BATTLE ROYALE 2
The Final Game




       [ 第十一部 / Finish ] Now 7 students remaining...

          < 55 > フィニッシュ(2)


 「いいなあ。修学旅行、わたしも行きたいなあ・・・・・・」
  郁美は口をとがらせながらそう言った。
 「なに言ってんだ、おまえはこのあいだ行ったところだろ?」
  郁美の方に背中を向けて、旅行に持っていくタオルや着替えなんかを適当にバッグの中に突っ込みながら、郁美の兄――三村信史が言った。
  そのときは、5月にしては少し肌寒い日が続いていて、郁美はタンスの隅からひっぱり出した長袖の白いタートルネックを着ていた。
  信史はというと、風呂上りだったためか、ハーフパンツに「OLD NAVY」という文字がでかでかとプリントされたティーシャツ(米帝で売られている量産品の安物だった)という出で立ちだった。
  窓の外ではわずかに冷気を含んだ風が、家の前の路地に積もっている砂埃を舞い上げていた。
  別段とりたてて古い家というわけでもなかったが(どちらかというと中産階級の中では大きい家だった)、どこか窓が開いているのか、足元に冷たい空気が漂っていた。
  郁美は旅行の準備で全然かまってくれない兄の部屋の前で、ぷくっと頬を膨らました。
 「だって、わたしたちのときは天気、最悪だったんだもん」
 「ああ、そら残念だったな。明日は悪くないらしいがな、気象庁の言うことはアテにならないが」
  信史はそう言い、郁美の方をちらと見るとにやっと笑った。
  明らかにからかわれていた。
 「ふん。でもその次の日は雨だって言ってたもんねー」
  嫌味たっぷりに言ってやったつもりだったが、兄は意に介そうともせず、逆にやれやれとため息をついた。
 「残念ながら明日も明後日も快晴だ。ま、日頃の行ないの違いってやつ?」
 「え、だって、さっきニュースで――」
  言いかけた郁美の言葉を、信史は片手を振って遮った。
  郁美は口をつぐんだ。
 「馬鹿だな、おまえは」
  信史が言った。
  先ほどの郁美の言い方にさらにスパイスを大さじ3杯ほど加えた口調だった。
 「なんでよー」
  郁美がさらに膨れると、信史は苦笑しながらこう言った。
 「おまえ、どこの天気予報見てたんだ? 修学旅行で、俺たちに市内観光しろってのか、いまさら?」
 「あ・・・・・・」
  言われてみて、郁美も気がついた。
  郁美が見た天気予報は、つまらないローカルニュースの途中に挟まっている地方気象台発表のやつだった。
  信史たちの行き先は、もちろん香川県内ではない(いまどき県内を修学旅行でまわる学校がどこにあるだろう?)。
  兄に完全に負けた郁美は、憮然として信史がいろいろなものを鞄の中に突っ込んでいくのを見つめていた。

 「おっと、忘れるとこだった」
  信史がそう言って、おもむろに立ち上がると、自分の机の引き出しの中から、小さなナイフを取り出した。
  そのナイフの柄についているキーリングに、なんだか円筒状の物体がぶらさがっていた。
  郁美には、それがなんだかわからなかった。
  そのことを郁美が聞こうとする前に、信史はそれを明日着ていく予定の(というかそれ以外にないのだが)学生服のポケットにするりと滑り込ませた。
 「ナイフなんて、危ないよ。不良みたい」
  郁美がそう言うと、信史はにやっと笑い、言った。
 「リアリティってやつさ」
 「わけわかんないよ」
  郁美が言ったが、信史はにやにや笑っているだけだった。
 「ま、おまえもすぐにわかるようになるさ。俺は朝早いから、もう寝るぞ。おまえももう寝ろよ?」
  そう言って、郁美を部屋の外に追い出した。
  それっきりだった。
  次の日の早朝、郁美がまだ寝ているあいだに信史は出かけて行き、そして――帰らぬ人となった。
  帰ってきたのは、兄の遺体と、そして何の意味もない死因鑑定書だけだった。
  その日、幼かった郁美の純粋な心は、無残に砕かれた。
  大好きだった兄を失ったという事実は、郁美を廃人同然にしてしまった。
  同じクラスの仲のよかった友達も、気を遣ってか何なのか、郁美には話しかけないようにしているようだった。
  だから、両親の離婚が決まったときも、東京に引越しが決まったときも、別に驚いたり嫌がったりはしなかった。
  ただ日々を過ごしているだけだったから、周囲の環境がどう変わろうが郁美には関係なかったので。
  父親に「俺についてくるのか?」と訊かれたときも、郁美はどっちでもいいと答えた。
  ついてこないか、ではなく、ついてくるのか、という訊き方で、明らかに疎ましいと思われていたことがわかったので。
  いやひょっとしたら養育費やらなにやらを負担するのが面倒だっただけなのかもしれない、どっちにしろそれなりの金額を慰謝料として請求されたが。
  まあ、それも、どうでもよかった。
  すべてがどうでもよかった。
  それは旗山快に似ていたと言ってもいいかもしれない。
  大切なものを失ったという点に関しては、旗山快とも、藤本華江とも、共通点があった、それはそれぞれが知り得ることではなかったのだけれど。
  だからかもしれない、快が郁美を殺さなかったのは。
  しかしとにかく――信史の人生はもう終わってしまったが、郁美の人生はそれで終わりではなかった。
  転校した東京で北上彩という友達ができ、それは親友に変わり、また黒澤健司という友達(なのだろうか、果たして?)も作れた。
  郁美は次第に元気を取り戻し、中学生活の2年間も十分満足できる生活だった。
  それが、まさか、自分も兄のようにあの“プログラム”に選ばれてしまうとは――。

 “プログラム”は郁美に、忘れかけていた兄の信史を強く意識させるようになっていた。
  せっかく友達によって癒されかけた心の傷は、その友達の死によってさらに深くまでえぐられてしまった。
  そして何より――兄が死んだことに対する哀しみと悔しみ、そしてなによりも憎悪の炎を、再び郁美の心に燈してしまったのである。
  郁美は思った。
  七原秋也――。
  彼はほんとうに、兄を殺した人なのだろうか。
  もしそうだとして――私は彼を、許せるのだろうか――?




       §

 「・・・・・・」

  声が聞こえた。
  郁美は、ずきずきと膝と頭部に鈍い痛みを覚えた。
  なんだろう、と少し考え、ああそうかと思った。
  あたしは頭を打って気を失っていたんだっけ。
  でも、なんで頭を打ったんだろう――?
  記憶がぼんやりとしていて、よく思い出せなかった。
 「う・・・・・・」
  身体を起こそうとして、脚に走った鋭い痛みに、郁美は思わずうめいた。
 「気がついたのか?」
  声がかけられた。
  心に大きな安堵感が広がっていくのが感じられた。
  聞き慣れた声――。
  健司の声だった。
  郁美はゆっくりと目を開けた。
  一番はじめに飛び込んできたのは、やっぱり健司の顔だった、少しやつれていて、頬には泥のようなものがついていたけれど。
 「健司くん・・・・・・?」
  そう言ってみて、なんとなく、久しぶりにその言葉を口にしたような気がした。
  外ではざあざあと大きな雨音が響いていた、――おまけに自動車のエンジン音みたいなものも聞こえていた。
  病院のような、エタノールかなにかの消毒液の微かな匂いが、郁美の鼻腔を刺激した。
  エンジンの音にあわせて、身体が定期的なリズムで揺れていた。
  それで郁美は、自分がいま自動車の中にいるのだということがわかった。
  天井に設置されているライトが眩しくて、郁美は少し腫れぼったい目蓋の上に手のひらをかざして、光を遮った。
  暗闇に慣れていた瞳孔が収縮し、刺すような光に瞳が慣れたところで、上体を起こしてみた。
  そこはまるでどこかの病院の小さな集中治療室のような雰囲気だった(それにしてはかなり狭かったが)。
  計器や装置が左の壁にはめ込まれ、右の壁には薬品棚があった。
  そして、そんな郁美を、ベッドサイドに寄りかかっている健司が腕を組んで見つめていた。

