BATTLE ROYALE 2
The Final Game



       [ 第十部 / 終盤戦(後編) ] Now 9 students remaining...

          < 50 > 決戦直前


  強い風が吹いていた。
  規則正しく並んで植えられた街路樹が、ざあっと音を立てて揺れ動いた。
  その音は、まるで波の音のように聞こえた。
  月には微かに雲がかかっていたが、冷たく輝くその空の光は、人工の光がまったくなくなった街をほんのりと照らし出していた。
  まるで死の街だった。
  その街の北のはずれ、山の麓のあたりに、月明かりに照らされてひときわ白く浮かびあがって見える建物があった。
  一昨年に中堅クラスの地方病院を改修し、大きな別棟を新しく建設したばかりの、総合病院だった。
  まだ塗りたての、清潔感溢れる真っ白な壁が、仄かな月の光を反射させていた。
  病院の駐車場に停まっている何台もの自動車のフロントガラスに月光が反射して、きらきらと輝いていた。
  正面玄関の西側には緊急時の非常出入口があり、大型の救急車が一台、静かに佇んでいた。
  多少の医療機器と薬品を搭載している最新型だ。
  その救急車の陰に、一人の少女が立っていた。
  大きな黒い瞳と、比較的長めの髪、淡い色のセンスのいい制服に身を包んだその少女は、じっと何かに耐えるようにきつく唇を結んでいた。
  中川典子だった。
  少し前、大きな爆発音と銃声が絶えず聞こえていたのだけれど、それももう、ぱったりと聞こえなくなっていた。
  度重なる銃声が、病院の白い壁に反響してこだます度に、典子は不安でたまらなかった。
  連射機構を持つ銃声が2種類、そして単発の(それも大口径の)銃声が幾度か、聞こえた。
 「秋也くん・・・・・・」
  典子は呟いた。
  何度となく口にした名前だった、それは。
  名前を呼んで、それでどうなるというわけではないのだけれど。
  ちらっと腕時計に視線を落とすと、23時になる15分ほど前だった。
  典子に残されている時間は、残りわずかだった。
  本部のコンピュータが生き返れば、当然、いま自分の首に巻きついているこのやくたいもない首輪(ミッドウェー23号とかいった?)も、禁止エリアも、有効になってしまうだろう。
  いやそんなことよりも、すぐにでも首輪を吹き飛ばされてしまうかもしれない、坂持の持っていたあのリモコンで。
  そうなるのは、典子だけではない、もちろんのことながら。
  典子の一番大切な――そう、この世界でなによりも大切なひとまでも、失ってしまうだろう。
  典子は後悔していた。
  東京のぼろアパートの玄関先で見た、秋也の笑顔だけが、何度も頭の中によみがえっていた。
  あたしがあのとき止めていれば――
  そう思うと、胸が痛んだ。
  もちろん、そんなことはできるはずもなかった、あの時にこんなことになると予測することは不可能だったのだから。
  典子の通っている私立第弐中学校は、第壱中学校の1ヶ月も前に修学旅行を終わらせていた。
  まあ定番の京都・奈良の2泊3日の旅だったのだけれど、典子はそこそこに楽しめた。
  だから、秋也にも修学旅行に行ってもらって、少し羽根を伸ばしてきてもらいたかったのだけれど。
 「秋也くん・・・・・・」
  典子はまた、呟いた。
  その名前を口に出すたびに、自分にとってどれほど秋也が大切な存在だったのかが、痛いほどよくわかった。

