BATTLE ROYALE 2
The Final Game




       [ 第十一部 / Finish ] Now 7 students remaining...

          < 56 > フィニッシュ(3)


  パタパタパタと音を立てて病院の窓ガラスを叩いていた雨が、さらに勢いを増してきた。
  道路の両脇に設けてある小さな側溝が氾濫し、そこを流れていた濁った水はごぼごぼと道路に流れ出していた。
  舗装のしていない地面には無数の足跡が残っており、その足跡にはすでに水がいっぱいに溜まっていた。
  ぼろぼろになった学生服の男が倒れているそのまわりの水たまりは、血液によって赤く染色されていたが、やがてそれらもこの豪雨によって薄められ、洗い流されていくのであろうか。
  誰か知らないものが見たら驚くであろうその光景は、しかしここに限ったことではなかった。
  この『会場』の中、至るところで同じような光景、あるいはさらに凄惨な、思わず目を背けてしまいそうな光景が、広がっているはずだった。
  もしこのまましばらく放置しておけば、おそらく鳥や、また山から下りてきた肉食の小動物などが、自らの命を引き伸ばすための有効な手段になっていたことは疑いないが、しかしそれすらも許されてはいないのだ。
  彼らは――かつては同じように生きていた彼らは、隠蔽工作の名のもとに、この地上からその肉体までをも消し去られる運命にあった。
  それは彼らにとって悲しむべきことなのか、はたまた喜ぶべきことなのであろうか。
  わからない、それは誰にも。
  ただひとつ言えること、それは彼らのことを覚えている人間が、多かれ少なかれいるということぐらいである。
  それは彼らの両親かもしれない、兄や姉、または弟や妹かもしれない。
  別のクラスの友達や恋人かもしれないし従兄弟かもしれない、わからない、そんなことは。
  しかしとにかく――彼らは決して忘れ去られることはないだろう、いくらこの国の政府が事実を隠そうとも。
  もし彼らのことを知っている人の記憶から彼らの影が薄くなってしまったとしても、その人たちの中から彼らが完全に消滅することはないのである。
  その人間の中で、彼らは脈々と生き続け、そしてその人間が死ぬまで大きな影響を及ぼしていくことだろう――そう、三村信史の叔父が信史自身に大きく影響を与えていたように、またその信史が三村郁美に与えたように。
  形としては残らないかもしれない。
  彼らの死は、別の者からすればまったく無駄なものに見えるかもしれない。
  しかし、決してそうではないのだ。
  とある教師がこう言った。

 「世界を変えるためには、まず自分が変わらなければならない」

  つまり、その世界を構成している人間に影響を与え、その人間にほんの少しでも変化が現われたとすると、それは世界を変えるための第一歩と言っても過言ではないのである。
  その点において、この“プログラム”に参加させられた多くの、とても多くの中学3年生の少年少女たちが、最終的には国家を、ひいては世界を変えたということを否定できるものは、少なくともその世界に生きているものの中にはいないのだ。
  とても些細なことなのかもしれない、この地球という星の上にある、ほんの小さな島国の中の変化というものは。
  しかしそれでも、その些細な変化は、この国の人々にとって大きな一歩であると、後世において語り継がれることになるのであろう。
  こうして、新しい世紀を迎えようとした最後の年、この国最後の“プログラム”の幕が、いま、閉じられようとしていた――。




