BATTLE ROYALE 2
The Final Game



       [ 第十部 / 終盤戦(後編) ] Now 9 students remaining...

          < 49 > 真実


 「旗山くんは、藤本さんのことが、好きだったの・・・・・・?」

  郁美の言葉に、快はいささか面食らったような表情をした。
  郁美はふと、奇妙な錯覚に捕らわれていた。
  自分がクラスメイトと修学旅行の真っ最中のような(事実、少し前まではそのはずだったのだけれど)不思議な感覚だった。
  すぐに、ああ、と思った。
  まだ少し肌寒い朝、学校を出発したバスの中で、中山有里と天道沙利美が、その話題で面白そうに肩を揺らして笑い合っている姿を思い出した。
  それを見たのは、まだほんの2日くらい前のはずなのに――とても、とても古い記憶のように思われた。
  青春の中学生時代、セピア色にあせた写真の中の光景。ノスタルジック。
  しかし、そんな光景はこれから先、戻ってくることはないだろう、もう二度と。
  郁美はそれで少し、胸が痛んだ――ほんの少しだけだったのだけれど、とにかくまだ、感情は残っているようだった。
 「もしそうだったのだとしたら、あなたが藤本さんを殺さなかった理由は、説明がつくわ。あなたは、殺したくなかったんでしょう、藤本さんを?」
  もう一度、訊いた。
 「藤本さんのことを、あなたは、どう思っていたの?」
  すると快はちょっと唇をすぼめ、前髪をうざったそうにかき上げた。
  言った。
 「ぼくは、藤本に対して、特別な感情を持ったことなんか、一度もないね」
  思わず背筋が凍りついてしまうほどの冷たい瞳で、郁美を見返した。
 「第一、仮にそうだったとして、それが、君となにか関係あるかい?」
 「それは・・・・・・べつに、ないけど」
 「そうだろう? だったら、他人のことに関して、勝手な憶測で物事を決め付けるようなことは、しないでくれ」
  快にしては珍しく、苛ついたような口調だった。
  ちらっと腕時計に目をやり、快が呟いた。
 「時間を無駄に使いすぎた。連中、もう合流しているかもしれないな・・・・・・」
 「連中って・・・・・・?」
  郁美が訊いた。
  しかし、快はその質問には答えず、さっと郁美に背を向けると、奈津子と沙利美が折り重なって倒れている瓦礫の方に向かって歩き出した。
  死体は――何発もの鉛玉を喰らった2人の死体は、潰れたイチゴジャムのクレープのようになっていた。
  快はそんなことは気にしたふうもなく、頭部が砕かれている奈津子の手から、スーパーブラックホークをもぎ取った。
  そして彼女の制服の破り、中に着ていた防弾チョッキを脱がせた。
  それからあたりを見まわし、少し離れたところに置いてあるディパックを見つけると、その中からたったいま奪った拳銃の弾を引っ張り出した。
  チョーク箱ほどの大きさだった。
  その蓋を開けて中身を確認すると、大人の人差し指くらいもある大型の弾丸が、ずらっと収まっていた。
  スーパーブラックホークのシリンダーを開いてロッドを押すと、激発の衝撃で奇妙に変形した薬莢が、ちりんちりんと地面に落ちた。
  快は慣れた手つきでシリンダーに弾丸を詰め込むと、箱の中の弾丸をすべて取り出し、ズボンの右ポケットに押し込んだ。
  その拳銃はズボンのベルトのあいだに突っ込んでおき、瓦礫の向こう、沼田正樹が死んでいる方に向かって歩いて行った。
  植え込みを乗り越えて、真っ赤なソーセージをまたぐと、そこにはアーモリー社製のディフェンダーが転がっていた。
  デリンジャーと肩を並べるほどの有名なポケットピストルだが、撃ち合いに向くような銃ではない、どちらにしても。
  快はそれを拾って、ズボンの左のポケットに突っ込んだ。
  それから、もう少し離れたところに、太い筒のようなものが転がっているのが見えた。
  Hk−pグレネードランチャーだった。
  快はそれも拾うと、正樹が持っていたディパックを肩に担ぎ、郁美の方に顔を向けた。
  言った、微かに笑いながら。
 「逃げるのなら、いまのうちだ。ここから先は、もう、いくらぼくでも君の命を気にかけている余裕はないだろうからね」
 「そ、それって――」
  郁美は、思わず唾を飲み込んだ。
  喉がごくん、と大きく動いたような気が、した。
  快が、ちらっと笑んだ。
 「随分と心配そうだけど、君が心配しているのはぼくの命かい? それとも、彼氏の方かな?」
  それで、郁美は、眉を跳ね上げた。
 「か、か彼氏って? なによ、それ、どういう意味?」
 「なにって、そのままの意味だけど? だって、ほら、君は前に、ある人となら一緒に逃げたい、って――」
 「け、健司くんはそんな――!」
  言ってから、しまった、と思った。
  ああ、おねえちゃん、思わず口を滑らせちゃいましたね? オイルでも塗ってあったんですか? そりゃあ、よく滑るでしょう、足元に気をつけてくださいね。
  ちくしょう、と郁美は心の中で歯噛みしたが、遅かった。
  快は少し眉を上げ、にやにやと面白そうに郁美を見ていた。
 「そうか、君の彼氏は黒澤の方だったのか」
 「違うってば! 健司君とあたしは、べつに、そんな――」
  郁美が真っ赤になって言い返したので、快はくつくつと笑い出した。
 「いや、ぼくはてっきり“ワイルドセブン”の方かと思っていたんでね。ちょっと意外だったな、黒澤とは」

  快の言葉に、郁美は雷に撃たれたような衝撃を覚えた。
  いや、正確に言うならば、快の言葉にではなく、快が発した単語に対して、だ。
 「ワイルド・・・・・・セブン・・・・・・?」
  郁美は、呟いた。
  どこかで聞いたことのあるような単語だった。
  それは市販されている煙草の銘柄であったのだけれど――しかし、それとはまた別の意味が、あったような気がした。
 “ワイルドセブン”。――なんだっけ、それは、確か、お兄ちゃんが・・・・・・。
  はっとした。
  先程の記憶よりもさらに古い、遠い昔の光景が、郁美の脳裏によみがえってきた。
  いつだったかはわからない――それは、兄の信史が、クラスマッチのバスケットボールで優勝したときの、記憶だった。