  典子は小さく吐息を漏らすと、停まっている救急車の側面に背中を預けた。
  それで、大型の救急車が小さく揺れ、サスペンションがぎしっと音を立てた。
  このままいつまで待てばいいんだろう・・・・・・。
  典子は思った。
  秋也が現れるまでだろうか?
  それは、もちろん、その通りだ。
  でも、もし現れなかったら?
  典子はゆっくり瞼を閉じた。
  そのときは、もう、手の打ちようがなかった。
  死ぬしかないだろう、たとえ自分が死にたくないと思っていたとしても、そうならざるを得ないのだから。
  秋也も、それを承知しているはずだった(あの典子のメッセージを理解できていればの話だが)。
  時間切れになるまでに秋也が現れなかったとしたら、それは、おそらく、秋也はもうこの世界から消えてしまったということだろう。
  そして、すぐに自分もその後を追うことになる。
 「また、追いかけることになるのかな、あたし・・・・・・」
  秋也をはじめて見たときから、そうだった。
  昔のクラスメイト(主に内海幸枝あたり)とリトルリーグの応援に行って、じりじりと照りつける太陽の下で、大勢の観客が座っている球場のベンチからそのひとを見たとき。
  それからというもの、広い会場中の視線を一身に集めた、背番号7番の背中を追い続けた。
  秋也がリトルリーグをやめて、ロックの新星(自称)になったときも、そうだった。
  エレクトリック・ギターを響かせながら、教室中の視線を一身に集めていた、そのひとを。
  秋也自身の心には――そう、新谷和美という女性がいるということは、わかっていたのだけれど。
  それでも、典子は追い続けた。
  一度、名前も書かずに、秋也の机の中にラブレターを入れたこともあった(秋也はまるで取り合ってくれたふうはなかったのだけれど)。
  追い続けて、そして、ようやく追いついたときには――楽しいはずの修学旅行が“プログラム”という殺人ゲームになっていたのだ。
  いや、本当は、そのゲームがあったからこそ、典子は秋也に追いつくことができたのかもしれないけれど。
  典子は弱々しく、口元を歪めた。
  情けないなあ、あたし、なに弱気になってるんだろう・・・・・・。

  典子が自嘲気味に笑んだ、そのときだった。
  低い唸り声のような音が聞こえたかと思うと、いきなり、あたりがぱっと明るくなった。
 「!」
  典子は驚いて、目の前に腕をかざしてその光を遮った。
  低い唸り声のようなものが自動車のエンジン音で、15000カンデラもの強力な光を生み出している光源がヘッドライトだと気づいたとき、典子は言いようのない焦燥感を覚えた。
  政府の追っ手だ、と思った。
  車の音に気づけなかったなんて――!
  典子はぎゅっと唇を噛んだが、すぐにMP-5クルツ・サブマシンガンをそちらへ向けた。
  しかし、典子が引き金を引く前に、その車は猛スピードで典子に向かって突っ込んできた。
  慌てて横っ飛びで避けると、車はタイヤを軋ませながらテールをスライドさせた。
  キュルルルルルルッというスキール音が響き、ゴムの焼ける臭いがつんと典子の鼻を刺激した。
  中型の高級セダンのようだった。
  そのセダンは、典子の方に運転席側の側面を見せるかたちで、停止した。
  がちゃっという音がしてドアが開き、1人の男が降りた。
  典子が見たことのある男だった。
  あのひとは、確か――
  考えた。
  そしてすぐに思い出した。
  典子が本部の中学校に連行されて来たとき、坂待とかいう担当教諭と話している最中に入ってきた、兵士の男だった。
  そいつが持っていたデイパックを奪い取るのに必死で、顔はあまりよく見ていなかったのだけれど。
  反射的に典子がクルツを構えると、男はすっと右手を上げた。
  なにかを持っていた。
  拳銃だろうか、と一瞬思ったが、それは拳銃ではなかった。
  四角い電卓のような形をしているそれの正体がわかったとき、典子は自分に勝ち目がなかったことを悟った。
  例のリモコンだった、生徒の首輪に爆破指令を送るための。
  手の出しようがなかった。