       §

  七原秋也(都立第一中学校3年B組・男子十九番)は、その光景をぼんやりとした瞳で眺めていた。
  秋也のいるこの総合病院は、山麓を切り崩して整地されたような高台になっており、昼間ならば、そこからは今回『会場』となった植田市街全域が見渡せるはずだった。
  会場のちょうど真ん中付近には白い壁の高等学校の校舎が建っており、その少し手前、ビジネスホテルなどと競うように高く造られた合同庁舎の横には、いまにも朽ちかけてしまいそうな木造校舎の中学校が見えたかもしれない、自分が見た地図の記憶が間違っていないとしたら。
  そこを自分たちが離れたのはいつのことだったろうか、と秋也はふと考え、しかし小さく首を振った。
  それはもう、どうでもいいことだったので。
  病院の白い壁に背中をもたれて(一部は崩壊して、ところどころ黒く焦げてはいたけれど)、左の膝を立てて座り込んでいた秋也は、妙に重たく感じる右腕を上げて目にかかった前髪をかきあげた。
  雨に濡れた髪から透明な雫が飛び散り、すっかり濡れてしまったズボンの上に落ちた。
  すぐ近く、十メートルほど離れたところに旗山快の死体があるはずだったが、秋也のいる位置からは背の低い植え込みが邪魔になっていて見えなかった(もっとも見えたとしてもあまり見たくはなかったが)。
  秋也は右腕を下ろし、逆に左手の甲にちらと視線を落としてみた。
  典子にもらったアナログ式の腕時計の長針が、0時02分を少し過ぎたところを指していた。
  坂待の言っていた時刻からもう2分以上も過ぎていたが、何かが起こるというようなことはまだないようだった。
 「専守防衛軍の兵士ってやつはどいつも機械みたいなやつだけかと思っていたが――」
  秋也は小さく呟いた。
  その口元は微かに綻んでおり、ともすれば微笑みともとれるような表情を秋也は湛えていた。
  もっとも、その唇の端からは赤い血の筋が一本、流れていたのだけれど。
  しかし秋也は、もうその血を拭うことはしなかった。
 「兵士の中にも話がわかるやつがいたみたいだな・・・・・・」
  そう言った秋也の言葉は、もう誰の耳にも届いてはいなかった。
  つい先程までそこにあった白いワンボックスタイプの災害救助用特殊緊急救命車輌は、すでに秋也の目の届かないところに行っていた。
  少し前までは聞こえていた低いエンジン音も、いまではすっかりこの雨の音にかき消され、聞こえなくなっていた。
  自分の首に巻きついている首輪に少し息苦しさを覚えたが、どうすることもできなかった。



