BATTLE ROYALE
〜 背徳の瞳 〜



 一九九五年七月のとある祭日。その日は暖かい初夏の陽気で、行楽日和と呼ぶに相応しい晴れ模様だった。
 埼玉県浦和市立川田中学校の三年生達が修学旅行へと向かう本日早朝。三年二組に在籍する村上陶子は、渋い顔で布団へと潜り込んでいた。
 陶子は例年体調を崩すのは冬と相場が決まっていたのだが、今年に限ってはどういうわけか夏風邪を引いてしまった。
 39℃を越える熱では修学旅行に参加できるはずもなく、先ほど母親に欠席の連絡を入れてもらったところだった。恋人である中谷圭吾との記念すべき初旅行となるはずだっただけに、悔しさもひとしおだ。
 恨めしげに体温計を睨むも今更どうにもならない。天井へと視線を移すとソフトフォーカスのかかった視界の中、半透明の虫が顕微鏡内の微生物に似た仕草で蠢いていた。
 額からは玉のような汗が滲み、当然体からも噴き出しているそれは薄手のパジャマをもぐっしょりと濡らしてしまっている。

 その時部屋のドアが二度ノックされ、返答を待たず母親が盆を手に入ってきた。枕元に置かれた盆には、水が湛えられた湯のみと粉薬の袋が見えた。
「もう……どうしてこんな時に風邪なんてひいちゃうのよ」
 体を起こしながら苛立たしく呟いた。体の節々が鈍い痛みを放ち、不快感を倍増させる。
「仕方ないでしょ。圭吾君との旅行はまた今度できるんだから」
「はああ……」
 母親の優しい声に宥められた陶子は、溜息で愚痴を終えると薬を喉に流し込んだ。そのままゆっくりと布団へ体を戻す。
 ついさっき受信した携帯メールの事を思い出す。それは圭吾からで、お土産を楽しみに待っててくれとの内容だった。
圭吾としても残念だったろうけれど、それを表すと陶子が罪悪感を覚えるだろうし、それで風邪については深く触れなかったのだろう。圭吾はそういう気遣いをする人だと陶子は理解していた。
 母親が部屋を去った後、携帯電話へと手を伸ばして返信を打ち始めた。アンテナの脇で大根を模したキャラクターのストラップが揺れている。
 今頃はバスで移動中だろうか。そんな事を思いながら陶子は送信ボタンを押した。


『今日は下見って事で、今度あたしを連れて行ってね』


 圭吾を含めた川田中学校三年二組の面々を乗せたバスは、他のバスと列を成しながら常磐自動車道を一路北へと走っていた。
 活気あるバスの中では、女子グループがカラオケで懐メロメドレーを熱唱している。男子連中はもっぱら読書や携帯ゲーム、百円単位の賭けカードゲームなどに興じていた。
 圭吾は補助席に並べられたトランプを食い入るように見詰め、手札を順々に捨てていく。戦績は上々で、陶子への土産購入資金の足しにはなりそうであった。
「村上が来られないからって、こんなとこで張り切ってるよこいつ」
「ごっそーさんっす、拓ちゃん」
 本日財布に最も被害を被っている川島拓也が皮肉っぽく呟く。悪びれず圭吾が切り返すと、拓也は俯いて週刊誌を読み始めた。
「そういや、あいつも来てないよな」
「ああ、上杉だろ? あいつが来るはずねえじゃん」
 そんな会話が耳に入ってきた。陶子同様修学旅行を欠席した上杉龍二は、代々家が政府寄りの仕事に就いている事もあって極端な思想の持ち主であった。
 事あるごとに己と他の生徒を差別化し、ちょっとした反政府的言動にも過剰な反応を見せてくってかかる。ゆえにクラスメイトと噛み合わない部分があり、半ば疎外されていた。
 その彼がクラスメイトとの交友を深め、思いで作りを行う目的の修学旅行に参加する意味はほとんどなかった。案の定、本日も早々と不参加を表明して今に至る。
 普通に考えれば担任に咎められそうな事だが、龍二の家がちょっとした家柄な事もあり不問にされた。いらぬ揉め事を背負わぬだけ教師としても都合が良いのだろう。

 不意に最前列の席に腰掛けていた女子生徒の一人が椅子から通路へと転がり落ちた。それに驚いて彼女を見下ろす向かいの席の女子もまた続いて崩れ落ちる。
 真ん中よりやや手前に座席をとっていた圭吾は、そこでガスの噴出音に似た異音と、バスガイドが装着しているガスマスクに気付いた。
「先生!」
 反射的に圭吾は後部の補助座席に腰掛ける担任教師へと振り返った。担任は唇を引き結んだまま、苦渋の表情で首を小さく横に振っている。その間にも次々と生徒は眠りに落ちていく。
 プログラム。その言葉が閃光となって脳裏を走った。中学三年時に修学旅行などで拉致され、クラスメイト同士で殺し合いを強制される理不尽この上ない試み。
 来るべき敵国との戦争に備えた戦闘実験。政府がそう称したこの幸せゲームで、実に年間二千人前後の生徒達が命を失っている。 
 状況を理解した事によるショックか、ガスを吸引した事による目眩か、意識が一瞬飛びかけたがそれでも圭吾は駆け出した。バスガイドの体が一瞬跳ね、表情は窺えずとも動揺したのがわかった。
「圭吾!」
 状況を把握しきれていない拓也の声が背後で響いていたが、応えている暇はない。これは一刻を争う命の危機だ。
 圭吾は息を止め、何かを取り出そうとしたバスガイドの顔目掛けて渾身の右拳を打ち込んだ。傾いだバスガイドの体が脇のタラップへと沈み、更に彼女の顔を蹴り付けてから運転手へと飛び掛った。
 止めろ、と叫びたいが息をするわけにはいかず横からハンドルを握る。抵抗する運転手とのハンドル争奪戦が開始した。
 バスが蛇行を始めるが気を留めている暇はない。圭吾はハンドルを握ったまま、運転手に蹴りをぶち込み続ける。遂にたまらなくなった運転手がハンドルを離し、アクセルを緩めた。
 圭吾は息苦しさを堪え、運転席に押し入ろうとした。刹那、耳をつんざくクラクション音が響いた。
 蛇行して対向車線を越えたバスの正面に、猛スピードでタンクローリーが接近していた。目を見開いた圭吾の網膜が最後に映したのは、陶子の幻覚だった。

 常磐自動車道に、大輪の炎の花が咲き乱れる。
 合計四十五人の死者を出したこの事故こそが、悲劇の始まりとなった。


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