 「身体、だいじょうぶか?」
  健司が訊いた。
  それで、郁美は、涙が出そうになるくらい嬉しかったのだけれど、なんとか堪えた(みっともなさすぎる、目の前で泣くのは)。
  ちょっと後頭部が痛かったのだけれど、どうということはなかった。
  あと少しだけ、耳鳴りがしていたが、まあそれも、どうでもいい。
  郁美は小さく頷いた。
 「だいじょうぶだと思う。なんだか、ふわふわした感じ、するけど」
  健司がちらっと笑んだ。
 「そうか。よかった」
  健司が言った、心からの笑みだったような気がした、本当に気のせいかもしれないけれど。
 「うん――」
  郁美も頷きながら、小さく笑んだ。
  少し照れていたけれども、それでも、郁美の中ではそこそこいけている笑みだったと思う、たぶん。
  それから郁美は、ちょっと首を傾げながら、訊いた。
 「ここはどこ?」
 「クルマの中だ。正確には救急車ってやつだな」
  健司が答えた。
  それで郁美は、納得した――なるほど、だから病院のにおいがしたのね。
  それにしてもどうして救急車なんかに乗っているのかしら、怪我でもしたんだっけ、あたし?
  郁美は思った、確かに身体の各部に痛みはあったので。
  自分の脚に視線を移してみると、膝のあたりに包帯がぐるぐると巻かれていて、そこに赤い血が少し染みているのが見えた。
  怪我をしたのは確からしかった、どうやら。
  郁美は寝起きでいまいちハッキリしない頭を小さく振った。
  どうも身体の具合が悪い気がする、それに首のところにも変な違和感があった。
  何の気なしに自分の首に手を持っていき――ぎょっとした。
  自分の首のサイズにぴったりと合った、何か金属の環のようなものが巻かれていたので。
  アクセサリーにしては太すぎるような気がしたし、だいいち郁美はこんなネックレスは持っていなかったはずだった。
  その環に指をかけて引っ張ろうとしたとき、急に健司が郁美の手首を握った。
  どきっとした。
 「おい、不用意に触るな、爆発して首が飛ぶぞ。ちゃんとあとで外してやるからちょっと待ってろ」
  健司が言った。
  郁美は一瞬、健司が何を言ったのかわからなかった。
  ・・・・・・爆発する? 首が飛ぶ? いったい何のことだろう。
  健司はたまに郁美の前ではブラックジョークを口にしたりするけれど、しかしそれにしてもいまのは冗談にしてはレベルがあまりにも低すぎたし、冗談を言っている口調ではなかった。
  どういう意味? と尋ねようとしたとき、郁美の背後で小さなうめき声のようなものが聞こえた。
  郁美はうしろを振り返り――思わずはっと息を呑んだ。
  救急車に取り付けられているベッドの上に、中山諒子が横たわっていた、それも太腿に赤く血で染まった包帯を巻きつけている状態で(自分が寝かされていたのはストレッチャーだった)。
 「彼女はだいじょうぶだ。南と中山さんがしっかりと手当てしてくれたからな」
  言葉が出せないほど驚きを隠せない郁美に、健司が言った。
 「せっかくプログラムでここまで生き残ったのに、こんなところで死なせたくはない」
  健司の言葉に、いままでサボっていた郁美の脳内細胞が急速に活性化し、まだまどろみの中に片足を突っ込んでいた郁美は、一気に覚醒した。
  そうだ――そうだったのだ。
  郁美は思った。
  ほんのわずかに逡巡したのち、思い出した、自分たちがいま“プログラム”をしているということに。
  同時によみがえってきた、坂待という担当官の言葉。
  あの放送がかかったときの正確な時間は覚えていないが、自分はどれくらい意識を失っていたのかはわからないにしても、かなりの時間が経っている気がした。
 「あ、あたし、いったい――?」
  自分がどうして意識を失っていたのか、郁美はよく覚えていなかった。

  そう言えば――郁美は思った。
  快は、どこにいるのだろう?
  そう考えて、まだ混乱している記憶を整理してみた。
  快がなにかのボンベに向かって無反動砲を撃とうとして、でも別の方から銃撃を浴びて、それであたしを助けようとして――。
  そこで、記憶が途切れていた。
  別の方向から銃声が聞こえ、それで快は郁美を咄嗟に突き飛ばしたのだ。
  そのおかげで郁美は銃弾に身をさらすことはなかったのだけれど、しかしそのかわりに倒れたときに後頭部を地面に強打していたのだった。
  現在は、なんとなく、後頭部にずきずきと鈍い痛みがあるくらいだ。
  それで気を失って、それからのことは、まったくわからなかった。
 「彼は――旗山くんは、どうなったの?」
  郁美がそう言うと、健司はちょっと眉を寄せ、目を細めた(そのとき郁美は健司が首輪をしていないことに気づいた)。
  自然な動作で視線を郁美からそらすと、言った。
 「旗山は死んだ。杉山もだ」
  ぶっきらぼうというか、あまりにその言葉をさらっと健司が口にしたので、郁美は一瞬、意味がわからなかった。
  旗山くんが、死んだ?
  杉山くんも?
 「どうして・・・・・・」
  そう呟いて、ばかばかしくなった。
  どうしてもこうしても、そういうルールだったではないか、このくそ忌々しいゲームは。
  それから、思った。
  旗山くんが、負けたのか――。
  職業軍人であり、優秀な工作員でもあった快が、負けたのだ。

  ・・・・・・誰に?

  そう考え、郁美ははっと息を呑んだ。
  旗山快は誰に殺されたのか――答えはもちろん、決まっていた。
  快は何のためにここに来たのだったか?
  そう、ある人物を殺すためだ。
  そして快はその人物によって、逆に殺されてしまったに、違いない。
  郁美は、快に同情などしなかった。
  快の生き方は快の生き方であって、郁美の生き方ではない、彼の生き方を批難する権利も、同情する義務も、自分にはないと思ったので。
  ただひとつ感じることがあるとすればそれは――深く冷たい海溝の水のような悲しみだけだった。
  自分のクラスメイトが死んでしまったという、ただそれだけの、事実。
  なぜ快が自分を殺さなかったのか、なぜ快がいつも自分を助けてくれたのか、それらを知る機会は失われてしまった、もう永遠に。
  けれど郁美にとって、問題は別のところにあった。
  旗山快を殺したと思われる人物――そう、『彼』は果たしてどうなったのだろうか。
  それに他の仲間は――?