  その日は、とても蒸し暑かった。
  いや、気候自体はたいして暑くもなかったのだけれど、郁美の記憶には、むっとするような熱気が漂う体育館が強烈に印象的だったのを覚えている。
  中学校の体育館だった。
  それは、都立第壱中学校の真新しい体育館ではなく――懐かしい、あの城岩中学校の体育館だった。
  もちろん、郁美にとっては城岩中学校は、母校でもなんでもなくて、近所にあるただの学校であった。
  しかし、兄が3年間――本当は2年と数ヶ月だけなのだけれど――通い続けたその学校は、郁美にとっては一度も生徒として行ったことがなくても、立派な母校のような感じだった。
  日曜日など、信史の部活を見について行っては、よく言えば歴史のある、悪く言えばくたびれた体育館で、兄の活躍ぶりを見ていたものだった。
  それで、とにかく、その日は郁美の小学校が創立記念日で休みだったため、郁美は一人で中学校に遊びに来たのだった。
  小学生が中学校に入るということは少なからず勇気がいるものだが、そこはやはり、あの“ザ・サード・マン”三村信史の妹ということで、郁美は主に女子から(もちろん一部の男子にも)人気があったため、あまり気にしたことはなかった。
  郁美がその熱気に顔をしかめていると、「あれ。三村くんの妹さん、だよね?」と声をかけられた。
  振り向くと、そこには体操着を着た、三つ編みの女生徒が立っていた。
  知らない人だった。
  なぜ自分のことを知っているのだろうと不思議に思っていると、その女生徒が言った。
 「あ。あたし内海。内海幸枝っていうの。ほら、このあいだ、バスケの練習、見に来てたでしょ? そのとき、隣のコートでバレー部もやってたんだけど、そのときに、ね」
  そう言って、ちらっと笑んだ。
 「あんまり一生懸命見てるもんだから、あとで三村くん――あ、お兄ちゃんね。三村くんに聞いたら、妹だって言ってたから」
 「お兄ちゃんのお友達?」
  郁美が訊くと、幸枝は頷いた。
 「そう。同じクラスなの。それで、あなた、名前はなんていうの?」
 「郁美」
 「ふうん、いくみちゃんか・・・・・・」
  幸枝が頷いたとき、ドドン、と大きな音が聞こえた。
  床が抜けそうなほど大きく振動した。
  郁美は、音のした方に視線を移した。
 「ああっ。また入れられたみたい・・・・・・」
  幸枝が、悔しそうに呟いた。
  コートでは、信史がバスケの試合をしている真っ最中だった。
  日めくりカレンダーのような得点ボードは、B組が16点、D組が46点と、信史のいるB組は大差で負けていた。
 「なんで? お兄ちゃん、負けてるの?」
  郁美が訊くと、幸枝は「う〜ん」と小さく唸った。
 「まあ、向こうのチームには、信史くんと同じバスケ部が4人もいるから、さすがにつらいんじゃないかなあ」
  そう言って、ちらっと窓から見える校庭の方に視線を移した。
  校庭では、ソフトボールの試合をやっているらしかった。
  時々、カーンと金属バットでボールを打つ音や、わあっという歓声が聞こえた。
  幸枝は郁美の方に視線を戻すと、言った。
 「ほら、もっと近くに行ってお兄ちゃんを応援してあげてよ」
  それから、郁美の手をとって、B組のベンチの方に連れて行った。
 「典子ー。ほら、お客さま!」
  幸枝はベンチに座っている、ショートカットの女生徒に手を振った。
  その女生徒は、一瞬、不思議そうな表情で郁美を見た。
 「三村くんの妹で、ええっと、郁美ちゃんっていうんだって」
 「そうなの。はじめまして、郁美ちゃん。うんっと、あたし、典子。中川典子。よろしくね」
  典子はそう言って、郁美の頭を撫でた。
  それから、ベンチの上のタオルをどかして、郁美と幸枝の座る場所を確保してくれた。
 「どう? なんか、あんまり調子、よくないみたいね?」
 「うん――」
  幸枝が訊くと、典子は曖昧に笑って頷いた。
 「ほら、バスケ部の2人が、三村くんを完全にマークしてるから」
 「う〜ん・・・・・・あ!」
  ドドン、と再び大きな音が響いた。
  信史が相手のマークを振り切って、ダンクシュートを決めたのだった。
  わあっという歓声が(主に女子から)あがり、会場がわいた。
  ここで、ピピーッとコールが鳴った。
  前半戦の終了だ。

 「お兄ちゃん、なんで、負けてるの?」
  ベンチに座って、汗を拭きながらミネラル・ウォーター(今回のプログラムで政府が支給したやつと同じ銘柄だった、いまいましいことに)を飲んでいる信史に、郁美は言った。
  信史が、ちらっと郁美の方に視線をやり、ふうっと大きく息をついた。
 「あのなあ、おまえ、なにしに来たんだよ?」
 「応援。決まってるじゃん」
 「そうじゃなくって――学校は? 土曜っつったって、平日だろ、今日は」
 「創立記念日」
 「あっ、そ・・・・・・」
  信史はまた、はぁ〜あと息をついた。
  郁美は、そんな信史のジャージの裾を引っ張った。
  汗が染み込んでいて、少し冷たかった。
 「ねえ。勝てるよね? お兄ちゃん、俺はバスケの天才ガードで、スタープレイヤーだ、っていつも言ってたじゃん」
 「うるせぇなあ・・・・・・」
  信史は呟くように言うと、頭からすっぽりとタオルを被った。
  すごい汗だった。
  郁美が膨れていると、「ねぇ、シンジ?」と誰かが信史に声をかけた。
 「あ? ああ、豊か。なんだ?」
  信史はタオルを被ったまま、返事をした。
  豊と呼ばれた男子生徒は、なにかを言いたそうにしていたが、少し躊躇っているようだった。
 「なんだよ?」
  信史がタオルから顔を出して促すと、豊はおずおずと口を開いた。
 「うん、あのさ。さっきから、ベンチで見てたんだけど、シンジ、もっと他の味方にも、パスとか出した方がいいんじゃないかなと思ってさ」
 「なんだ、そりゃ?」
  信史が不機嫌そうに言った。
  それで、豊は、もぐもぐと口ごもった。
  それでも、小さな声で言った。
 「ほら。シンジ、バスケ上手いけどさ、おれ、もっと仲間を信用した方が、いいと思うんだ。さっきから、あんまり他の奴に、パス出してなかったろう?」
 「・・・・・・おまえな、よくそういう恥ずかしい台詞を堂々と言えるよな?」
 「でもさ――」
  信史は手を上げて、豊の言葉を遮った。
  言った。
 「わかった、わかった、わかりました。でもな、俺だって、好きでパスを出さないわけじゃないんだぜ?」
  信史は少し投げやりな調子で、言った。
  郁美は、黙ってそのやり取りを見ていたが――少し後悔していた。
  信史だって、悔しいに決まっているのだ。
  負けていて悔しくないやつなんか、いるはずがない、ことバスケに関しては天才的な才能を持つ信史のこと、それは他の人よりも何倍も悔しいに決まっている。
  それなのに、自分はなにも考えずに、「勝てるよね?」などと軽く言ってしまったのだ。
  まったく、信史にしてみれば、「人の苦労も知らないで」と言いたくもなるだろう。

