ばれるスナイパー・ライフルだった。
  そのアキュラシーをバッグから取り出し、ヘンソルト10倍率の照準器をセットした。
  照準はあらかじめ誤差修正をしてあるので、これですぐにでも使用可能だ。
  バックの側面についたポーチを開き、中からまるで釘のように細長い弾丸を取り出した。
  7.62ミリ亜音速弾だった。
  亜音速弾という名前の通り、射出される弾丸は音速よりもわずかに遅いくらいの速度だ、普通の銃弾の速度などは話にならない。
  渡は、そのライフル弾をアキュラシーにセットし、レバーを引いて装填した。
  がしゃっという音が、妙に響いた気がして、渡はそっと屋上の暴風壁の影から下の広場を覗いてみた。
  ちょうどそのとき、わああっという歓声があがり、壇上にさっきの人物が姿を現した。
  大東亜共和国総統――。
  渡はごくっと喉を鳴らし、額に吹き出ている汗を軍服の袖で拭った。
  一番高い櫓(やぐら)のような演説台を挟み、向かって右側には大臣クラスの政府高官、左側には将官クラスの防衛軍上層部の面々が顔を連ねていた。
  彼らを前にして、一番低い敷石が敷き詰められた広場には、約3千人もの聴衆が自分たちの敬愛すべき総統閣下を眩しそうに仰いでいた。

 『我が大東亜共和国の親愛なる同士人民の皆さん』

  総統閣下の演説が始まった。
  そこらじゅうに設置されたスピーカーから、音響機器を使って低音を強調された総統の声が流れた。
  そうすることで、より聞くものに重圧感や説得力を与える効果があるのである。
  同盟国であるノイエ・ドイツ第3帝国の初代総統、ハインリッヒ・ヒトラーという人物が使った古典的手法ではあったが、その効果は十分に示されていた。
  わああっと聴衆たちが歓声を上げた。
  渡は屋上にうつ伏せに寝そべり、アキュラシーの銃口を演説台の方に向けた。
  スコープのレンズを保護するキャップを外し、接眼部を片目で覗き込むと、演説台の上に立っていた人物が裸眼よりも10倍、大きく見えた。
  そしてその視界の中心には、照準器の十字ラインがくっきりと入っていた。
  おれはいま、恐ろしいことをしようとしている――そういう思考が、頭の中を駆け巡った。
  国家の最高指導者を、おれは、暗殺しようとしているのだから・・・・・・。




       §

 「我が大東亜共和国の親愛なる同士人民の皆さん」

  石田がマイクに向かってそう言うと、わああっという歓声があがった。
  三千人の聴衆が、一様にこちらに尊敬の眼差しを向けていた。
  その一見、純粋そうな六千の瞳を、石田は冷たく一瞥した。
  三千人の聴衆のうち、実に1/3の千人はサクラ――つまり政府関係者だった。
  もっとも、彼らはいつものスーツにネクタイではなく、ポロシャツやブルージーンズといったラフな格好をしているけれど(祝賀会などと違い、演説は普段着でも聴講が許されていた)。
  いまの歓声も、なんのことはない、その1/3のサクラに扇動されて起こったに過ぎないのだ。
  集団思考というか、他者依存というか、その場にいる人間の1/3が歓声を上げれば、思わず残りの2/3も聴衆も歓声を上げてしまう。
  いわゆる都会の若者の間で起こる流行という現象と同じだった。
  誰かがあることをする、それを真似するものがある程度の数まで増えると、“同じことをしなければいけない”ような風潮が強くなり、雪崩式に流行に走る――例えそれが、冷静に見ればはなはだバカらしいことであっても。
  情けないことだ、と石田は思った。
  歓声をあげたサクラではない一般市民は、きっと自分の意志で行動したと感じているかもしれないが、そうではないのだ。
  ただ、ちょっとした周囲の雰囲気に洗脳されたに過ぎない。
  主体性のない国民、他人に倣うが信頼することをしない国民――。
  変わってほしい、そう思いながら、石田は歓声が収まるのを黙って待った。