  そう思ったときだった。
  突然、救急車のスライド・ドアが開き、誰かが入ってきた。
  全身がびしょびしょに濡れていて、髪からぽたぽたと雫が垂れていた。
  セーラー服を着た女生徒だった、服はかなり泥だらけになっていて、しかも水をたっぷり染みこませていたけれど。
  それは南由香里だった。
  由香里は郁美と目が合うなり、ぱっと表情をほころばせた
 「目が覚めたのね? ずっと意識が戻らないから、心配したのよ、ホントに」
 「あ――うん、ゴメン」
  なんとなく謝ってしまった郁美は、視線を由香里の背後に動かした。
  由香里に続いて、もう一人の女生徒が車内に入ってきた、それも別の学校の。
  こちらもセーラー服はもうどろどろに汚れてしまっていたのだけれど、それは郁美の記憶が正しければ、私立第弐中学校の制服に違いなかった。
  その女生徒の瞳が、郁美の視線とかち合った。
  黒くて大きい瞳の女性で、中学生というには少し大人びている印象がするけれど、しかし綺麗な人だった。
  郁美はもちろん、その人物が自分のクラスの人間ではないことはわかっていたのだけれど、記憶の片隅にどこかで会ったような、既視感のようなものを感じた。
  暑い夏の日の、あの懐かしい体育館――。
  一瞬、いつかの情景が頭をよぎった。
 「あ、あなたは――?」
  郁美がなにか言おうと、口を開いた、そのときだった。

 「タイヤと燃料タンクを撃ち抜かれていなくてよかった。こいつを使えばすぐにでもここから出られそうだ」
  そんな声が聞こえ、その女生徒の背後から、学生服を着た男子生徒が現れた。
  こちらは既に知っている人物だった、当然だ、クラスメイトなのだから。
  三村慶吾、それが彼の名前だった。
 「七原さん。はやく入らないと、飯田くんが入れないわ」
 「ん? ああ、悪い」
  由香里がそう言って、慶吾は取っ手に捕まりながら車内に入った。
  それに続いて飯田浩太郎も入ってきた。
  普段ならば、他校の生徒がいることと、浩太郎が仲間だったということに郁美は驚いたかもしれないが、いまはそれどころではなかった。
  郁美は、戦慄していた。
  いま、由香里はなんと言った?
  ナナハラ・・・・・・と、そう呼んだ、間違いなく。
  郁美は自分の頬の筋肉が急速に引きつっていくのを感じた。
  やはり三村慶吾は――。
  ふつふつと郁美の心が熱くなった。
  気がつくと、郁美はベッドに腰掛けている姿勢のまま、無意識に右手がスカートのポケットに伸びていた。
  スカートの濡れた布地の上から、そのずっしりと重いものの感触を確かめることができた。
  それは快が郁美に渡した、アーモリー社製のポケット・オートマティック・ピストルだった。
  コルト社のディフェンダーと同じコンセプトでスプリングスフィールド・アーモリー社が作った小型拳銃で、ウルトラ・コンパクトと呼ばれるものだ。
  スミス・アンド・ウェスンの方は、いつのまにか手元から離れていた、いつ手放したのか覚えていなかったが。
  しかし、とにかく、どうでもいいのだ、そんなことは。
  問題は目の前にあるのだから。
  快の言ったことは、正しかったのだ。
  3年前、優勝者も担当官も死んで、生徒2名が行方不明となったあのプログラム――その逃げ出した生徒が、三村慶吾、いや七原秋也なのだ。
 「どうして――?」
  うつむいたまま、郁美は小さく呟いていた。
  言いたいことが山ほどあった。
  ほんとうは誰が信史を殺したのか。
  どうして信史と一緒に行動しなかったのか。
  どうして信史を助けてくれなかったのか。
  どうして自分たちだけ脱出したのか。
  どうして――。

  それらすべてをこの場で吐き出してしまいたいという衝動に駆られながらも、郁美はぐっとそれを抑えた。
  自分が何をしようとしているのか、気がついたので。
  郁美は無意識のうちに濡れたスカートの布地の上から、ぎゅっとその中に入っているものを握り締めていた。
  いけない、それだけはダメよ、落ち着きなさい、落ち着かなきゃ・・・・・・。
  郁美は自分に言い聞かせた。
  この感情に押されるがままに衝動的な行動をとってしまえば、すべては取り返しのつかないことになってしまうこともあり得るのだ。
  よく考えて、考え抜いて、自分が正しいと思う行動をとらなくてはならない。
  それが兄の言っていた『リアリティ』というやつではないのか――郁美は思った。
  いかなるときも先を見通すための思考を怠ってはならない、そう、たとえ『お先真っ暗』な状態だったとしてもだ。
  郁美は数回、深呼吸をした、それで昂ぶった感情が落ち着くわけではなかったけれど。
  肺の中いっぱいに空気を吸い込んでから、ぎゅっと拳を握り締めた。
  その拳をポケットの中の拳銃に持っていかないようにするのがやっとだった。
  ちくしょう、ちくしょう、どうしてこんなときになって――。
  そう思った。
  あのままなにも知らなければ、七原秋也は三村慶吾として郁美にとってはただのクラスメイトだったはずなのに。
  握った拳ががたがたと震えていた。
  怖い、と郁美は感じた。
  べつに七原秋也に恐怖を感じているわけではなかった、当然だ、怖がる理由など何もないのだから。
  郁美がもっとも恐れていること、それは秋也にすべてを打ち明けたとき、秋也がどのような返答をするのかということだった。
  いやそうではない、秋也が返した言葉に、自分がどのような行動をとるのかということが一番恐かったのだ。
  信史を殺したのは誰なのか――もし信史の死に秋也がまったく関わりがないとするならば、それはそれで問題はない(すべての問題が解決するわけではないのだけれど)。
  ただ、そんなことはないとは思うがもしかしたら――万が一、信史を殺したのが秋也だとしたら?
  郁美には、自分の内面に吹き荒れる感情を抑えきれる自信がなかった。
  七原秋也は信史と生前、仲が良かったらしいし、兄を殺したのは彼ではない可能性もあるではないか。
  そう考える一方、旗山快の言葉もまた、郁美の記憶にしっかりと焼きついていた――、「君のお兄さんを殺したのが七原秋也だという可能性は大きい」。
  そして、親友の(それはもう過去形を使わなければならないのだけれど)北上彩の一言も。

