BATTLE ROYALE
〜 背徳の瞳 〜



 黒い闇の塊が不気味な色合いのオーロラで包まれた空を泳いでいる。制服姿の陶子は一人、その闇を見上げていた。
 ここはどこで、何故自分はこの場所にいるのか。直前の記憶すら失われた状態で、ただ絶望感だけが胸に渦巻いている。
 踊るように揺らめく黒い塊は、次第に陶子へと距離を詰めてくる。踵を返して逃走を試みるが、一向に闇との距離は離れない。そもそも地面を蹴っている感触がないのだ。
 足元を黒い影が覆い、戦慄と共に振り返る。闇がオーロラを呑み込み、圧倒的な迫力で陶子へと迫っていた。
 視界が真っ暗になると同時に、自らが闇に溶けていく異様な感触が全身に伝わってきた。

 ――空が落ちてくる。

 飛び起きた陶子がまず目にしたのは見慣れた学習机だった。その上に放り置かれたままの学生鞄は、これもまた見慣れた自身のものである。
「夢……だったの」
 それにしてもこの胸騒ぎは一体何なのか。これほどまでにリアルな夢は記憶になく、それは陶子に不吉な何かの接近を示唆していたように感じた。
 緊張が解れると同時に汗の不快感と骨の痛みが陶子を襲う。すっかりぬるくなった氷嚢を布団脇へと放り、熱い息を一つ吐く。
 布団脇に置いてある空の湯飲みを手にして立ち上がる。水を汲んでこようと歩き始めた矢先、陶子は階下から届く言い争うような声を耳にした。
「……陶子が……ですか!」
「これは……です」
 朦朧とした意識の中でも片方は母親の声と理解できた。もう一人は男性のようだが聞き覚えのない声だ。陶子には兄弟はおらず、父親は陶子の中学入学時に悪性の肺ガンで他界している。
 陶子は訝しく思い、音を立てず襖を開くと忍び足で階段へと近付いていった。階段下の玄関先では、母親が軍服姿の男と何やら言い争っていた。穏やかでない空気は陶子のいる二階まで漂ってくる。
 声を掛けようとしたが、とりあえずは両膝を着いた状態で階下へと耳を澄ませた。
「わかって下さい。これは国が決定した事なのです」
「陶子は熱で寝込んでいるんです! そうでなくてもプログラムなんかに……」
 プログラム。母親が口にしたその言葉で陶子は全てを理解した。
 敵国との来るべき戦いに備えて行われる、政府プロデュースの催し・プログラム。中学三年生のクラスを丸ごと一つ拉致して、クラスメイト同士で殺し合いをさせる大不評企画だ。最も、大不評などと公に口にする者はいないが。
 この戦いのデータを取る事で敵国との戦いに役立てるそうだが、もっと他に方法があるのではないか。第一、年間五十回行われるこの戦闘実験で前途ある若者が毎年二千人近く失われるのだ。正気の沙汰ではない。
「引き取られて下さい!」
「それはできないのです」
 母親の抵抗振りは、まるで自分が参加を要請されたかのようだった。無理もない。父親が鬼籍に入ってからは母子二人で、一蓮托生の精神でやってきたのだ。
 入学当初に母子家庭という理由でいわれなき蔑みも受けた。母親は同僚に同情を貰いながらもそれだけでは陶子を育てる事ができず、夢だったイラストレーターの仕事を捨てて水商売へと身を転じた。
 二人とも必死だった。だからこそ絆も深く、足並み揃えてここまでやってこられた。
 母親の気持ちは痛いほど伝わってきた。陶子が失われれば何を支えに生きていけばいいのか。そこに残るのはこの無駄に広い家と辛い思い出だけに違いない。
 カシャリという音で我に返る。玄関先の兵士が、遂に母親へと突撃銃を構えていた。兵士は苦渋の表情で母親を睨んでいる。
 彼らもまた涙を呑んで陶子を戦場へと連れ出そうとしているのだ。陶子の逃亡を許せばこの国名物の罰である切腹は免れないであろう。兵士達にも家族がいるのだ。
 伝う汗を拭う事もせず、どうするべきかを逡巡する。時間の猶予はない。いずれにしても陶子が出て行かねば母親は銃撃の餌食になるしかないのだ。
 兵士達に気遣いする暇もなければ義理もない。けれど母親に関しては別だ。