  あのあと――秋也が典子を気絶させたあと――秋也は自ら救急車の外へ出た。
  飯田浩太郎や三村郁美、特に南由香里などは、まだ何か方法があるはずだからと最後まで秋也の説得を試みようとしていたが、秋也は笑って首を横に振った。
 「仕方ないんだ、もう他に方法がない」
  秋也はそう言うしかなかった。
  それは半分、いや8割は事実で、あとの2割は嘘だった。
  ひょっとしたら何か他に方法があるかもしれない、例えば他の自動車のバッテリーをつなげて使うとか。
  しかしそれには、時間があったら、という前提条件が付加された。
  そして、そんな時間はとてもではないが、秋也たちには与えられていなかったのである。
  予告された時間を過ぎても、まだミサイルは撃ち込まれてはいないが、しかし――いつ突然そうなるかもわからない。
  秋也としては、そんな『ひょっとしたら』に典子や他の仲間の生命をチップとして賭けるなどということは、できるはずがなかった。
  それでも由香里はまだ納得できない様子で、「絶対にまだ大丈夫だから。他にも方法が見つかるかもしれないから」と言ってきかなかったけれど。
  そんな由香里に、秋也は言った。
 「南サンは優しいんだな。・・・・・・ありがとう」
  由香里が、はっと目を見開いた。
  このとき秋也は、典子があのときどういう気持でこの言葉を言ったのか、わかった気がしていた。
  いままでの――この瞬間までの時間と、空間と、そして人々のつながりに対して、その言葉を発したのだ、典子は。
  ここまで自分が生きてこれた、そのことに感謝して。
  わずかなあいだかもしれないが、一緒に生きていられたことに感謝して。
  秋也の目の前を、様々な情景が通過した。
  修学旅行に出発する直前、バスの中でわくわくと楽しそうに話を弾ませていたクラスメイトの声。
  お菓子を交換し合い、友達としゃべりながら窓の外の景色が移り変わっていく様子を眺めていたクラスメイトの姿。
  睡眠ガスで眠らされたあと、どこかの学校の教室で目覚めたときの、不安そうなクラスメイトの表情。
  銃声、そして、流血・・・・・・。
  クラスメイトが、友人が、血を吐きながら地面に崩れ落ちる、その空白の表情。
  それからほんのわずかな時間が流れた、ほんとうに、ほんのわずかな時間だった。
  そして気がついてみれば、秋也たちのクラスメイトは――いま生き残っているクラスメイトは――、黒澤健司、飯田浩太郎、南由香里、中山諒子(彼女は大丈夫だ、きっと)、三村郁美(この呼び方が彼女には相応しい気がした)、その5人だけだった。
  あとの37人は、もう、生きてはいないのだ。
  秋也は口の中、錆びた鉄のような自分の血の味とはまた別の、ふんわりとした優しい甘さを感じた。
  それはいつだったか――そう、バスの中、松本真奈美がくれた、あのクッキーの味によく似ている気がした。
  秋也の脳裏に、ほんの一瞬、真奈美のちょっと照れているような、それでいて人をほっとさせる優しさもある、あの笑顔がよみがえった。
  彼女は――彼女の死体は、おそらくまだあの中学校の校門の付近に、打ち捨てられたように横たわっているだろう。
  あれからほんの数十時間・・・・・・かけがえのないクラスメイトのほとんどを、再び失ってしまったのだ、永遠に。
  ぼろり、と秋也の目から涙があふれた。
 「七原・・・・・・さん?」
  由香里自身も半分泣きそうな声で、言った。
  情けない――秋也は思った、最後の最後で、涙を流してしまうとは。
  秋也の顔を、雨が勢いよく叩いていた。
  それなのになぜだろう、雨の雫も涙の雫も同じ物質なのに、なぜ見分けがついてしまうのだろう。
  秋也は雨と涙で頬を濡らしながら、それでもせいいっぱいに笑んだ、顔の筋肉が意図したとおりに動いてくれたかはわからないけれど。
  それから、おもむろに学生服の胸ポケットに手を入れた。
  秋也の指先に、冷たい無機質な感触があった。
  それを指先でつかみ、取り出した。
  右手にそれをしっかり握りしてたまま、その拳を由香里の方に突き出した。
 「これを持っていてほしい」
 「えっ?」
  由香里は少し躊躇ったようだった。
  しかし、秋也の意を察したのか、おずおずと水をすくうような形にして、両手を秋也の突き出している右拳の下に添えた。
  秋也がぱっと手を離すと、それが由香里の手の中に落ちた。
  由香里の手の平の中に落ちる瞬間、それはきらっと鋭い光を発した。
  由香里がそれが何であるのかを確かめようと視線を落としたそのとき、秋也は勢いよく救急車のスライド・ドアを閉めていた。
 「典子のこと、よろしく頼む」と早口で言いうのも忘れなかった。
  ばん、とドアが閉まった音があたりに響いた。
  そのドアの小さなガラス越し、由香里がはっと秋也の方に顔を向けた。
  だがそのときにはもう、由香里たちの乗った救急車は、重々しいエンジン音を吹け上がらせて発進していた。
  健司が既に運転席に座り込み、いつでも発進できる状態で待っていたのだ。
  そう言えば、と秋也は思った。
  健司だけは自分が残ると言ったときに止めようとはしなかったのを、思い出したのだ。
  秋也の怪我がもう助かる見込みがないと判断していたのか、それともこの後に及んで自分が口を出すことはないと思っていたのかはわからない。
  とにかく健司は、秋也がやろうとしていることを無言のうちに察し、そしてそれを妨げないような行動をいつもとってくれたことに思い至った。
  健司がいなかったら、おそらく秋也も、他の仲間も、いまはもう死体になっていたかもしれない。
  秋也は遠ざかっていくエンジン音を聞きながら、その音のする方向に向かってもう一度だけ、「ありがとう」と呟いた。
  そしてよろよろと数歩後退し、病院の壁に背中をもたれさせて、ゆっくりと腰をおろした。
  背中をずった病院の白い壁にはペンキを擦りつけたように、赤い血痕だけが残った。
  そこではじめて自分の腕時計を見て、坂待が予告した時間が過ぎていることを知ったのだった――。