 『もしお兄さんを殺した人かもしれない人が生きていて、あなたの前に現れたら、どうする?』

  絶対にあり得ないことだと、信じていた。
  それは自分にはどうしようもないことだと、思っていた。
  けれど、現実にそういう事態に直面してしまったとき、郁美の心は大きく揺れ動いていた。
  目頭がじわっと熱くなっていた。
  なにも考えられなかった、頭の中が真っ白になって。
  考えようとすればするほど、頭の中がぐちゃぐちゃになって。
  もちろんのことながら、真実などというものはわからない、誰にも。
  その場にあるのは、ただの事実――それだけだった。
  自分の大好きだった兄が殺されたという、その事実だ。
  誰が殺したとか、もうそんなことは、どうでもいいのかもしれない、郁美にとっては。
  どれだけ郁美が祈ったとしても――そう、たとえこの世界に神様が本当にいたとしても――信史が帰ってくることは、もう二度とないのだから。
  郁美にはその事実が、耐えられなかった。
  信史の死を知らされて、ひとしきりに泣いたあとに、その悲しみはベクトルの大きさはそのままで方向を完全に変えてしまった――怒りという方向に。
  郁美は許すことができなかった、信史を死に追いやった“なにか”を。
  けれど、実際、なにに怒りをぶつけていいのか、なにを憎めばいいのか、わからなかった。
  大東亜共和国という国を憎めばいいのか、その政府を憎めばいいのか、それとも“プログラム”を憎めばいいのか。
  しかし、そのどれも確実に存在しているくせに、明確な『形』としてあるものではなかった。
  郁美の大好きだった兄が、なんだかわからない“なにか”に殺されたなどとは、考えたくなかった。
  だから郁美は、ニュースでプログラムから逃げ出した生徒がいることを知ったとき、彼らを憎んだ。
  彼らが信史を殺したにせよ、殺さなかったにせよ、クラスメイトを見捨てて逃げ出したことに変わりはない――そう自分に言い聞かせた。
  いや、実はそれすらも後付けの口実に過ぎなかったのかもしれない。
  郁美は、なにか憎むべき対象が欲しかったのだ、早い話。
 『怒り』というものは、時として人間が生きていくための強力なエネルギーになるということを、郁美は直感的に(あるいは本能的に)わかっていたのかもしれない。
  人間が生きていくうえで絶対に無くすことのできない感情、それが怒りだった。
  大好きだった兄の死も、両親の離婚も、その他ありとあらゆることすべてにおいて、直接会ったこともない兄のクラスメイトに怒りをぶつけることで郁美は兄のあとを追うこともなく、これまで生き続けてこれたのかもしれなかった。
  けれど、その相手がいきなり自分の目の前に、しかも今度はクラスメイトとして現れたのだ。
  郁美でなくとも混乱するのは当然だった。

  郁美は無意識のうちに、秋也をじっと睨むように見つめていた。
  そんな郁美の視線に気づいたのか、タオルで髪と顔の雫を拭き終えた秋也が郁美の方に視線を移した。
  その瞳が、郁美には、まるで微かに笑っているようにも見えた。
  なんだ、生きていたのか、三村信史のところへ行けば、感動の対面ができたのに――そう言っている気がした。
  もちろん、それは、気のせいなのかもしれない(実際、気のせいだった、それは)。
  けれど郁美には、兄を殺した人かもしれないという先入観から、いわゆる錯覚のように見えたのかもしれない、わからない。
 「気分はどうだい、郁美サン? どこか身体に不調はあるか?」
  慶吾――いや、秋也が訊いた。
  ベッドに腰をおろしたままだったので秋也を見上げるような体勢ではあったけれど(もちろん立っていたとしても同じように見上げることになったのだけれど)、それでも郁美はきっと目の前の人物を見据えた。
  そして、言った。
 「あなたが、あの、“ワイルドセブン”?」
  秋也が、片方の眉をちょっと上げた。
  隣に立っていた女生徒もまた、驚いたような表情をしていた。
  なぜそのことを知っているのか、という表情だった。
  一方、健司も由香里も、何のことかわからない、といった不思議そうな表情をしていた。
  まあ当然だ、ふつうの人はその名前をタバコの銘柄以外の意味では知らないのだから――そう、当人たちを除いては。
  郁美が続けた。
  決定的な一言を。

 「あなたがあたしのお兄ちゃんを――三村信史を、殺したの?」

  健司が、はっとした表情になった。
  そういえば小学校のころに一度だけ、自分が東京へ引っ越してきた経緯を健司に教えたことがあるが(もちろん、信史についてのことも)、そのときのことを思い出したのかもしれない。
  秋也の隣にいた女生徒は大きな目をさらに大きく見開いていた。
 「あなたが、あのときの・・・・・・?」
  そう呟いた女生徒の瞳には、驚愕の色が浮かんでいた。
  典子と同様、郁美も思い出していた――暑い夏の日、生徒たちの歓声と熱気で沸き返るあの体育館ではじめて会った、兄のクラスメイトの女生徒(確かノリコといった)のことを。
  あのときは典子よりも内海幸枝の方が印象に残っていたし、何よりも優勝した兄の方が強烈に印象的だったので、比較的目立たない大人しい典子のことはほとんど忘れていたと言ってもよかったので。
  けれど――そうか、七原秋也と一緒に脱出したもう一人というのは、彼女のことだったのか、と郁美はなんとなく納得した。
  典子も健司も、驚きを隠しきれない表情でいるなか(由香里と浩太郎はまだ状況が理解できないようだった)、秋也だけはじっと郁美の方を見つめていた。
  その視線に、郁美は背筋が寒くなるような悪寒を覚えた。
  なにを怖がっているのだろう、あたしは――ここまで来てしまったのだから、もう後戻りはできないのに。
  そうやって無理やり自分を叱咤した。
  もう一度、訊いた、もうすっかり乾いてしまったスポンジから水滴を絞り出すように、勇気をふり絞って。
 「お願い、答えて、七原さん――お兄ちゃんを殺したのは、あなたなの?」
  まっすぐと郁美を射抜くような秋也の視線に、自分の心の中の動揺が秋也に伝わっているのではないか、と郁美は感じた。
  もちろんそんなことができるはずはないのだけれど、自分の心臓の鼓動がやたらと大きく聞こえて、郁美の焦燥感を募らせていた。
  やがて、郁美を見据えていた秋也が、ふっとその視線を別のところに移した。
  言った。
 「もしそうだったとしたら――」
 「しゅ、秋也くん!」
  典子がいきり立ったように、秋也の言葉を遮った。
 「秋也くんがそんな――三村くんを殺すなんてこと、あり得ないわ。ぜったいに」
 「三村が死んだ時間、典子は俺と一緒にいなかっただろう?」
  典子を宥めるような落ち着いた口調で、秋也が言った。
 「それにこれは俺と郁美サンの問題だ。典子は口を出さないでくれ」
  突き放したような口調だった。
  典子は、それで、傷つけられたような表情になり、言葉を詰まらせた。
 「で、でも・・・・・・」
  泣きそうになりながら、それでもなにか言おうとする典子を、秋也は一瞥した。
  しかしそれっきりで典子には何も言わなかった。
  秋也が郁美の方に向き直った。
  続けた。
 「もし俺が三村を殺したんだったとしたら、郁美サンはどうするんだい?」
  ハッキリした口調だった。
  郁美は、自分の鼓動が徐々に早まっているのを自覚した。
  どくん、どくん、とまるで心臓が耳に移動してしまったかのようだった(ばかばかしい、宇宙人じゃあるまいし)。
 「あなたが・・・・・・やったの?」
 「俺の質問に答えてくれたら、俺も郁美サンの質問に答えるよ」
  妙に飄々とした口調で、秋也は言った。
 「そう――」
  郁美はちょっと顎を引いた。
  ごくっと唾を飲み下したあと、郁美は言った。