  ピピーッと休憩時間終了のコールが鳴った。
  信史はタオルを郁美に放ると、軽くジャンプをしてから、コートに向かった。
 「ねえ、シューヤ、まだ終わんないの?」
  郁美の頭上で、豊が幸枝に訊いた。
  幸枝はさあ、というふうに肩をすくめただけで、なにも言わなかった。
 「シューヤがいれば、シンジももっと動けると思うんだけど・・・・・・」
  豊が残念そうに呟いた。
  郁美には、その“シューヤ”というのが誰なのかはわからなかったのだけれど、とにかく、なんだかすごい人のようだった。
  ピーッとコールが鳴り、後半戦が始まった。
  ダンダンとボールがバウンドする音が響いた。
  相手チームがボールのイニシアチブを握っている状態だ。
  信史には、同じくらいの体格の奴(おそらくバスケ部の奴だ)が2人もついていて、完全にマークしていた。
 「赤松! 飯田! 取りに行け!」
  信史が叫んだ。
  少し太めの人と、黒く焼けたに大柄の人が、ボールを持っている相手に向かって行った。
  文字通り、突進だった。
  その突進はすぐに相手に察知され、軽いドリブルで回避されてしまった。
 「クソ! もっとよく相手の動きを見ろ!」
  味方に指示を出しながら、信史はボールに食いつこうと必死になっていた。
  しかし、マークの2人は容易に信史にボールを持たせてくれなかった。
  まあ、信史にボールが渡れば、ゴールが脅かされるのは必至なので、当然のことなのだけれど。
  相手は次々にパスを出し、どんどんゴールに近づいていった。
 「シュートシュート!」
  相手チームのベンチから声がかかった。
  それに呼応するように、しゅっとシュートが放たれた。
  それで、ボールは、音もなくゴールをくぐった。
  コールが鳴った。
  わあっと歓声があがった。
 「クソッ」
  信史がちっと舌打ちをした。
  また30点のビハインドだ。
 「入れられちゃったね」
 「・・・・・・」
  隣に座っていた典子が言ったが、郁美はなにも言わなかった。
 「七原くんがいればなあ」
  幸枝がぽつりと呟いた。
  それで、郁美は、幸枝を睨みつけた。
 「お兄ちゃんだけじゃ、勝てないみたいな言い方、しないでください」
  幸枝はちょっと目を開いて郁美を見たが、少し肩をすくめて、「ごめん」と言った。
 「でも」と付け加えた。
 「いまのままじゃ、勝てないよ、きっと。べつに信史くんがだめだって言ってるんじゃなくて、彼の力を精一杯に出させてくれるチームメイトが、必要なんだよ」
 「それは――そうかもしれないけど」
  郁美が頬を膨らませたとき、ベンチの後ろの方で、ざわっとざわめきが聞こえた。
  それで、郁美は、振り返った。
 「あっ!」
  典子と幸枝が、揃って声を上げた。
 「悪い悪い。ちょっとソフトの方が長引いちゃってさ。どんな感じだ、こっちは?」
  そう言って現れたのは、髪が女の子みたいに長い、目鼻立ちの整った、半袖に短パンを履いた男子生徒だった。
  彼は得点ボードを見ると、ちょっと意外そうに眉を上げた。
 「へえ、三村のやつ、苦戦してるじゃん」
 「はい、これ。出てくれるんでしょ?」
  幸枝が、『7』のゼッケンを彼に渡した。
  彼はにやっと笑い、頷いた。

 「メンバーチェンジ!」

  ジャッジがコールを鳴らした。
  それで、はあはあと肩で息をしていた選手たちが、揃ってジャッジの方を見た。
  それから、続いて、“シューヤ”という人に視線を移した。
  相手チームの選手が、ざわつき始めた。
 「おい、やべぇよ」
 「あいつ、ソフトボールだろ? もう終わったのかよ、ちょっと早過ぎねぇ?」
 「コールドゲームだってよ。やっぱ、ただもんじゃねーって」
  色々な囁きが聞こえた。
 “シューヤ”は気にしたふうもなく、『7』のゼッケンをつけると、ずかずかとコートに入っていった。
 「赤松、よくねばってくれたな。ここからは、俺がやるよ」
  そう言って、太った人(赤松という名前らしい)の肩を、ぽんと叩いた。
  ぜえぜえと苦しそうにしていた赤松は、それで、安心したようにちらっと笑んだ。
  それは、こいつが来れば30点のビハインドなんてどうということはない、というような笑みだった。
  ひょっとしたら、自分が休めるので、嬉しかっただけなのかもしれないけれど。
  とにかく、“シューヤ”という人の顔を見るなり、B組の選手たちの顔がぱっと明るくなった。
  信史が、“シュ−ヤ”をちらっと見た。
 “シューヤ”が右手の親指を上げて、それに応えた。
  ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らした信史だったが、べつに不機嫌そうではなかった。
  ピーッ、とコールが鳴った――