 「はじめまして――ではありませんね。一度、本部でお会いしましたが、覚えていますか?」
  男は言った。
  典子は黙ったまま、答えなかった。
  相手がべつに答えを期待しているわけではないことがわかっているので。
  男は続けた。
 「私は石田といいます。時間がないので詳しい説明は省きますが、中川典子さん――でいいですね?」
  石田は典子に確認を求めるように、少し首を傾げた。
  典子はしばらく黙っていたが、小さく唇を動かし、「そうだけど・・・・・・」と呟くように言った。
  石田は頷くと、ちらっと典子の手の中にあるクルツに視線を落とした。
  言った。
 「私はべつに、あなたたちを殺しにきたわけじゃありませんよ。私を撃ち殺すのは構いませんが、それは少し話を聞いてからにしてもらいたいんですが?」
 「話・・・・・・?」
 「ええ。お時間は取らせませんよ。こちらにもあまり時間が残っていませんからね」
  わけのわからないことを言いながら、石田は車の窓から手を突っ込み、キーをひねった。
  それで、今まで低い音でアイドリングをしていた黒塗りの高級車(トヨダ自動車のクレスタ・スーパールーセントだ。共和国の地方公務員はたいてい、この車に乗っている)は、一気に回転数を落としてエンジンを停止させた。
  チリチリチリというエンジンの金属が焼ける音が、やけに大きく響いて聞こえた。
  典子はクルツを構えたまま、「それで?」と言って首を傾けた。
  そこで典子は、石田が防衛軍兵士の着る迷彩色の戦闘服ではなく、専守防衛陸軍の第一種正装軍服(軍の幹部が着るダークグリーンの制服だ)を着ていることに気がついた。
  だが、石田はそんなことは気にしたふうもなく、典子の言葉に小さく頷いた。
 「このプログラムは、現時刻をもって中止いたします。理由は、おわかりですね?」
 「中止・・・・・・?」
  典子は眉を寄せ、少し高い声で、聞き返した。
  中止ですって? それは、コンピュータが機能しなくなって管理はできなくなっているのかもしれないけれど、いつかは復旧するでしょう? そもそも、あり得るの、プログラムを“中止”するなんてことが?
  そんなことはいままで聞いたことはなかった。
  もちろん、中止になって欲しかったのではないのか、と聞かれれば、もちろんその通りなのだけれど。
 「いまさら中止ですって? どうしてなの?」
  典子が訊くと(クルツは絶えず兵士石田にポイントされている、もちろんのことながら)、石田はちょっと眼鏡の位置をなおした。
  言った。
 「第62番プログラムを行う本当の目的というのを、ご存知ですか?」
 「本当の目的? プログラムの?」
 「はい」
  なんだろう、と典子は思った。
  川田は――3年前のプログラムの最中、そのことに関して何か言っていただろうか?
  典子は思い出そうとしてみたが、記憶の奥底にしまわれているのか、それとも川田はそんなことは一言も言っていなかったのか、よく思い出せなかった。
  黙り込んだ典子に対して、兵士石田は言った。
 「世間的には、国防上必要な実験である、ということになってはいますが、もちろん、そんなことは何の意味もありません」
  車に少し寄りかかるようにしながら、石田は少し周囲を見渡した。
  誰かが来ないかを確認しているらしかった。
  しかし、すぐにまた典子に視線を移し、続けた。
 「このプログラムは、この大東亜共和国という国が存続するうえで必要である、と考えられていたんです。発案は軍部の狂った将官ですが、政府の役人はその案に大いに関心を示し、飛びついた。つまり――」
  石田はすっと左手の人差し指を立てて見せた。
 「ここにひとつの壊れかけた国家があるとします。絶対的な支配者を立てた専制政治を行っていましたが、もちろん、すべての国民が政府に服従するわけはありません。少しでも国民に不利な条約や法案が可決したとすると、国民は怒りますね。そして力を合わせて、政府に反抗しようとする。いわゆるクーデターというやつです。プログラムを行う真理は、ここにあります」
  そこまで聞いて、典子は理解した。
  どうして、プログラムを行っているのか。
  どうして、その結果をわざわざ地方のローカルテレビで公開するのか。
  典子は、ぎゅっと唇を噛み締めた。
 「そういうことだったの・・・・・・」
  典子の呟きに、兵士石田は小さく肩をすくめた。
 「ええ。つまり国民にその映像を流し、情報を与えてやることによって、結局は誰も信用できないということを刷り込ませるためだったのです。クラスメイト同士ですら、信用できずに殺し合ってしまった。それなら自分たちだって、最後はやっぱり他人を信用することなんてできないんじゃないか、と考えますね。そうすれば、国民が協力しあってクーデターや蜂起を起こすことは少なくる――」
 「それじゃあ、そんなことのために、何百人もの子供を殺させたの!? そんなことのために、あたしたちをこんな殺し合いに巻き込んだって言うの!?」
  泣き出しそうな声で、典子が叫んだ
  プログラムは、1年のうちに全国50のクラスに適応される。
  クラスの人数の違いこそあったとしても、1クラス40人だとした場合、1年に2000人もの中学3年生がこのような殺し合いをさせられていることになるのだ。
  典子は気が遠くなりかけた、それは途方もない数字だったので。
  ほぼ二つの学校の全校生徒が(典子の通っていた中学は全校生徒が1000人の学校だった)、一瞬にして消え失せてしまうというのだ。
  冗談ではなかった。
  ええ、そりゃあもう冗談じゃありませんよ。なにしろ、実際に起こっていることなんですから、これは。冗談なんかじゃありませんよ。