 「もしそうだったとしたら、あたしは、あなたを殺さなければならない」

  一瞬、空気が氷点下にまで下がったような気がした。
  その言葉を発した直後、郁美の背中をピィンと冷たい糸が貫いたような感じだった。
  頭の中で、自分の言葉を反芻してみた。
 “あたしはあなたを殺さなければならない”
  自分が言った言葉のはずなのに、なんだか笑いたくなってしまうほど現実味に欠けていた、その言葉は。
  つい数日前まではクラスメイトだった者に――いやもちろんいまでもクラスメイトだ、それは変わらない――こんな言葉を言うことになるとは。
  制服にナイフをしまったあと、信史は言った、――「リアリティってやつさ」。
  だが、そのリアリティというものは、一体どこにあるのだろう、何をすればいいのだろう。
  郁美にはまったくわからなかった。
  しかしとにかく、いまわかっていることは、このリアリティのない世界が、郁美にとってのリアルなのだ、ということくらいだ。
  いや、ひょっとしたら自分たちはキャラクターなのかもしれない、自分は実は物語の登場人物で、『真実』という『現実』は別のところにあるのかもしれない、実はこの世界で死んでしまったときに目が覚めて、次の本当の物語が始まるのかもしれない、そんな感じさえしてきた。
  けれど哀しいことに、『真実』は『現実』の中にしかなく、またその『現実』は『事実』の積み重ねでしかないのと同様に、郁美のいるこの“世界”は紛れもない『現実』だった。
  郁美はリアリティが感じられないまま、ポケットから小さな拳銃を掴み出した。
  その銃口を、秋也に向けた。
  郁美の動作があまりにも自然だったために、誰もが呆気に取られていた。
  ぴしっ、という音を立てて氷が割れるように、その世界が動き出した。
  真っ先に氷を割ったのは、他ならぬ健司だった。
 「郁美、おまえ・・・・・・」
  健司が言った。
  そのときにはもう、銃口はすでに完全に秋也の左胸にポイントされていた。
  秋也が微かに眉根を上げた。
 「答えて、七原さん。あたしの兄を殺したのは、本当にあなたなの?」
 「・・・・・・」

  秋也はしばらく黙っていた。
  それから小さくため息をついた。
  言った。
 「――撃ちたければ撃てばいい」
 「秋也くん!」
  典子が叫んだ。
 「どうしてそんなこと言うの!? あなたが三村くんを死なせたわけじゃないじゃない!」
  そんな典子を見返して、秋也はちらっと笑んだ。
  先程とは比べ物にならないほど、まるで力のない弱々しい笑みだった、それは。
 「俺のやるべきことはもうほとんどやり終えた。あとは、郁美サンの首輪を外せば、すぐにでもここから逃げ出せる」
  秋也が言った。
  それで、郁美は、自分と秋也の首にだけ、まだ銀色に光る首輪(ミッドウェーとか言った?)が巻かれていることに気がついた。
  秋也は郁美に言った。
 「旗山は何故か、郁美サンのことを守っていたから、俺は君があいつの仲間だと思っていたんだ。人質のふりをしているんだと。ふつうやる気になっている奴は仲間なんか作らないが、旗山の場合は事情が違ったからな。だから、郁美サンの首輪はあえて最後まで外さなかった。外したところでいきなり、ということもあり得たからだが、しかし――」
  秋也の視線が郁美の視線とかち合った。
  咄嗟に、郁美は視線をそらした。
  秋也が続けた、何事もなかったかのように。
 「ようやく疑問が晴れた。そうか、やっぱり郁美サンは三村の妹だったのか――」
 「やっぱり、って・・・・・・?」
  郁美は訊き返した、声が震えていた。
  しかし秋也は、その質問には答えなかった。
  もしかして、秋也は気がついていたのだろうか、自分が信史の妹だということに?
  いや、なんとなく見たことがあるとか、どことなく似ているとか、そんなふうに漠然とした感じを抱いていただけなのかもしれない、わからない。
  けれど答えるかわりに、秋也は言った。
 「俺は三村を直接的に殺したわけじゃない。あいつがいつ死んだかもわからない。けど、結局はクラスメイトを見捨てて逃げ出したも同じなんだ、俺たちは」
  ちら、と典子に視線を移したあと、秋也はまっすぐに郁美の瞳を見据えた。
  今度は目をそらすことができなかった。
  秋也が続けた。
 「しかし、わけもわからないうちに大切な人を失ったことのある人の気持ちは、わかっている――と思う。どんな理由があっても許せないという気持ちも、納得できる。ただ――」
  秋也はそこまで言って、小さく息を吐いた。
 「ただ?」
  郁美は聞き返した。
  続けた。
 「ただ、人を殺す権利なんてものは、誰も持っていない。どんなに明確な理由でも――たとえそれが正当防衛であったとしても――人を殺していいことにはならない。ましてや義務なんてのは絶対にない。郁美サンは、もし俺が三村を殺したんだとしたら、俺を殺さなければならないと言ったけど、それは違う。そんな“マスト・ビー”で言うような義務は郁美サンにはないんだ。だから、俺を撃つのなら、それはすべて郁美サンの判断によるものであって欲しい。人任せにはしないで、すべて自分の責任において行動してくれ」
  そこまで言うと、秋也はもう一度、熱っぽい息を吐いた。
  随分と疲れているような表情だったが、郁美にはそんなことまでは頭が回らなかった。
  ただ、秋也の言葉だけが、暗闇に鳴り響く鐘のように郁美の脳を震わせていた。
  秋也が郁美から視線を外した。
  ちらっと車内のディジタル時計に目をやり(『23:55』という数字が表示されていた)、ゆっくりと二度、瞬きをした。
  郁美の方を見ないまま、秋也が言った。
 「人を殺したことのある人間をあとになって襲うのは、良心の呵責とか、罪悪感だとか、そんなもんじゃない。ただの事実だ。人を殺したという事実。それはどんなときも、何をしても、消えることはない。その重い事実を背負って生きていくことができるなら・・・・・・俺を撃てばいい、それで郁美サンの中にある怒りが冷めるのなら。けれど、典子だけは――彼女だけは、許してやってくれ」
  それで、秋也は口を閉じた。
  もう何も言う気はない、というように、目を閉じたまま立っていた。
  
  郁美は――愕然としていた。
  どうして秋也は、こんなにも落ち着いていられるのだろう、自分が殺されるかもしれないというのに。
  もしかしたらわざともっともらしい台詞を並べ立てて、自分を混乱させようとしているのかもしれない。
  秋也は言った、直接的には信史を殺したわけじゃない――ならば間接的に殺したということだろうか。
  助けようとしなかったということだろうか、それとも信史が誰かに殺されるように仕向けたということだろうか。
  わからなかった、秋也は、決定的なことは何も言ってはいなかったので。
  それはもしかしたら、郁美の判断を鈍らせるためかもしれない。
  いやそれとも、どうせ自分が引き金を引けないだろうと思っているのだろうか。
  だったら、その思い込みを打ち砕いてやればいい。
  郁美は思った。
  いまこの場で引き金を引けば、すべてが終わるのだ。
  いままでのモヤモヤした気持ちに終止符が打てるのだ。
  手の中には拳銃がある、バスケットボールのように使い慣れているわけではなかったが、それでもこの距離で撃てば即死は確実だ、どこに当たろうとも(郁美と秋也との距離は1メートル少し、当然だ、車内なのだから)。
  殺せばいい――殺してやる、こんなひとは。
  殺してやる、ころしてやる、殺して――・・・・・・。

  郁美は、ぎゅっと目を閉じた。
  ああ、ああ、あたしは――。
  身体が震えた。
  それにあわせて、銃口も頼りなげに上下左右に揺れていた。
  郁美は自分の頬を、なにか熱い液体が伝っていくのを感じた。
  いや、冷たいのかもしれない、本当は――わからなかった、そんなことは。
  けれどとにかく――郁美は、泣いた。
  ぼろぼろと涙をこぼしながら、声を押し殺して。
  いままで堰き止められていた郁美の感情のダムが、いまにも決壊しようとしていた。
  できるわけない、と郁美は思った。
  殺せるはずがない、七原秋也は――いや、三村慶吾は、自分のクラスメイトなのだから。
 “プログラム”だから殺していいとか、兄を殺したかもしれないからとか、そんなことよりももっと大切なことがあるんじゃないの?
  彼はあたしのクラスメイトなんだから。
  殺せるはずがない――殺したくない、あたしは。
  そう思ったとき、郁美は改めて自分の本心に気がついた。
  あたしは七原秋也を、殺したくないと思っていたんだ。
  それなのに理由をこじつけて、無理やり憎もうとしていたんだ、あたしは。
  郁美は、思った。
  なんて――なんて情けないやつなんだろう、三村郁美という人間は。