 「皆さん」

  再び歓声。
  いい加減にしてほしい。
  石田はゆっくりと右手の平をかざした。
  歓声は徐々に静まっていった。

 「まずはじめに皆さんがいちばん疑問に思っていることにお答えしましょう。そうです、“第68番プログラム”の件についてです」

  石田の言葉に、聴衆のざわめきが重なった。
  それらを無視して、石田は続けた。

 「皆さんもご存知とは思いますが、“プログラム”は極めて非人道的でまったくの無意味な法律であり、ゲームであります」

  ガタン、と椅子を鳴らして立ち上がったのは、石田の立っている演説台の左側、一段低くなった政府の貴賓席に座っていた、先ほど石田の部屋に訪れた髭の男だった。
  おそらく台本とはまったく違う台詞を発したことに、頭の中がパニックになっているのだろう。
  聴衆のざわめきも一段と大きくなっていた。
  石田は続けた。

 「そのゲームの中で、強制的に参加させられた生徒たちは様々に行動します。ルールに従いクラスメイトを殺す者、また罪悪感のために自分に死が直面しても殺せない者、殺される恐怖に直面する前に自らの手で命を絶つ者、恐慌に陥り精神を狂わせてしまう者・・・・・・。他人を信じられない者は孤独になり、その恐怖と戦わなければならない。仲間を信じた者も、いつ裏切られるかもしれない恐怖と戦わなければなりません」

  いったん言葉を切り、石田は聴取をゆっくりと見渡した。
  考えもしなかったリアルな説明に俯いている者もいれば、眉を寄せて隣に座っているものと囁きあっている者もいた。
  石田は続けた、淡々とした口調で。

 「他人を信じることは難しい。いつかは手ひどく裏切られるかもしれない、自分の心に癒すことの出来ない大きな傷を負ってしまうかもしれない、――それは恐怖です。しかしその極限状態の中でも、仲間を信じ、自分の大切なものを守るためにすべてを捧げた少年がいることを、あなた方に知っていただきたい。どんなに絶望的な状況に陥っても、彼は決して諦めず、仲間と助け合う強さを持った少年です」

  そこまで言って、石田は小さく息をついた。
  微かに喉の渇きを感じ、演説台の上にあるコップに入った水を一口含んだ。
  どかどかと木の板を踏み荒らす音が響いたのは、そのときだった。
  石田がコップを台の上に戻すと、ぐいっと強い力で右肩を引かれた。
  あの髭の男だった。
 「貴様、どういうつもりだ? 台本はどうした?」
  石田の耳元で小さな声でしゃべる男を一瞥し、石田は笑った。
 「ああ。あれでしたら、いまごろ暖炉の灰になってますよ。拾ってきますか?」
 「なんだと!?」
  男は目を剥いた。
 「それよりも、あなたがいまどういう立場にあるか、わかっているんですか? 神聖にして不可侵の存在に軽々しく手を触れないでいただきたい。銃殺ものですよ?」
  石田は穏やかな声で、しかしその声とは裏腹に極めて物騒な言葉を男に投げかけた。
  その言葉で男は明らかに怯み、慌てて石田の肩にあった自分の手を離した。
  肩の埃を払うような仕草で軍服の皺を伸ばし、石田は小さく微笑んだ。
 「けっこうです。私の演説が終わるまでは席を立たぬよう。これは総統としての命令です。いいですね?」
 「き、貴様・・・・・・!」
  肉づきの良い男の身体が、怒りと屈辱にぶるぶると震えていた。
  政府内での総統という存在の扱いがどうであれ、三千人の国民がいる前では、それは最高権力者という存在以外の何者でもなかった。
  自分たちが作り上げた虚構の権力者の前に、男は引き下がる以外に道はないことを石田は理解していたのだ。
  総統が議会の承認機関に成り果てているという事実を知っているものは、当人たち及び各政府・軍部の上層部だけなのだから。
  石田が仮に警備員に一言命令すれば、それはすなわち最高権力者の命令であり、その命令は絶対であるとされていたので。
  その男は顔面を怒りに高潮させながら、自分の席へ戻っていった。
  それを見届けてから、石田はマイクに向きなおった。
  言った。

 「失礼しました。演説を続けます。その少年の話ですが――彼はプログラムから逃げ出すために、様々な行動を起こしました。彼の仲間も同様です。その結果、プログラムは事実上、続行不可能な状態にまで追い詰められました。これ以上続けると政府に害が及ぶかもしれない、そう考えた政府関係者は、プログラム会場になっていたある都市にミサイルを撃ち込み、隠蔽工作を図ります。これが昨日の爆発事件の真相です」