  石田は、無表情に頷いた。
 「そういうことになりますね、残念ながら。しかし、それも近年になって、効果がないことがわかり始めました。いや、これ以上は逆効果になるのではないか、と一部の軍事評論家が言い出すほどに。これは、あなたにも関係のあることです」
  そう言うと、石田はまた、眼鏡をかけなおした。
  銀色のプレーンな(それでもかなり高級な)フレームの眼鏡の縁が、月明かりにきらっと反射した。
  それから、続けた。
 「面白い調査結果が出ました。過去に行われたあるプログラムを境に、参加生徒たちの行動に明らかな違いが見られたのです」
 「行動に違い・・・・・・?」
 「そう。そのプログラムの以前は、ゲームが始まって3時間以内に遭遇したクラスメイト同士が戦闘状態になる確率が73.4%だったのに対し、それ以降に行われたゲームで採取されたデータによると、その確率が43.7%にまで減少しているのです。全体のゲーム所要時間も、以前が平均で約32時間だったのに対し、最近では50時間を越えるケースも珍しくありません。最長で、5日と2時間という記録も残っています。また、時間切れによる優勝者なしというゲームが、かなりの割合で増えているという結果も報告されています。これが、なにを意味するのか、わかりますか?」
  石田が、射抜くような視線で典子を見つめた。
  典子は微かに逡巡し――言った。
 「クラスメイトを信じられる生徒が増えてきている――?」
  典子の言葉に、石田は頷いた。
  言った。
 「そうです。互いに信用し合える生徒の割合が増えてきたのです。そして、その原因を作ったと思われるのが――」
  言いかけて、石田はすっと典子の背後に視線を移した。
  そして――小さく微笑んだ。
 「やあ、やっと到着したみたいですね」
 「えっ?」
  典子が首を傾けた、そのときだった。

 「典子ッ!」

  声が聞こえた。
  典子の聞き慣れた、そして一番聞きたかった、声だった。
  典子はばっと後ろを振り向いた。
  クルツのポイントが大きく兵士石田からずれたが、どうでもよかった、当座は戦う気がなさそうなので(もちろん油断はできないが)。
  病院の白い壁の向こう、少し草が生えている茂みから、1人の男子生徒が姿を現した。
  少しやつれて、制服はぼろぼろになっていたのだけれど――間違いなく、秋也だった。
  ああ――典子は思った。
  やっと・・・・・・やっと、会えた、秋也くん!
  典子は自分が泣き出していることに気がついた。