  ぼうっとしたまま、秋也はもう一度『会場』を眺めた。
  月明かりも星明りすらもなく、あたりは真っ暗でほとんど見えなかったのだけれど。
  ここは古い城下町であるらしかった――滝川直にショットガンで撃たれたあのトンネルのあたりが城跡である。
  本来ならば商店街には活気があふれ、駅前には若者が集い、城跡などはカップルの格好のデート場所になるのだろう。
  だが、それも、今日で終わりだ。
  秋也はそう思った。
  それで、心の中に幾許か、この街に暮らしていた人々への罪悪感もこみ上げた。
  自分たちのせいで彼らは家と職場を失ってしまうのかもしれない。
  けれど、きっとまたいつの日か――いつとは知れないけれどとにかく――、この街は復興するだろう。
  はじめはバラック小屋やトタンを貼り合わせたスラム街になるかもしれない、それこそいつかの神戸の街のように(秋也自身は新聞の写真でしか見たことはなかったが)。
  しかし、いつか、いつの日かきっと。
  この街が復興したときの景色をここから見てみたいな、と秋也は思った。
  それはおそらくいま以上に美しい景色になるに違いない――そんな気がした。
  もっとも、それはもはや叶わぬ夢だということは、わかっていたのだけれど。
  死にたいのか、と誰かに訊かれれば、秋也はもちろん「死にたくはない」と答えたはずである。
  しかし――秋也は思った。
  仕方がないのだ、この場合は。
  もし秋也自身も助かりたいと言えば、他の方法はあったのかもしれない。
  けれど、それには時間と、何より秋也の体力がなかったのである。
  旗山快との戦いを終えた時点で秋也の肉体はもはや限界に達しており、いまのいままで秋也の生命を肉体にとどめておけたのは精神力――すなわちそれが典子の言う生きたいという意思、プラスのエネルギーなのかもしれない――に過ぎなかった。
  だが、それももう、限界だった。
  小刻みに痙攣を繰り返している腹部の筋肉の力を抜き、秋也はほぅとため息をついた。
  最後まで気にかかっているのは、やはり典子のことだった。
  できることならば、これから先もいままでのように典子と二人で――いやいやそんな贅沢は言わない、たとえ大勢が6畳程度のスペースで寝泊りする強制労働キャンプのようなところでもいい、とにかく典子がそばにいてくれれば――そう思った。
  まあしかし、それも無理なわがままだということはわかっていたのだけれど。