  それから、郁美は、魔法にかかったようにゲームに見とれていた。
  いや、郁美だけではない。
  その体育館の中にいた観客や、ベンチで応援しているチームメイト、ひょっとしたら選手たち自身も、魔法にかかっていたのかもしれない、ひょっとしたら。
  得点ボードが、くるくると目まぐるしく動いていた。
  18点だったB組の得点が、20点、30点、40点とぐんぐん増加していった。
  気がついてみると、30点のビハインドはいつの間にか、B組が48点、D組が50点と、ほとんど差がなくなっていた。
  会場内の熱気が、もはやどうしようもないほど高まっていた。
  ギャラリーの窓をいっぱいに開放して、天井についている埃まみれの換気扇をフル稼働させても、放熱は間に合っていないようだった。
  ひょっとしたら、室温が30度を超えているかもしれない、と郁美は思った。
  本日の体育館の予想最高気温は赤道直下並みになるでしょう。お出かけの際はハンカチと制汗剤をお忘れなく。
  もちろん、本当は25度くらいの適度な温度だったのだけれど、郁美自身が熱くなっていたので、よくわからなかった。
 「ちくしょう。ラスト1分だ! 逃げ切れ逃げ切れ!」
  相手チームのベンチから、激が飛んだ。
  郁美は得点ボードの横にあるストップウォッチを見た。
  大きな電光表示式のストップウォッチは、残り時間62秒を切ったところだった。
  ボールは、相手チームだ。
  このままパスをまわし続けて時間を稼がれると、ちょっと、まずい。
 「お兄ちゃん、頑張れ!」
  郁美は叫んだ。
  それは、他の大声にかき消されて、信史に届いたのかどうかはわからなかった。
  ただ、一瞬、信史が苦笑のような表情をちらっと覗かせた。
  おまえ、そんな大声で、おにいちゃんなんて、言うなよ。恥ずかしいじゃんか。
  そんな表情のようだった、郁美の気のせいかもしれないのだけれど。
  しかし、とにかく、信史はやった。
  マークしていた2人の疲労に乗じて、いきなりダッシュして2人を引き離し、あまいパスで空中に漂っていたボールをジャンピングキャッチした。
  見事だった、自分の兄とは思えないくらいに。
  そして、信史はゴールを見据えた。
  ゴールの右下、ラインぎりぎりのところに、“シューヤ”が立っていた。
  信史は秋也にパスを出そうとし――止めた、いきなり背の高いやつがブロックをしてきたので。
  いや、そもそも信史は、秋也にパスを出す気などなかったのかも、知れない。
  これは巧妙な、そう、注意を自分と、秋也に引きつけるための、フェイントだった。
 「倉本ッ!」
 “シューヤ”が、叫んだ。
  郁美は“くらもと”という人が誰なのかわからなかったのだけれど、しかし、信史はそれを予期していたかのように、“シューヤ”の声がかかったのと同時にボールを両足の間でバウンドさせ、自分の真後ろに立っていた人物――即ちそれが倉本という人なのだろうが――にパスを出していた。
  ほぼノーマークだった倉本は、ボールを受け止めると、一瞬逡巡し、それから軽くジャンプをしてボールを放った、ゴールに向かって。
 「和くん、頑張って!」
  女生徒の声が体育館に響いた(それは、小川さくらの声だった、郁美が知っているわけはないのだけれど)。
  そのボールはゆるゆると空中で回転していたが――バックボードとゴール枠の接続部分のあたりにぶつかり、上に大きく跳ね上がった。
  敵味方が入り乱れて、そのボールを取ろうと手を伸ばした。
  それは、めちゃくちゃに腹が減っている囚人たちが、たったひとつのパンをめぐって争いをしているかのようだった(それで郁美は、この“プログラム”がその状況にとてもよく似ていることに気づいた。まさに、たったひとつの椅子取りゲーム。グレイト)。
  その争いを制したのは、まるでそれを予期していたかのように、ゴール真下の一番いい位置につけていた、“シューヤ”だった。
 “シューヤ”は、信じられない跳躍力でリバウンドを奪取し、そして両足が地面につかないうちに、そのボールをコートの中心めがけて放った。
  実は、それの1年後の“プログラム”で、彼は桐山和雄が投げた手榴弾で同じことをやって見せたのだけれど、もちろん郁美が知るはずもなかった。
  それで、とにかく、会場内がざわめいた。
  どうして、わざわざゴールからボールを遠ざけるのか、時間もないのに――
  郁美にはすぐに、理由がわかった。
  コートの中心に立っていた信史の手の中に、ボールがきっちりと収まった。
  まったくのノーマークだった。
  バスケ部の2人は、もうゴール下の争いを予想して、自分たちの陣地の方に戻ってきていた。
  信史が、すっと両手を上げた。
  脚を曲げ、軽くジャンプをした。
  左腕が伸び、バスケットボールをふわっと押し出した。
  それは、とても静かな動作であったのに、押し出されたボールはカタパルトで射出された戦闘機のように、空中を切り裂いていった。
  体育館が、静まり返った。
  相手チームの選手も、ベンチの応援も、観客も、味方チームの応援さえも、すべてが、聞こえなくなった。
  ゆっくりと回転しながら飛行していたボールが、ぱすっという音を立ててゴールをくぐったのと、ピーッというコールが鳴ったのは、ほぼ同時だった。
 「ゲームセット!」
  ジャッジが、宣言した。
 「スリーポイント。51対50で、B組の勝利です」
  その瞬間、B組の優勝が、確定した。
  会場内が割れるような歓声に満たされた。
  郁美が最も驚いたのは、隣に座っていた幸枝と典子が、一番はしゃいで喜んでいることだった。
  試合をじっと見守っていた姿とは、想像もできないほど、きゃあきゃあと騒ぎ立てていた。
  コートでは、直接的な勝因を作った信史と、間接的な勝因を作った“シューヤ”が、ぱん、と右手の平を打ち合った。
  信史も、“シューヤ”も、嬉しそうだった。
 「さすがシンジとシューヤだ。すごい逆転劇だったよね」
  ベンチに座っていた小柄な男子生徒(確かユタカといった)が、感嘆したように呟いた。
 「そりゃそうだろ。なにしろ、“ザ・サード・マン”と“ワイルド・セブン”の最強コンビだぜ?」
  ベンチの後ろに立って、じっと試合を見ていた背の高い男子生徒(この人なら、いつか一回だけ、郁美の家に来たことがあった。確か武道を習っていて――スギムラ・・・・・・なんとかという人だ)が、頷きながら言った。
 「杉村くんも入れば、コンビじゃなくてトリオになれたのにね」
  幸枝が言うと、弘樹(思い出した、名前はヒロキだ)はちょっと苦笑して、「かんべんしてくれ」と言った。
  それがいかにも勘弁して欲しそうな口調だったので、ベンチにいた全員が、どっと笑った。
  それで、郁美も、くすくすと笑ってしまった――



  そこで、郁美の記憶は、まるで絵の具が水に溶けているかのように曖昧になっていた。
  おそらく、あのあとは人にもみくちゃにされて、結局信史には会えなかったような気がする。
  ただ、その後も、自宅で信史の口から頻繁に“ワイルド・セブン”という言葉が出るようになった。
  もちろん、煙草の銘柄をさす意味と、そうでない意味で。
 「ワイルド――セブン――」
  呟いてみた。
  なんだか、懐かしいような、哀しいような、複雑な気持ちになった。
  郁美は、考えた。
  幾人かの言葉が、郁美の記憶からよみがえってきた。