  石田の一言一言を聞くたびに、聴衆のざわめきがどよめきに変化していった。
  そんなことが――、まさか――、そんな声が飛び交っていた。
  石田はそんな声を聞きながら、思わずため息をつきたくなった。
  自分たちの国でどういうことが起こっているのかを知らない国民たち――いや、知ろうとしない国民たちに対して。
  いままで落ち着いていた感情が、ふつふつと冷たい怒りに侵されていた。
  もちろん、それで冷静さを失うほど、愚かではなかったが。
  本来ならば、「静かにしろ、総統閣下のありがたいお言葉であるぞ」、――という護衛兵の怒声のひとつも出たのかもしれないが、いまはその兵士ですら、ただ石田の話に聞き入っていた。
  聴衆のどよめきを聞き流しながら、石田は言葉を紡いだ。

 「この攻撃で都市は全壊しました。家や財産、職場を失った方も多いと思います。今回のことで損害を受けた国民には、大東亜共和国政府の名において住居及び財産の一部を保証します」

  石田はちら、と先程の男の隣に座っている人物の表情を見た。
  頬の肉が垂れ下がった小太りの大蔵財務大臣は、蒼ざめて小刻みに震えていた。
  いまこの国のどこにそれだけの金があるというのか――男は表情でそれを雄弁に物語っていた。
  石田は聴衆の方に視線を戻した。
  続けた。

 「このように、“プログラム”はこの国にとって何ら利益はもたらさない。それどころか、少子化問題が深刻化している昨今、毎年二千人近い若き生命が無意味に散っていくことは、我が国にとっても、そして私自身にとっても耐えがたい苦痛であります。なぜ彼らが死ななければならないのか? それも自分の友人たちと殺し合わなければならないのか? 私には到底、理解できない」

  聴衆のどよめきが最高潮に達した。
  タイミングを見計らって、石田はマイクに向かって言った。

 「私は大東亜共和国総統の名において、“戦闘実験第68番プログラム”を本日現時刻をもって廃止することを、ここに宣言する!」

  わあっという歓声が広場を満たした。
  報道陣の眩いばかりのフラッシュが、いっせいに炊かれた。
  その光景を、はるか高い位置から見下ろしていた石田は、ゆっくりと右手をあげて注意を促した。
  興奮を含んだ広場の空気が沈静化し、ざわめきも徐々に小さくなっていった。
  石田の一挙手一投足に、この広場にいる国民をはじめ、おそらくテレビを通して大勢の国民が注目しているはずだった。
  約一億三千万人の国民を統べる立場にある石田には(事実はどうあれ)、その生殺与奪権のすべてが集められているのだ。
  しかし石田は、そんなものにはまったく興味を覚えなかった。
  国家に必要なのは支配者ではなく、指導者であるべきだ――石田はそう思っていた。
  だが、現在の国民は、指導者ではなく支配者を望んでいた。
  自らが政治を執り行って、もし仮に何か大きな事件でも起きれば、それは自分たちで責任を負わなくてはならない。
  その点、誰か別の人間が自分たちを支配してくれるのなら、国民である自分たちは税金さえ払っていれば何をしなくてもいいし、何の責任もない。
  つまるところ、自分が率先して何かをしたとき、その後始末をするのが嫌なのだ、大抵の人間は。
  もし何かをしようとすれば、自分が率先してやらなければならない、もしそれで不都合が起きれば、自分の責任は自分が取らなければならない――だったら、何もしないほうがいい。
  そう考えてしまえば楽なのである。