  秋也はゆっくりと目蓋を閉じた。
  あたりは暗闇に包まれていたが、それでさらに真っ暗になった。
  なにも見えなかった、あたりまえなのだけれど。
  恐くない、と言えば嘘になる、恐いに決まっている、死ぬのだから。
  しかし秋也は、死に対する恐怖を感じながらも、奇妙に落ち着いた感じを覚えていた。
  それは3年前のプログラムで崖から投身自殺をはかったクラス公認のカップル、小川さくら(城岩中学校・女子四番)と山本和彦(同・男子二十一番)と同じような心持ちであったのだが、それは秋也の知る由もないことであった。
  目を閉じたまま身体の疲労に誘われるように落ち込みそうになる意識の外、ばしゃっ、と水の跳ねる音が聞こえた。
  カエルか何かが、水たまりに飛び込んだのだろうか。
  秋也はそう思った。
  なんだか知らないが、早く逃げた方がいいぜ。人間のいざこざに巻き込まれてもおもしろくないだろう。
  ちらっとそんなことを考え、いやしかしカエルの脚じゃここから逃げ出す頃には夜が明けちまうか、と苦笑した。
  しかしその音は規則的に、ばしゃっ、ばしゃっ、と聞こえていた。
  それも、徐々に秋也の方に近づいてきているようだった。
  近づいてるってのか? カエルが? 悪いけど、俺、あんまり両生類に友達いないんだ、残念ながら。
  そんなことも考えたが、やはりばかばかしくなったので、やめた。
  考えることにすら、とてつもない疲労を伴った。
  人間の足音のような気もしたが、しかしもう残っている生徒はいないはずだ。
  さすがに秋也も不思議に思い、かなり無理をして閉じた目蓋を再び持ち上げてみた。
  ぼんやりとした視界の中、誰かが立っているのが見えた。
  まだいまいちはっきりと見ることはできなかったが、秋也にはそれが誰なのか、すぐにわかった。
  実を言うとあまりわかりたくなかったのだがとにかく――わかってしまった。
 「なんだ・・・・・・まだ、いたのか・・・・・・」
  秋也は言った、ため息混じりに。
  目の前にいる男に向かって。
  小柄な中年のくせに髪がやたらと長い、地味なアイボリーのスラックスにダーク・ブラウンのジャケット、クリムズン・レッドのネクタイ、どこかくたびれたような印象を与える男。
  プログラム担当官の坂待欽八だった。
  坂待は秋也を見下ろしながら、顔をくしゃくしゃにして笑った。
 「ひどいなー、七原。先生、このプログラムの担当官なんだぞ〜。まあ、もう違うけどさ。別に先生がいたって、おかしいことはないだろ〜?」
  とぼけたような発言に対し、しかし秋也は腹立たしい気分にはならなかった。
  そんな余裕がなかったというのもひとつの原因ではあるが、それ以上に、この坂待という男も政府に操られていた人形であるということがわかったので。
  どうせ政府は、事態の収拾ができなかった坂待も一緒に処分するつもりなのだろう。
  ただひとつ秋也が気に食わないことがあるとすればそれは――俺は最後の最後になって坂待の声を聞きながら死ななきゃならないのか、ということぐらいだ。
  まったく、何が楽しくて、精神衛生的に見て史上最悪の男と心中しなければならないのだろう。
  秋也はそう思ったが、口に出すようなことはしなかった、体力の無駄遣いなので。
  そのかわりに、たった一言だけ、「なにか用なのか?」と言った。
  それだけではなはだしい体力を消耗した。
 「ほらー」
  秋也のその言葉に、坂待はただ大きく肩を揺らしてため息をついた。
 「七原さ、先生、こう見えても大人なんだよな。おまえたちより、ずっと長く生きてる。色んな経験をしてる。そりゃあ、さすがにプログラムに参加した経験はないけどさ。でも、一応、目上の者に対しては、そういう言い方、ないんじゃないかぁ?」
 「・・・・・・」
  坂待の言葉に、秋也は黙っていた。
  まあ、それも一理あるかもしれない、世間一般の常識としては。
  もっとも、その世間一般の常識が通用しないこのプログラムのこと、そんな言葉がどれほどの意味も持っていないことを一番痛感しているのは、他ならぬ坂待自身に違いないだろう。
  だから秋也は、あえてそんな言葉には過剰な反応は示さなかった。
  坂待が、続けた。
 「でも、先生、びっくりしたよ。まさか、あのミッドウェーを外す方法を直前になって見つけ出すとは思わなかったなあ。どうやったのか、先生にも教えてくれよ、なっ?」
  坂待の瞳は、数メートルほど離れたところで雨に打たれて転がっている、半円状の12個の金属――首輪の残骸だった、それは――を見つめていた。
  秋也は、外し終えた仲間の首輪はすべて車外へ放り出してしまったのだ、爆弾が内蔵されている物騒な物体を残しておくのは危険だったので。
  放送をかけたあと、すぐに本部の中学校を離れた坂待は、秋也がどうやって首輪を外したのかは知らなかった。
  もし坂待が最後まで本部で秋也たちのやりとりを盗聴していたとすれば、秋也たちはおそらく全員の首輪を外す前に頭部と胴体の別離を余儀なくされていたかもしれない。
  秋也自身、一番恐れていたのはそこだったのだが、坂待はこの会場にミサイルが撃ち込まれる予定の午前零時前には必ず脱出するはずだと思っていたので、首輪の外し方を説明することをギリギリまで遅らせたのだ。
  途中、あの石田という謎の兵士と会ったときに聞こえたヘリコプターの音、あれはてっきり坂待を迎えにきた政府のヘリだと思ったのだけれど。
  本部となった中学校の校庭くらいの広さがあれば、ヘリポートでなくても離着陸は可能であるはずなので、坂待はあの放送をかけたあと、攻撃開始予定時刻の前にあのヘリに乗って会場を離れたものだと考えていた。
  しかし――どうやらそうではなかったらしかった、事実、その坂待は秋也の目の前にいるので。
  では、あのヘリは一体なんだったのだろうか、と疑問に思ったが、やはりそれは秋也が知る由もないことだった。