 『七原くんがいればなあ』
 『ねえ、シューヤ、まだ終わんないの?』
 『なにしろ、“ザ・サード・マン”と“ワイルド・セブン”の最強コンビだぜ?』

  それは――即ち――
 “ワイルドセブン”とは、『七原秋也』という人物を指す言葉ではなかったか、記憶が確かだとすると?
  それが、なぜ、この場所で旗山快の口から出てくるのだろう?
  郁美の困惑した表情を見て、快が微かに笑んだ。
  それは、どういうわけか、意地が悪いような、意味ありげな笑みだった。
 「思い出せないかい? 君は、おそらく、その言葉を聞いたことがあるはずだ」
  快はそう言い、芳明の指がかかったままになっていたアサルトライフルを拾い上げた。
  芳明の腕が一緒に持ち上がったが、すぐにそれはばたっと地面に落ちた。
  もうすっかり血の気がなくなっている芳明の手は、まだアサルトライフルを握っているかのような形のまま、固まっていた。
  快が、学校指定の革靴のつま先で芳明の身体をちょいと蹴った。
  首から上が挽き肉のようになった身体が、ごろりと転がった。
  芳明のズボンのポケットを漁り、アサルトライフルの予備マガジンを2本取り出すと、快はそれをポケットにしまった。
  そして、あたりをきょろきょろと見回した。
  他になにか落ちていないか、探しているようだった。
  探しながら、快は、言った。
 「君にはお兄さんがいたね? 三村信史。そうだろう?」
 「ど、どうして――」
  どうして知っているのか、と聞こうとして、やめた。
  快は軍人なのだ。
  3年前のプログラムのことを知っていても、べつにおかしくはない。
  第一、このプログラムにも『命令』で参加しているようなものなのだから、参加者の素性くらいは調査済みなのだろう。
  郁美は政府の指示に従って東京に引っ越してきたのだから、調べるまでもないのかもしれない。
  とにかく、快は、信史のことを知っているのだ。
  快は、脚で地面の長い草をかき分けながら、続けた。
 「1997年、第12号プログラムに参加、全身銃創で、死亡」
 「だから? それが、なんなの?」
  郁美は、苛々しながら、口を挟んだ。
  過去の事実をいちいち説明されたって、おもしろくも何ともない。
  逆に腹が立つだけだった。
 「おっ」
  快が小さく呟き、腰を屈めた。
  草むらの中から青銅色に光る鎖分銅を掴み上げた。
  鎖の絡み具合をなおしながら、快が言った。
 「そのプログラムは、過去に例のない事件があった。覚えているかな?」
 「担当官や兵士が皆殺しにされたんでしょ? 優勝者も死んで、2人が脱走に成功したとか――」
 「そう」
  快が頷いた。
 「事情を知っている関係者が誰もいなくてね。そのうえ、どっかの馬鹿が会場となった沖木島に毒ガス――大東亜圧勝2号って言うんだが――とにかく、そんなもんを撒いたせいで、ろくな調査ができなかった。しかし、もちろん調査をした後でも、詳しいことは外部に公開する必要はない。一部――と言うか大部分が、報道規制もされていたしね」
 「・・・・・・」
  郁美は黙っていた。
  なにが言いたいのだろうか、このひとは?
  郁美が思考を巡らせていると、快が郁美の方を向いた。
 「ぼくは、君の知らない情報も知っている。君のお兄さんのことも、それ以外のこともだ」
  快の目が、きらりと光った気がした。
  郁美の心臓が、どくん、と跳ねた。
 「君は、そのプログラムを脱走した人間を、知りたくないかい?」
  どくん、どくん、と鼓動が早くなる。
  郁美は息苦しさを感じていたが、一見、平静を装って、言った。
 「べつにそんなことを知っても、今更どうなるわけじゃないでしょう? あたしには、関係ないわ」
 「ほう?」
  快が、いやらしい笑みを浮かべた。
  言った。
 「君のお兄さんを殺したかもしれない人間だよ? ぼくは誰が君のお兄さんを殺したかまでは把握していないが、その可能性も否定できないだろう?」
 「――ッ!」
  郁美は、絶句した。
  快は片方の眉をきゅっと上げると、どうする? といった感じで郁美を見つめた。
  郁美はこくっと喉を鳴らし、唾液を飲み込んだ。
  喉がからからに渇いていた。
  水はまだあるので、まあ、当座は、快の話が優先だと思った。
 「どうして・・・・・・」
  郁美が言った。
  喉が渇いているからか、声が震えていた。
 「どうして、そんなことを、今更になって言う必要があるの? そんなの、全然、関係ないじゃない、この状況では?」
 「いや――」
  快が小さく首を振った。
  乱れた髪の先から、雨の雫が飛び散った。
 「関係ないことはない。ぼくは、君にこれ以上仕事の邪魔をされたくないだけだ。さっきみたいにね」
  さっき、とは、奈津子を殺そうとしたときのことだろう、もちろん。
  そうですよ、おねえちゃん。営業妨害は、れっきとした犯罪ですよ? そんなことも知らなかったんですか、中学3年生にもなって?

 「わけ、わからないわ。なにが言いたいの?」
  郁美が言うと、快は頷いた。
 「だろうね。まあ、わかっていたら、君も何らかのリアクションをとっていただろうからな」
 「だから、それって何のことよ?」
  苛々した口調で郁美が言うと、快はふふんと鼻で笑ったような声を出した。
  それから、言った。
 「君の身近に、その人物がいるってことさ」
 「え・・・・・・?」
  郁美は、ぽかんと口を開いた。
  予想外の言葉だった、それは。
  身近にいる? その――3年前にプログラムを脱走した人(なのか人達なのかは知らないけれど)が?
 「ち、ちょっと、待ってよ。そんなわけ――だって、あたしの知ってる人に、そんな人なんていないわ」
  慌てて言葉を紡ぎだした。
  ぱっと郁美の頭に思い浮かんだ人物のなかに、そんな人はいないはずだった。
  そもそも、その人達は全国的な指名手配犯に指定されているはずだ。
  自分の身近に、指名手配犯など、いるはずがない――と思う、たぶん。
  すると快は、ちょっと首を傾げて微かに笑んだ。
 「それは、そういう気持ちで見ていないからさ。この人が指名手配されているかもしれない、と思って接すれば気づいたかもしれないが、そんなことはまず、あり得ないからね」
 「だから誰なのよ、それは!? はっきり言いなさいよ!」
  大きな声で、郁美は怒鳴った。
  快の焦らすような態度もむかついたし、なにより、そのことを聞いて信じられないくらい、自分が動揺していることにも腹が立った。
  呆れたような表情で、快は郁美を見つめ返した。
 「本当にまだ気づかないのかい? 思ったよりも楽天主義者だな。君の身近にいる、お兄さんと同級生だった可能性のある人物は、一人しかいないと思うんだけどな」
 「はっきり言えって言ってるのよ! だからそれは――」
  郁美は言いかけ、しかしはっと息を呑んだ。
  信史と同級生だった可能性のある人物は、当座郁美の知り合いでは、一人しか思い浮かばなかった、快の言うように。
  しかし――まさかそんなことが――?