「待って下さい!」
 陶子は声を振り絞り、階下へと叫んだ。その拍子に目眩が起こり、思わず横の壁へと両手を着く。母親と兵士が同時にこちらを向いた。
「陶子!」
 母親が驚倒した様子で声を掛けてきたが、構わず陶子は部屋へと戻り、セーラー服の掛けてあるハンガーをそれごと掴んで再び階段前へと戻ってきた。優勝者の映像では皆制服だった。言ってみればこれが自分の死に装束となるのだろう。
 腹を据える時間などなかった。けれどここで陶子が応じさえすればここで死者はでない。母親は生き永らえる。決断するには充分な要素だった。
 自分に関してはこれから考えるしかない。そう考えながら名残り惜しい自分の部屋を振り返る。嗅ぎ慣れた部屋の匂いが、感傷的に鼻腔を刺激する。次第に目元が潤み始める。
「陶子、行っちゃだめよ!」
 階段へと目を振り戻した時、既に母親は二階へと上がり陶子の眼前へと立っていた。熱で痛む体だけに、肩を掴まれただけで鈍い痛みを覚える。
 陶子は何も言葉を発する事ができず、無言で母親を見詰める。母親の目もまた潤んでおり、肩を掴む手は震えていた。とても強い力だった。
 数々の思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
 春、小学校の入学式で我が子の成長を満面の笑みで眺めながら父親と一緒に真新しいランドセルをプレゼントしてくれた。その重量によろめく陶子を見て、母親はまた微笑んでいた。
 夏、千葉の海に行った時は砂浜で取ってきた貝がらを陶子にプレゼントしてくれた。桜色の色鮮やかな貝で、しばらく机に飾っておいた記憶がある。
 秋、毎年裏の林で母親は父親と一緒に栗を採ってきてくれた。それで作った甘い栗ご飯は陶子の大好物だった。卒業文集の自己紹介、好物欄には勿論”栗ご飯”の名前が残っている。
 冬、真っ赤な手で通学する陶子の為に母親がプレゼントしてくれた手袋は、赤い毛糸で編まれた母親手作りの物だった。不思議と心も温もったのを覚えている。
 貰ったプレゼントはもう陶子の手元にはない。けれどそれらは思い出として、陶子が生きる限りその胸に大切に、ずっと輝き続ける。
 今、母親に何と声を掛けるべきか。それだけはわかった。生き残っても、帰られないとしても、これだけは伝えておきたかった。
「お母さん、ありがとう」
 心の中ではいつも思っていた一言。それをあえて言葉にする事の意味を陶子は理解していたし、母親も当然理解しているだろう。
「陶子!」
 涙でくしゃくしゃに枯れた顔の母が肩を掴む手に力を込めたその時、陶子は母親を突き飛ばしていた。母親は少し体を捻る感じで二階の廊下へと滑り、転倒した。
 もう後ろは振り返らなかった。振り返ればその足が止まってしまいそうだったから。
 階段を一段下る度、骨と心が痛んだ。玄関先へと下りた時には、体の芯まで痛みは侵食していた。
「早く連れて行って下さい!」
 戸惑いの表情を見せる兵士に、陶子はありったけの力を込めて嘆願した。それで兵士は了解したのか、陶子の手を引いて外へと早足で退出していく。
「陶子ぉー!」
 背後から届く母親の悲鳴が堪らなく痛ましくて、両耳を塞ぎながら黒塗りのセダン、その開かれた後部座席へと倒れ込むように乗り込む。両目も瞑り、じっと出発の時を待つ。数秒としないで車が振動する感触が伝わり、それでまた全身が痛んだ。
 少しして遮蔽していた感覚を解放する。身を起こして後方を窺うと、遠目に陶子の自宅が見えた。門の前では跪く母親の小さな姿が見えた。
「もう、好きなだけ泣いていいんだよ」
 脇に腰掛ける兵士が予想だにせぬ優しい物腰で言った。それで感情のガードが外れ、陶子は大声を上げて号泣した。絶え間なく流れる涙は陶子の汗で湿ったパジャマを更に濡らし、座席まで滴り落ちていった。
 


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