  秋也が黙っていたのを拒絶ととったのか、坂待はまた、少し哀しそうにため息をついた。
  それからまた、口を開いた。
 「坂持先生が言ってたよ。“世界を変えるにはまず自分が変わらなければならない”って。先生さ、最初それは違うだろうって、思ったんだ、それを聞いたときにね」
  これまでと少し口調が変わっていることに、秋也は気づいた。
  しかし、なにも言わなかった。
  坂待が続けた。
 「プログラム担当官っていうのはさ、けっこうエラいんだよ、こう見えても。でもさ、そんな地位にいる先生みたいな人間がいくら頑張ったところで、国家を変えることができるなんて思えないよ、とてもじゃないけど。いくら絶対おかしいと思っててもさ、なかなか言えるもんじゃないよな。当然だよな、先生だって、命は惜しいもんな」
  そこまで言うと、坂待は半ば無意識の行動といったふうに背広のポケットに手を突っ込んで、煙草のパッケージを掴み出した。
  しかし中身は何も入っていなかったようで、少し残念そうな表情でそれをくしゃっと握りつぶし、ぽいと放った。
  そのまま地面に放り投げられたそのパッケージは、大きな水たまりの中に落ちて跳ね上がる泥水をかぶり、すぐに判別することができなくなってしまった。
  坂待が手持ち無沙汰になったように、頭をかいた。
  続けた。
 「でもさ、おまえたちの行動を見ててさ、本当は坂持先生の言ったことは正しいのかもしれないって、思ったよ。うん」
  そこではじめて、秋也は口を挟んだ。
 「どうして?」
  呼吸をすることも困難だったので、短い一言になってしまったのだけれど、それで十分だった。
  坂待は雨に濡れた長い髪をかきあげると、言った。
 「近頃、政府内でもこの“プログラム”継続に対して疑問の声があった。そこにこの大事件だ。政府はおそらく、今回の件で“プログラム”の廃止を決めるはずだよ。この国の超法規的な法案がひとつ、廃止されるんだ。それがどれほどのことか、わかるだろう?」
  坂待はうっすらと笑みを浮かべながら、壁にもたれてしゃがみこんでいる秋也を見下ろしていた。
  秋也には、その表情が狂人じみたようにも見え、しかしまた本当にそこらの田舎の中学校で国語なんかを教えているただの教師のようにも見えた。
  まあ、かなり視界がぼやけていたので実際はどうだったのかは、わからないのだけれど。
 「国家をつくっているのは、政府じゃない、やっぱりその国の国民だったんだよ。それは専制主義の国でも、共産主義の国でも、もちろん民主主義の国でもさ、変わらないんだよな。国民がその気になればさ、政府がどんなに頑張っても、抑え切れるもんじゃあないんだ。国家は国民を統制するシステムじゃあない、国民こそが国家を成立させる最小単位なんだよ。そのことが、今日、よくわかったよ」
  そう言って、坂待はまた、授業中に黒板に書いた答えが間違っていると生徒に指摘されたときのように、少し照れたように頭をかいた。
  なぜだろう――、秋也は思った。
  坂待は、いったい何をしにきたんだろう。
  いやそんなことはどうでもいい、ただ――。
 「・・・・・・なんで、逃げなかったんだ?」
  乾いたような笑顔で自分を見つめている教師に向かって、秋也は訊いた。
  実のところ、そこが一番気になっていた。
  いくら中央政府から現地残留の命令が届いたとしても、最後まで坂待が会場にいたことを確かめる手段がない以上、自分だけ逃げ出すことも可能だったはずだ。
  本部にはそれなりの人数の兵士がいたはずだが、その兵士たちだって自分たちが死に直面しているとなれば、職務を放棄して逃げ出そうとするに違いない(本当はその全員が典子と、そして石田に殺されていることなどは秋也が知っているはずもなかった)。
  また、もし一人だけだったとしても、あの放送をかけてからもそれなりの時間があったはずだ。
  坂待自身には位置を知らせる首輪もついていないし、あの時点で会場を抜け出そうとすることぐらいはできたはずである。
  なのに、なぜ坂待はそうせずに、自分のところにきたのだろうか。
  秋也の言葉に、坂待は不思議そうに眉をひそめた。
  言った。
 「なんで先生が逃げるんだ? さっき言っただろう、だって、先生、このプログラムの担当官だよ? それにこれは、政府の決定だよ。それには従わなきゃならない、公務員なんだからね」
  坂待がちょっと肩をすくめた。
  肩口ほどまである長い髪がジャケットに届き、雫を布地が吸い取った。
 「それに――」と坂待が続けた。
 「先生はさ、本当にこの国が好きなんだ。とても、好きなんだ。世界でもこんなによくできた国はなかなかないよ、経済面でも、産業面でも、その他にもだ。だから、先生、公務員になった。どんなに給料が安くてもさ、公務員ていうのは、国のために自分の身体を張らなきゃいけない、命を賭けなきゃならない。警察でも消防でも防衛軍でも、もちろん教師だってそうだよ。だからさ、国の意向、つまり政府の決定に背くことなんて、できないんだ、先生にはね」
  そこまで言うと、坂待はまたちょっと照れたように、頭をかいた。
  それはやはり疲れたような中年の表情ではあったけれども、はじめに教室で顔を合わせたときのようないやらしさはすっかり影を潜めていた。
 「プログラムの担当官なんて仕事も、やりたくてやったわけじゃないんだ。言い訳がましく聞こえるかもしれないけどさ」
  そうして、坂待はゆっくり頭を下げた、秋也に向かって。
  雨に濡れた長い髪が前に落ち、ぼたぼたと大粒の雫が垂れた。
  坂待が、言った。
 「・・・・・・君たちには、すまなかったと思ってる。先生を、許して欲しい」
  それは、謝罪の言葉だった。
  その言葉を言うために、わざわざここにきたのかもしれない、坂待は。
  秋也は軽くため息をついた。
  坂待も本当に悪い人間だというわけではないということだ、結局は。
  ただこの国のためを思い、政府の決定を最大限に尊重している、一公務員に過ぎないのだ。
  まったく――なにが悪くて、なにが正しいのか。
  秋也は頭の中でそんなことを考え、いや、と思った。
  この世界には絶対的に正しいことや悪いことなんか存在しないのだろう、きっと。
  それは、それを受け止める人間によって異なることなのだ。
  そもそも本当に悪い人間などというものが存在するわけがない、ある人から見れば善であるのに、別の人から見れば悪になる、そういうものなのだ、人間というやつは。
  だから、ものごとを善悪で判断すること自体が間違っているのかもしれない、よくわからないけれど。