 「気づいたね?」
  快が言った。
 「まさか――まさか――それって――」
 「そうだ」
  快が頷いた。
  郁美は、また、唾を飲み込んだ。
  口を開いた。
 「まさか――三村さんが・・・・・・?」
  快は、今度は頷かなかった。
  しかし、そのかわり、小さく笑んだ、郁美に向かって。
  それは肯定の笑みに違いなかった。
 「本名は、七原秋也だ。“ワイルド・セブン”という通り名があったようだが、お兄さんから聞いたことはないかい?」
  七原秋也。そして、“ワイルド・セブン”。
  どちらも郁美の記憶にある名前だった。
 「それは――あるけど――でも――」
  壊れた拡声器のように、声が情けなく震えていた。
  信じられなかった。いやはや、本当に信じられない。
  もちろん、快の言うことを全面的に信用することはできないかもしれない。
  もしかしたら、すべてが快のでっち上げた作り話なのかも、知れない。
  そりゃあ――彼は渡米学生だし、年齢も信史とちょうど同じになるのだけれど(生きていればだ、もちろん)、しかしそれだけで快の話を信じることはできなかった。
  快は郁美の思考を読み取ったように、小さく肩をすくめた。
 「もちろん、信じる信じないは君の自由だ。ぼくは事実を言っているだけなんだからな。で、君はこの事実を――まあ事実だと仮定した場合だが――どう思う?」
  郁美は、答えなかった。 
  どう思う、と訊かれても、それは、こまる。
  だが、もし、快の話が本当だとすると――どうすればいいのだろう、自分は?
  不意に、快に殺された親友の北上彩(女子六番)の言葉が脳裏によみがえってきた。

 『もしお兄さんを殺した人かもしれない人が生きていて、あなたの前に現れたら、どうする? 郁美ちゃんは、その――』

  それはこのプログラム会場の中心付近にある高校のコンピュータ・ルームの中で、彩が郁美に向かって訊いた言葉だった。
  彩は途中でやめたけれど、『その――』の後に続く言葉は、大体想像がついていた。
  つまり、それは、郁美がその人を許すことができるかどうかということだろう。
  そのとき郁美は何も答えなかったのだけれど、心の中で、密かに、思っていたのだ。

 (笑って許してしまうだろうか――いや、そんなことはできない、絶対に)
 (ならば、それならば、やっぱり殺して――しまうのだろうか・・・・・・)

  郁美は、さっと蒼ざめた。
  なに、なにを考えていたの、あたしは!?
  三村さんを――七原というひとを殺すなんて・・・・・・。
  いや、名前なんてどうだっていい、とにかく、人を殺すなんて、本当に考えていたの、あたし?
  わからなかった。
  そのときは、そんなことは絶対にあり得ない、と鷹をくくっていたからかもしれない。
  自分の手の届く範囲にない事態だと思って、諦めていたからかもしれない。
  しかし――自分の手の届く範囲に来てしまったのだ、その絶対にあり得ないはずの事態は。
  ちくしょう、どうしろっていうのよ!
  どうするもなにも、簡単じゃないですか。もし彼が本当に七原秋也だとして、あなたは彼を許すか、許さないかですよ。すぐわかるでしょう、これくらい?

  それは、確かにその通りだった。
  選択肢はたった二つ――即ち、自分が彼を許すか、許さないか。
  いや違う、許せるか、そうでないかだ。
  許せる場合は、それでいい、なにも問題はない。
  まあ、誰にでもある間違いですよ。若いんだから、そういうことだってあるかもしれないでしょう。私はべつに恨んでるわけじゃありませんよ。
  そう言えたら、すべてが解決するのかも、知れない。わからない。
  しかし、もちろん――郁美にはそんなことは、言えるはずがなかった。到底、言えるはずがない。
  大好きだった人を殺されたのだ、許せるはずがない。
  だが、そんなことはたいした問題ではない、郁美にとっては。
  一番問題なのは、許せないから、なにをどうするか、ということだった。
  土下座をして謝ってもらうか? しかし、それに何の意味があるのだろう、信史が還ってくるわけでもないのだから。
  それならば、罰を償ってもらうか? だが、どうやって――?

 『殺す』

  郁美の頭の中に、二つの文字が浮かんだ。

 『殺す』

  郁美は慌てた。
  どうしてそんなことをする必要があるのだろう、あたしが?

 『殺す』

  理由ははっきりしている。
  信史を――お兄ちゃんを、殺したからだ。

 『殺す』

  でも――べつに七原秋也が信史を殺したという事実は確認できない。
  その可能性があるというだけで、ひょっとしたら誰も殺していないのかもしれないではないか。

 『殺す――』

 「やめてぇッ!」
  郁美は、耳を塞いでしゃがみこんだ。
 『殺す』という単語が、圧倒的なエネルギーを帯びて郁美の中に流れ込んでいるようだった。
  問題は、とても簡単だった。
  許すか許さないか――それは、ある意味、殺すか、殺さないかだ。
  しかし、実際問題、その二つの答えのあいだには天と地ほど――いやこの銀河から隣の銀河、いやいや実はこの宇宙から遥か彼方の別の宇宙まで――とにかく無限の距離があるように思えた、郁美には。
  ちくしょう、こんな問題、答えられるわけないじゃないの!
  こんな二者択一のマークシートなんかよりも、学校の数学でやっている未知数が5つの連立方程式を解く方が、よっぽど簡単だと思った。
  もしこれが、学校かなにかの試験だったとしたら、郁美は白紙で提出しただろう、おそらくは。
  だが、もちろん、この問題に無回答はあり得ない。
  なんらかの答えを出さなければならなかった、絶対に。