  なぜ、あたしはこんなところに来てしまったのだろう。
  郁美は考えた、涙をこぼしながら、ぼんやりと。
  旗山快の言葉につられて、のこのことついて来てしまったけれど、来てどうにかするなどということはできるはずがなかったのに。
  銃口は、もうすでに正確なポイントはされていなかった、ぶるぶると腕が震えていて、それどころではなかったので。
  その郁美の腕に、誰かがそっと触れた。
  郁美は目を開いた、涙で視界が滲んでいてよく見えなかったのだけど。
  それは、健司だった。
  健司はゆっくりと郁美の腕を下ろさせた。
 「・・・・・・気は済んだか?」
  健司が言った。
  郁美を咎めるでもなく、かと言ってその口調は決して柔らかいものではなかったが、郁美にはわかっていた、それが黒澤健司なのだということに。
  優しさだけが本当の優しさではない、健司はそういう人だった。
  そう言った健司の右手には、怪しく光を反射している高性能サブマシンガン、MP−5Kクルツがあった。
  もし、郁美が引き金を引こうとしたならば、健司はそれを郁美に向けて使おうとしていたのかもしれなかった、もちろんそれは郁美の憶測に過ぎないのだけれど。
  郁美はわかっていた、健司は、そういう人間なのだ。
  だから郁美は、そんな健司が好きだと思った。
  いままで曖昧な関係を続けてきていたけれど――いまならハッキリと言える、健司が好きだと。
  自分の好きな男の前で泣くのはちょっとみっともない感じがしたのだけれど。
  郁美は手の甲で涙を拭うと、秋也の方に向きなおった。
 「七原さん――ごめんなさい。あたし、お兄ちゃんが殺されたことが、悔しくて、許せなくて、ニュースであなたたちのことを知って、それで――」
  そこまで言った郁美の言葉を、秋也が手を振って遮った。
  郁美はそれで言葉を切った。
  秋也が言った。
 「俺の方こそ、疑ったりして悪かった。郁美サンは旗山の仲間なんかじゃなかった。それでおあいこってことで、いいだろ?」
  それから、ちらっと笑んだ。
  だから郁美も、小さく笑い返した、涙で顔がぐちゃぐちゃになっているかもしれないけれど。
  それを見て、秋也が小さく頷いた。
  郁美の方に秋也の両手が伸びできた。
  郁美のうなじのあたりに両手をまわして、まるで包み込むような感じだったので、さすがの郁美も驚きを隠せなかった。
 「な、七原さん――?」
  そう郁美が言った直後、すぐ後方でカチッというスイッチを入れる音が聞こえた。
  ビーッというビープ音が鳴った次の瞬間、どん、という衝撃とともにばちっと電気がスパークする音が聞こえた気がした。
  ぎゅっと目をつむった郁美の鼻腔に、焦げ臭いにおいが感じられた。
  そして、それまで首に巻きついていて離れなかった違和感が、すっと感じられなくなった。
  かちんと音がして自分の足元に何かが落ちた。
  そっと目を開くと、そこには微かに黒い煙を上げながら真っ二つになった首輪の残骸が、転がっていた。
 「あ・・・・・・」
  郁美は思わず声をあげた。
  絶対に取ることのできないと思っていた首輪を、秋也はほんの一瞬のうちに外してしまったのだ。
  郁美も、兄の信史ですらも外すことのできなかったこの首輪を。
  心の底からすごいと思った。
  こんな人間を相手にしようとしていた自分が、急に矮小に思えた。
  いまの、どうやって――?
  郁美が聞こうとした、そのときだった。

  じじっ、じじじっ、ばちっ。
  そんな音が聞こえた。
  先ほど首輪が外れるときに聞こえた音と同様の、明らかに電気回路がショートした音だった。
  見ると、秋也の足元にあった四角いなにかの装置から、ぶすぶすと微かに真っ黒な煙が上がっていた。
  その装置の側面についていた計器の針がふらふらと頼りなさそうに不規則な揺れをしたあと、赤色のLEDが消えると同時にその指針が『0』に落ちた。
  秋也がその計器の電源をいったん切断し、再び入れてみたが、電源のLEDはぴかりとも光らなかった。
 「どうやら完全にいかれたらしいな。やはりこれ以上は無理だったか・・・・・・」
  秋也が腕を組んで、そう呟いた。
 「え・・・・・・?」
  由香里が聞き返した。
  秋也は小さく肩をすくめた。
  言った。
 「普通では大電力を短期間にこれだけ連続して流すことはないからな。たぶん電源か、内部の回路がいかれたんだ。まあ無理もないが――」
 「そ、そうじゃなくって!」
  由香里が秋也の言葉を遮った。
 「だって七原さんの首輪がまだ・・・・・・。早く直さないと時間が――」
 「いや、直すのは無理だ」
  秋也が言った、さも当然だというふうに。
  それは患者に癌を宣告する医師のように重苦しい口調ではなかった。
  どちらかと言うとさっぱりした、何かをするために可能な限りの手段を尽くしたあとの人間が、やっとそれをやり終えたときのような、あるいは結局それに手が届かなかったとき最後に発する諦めの言葉のようだった。
 「無理って――、じゃあどうするの? 秋也くん、あなたの首輪はどうやって外すの!?」
  典子が言った。
  その表情はほとんど蒼白だった。
  そんな典子に向かって、秋也が言った。
 「わかってたんだ、こうなることは。一度外に出たのも、飯島や南サンにタイヤとタンクのチェックをしてもらうのと同時に、俺がバッテリーのチェックをしたかったからだ。この装置は大電力を使うが、それを供給するバッテリーの容量はそう大きいもんじゃない。せいぜい5人、無理して6人ってところだ。だから、もしこの装置がいかれていなくても、俺の首輪は外せなかった」
 「そ、そんなことって――」
  典子が悲痛な呟きを漏らした。
 「それに――」
  秋也が続けた。
  郁美はふと、秋也の膝がぷるぷると小刻みに震えているのに気がついた。
  その震えはやがて徐々に大きくなっていき――秋也はがくっと床に膝をついた。
  がん、と車体の鉄板に振動が伝わった。
 「秋也くん!?」
  典子が慌てて秋也の身体を抱き起こそうとし――はっとした表情になった。
  秋也の身体に触れた典子の手が、赤い液体でべったりと濡れていたので。
  典子自身に怪我をしたようなところはなかった。
 「秋也くん・・・・・・あなた、まさか――!」
  典子はそう言うやいなや、秋也のもはやぼろぼろになった黒い学生服のボタンを外した。
  第5ボタンまで外し終わる前に、郁美には秋也がどういう状態であったのかが理解できた。
  学生服の下に着ていた白いワイシャツの腹の部分が、赤い血ですっかりと染まっていたので。
  共和国指定の男子学生服はすべて黒が基調となった厚手の生地なので、赤い血に染まっていてもほとんど目立たなかったのだ。
  旗山快も怪我をしていたが――しかし秋也の場合はそれと同じか、もしくはそれ以上の重傷であるように見えた。
  快と戦ったときに負った怪我ならば、典子や健司が知っていてもいいはずだった。
  だとすると、それ以前から――?
  しかしこんな重傷を負っていままでプログラムで生き残ってきて、しかも旗山快と戦ったと言うのだろうか、彼は?
  そういえば秋也は時にどこか疲れたような表情を見せていたが――けれどこれほどの重傷を負っている素振りはまるっきり見せなかった。
  典子も支えきれなくなったようで、秋也は床に腰を下ろし、スライド・ドアに背中を預けるようにしてもたれかかった。
 「悪いけど――俺はおまえらと一緒に行くことはできそうにないな。ここに残るより――他にないらしい」
  秋也が言った、苦しそうに表情を歪めながら。