  秋也はまた、はあ、とため息をついた。
  腹の傷口がじくじくと痛みを増してきた気がしたが、意識が薄れてきているためか、自分でも痛いと感じているのかどうかわからなかった。
  口の中の血の味も、いつのまにか感じられなくなっていた。
  視界がどうも霞みがかって見える、まるで霧の中に一人立ち尽くしているように。
  そんな秋也を、坂待が頭を下げたままじっと見下ろしていた。
  哀しんでいるのか、はたまた嘲笑っているのか、秋也には坂待の表情はよく見えなかった。
  身体の五感が、徐々に失われつつあった。
  これが――『死』なのだろうか。
  死ぬということはこういうことなのだろうか。
  なにも見ることができなくなって。
  なにも聞くことができなくなって。
  なにも感じることができなくなって。
  そして、なにも考えることができなくなってしまう。
  そういうことなのだろうか、『死ぬ』ということは。
  そして秋也は、ふと気がついた。
  自分はいままで、人が死ぬということをよく考えていなかったことに。
  それはもちろんプログラムでは多くの人間の死に関わった。
  秋也自身、危うく死にそうになったこともあった。
  けれど結局は生き残った、幾人かの命を奪って。
  だからかもしれない、人の死を意識的に避けてきたのは。
  人間には――いや、この世界に存在しているすべてのものには、始まりと、そして終わりがあるということを。
  その終わりに直面して、秋也は一言、たった一言だけ、言いたいことがあった。
  自分は幼いうちに両親を亡くして、親戚の家をたらいまわしにされて、“慈恵館”という施設で育った。
  そして運悪く“プログラム”に選ばれてしまった、しかも、2回も。
  決していいことばかりの人生ではなかった、自分で言うのもなんだけれど。
  それでも言いたかった、その一言を。
  誰にとは言わない。
  敢えて言うなら、すべてのひとに対して、だ。
  自分を生んでくれた両親や、安野良子先生をはじめ世話をしてくれた慈恵館の人々、生徒のために命を落とした林田昌朗先生(あのトンボ)や溝口喜久雄先生、親友の国信慶時、川田章吾など82人の3年B組のクラスメイト、――そしてもちろん、中川典子。
  そのほとんどは既に秋也の声の届かないところへ行ってしまったのだけれど。
  それでも彼らに、たった一言。