  快は、郁美を見下ろして、微笑んでいた。
 「お兄さんの仇をとってみたくないかい、三村郁美さん?」
  快が言った。
  郁美は、快の言葉にびくっと身体を硬直させた。
 「ぼくはこれから七原秋也を殺りに行く。命令なんでね。君が邪魔さえしてくれなければ、たぶん、彼を『処理』できると思う」
 「・・・・・・」
 「君がどういう答えを出すのかは知らないが、ここから先は君の好きにするといい。敢えてついて来いとは言わない」
 「・・・・・・」
 「でも――そうだな。じゃあこれとこれを渡しておこうか」
  快はそう言って、弾を詰め替えたばかりのスミス・アンド・ウェスンと、アーモリー・ディフェンダーを郁美に差し出した。
  それで、郁美は、快を見つめた。
 「ほら。まだ必要だろう? あと何人残っているか、ぼくにも見当がつかないからね」
  快は言い、郁美のほうに二丁の拳銃を放った。
  そのまま地面に落とすわけにもいかないので、郁美はそれを受け止めた。
 「自分の手で七原秋也を殺したかったら、それを使うといい。その気がなくても、ぼくは彼を殺すしかないから、君は手を出さない方が無難だとは思うけどね」
 「・・・・・・はあるの?」
  郁美は、拳銃に視線を落としたまま、呟いた。
  快はちょっと首を傾げた。
 「ん?」
 「七原秋也が、あたしの兄を殺したっていう、確証はあるの?」
  顔を上げ、まっすぐに快を見据えながら、郁美は訊いた。
  力強い口調だった。
  快は優しそうに微笑んだまま、肩をすくめた。
 「確証はないよ、悪いけど。ぼくもすべてを知っているわけじゃない。ただ――」
  快はなにかを言いかけた。
  言ってもいいものかどうか、躊躇っているようだった。
 「なに? 言って?」
  郁美が促すと、快は小さく頷いた。
 「君の判断を濁らすといけないから、本当は言うべきじゃないかも知れないけど――」
  快は、ちょっと唇を舐めた。
  言った。
 「君のお兄さんの死因は、全身の銃創だ。特に頭部だな。サブマシンガンで撃ち抜かれたんだろう。おそらく、こいつと同じタイプだ」
  快は、自分の手の中にあるイングラムをちょっと持ち上げた。
  それで郁美は、ふたたび衝撃を覚えた。
  告別式のときも、葬式のときも、母親は頑として棺の窓を開けなかった。
  郁美が、最後に顔だけでも見たいと泣いて頼んだときも、頑なに拒否し続けた。
  そのとき郁美は、どうして母親がそんな意地悪をするのかと思っていたが――なんのことはない、顔が、なかっただけなのだ、信史の遺体は。
  それを郁美に見せないように、必死に隠そうとしていたのだ、母親は。
  今も東京にいるであろう母親の姿を思い出し、郁美はちくっと胸が痛んだ。
  快が続けた。
 「ぼくは3年前、死体処理と検死の立会いに狩り出されたんだ。そのとき君のお兄さんも見たんだが、身体を貫いたのは間違いなく9ミリパラベラム弾だった。あのプログラムのデータには、支給武器の中に9ミリパラを使うサブマシンガンが二つあったんだけど――」
  快はちょっと言葉に詰まり、頭をかいた。
  言うべきかどうか、真剣に悩んでいるようだった。
  しかし、ふぅと溜息のような吐息を漏らすと、続けた。
 「その両方――ウージーも、イングラムも、最終的には七原秋也か、もしくはその仲間が持っていたことがわかっている。優勝者と担当官が乗っていた武装船に乗り込んできたときに、イングラムを使ったらしいことが記録に残っている。船に移した書類も、データディスクも、すべて火をつけられて焼却されていたから、あまりはっきりとは言えないけど」
 「・・・・・・」
  郁美は黙っていた。
  それは――七原秋也が信史を殺した確率が、1/41からぐっと上昇したことを意味する。
  サブマシンガンは誰かから奪ったものかもしれないが、その威力を考えると、それを持っている人はそうそう殺されることはないだろう。
  人手に渡りにくい武器なはずだ、それは。
 「あともうひとつ」
  快が言った。
 「君のお兄さんに支給された武器は、ベレッタM92Fだったんだが、あのプログラムのあと、大阪の梅田駅ターミナルで七原秋也とその仲間が最後に目撃されている。そのとき、確保しようとした警官に七原秋也が使おうとした拳銃が、君のお兄さんに支給されたベレッタだった。これは、弾底番号で確認済みだ」
 「・・・・・・そう」
  郁美はそう言い、目を瞑った。
  どうやら、さらに確率が上がったようだった。
  自分の兄とはいえ、あの信史のことだ、このクソゲームが始まってすぐに退場するなどということは、あり得ない。
  おそらくは一番最後か、少なくともゲーム終了の少し前までは生き残っていたはずだった。
  郁美は、大きく溜息をついた。
  そして快を見据え、言った。
 「その、三村さん――いいえ、七原秋也というひとは、間違いなく、総合病院にいるのね?」
 「ああ。少なくとも、そこへ向かっているはずだ」
  郁美はディフェンダーをスカートのウェストに突っ込んだ。
  そして、右手の親指で、スミス・アンド・ウェスンの引き金をがちっと起こした。
  総弾数めいっぱいに357マグナム弾が装填されている弾倉が、ゆっくりと回転した。

 「早く行きましょう、その総合病院へ。この会場の北の端なんでしょう? 急げば、30分くらいで着くはずだわ」
  快は、片方の眉を上げて郁美を見返した。
  しかし、すぐに小さく笑むと、頷いた。
 「ああ、そうだね。――いや、もう少し早く着ける方法があるな。いま、思いついたよ。ついておいで」
  快はそう言うと、すたすたと歩き出した。
  郁美は、慌てて快の背中を追った。
  だから郁美は、気がつかなかった。
  快が、植え込みに突っ伏している華江の死体を、哀しげな視線で一瞥したのを。
  実のところ、郁美の推測は、間違っていなかったのだった。
  快は華江に惹かれていたのは、事実だった。
  それは快自身も気づかないほどの、淡い、淡い感情だったのだけれど。
  そして、それは、誰にも気づかれることがなく、消えていくしかなかったのだけれど――。