       §

  秋也は襲いくる激痛の波に耐えながら、なんとか平静を装おうと必至になっていた。
  しかし身体中に脂汗が噴き出し、痛みのためか大量の失血のためかがくがくという震えは止まらなかった。
  逆にいままで立っていられたのが不思議なくらいだった。
  パタパタと雨が車体の鉄板を叩く音が、妙に大きく聞こえる気がした。
  そう、これは秋也にとって、予想内のことだったのだ。
  あのとき――自分のちょっとした不注意から滝川直にショットガンから放たれた散弾の一部をくらってから、自分はもはやこの“プログラム”を生き残ることはないと、そう感じていたのである。
  そして結局、その予感は正しいものになりそうだった。
  旗山快との戦いでほとんどの体力を消耗してしまっている上に、かなりの量を失血していて、とてもこれ以上は一人で歩ける状態ではなかった。
  このままでは、逃げ出す際に足手まといになることは目に見えていた。
  しかも――もう時間がないのだ(時計はもはや『23:55』を示していた)。
  あと5分足らずで、この場所は跡形もなく吹き飛ばされるだろう。
  それまでに、なんとしてでも典子たちを脱出させなければならなかった。
  秋也は言った、気持ちのよい雨音に耳を傾けながら。
 「全員の首輪の反応が消えれば、向こうの不審を買うのは必至だ。それに――俺がここに残っていれば、やつらはこのあたりを集中的に狙うだろう。そうすれば、おまえらが逃げ出せる確率は――」
 「やめて! そんなこと言わないで!」
  典子が激しく首を振りながら叫んだ。
  タオルで拭いきれなかった雫が、黒い艶やかな髪の先端から飛び散った。
  それを秋也は、哀しそうな瞳で見つめた。
 「わかってくれ典子。俺は・・・・・・」
 「あたし――」
  秋也の言葉に、典子が言葉をかぶせた。
  それで秋也は少し口をつぐんだ。
  典子が納得してくれるとは、はじめから思っていなかった、もちろんのことながら。
  しかしだからと言って、他にどうしようもないのだ、これ以上は。
  それは典子ももうわかっているはずだ、少なくとも頭では理解しているに、違いなかった。
  けれど――おそらく納得できない、つまり精神の方が拒絶をしているに過ぎないのだ。
  秋也はそう考えた。
  典子が続けた。
 「あたしは、秋也くんにはまだあると思うわ。あなたの持つ力が。まだ、きっと、あるに違いない、そう思う」
 「プラスのエネルギーってやつかい、それは?」
  秋也が聞き返すと、典子は小さく、顎を引いた。
 「そう」
  秋也は小さくため息をついた。
  言わなければならないのかもしれない、と秋也は思った。
  いままで何度となく言おうとし、そして言うことのできなかった真実を。
  秋也と典子がプログラムに巻き込まれたそのときに交わした、ほんの些細な約束。
  典子自身は、忘れているのかもしれない。わからない。
  けれど秋也には、秋也にとっては非常に重要で、そして非常に心苦しい約束だった。
  だが――秋也は思った。
  言わなければならない、いま、ここで。
  そうしなければ、秋也だけが知っているその真実は、秋也自身とともに事実と認められることなく闇に葬られてしまうだろう。
  だから秋也は、口を開いた。
  もう呼吸をすることすら億劫に感じられたけれど、それでもせいいっぱいに息を吸い込んで、そして、言った。

 「――典子、俺がいちばん幸せだと思うことは、なんだと思う?」

 「えっ?」
  突然の秋也の言葉に、典子は虚を突かれたような表情をした。
 「秋也くんが――いちばん幸せだと思うこと?」
  聞き返した典子に向かって、秋也は小さく頷いた。
  典子がわずかに逡巡し、しかしゆっくり頭を横に振った。
 「わからないわ。哀しいけれど、あたしには思いつかない」
  哀しげにそう言った典子に、秋也は小さく笑いかけた。
  言った。
 「それは、典子――君が生きることだ。誰よりもプラスのエネルギーを持っているのは、俺なんかじゃない、典子なんだ。だから、俺は、典子に生きていて欲しい。そうすれば俺は最高に幸せなんだ。それに――」
  秋也はそこで、言葉を切った。
  少し息が乱れたので、数回深く呼吸をした。
  心拍が弱くなっているのだろうか、どうも頭がハッキリしない感じがした。
 「それに?」
  典子が言った。
  秋也は続けた。
 「それに、典子は、俺のいちばん大切な――」
  そこまで言い、秋也は思わず躊躇った。
  典子は俺のなんなのだろうか?
  いや、そんなことはどうだっていいのだ、この場合。
  典子は俺にとってどういう人間なのだろうか。
  昔のクラスメイト? それは、違う、そんなもんじゃない、俺の典子に対する気持ちは。
  それなら、恋人? それはいままでに何度か考えたことはあるがしかし――どうも釈然としなかった、どれだけ考えてみたとしても。
  それに、そんなことを言ったらよけい典子に苦しい思いをさせることになるのではないだろうか、この状況では?
  告白されてすぐに永遠に離れ離れにならなければならないのだ。
  それは――つらすぎる、あまりにも。
  ならば、やはり、それしかないのだろうか。
  典子は俺にとって――いちばん大切な――たいせつな――・・・・・・。