  ありがとう、俺はとても幸せだった・・・・・・。

  ありきたりな言葉かもしれない。
  おそらく三流のテレビドラマや文庫小説には、幾度となく使われた台詞かもしれない。
  だが、それでも、秋也の心の中をいちばん素直に表した台詞は、他にはなかった。
  少なくとも秋也には思いつかなかった。
  けれど、その言葉を言う時間も体力も、そしてそれをいちばん聞いてもらいたい人も、秋也には残されていなかった。

  うっすらと目を開けたその先、坂待がまだ深く頭を下げていた。
  そしてその背後、一筋の閃光が、空気を引き裂いて天高く貫いた。
  それはまるで打ち上げ花火のようだった。
  そう言えば夏休みの最後、城岩町が主宰する夏祭りの花火大会を慶時と二人で見に行った、そのときの光景によく似ていた。
  河川敷からシュルシュルと火の玉が昇り――、どーん、と大輪の花を真っ暗な天空に散らせるその光景が、秋也の脳裏に微かによぎった。
  美しかった、それは、とても。
  しかし、その花火が炸裂するのは、おそらく空中ではないだろう。
  雨の降る音すら聞こえなくなった秋也の鼓膜に、シューと大気を切り裂く音が聞こえた。
  天空に上る一条の光。
  その光の中に、秋也はあの懐かしい、黒服の男の姿が、見えた気がした。
  まるでこちらに笑いかけているようだった。
  こんばんは、七原秋也くん。いままでごくろうさまでした。ごゆっくり、おやすみください。



  刹那・・・・・・。



  あたり一面が真っ白に漂白された。



  凛とした輝きに包まれた。



  目の前の坂待が、頭を下げ続けた姿勢のまま、光の渦に飲み込まれた。



  熱くもなく、寒くもない、美しい純白の光だった。



  眩しさのあまり、秋也は思わず目を閉じた。



  まるで朝早く、不意に誰かがカーテンを思い切り開け放ったようだった。



  夢の世界から現実世界へ引き戻される、その瞬間。



  これは、夢だったのだろうか・・・・・・?



  まったくろくでもない夢を見たものだ。



  目を開ければ、あの声が聞こえるかもしれない。



  秋也くん、朝だよ、起きて――そう言って微笑む典子の優しい声が。



  秋也は待った。



  その声が聞こえてくるまで、待ち続けようと思った――。




 【“2000年度第12号プログラム”終了/現地周辺警備部隊モニターより】


       [ 第十一部 / Finish 完  Episode-1へ続く・・・・・・ ]


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