       §

 「秋也くんッ!」

  典子は叫んだ。
  秋也には、その声が心なしか震えているように聞こえた。
  ふらふらだった両脚に力をこめて、秋也は典子の方に走った。
  一歩踏む出すたびに腹に激痛が走ったのだけれど、そんなことは気にしていられなかった。
 「典子・・・・・・」
  秋也が典子の名を呼ぶと、典子は、いきなり秋也に抱きついてきた。
  腹の傷口に典子の身体があたり、数倍の痛みが跳ねたが、どうでもよかった。
  秋也は、ショットガンを持っていない方の手を典子の腰にまわし、典子の身体を抱きとめた。
  温かかった。
 「秋也くん――秋也くん――あたし――」
  典子は、秋也の胸に顔をうずめたまま、泣きじゃくっていた。
  その表情からは、つい先程までの疲労と焦燥感に苛まれた感じはすっかり影をひそめていた。
  ただ、秋也が生きていた安堵感と、それまでに溜まっていた色々な感情が、一気に溢れ出しているようだった。
  まるで子供のように泣いている典子の髪を、秋也はゆっくりとなでてやった。
  なにも言えなかった。
  なにか言おうとすると、胸の奥に溜まっている熱いなにかが一気に溢れ出してきそうだったので。
 「あたし――秋也くんがいなくなっちゃったら――どうしようって――。怖くて、でも、泣いても何にもならないってわかっているのに――あたし――」
  秋也の胸に顔を埋めながら、典子が、言った。
  秋也がゆっくり頷いた。
 「わかってる。俺は、大丈夫だから。典子こそ、なにかされなかったか、政府のやつらに?」
  秋也は優しく言った。
  典子は小さく頭を振った。
 「ううん――。べつに、なにも――」
 「もう少し、早くここに着けるはずだったんだけど。色々、あったから、遅くなったんだ。ごめん」
  秋也が言うと、それで、典子は、秋也の胸から顔を離した。
  ぐすっと鼻をすすり、チーフスペシャルを持った手の甲で涙を拭った。
 「ううん。いいの、そんなこと。あたしこそ、あとさき考えなかったから、逆に秋也くんを危ない目に合わせちゃって――」
 「そうか――」
  秋也は小さく頷いた。
  それ以上、声が出てこなかった。
  思った。
  せっかく感動の再開だってのに、俺は、典子にろくな言葉もかけてやれないのか、ちくしょう。
  まあ、もっとも、それほどロマンティックなムードではなかったのだけれど。
  秋也は典子の腰から手を離し、それから、すっと典子の背後に視線を移した。
  兵士石田は、軽く腕を組んだまま、クレスタのドアに寄りかかってこちらを見ていた。
  いやいや、いくらなんでも、他人の感動の対面を邪魔するほど無粋じゃありませんよ? 常識でしょ、そんなことくらい?