  快は、すたすたと郁美の前を歩いて行った。
  郁美は、少し小走りにその背中を追った。
  脚を前に進めるたびに傷めた膝がじんじんと痺れるように痛んだが、それは、我慢するしかなかった。
  快の背中を追いながら、郁美は、考えた。
  ここで彼を撃ってしまえば、もう犠牲になる人はいなくなるのではないか、ひょっとしたら?
  少なくとも、芳明や、奈津子のように、無駄死に――本当はそんなことは言いたくないのだけれど、しかし、彼らの死がなにか有益なものとは思えなかった、どうしても――にはならないかもしれない。
  郁美は、ぎゅっとスミス・アンド・ウェスンを握っている手に力を込めた。
  それだけだった。
  ひとを――クラスメイトを撃つなんてことは、できそうにない、どうやったって。
  しかし快は、あまりにも無防備なような気がした、うしろには銃を持った郁美がいるというのに。
  それが、快の能力に対する自信からなのか、それとも撃てるものなら撃ってみろと挑発をしているのか、郁美にはわからなかった。
  実のところ、先程の快の話も、郁美にはよくわからなかったのだ。
  嘘を言っている雰囲気ではなかったがしかし――あとまわしだ、そんなことを考えるのは、少なくとも(あの話が仮に本当だとしたら)三村慶吾が七原秋也という人物だということを確認してからでも遅くはなかった。
  ただ、もしすべてが本当だったとしたら・・・・・・?
  郁美は自分がどんな答えを出すのか――最良の選択ができるという自信は、もちろん、なかった。
  快は――郁美にあの話をした張本人の快は、文化会館の横にある市立図書館の脇道に入り、郁美のことなど忘れてしまっているかのように、どんどんと進んでいった。
 「ちょっと、どこへ行くのよ?」
  郁美が、快に問いかけた。
  快は振り返らずに、歩きながら応えた。
 「すぐそこだよ。ほら、ついた」
 「ついたって――?」
  郁美が不思議そうに言った。
  そこは、市立図書館の横にあるただの駐車場だった。
  まだ何台もの車が停まっていて、政府の強制退去命令が発令されたのが本当に急だったということが窺えた。
 「ただの駐車場じゃない? こんなところで、どうしようって言うの?」
  郁美の質問には答えず、快は駐車されている車を物色し始めた。
  それで、郁美は、快がなにをしようとしているのかが、おぼろげにわかった気がした。
  目的地にはやく着ける方法――それは、他人の車を物色することらしかった。
 「うん、こいつがいい」
  快が頷いた。
  そこには、ずいぶんと車高の低い、いかにも速そうな黒いスポーツカーが停まっていた。
  ボンネットにはハンダ自動車の『H』の文字をかたどったエンブレムがついており、月明かりで銀色に輝いていた。
  テールランプのあいだの部分にNSXという文字が書いてあるのが見えた(それは大東亜共和国の自動車産業の一角を担うハンダ自動車が世界に誇るスーパーカーだったのだけれど、郁美にはそんなことはわからなかった)。
  快はおもむろにルガー(奈津子から奪った拳銃だ)を振りかぶると、その銃床で運転席側の窓ガラスを叩いた。
  ガン、と窓ガラスがびびり、放射状にひびが入った。
  快はもう一度、今度はいくぶん大きく振りかぶると、また、窓ガラスに銃床を叩きつけた。
  郁美は思わず目を瞑った。
  ぱぁんという音がして、運転席側の安全ガラスが砕け散った。
  それから快は、おもむろに窓から手を突っ込み、外からドアロックを外すと、ドアを開けて運転席の足元にもぐりこんだ。
  ポケットからツールナイフ――迷彩塗装が施されたスイス製だ――を取り出すと、しばらくごそごそと何かしていたが、しかしパチッと音がしたかと思うといきなり低い唸るような音がしてエンジンがかかった。
  何をしたのかわかっていない郁美に、快が短く説明した。
 「セルの電極を直結させたんだ。軍では色々と、予備知識を覚えさせられるんでね」
  郁美には、『セルの電極を直結させる』という意味がわからなかったのだけれど、とりあえずは「ふうん」と頷いておいた
  まあ、とにかく、郁美が理解できたのは、快が車のエンジンをかけたということだった。
  快は助手席側のドアロックを外し、自分は運転席のシートに座った。
 「ほら。早く乗ってくれよ。時間がないんだから」
 「・・・・・・え? あ、うん」
  郁美はなんとなく釈然としないものを感じながら、とりあえずナビシートに座った。
 「ねえ、これって――」
  郁美が口を開いた直後、NA車特有の甲高い音でエンジンが咆哮し、タイヤを空転させてNSXは走り出した。
  かなり強いGがかかって、郁美はシートに押し付けられた。
  恐ろしい加速だった。
  快はステアリングを軽く切って車道に飛び出すと、思い切りアクセルを踏み込んだ。
  慣性力によってさらに強い重圧がかかり、郁美は思わず呻き声をあげた。
  いままで乗ったことのある車の中では、乗り心地は最低の部類に入った(数年前、兄の信史と、叔父さんの車でドライブをしたとき以来だった。いやはや、あの運転は凄まじかった、もう二度と乗りたくないと心から思ったものだった)。
 「これなら3分でつけるな・・・・・・」
  すばやくシフトアップをしながら快がそう言ったが、郁美は返事をすることはできなかった。
  肘掛にしがみついているだけで必死だったので。
  ただ、ものすごい速度で流れていく景色をみて、なんとなく、シートベルトをつけた方がいいな、と思った。
  速度計をちらっと見ると、指針が160km/hを超えたところだった。
  おにいちゃん、ここ、法定速度は50km/hなんですけど? ああ、それよりも、無免許運転なんですよね、あなた。事故して死んでも、知りませんよ? わたしは別にかまいませんけど。

  ぐんぐんと流れて行く視界の中央、フロントガラスの真ん中に、山の麓に建っている白い壁の大きな建物が飛び込んできた。
  最初はよくわからなかったのだけれど、どうやら、それが総合病院らしかった。
  屋上に突き出した壁の一角に、赤十字の赤いマークがちらっと見えた。
  郁美は、鼓動が早くなっていることに気がついた。
  ひょっとしたら、あそこに、おにいちゃんを殺した人がいるかもしれない・・・・・・。
  郁美は知らないうちに、スミス・アンド・ウェスンをきつく握り締めていた。
  運転をしながら、快がちらっと郁美の手元に視線を落とした。
  それから――ふっと口元を歪めて、微かに笑んだ、郁美はそんなことには気がつかなかったのだけれど。
  目的地の総合病院は、もう、目の前だった――。

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