  いまだ興奮収まらぬ呈の聴衆を前に、石田は大きく息を吸った。
  これではまだ石田の計画すべてが終わったことにはならないのだから。
 “プログラムの廃止”だけでは、また同じことの繰り返しになってしまうかもしれなかった。
  石田は言った。
  マイクに向かって、胸を張りながら。
  石田の言葉を、国民は大きな驚愕と小さな不安、そしてほんのわずかな喜びを持って、聞き入っていた。
  自分のやっていることは、とてもばかばかしいことなのかもしれない。
  石田は思った。
  たとえ自分が見せかけの最高権力者だとしても、すべてを決めるのは国民であるはずだった。
  もし国民がそれでも、自分たちの手で自分たちの国家を作っていく気がなければ、この国は大東亜共和国のまま、存続しつづけるだろう。
  多くの犠牲を払い、多くの人が血の海に倒れながら、それでもそれまでの旧態依然とした国家を望むとすれば、それはそれで仕方のないことだった。
  自分たちが生きていければ、国家なんか関係ない――そう言って憚らない国民が、どのくらいいるだろう?
  真実の『個性』と、人々のつながりを隔絶した『孤立』とを混同している市民が、どのくらいいるだろう?
  自分が幸せならば、他人がいくら不幸になっても知ったことではないと考える人間が、どのくらいいるだろう?
  人を信用することは、難しい、とても。
  見ず知らずの他人を頭から信用することは、もちろんできないかもしれない。
  それまで仲のよかった友人が、今日には自分を裏切るかもしれない。
  それまではとても好きだった恋人が、明日には別の異性と好き合っているかもしれない。
  可能性を探れば、相手を――他人を疑う要素は、数限りなく存在する。
  時には仲間を信じられなくなるときがあるかもしれない、当然だ、人間なのだから。
  けれど、それでも、相手を信じたいと思う気持ち、それがわずかにでも残っていれば――。
  相手を無条件で慈しむ優しい心、それがわずかにでも残っていれば――。
  たとえ他人でも幸せになって欲しいの願うその心が、ほんの――そう、ほんのわずかにでも残っていれば。
  それはとても、素晴らしいことではないだろうか。
  そして、そういう人間がこの国――いやのこ世界に溢れかえれば。
  もちろんそんなことは、個人の力ではどうすることもできないけれど。
  全員が少しでも、そう考えるきっかけを与えられることができれば。
  自分のしたことは、おそらく十分価値があるのではないだろうか。

  石田はそう思いながら、話し続けた。
  その話を、誰もがじっと黙って聞き続けていた。
  政府の高官も、軍部の将官も、誰も石田を止めようとはしなかった。
  もっとも、もう止めても無駄だと諦めていたのかもしれないけれど。
  石田の演説は、十数分間続いた。
  そのあいだはどよめきも歓声も聞こえなかった。
  報道記者もカメラのシャッターを押すことを忘れているように、黙って演説を聞き続けた。
  石田は喋りながら、その様子を満足げに眺めていた。
  思った。
  だいじょうぶ、きっとこの国は、そしてこの国の国民は、わかってくれるに違いない――。
  そのときだった。
  石田の視界に、きらきらと眩しい光が飛び込んできた。
  石田が立っている演説台に向かって、鋭い光を放つそれは、まっすぐに石田の瞳を捕らえていた。
  それがヘンソルト10倍率のスコープのレンズに反射した太陽光であると知覚した次の瞬間。
  自分の身体がぐらりと後方に倒れていくのを感じた。
  視界が急に縦にスクロールし、――美しい空が見えた。
  真っ青に透き通った、どこまでも続いていきそうな青空だった。
  あの空の向こう、あの雲の先には、何があるのだろう。
  石田はなんとなく、そう思った。
  それしか考えられなかった。
  青い空の彼方に、まるで喪服を纏ったような真っ黒なカラスが、翼をはためかせて飛んでいた。
  石田は思わず小さく笑った。
  それきりだった。
  石田の耳には、周囲の悲鳴も、怒号も、もちろん銃声も、まったく聞こえていなかった。

  のちに大東亜共和国史において“革命演説”と呼ばれるようになるこの石田の演説は後年、この国を大きく変化させる原因ともなったと言われている。
  それはすなわち、“プログラム”の廃止とともに、準鎖国政策の無期限凍結、各国のと国交正常化、そして――政治の立憲民主制への移行が宣言されたのである。
  それは、この国の未来を決定する権利を持つ人物が、たった一人の独裁者から、この国を構成するすべての国民に移ったことを、意味していた。
  大東亜共和国第325代目総統――石田克利。
 “2000年度第12号プログラム”のすべての真相を知るただ一人の人物は、謎を謎として残したまま、この世を去った。
  混乱のさなかに、しかも演説の最中に凶弾に倒れた最高指導者のニュースは、メディアの世界から“プログラム”のことをすっかり隅に追いやってしまっていた。
  それが石田の最後の計画だったのかどうかは、誰にもわからないことだった。


       [ Episode-2 完  Grand Finaleへ続く・・・・・・ ]


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