 「――いちばん大切な友達が好きだった、女の子だから・・・・・・」

  秋也は言った、ぎゅっと拳を握り締め、典子から視線をそらせながら。
  典子は不思議そうな表情で、ぼうっと秋也を見つめていた。
 「いちばん大切な友達が、好き、だった・・・・・・?」
  半ば呆然としたように、典子がその言葉を口の中で反芻した。
  どういう意味かわからない、といった表情のまま、典子は小さく頭を左右に振った。
  黒い髪の先端からぱらぱらと雫が飛び散った。
  秋也はうしろめたさを感じながらも、言葉を紡いだ。
 「3年前のプログラム――典子を好きな人を知ってるって、俺が言ったの、覚えているかい?」
 「う、ん・・・・・・。覚えてる、かな、おぼろげにだけど。でも、他のクラスの子だったんでしょう、それ・・・・・・?」
  典子の自信なさげな声に、秋也は目を閉じて首を振った。
 「慶時だよ、それは。国信慶時。あいつが、修学旅行の1ヶ月くらい前に、俺に言ったんだ。だから俺は、なんとか典子を助けたいと思った。慶時が大切に思った女の子を、なんとかして生かしてあげたいと思ったんだ」
 「ノブさん――が、あたしを・・・・・・?」
  典子が彼の名前を口にしたのは、おそらく3年ぶりだろう、と秋也は思った。
  本当ならば、それは秋也の口から言うべき言葉ではなかったのかも、知れない。わからない。
  慶時がいたらなんと言うだろう、と秋也は考えた。
  わからなかった。自分のしたことが正しいのかどうか、それすらも。
  典子が、濡れた瞳で秋也を見返していた。
  言った。
 「秋也くんは、ノブさんがあたしのことが好きだったから、だからあたしといたの、いままでずっと? ほんとうは、秋也くんは、あたしのことなんてなんとも思っていてくれなかったの? それじゃあ、あたし、ずっと秋也くんに迷惑をかけていただけだったの・・・・・・?」
  ところどころ震える声で、典子がそう言葉を紡いだ。
  秋也は大きく首を振った。
 「違うんだ、典子。俺は――」
  言いかけた言葉を、ぐっと飲み込んだ。
  典子は俺にとっても、いちばん大切な女性なんだ――そう言ってしまえたら、どんなに楽になるだろう。
  しかしそれを言ってしまえば、俺は典子と、別れることができるのだろうか。
  どんなことでもして、また典子と一緒に生きたいという気持ちが、現実より先に暴走してしまうのではないだろうか。
  そうすれば、おそらく典子は、そして他の仲間も、できうる限りのことをしようとするだろう。
  そしてそれは、彼らが生き残る確率を確実に縮めてしまうことになるのだ。
  いまから装置を直そうとしたとしても、工具も部品もない状態では、どうしようもない。
  そのうえ、これ以上この装置を使うとこのクルマのバッテリーの方がもたない。
  万一、脱出の途中でエンジンが止まってしまうようなことがあれば、一巻の終わりだ。
  どうしようもないのだ、こればっかりは。
  秋也はそう考えた。
  そうするしか、方法はないのだ。
  そうなのだけれど、しかし――・・・・・・。
  典子の涙が、秋也の胸を締め付けた。
  俺を想って、俺のためにここまで頑張ってくれた典子に対して、俺は何をしてやれるんだ?
  もう死んだ人間の名前を出して真実から逃げることしかできないのか?
  本当は――俺のいちばんの幸せは――・・・・・・。



  秋也は典子の瞳をじっと見つめた。
  潤んだその黒くて美しい瞳からは、一滴の涙がすうっと頬を伝って流れた。
  手を伸ばせば届くところに、典子がいた。
  自分がいままでなにものにも代えられないくらいに大切に思ってきた人が、目の前にいた。
  もし天国というものが本当にあるのだとしたら(もちろん信じてはいないけれど)、国信慶時は、自分をどういう目で見ているのだろうか。
  はじめは、慶時のために、典子を守っていこうと心に誓った。
  いつからだろう、その気持ちが、『典子のために』に変わったのは。
  そしていつのまにか、それは『自分のために』になっていた。
  けれどその気持ちの根本的なところは、何ひとつとして変わっていなかった。
  慶時のために、典子のために、そして自分のために――俺は典子を守り続ける。
  それがすべてだった。
  嘘偽りのない、それが秋也の本心だった。
  俺はパーだけど、その気持ちだけは、典子に誤解されたまま別れたくはない、――そう思った。
  だから秋也は、気がついたらほとんど力の入らない両腕をせいいっぱいに伸ばしていた。
  そして、目の前にいた典子を抱きしめていた。
  典子が驚きの声をあげる間もなかった。
  秋也は自分の唇を、典子の柔らかいそれに重ねていた。
 「んっ――・・・・・・」
  典子が微かに声をあげた。
  口の中には自分の血の味が充満していたのだけれど、しかしそれでも、典子の体温が感じられた。
  暖かかった、それは、とても。
  秋也は痺れたようになった頭の隅、この自分の幸せを守るためならば自分はどうなってもかまわない、と思った。
  典子が生きること、それが俺の、いちばんの幸せなのだから。
  つまり、結局は俺も自分のために、と言うわけだ。
  秋也は典子に唇を重ねたまま、そんなことを不意に思った。
  いままでプログラムに巻き込まれたすべての生徒が、自分のために何かをしたいと思っていたに、違いない。
  自分が死なないために、生き残りたいと思ったものもいたかもしれない。
  自分の大切な人を守るために、誰か別のクラスメイトを殺そうとしたものもいたかもしれない。
  自分が苦しみたくはないために、自分の大切な人とともに命を絶ったものもいたかもしれない。
  すべては、自分のために。
  それが人間の本心なのだ。
  仮に他人のために自分がなにかをしていると信じていても、それは意識のさらに底、無意識の部分で、『自分のために』が働いているのだ。
  秋也の場合は、自分のために、自分の命を絶つことを選んだ、自分が典子に生きていて欲しいがために。
  誰かのためになにかをしてやる、などということはあり得ないのだ、この世界では。
  自分のために――それは金銭的利益かもしれないし、または自己満足を得るためかもしれない。わからない。
  そのことがいいとか、悪いとか、そういうことではないのだ。
  つまるところ――俺は典子を助けたい、典子がどう思っていようと、俺は俺のために、そうしたい、ただそれだけのことなのだ。
  甘い感覚に浸りながら、秋也は考えた。
  典子は俺を、果たして許してくれるだろうか・・・・・・?
  そして。




       §

  典子にとって、長く、そして短いそのキスの終わりは、あまりにも唐突に訪れた。

  どんっ。

  鈍い音が、ぱらぱらと降る雨の音に混じって、救急車の狭い車内に響いた。
  一瞬、典子にはなにが起こったのかわからなかった。
  目の前がちかちかと明暗しているようだった。
  3年前、銃で足を撃たれたときのような鋭い痛みではなく、なにかに思い切りぶつけたときのような鈍い痛みが、典子の腹部を熱くさせていた。
 「・・・・・・ごほっ」
  思わずむせ返った典子の腹、肋骨の少し下あたり、いわゆる鳩尾と呼ばれる部分に、秋也の拳がめり込んでいた。
  いままで典子を抱きしめていた秋也の腕が、するりと離れた。
 「しゅ――や、くん? ど・・・・・・して?」
  典子は言葉を発したが、ろくに酸素が取り込めなかったために明瞭な言葉になったとは思えなかった。
  鳩尾にむかむかといやな感覚が残っていて、胃の中のものが逆流してきそうだった(もっとも何も食べていないけれど)。
  ただ、ぐらぐらと揺れている頭の隅っこ、典子は、ようやく理解した。
  秋也がなぜ、こんなことをしたのか。
  そして、これからなにをしようとしているのか。
 「だ、だめ・・・・・・」
  典子はそう言ったつもりだったが、その声が空気を震わせることができたかどうかはわからなかった。
  目の前がすうっと暗くなり、四肢から力が抜けていった。
 「典子・・・・・・許してくれ。そして、生きろ。生きて、生きて、もうこれ以上ないくらい幸せになって欲しい」
  真っ暗な牢獄の中、深遠に落ち込みそうになる意識の向こうで、秋也の声が微かに聞こえた。

 「それが俺の、望みだから」

  それきりだった。
  典子は、気を失った。
  典子の脳裏に、最後に見た光景が焼きついていた。
  優しそうに、そして哀しそうに微笑んだ秋也の表情。
  そして彼の背後でちかちかと点滅を繰り返す、ディジタル時計。
  それは既に、『23:59』を示していた――。


  【終了まで残り約60秒】


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