 「典子。誰なんだい、あいつは?」
  秋也が小さな声で典子に訊くと、典子は小さく頭を振った。
 「あたしにもわからない。坂待とかいう担当官と一緒に、本部にいた兵士のひとみたいだけど――」
 「兵士だって?」
  典子の言葉に、秋也は思わず目を剥いた。
  どうして、兵士がこんなところにいるのだろうか?
  秋也は思った。
  とにかく、どちらにしても、用心するに越したことはなかった。
  秋也は典子を庇うようにして立つと、言った。
 「あんたは誰だ? なんでこんなところにいる? 俺たちに、なにか用なのか?」
  兵士石田は、組んでいた腕を解いた。
  言った。
 「私は石田といます。ただの兵士ですよ。典子さんと話をしていたんですが――ちょうどよかった。君にも聞いていてもらいたいんです、七原秋也くん」
  秋也は、石田が自分の本名を知っていることに面食らった。
  バレていたのだ。
  振り向いて典子の方を見ると、典子は小さく頷いた。
 「前から知っていたみたい、あたしたちのこと」
 「政府は、それを知っていて俺たちをこのプログラムに参加させたのか・・・・・・?」
 「いや、それは違います」
  秋也の言葉を、石田が即座に否定した。
 「プログラムに選ばれるクラスは、あくまでコンピュータによるランダムで決定されますから。今回、秋也くんが入っていたのは、ほんの偶然ですよ」
 「しかし――」
  なおもなにか言おうとする秋也の言葉を遮って、石田は秋也たちの後ろの茂みに視線を移しながら、言った。
 「そんなことよりも、彼らにももう出てきてもらって構いませんよ。私には、当座、あなたたちを殺す気はありませんから」
 「彼ら――?」
  典子が茂みの方に振り向いたとき、その茂みががさっと動いた。
  その茂みを乗り越えるようにして小柄な男子生徒(黒澤健司だった、典子が名前を知るはずはないのだけれど)が姿を現した。
  健司の右手には、なんだか見たこともない近未来的なスタイルの拳銃――キャリコM110が握られていた。
  慌ててクルツを向けようとした典子の手を、秋也がそっと制した。
  言った。
 「大丈夫だ。あいつらは、俺の仲間だから。俺が生き残ってこれたのも、あいつらのおかげなんだ」
  典子が、秋也の瞳を見返した。
 「そう――なの?」
  秋也は典子に向かって、頷いた。
  それで、典子は、持ち上げかけたクルツを下ろした。
  健司に続いて、杉山貴志、南由香里、飯田浩太郎、中山諒子の順に、茂みから姿を現した。
  由香里と諒子は、少し複雑そうな瞳で典子を見つめた。
  自分の恋敵――というか、それは一方的な片思いなのだけれど――が、いきなり目の前に現れたのだから、それは無理のないことなのかもしれないけれど。
  健司がすっと前に出て、典子にちょっと目礼をすると、小さな声で秋也に耳打ちをした。
 「なにやってるんだ? まさか、あいつのこと、信用してるわけじゃないだろうな?」
 「まさか。だけど、当座、俺たちを殺す気はないらしいんだ。もし重要な話だったら、聞いておくべきじゃないか?」
  秋也の言葉に、健司は小さく溜息をついた。
  どこまでも甘いやつだな、と思ったのかもしれないし、また別のことを思ったのかもしれない。
  とにかく、健司は、「好きにしな」とひとこと言っただけだった。
  秋也は、石田の方に向き直り(石田と秋也たちのあいだは15メートルほど離れていた。十分な距離はとってある)、言った。
 「それで? 典子とは、なにを話していたんだ?」
  石田は眉根にしわを寄せた。
  言った。
 「すみませんが、初めから説明しなおしている時間はないんです。まあ、あまり重要な部分ではなかったので、いいでしょう」
 「だから、なんなんだよ、それは?」
  痺れを切らしたような声で、貴志が言った。
  石田は続けた。
 「このプログラムには、重要な意味がありました。簡潔に言うと、国民が互いを信用できなくするため、それによってクーデターが勃発する可能性を未然に防ぐためです。本来、プログラムの優勝者の映像、及びその情報――銃殺が何人とか、聞いたことがあるでしょう? そういう情報ですが、そんなことをいちいち報道する目的は、なんだと思いますか?」
 「あたしたちは――気づかないうちに洗脳されていたって言うの? 政府に?」
  由香里が小さく頭を振りながら、信じられないといった表情で呟いた。
  兵士石田は、そんなことは気にしたふうもなく、頷いた。
  続けた。
 「そうです。優勝生徒の精神病者のような表情や実際にクラスメイトが殺し合ったという事実を公表すれば、国民は、結局最後は自分しかいない、誰も信じられるわけがない、と無意識――ここが重要なのですが、無意識に思い込んでしまう。プログラム関係の報道は、優勝生徒の表情を1分間に6コマほど挟み込んだ映像に編集されています。サブリミナル効果というやつで、その映像はほんの一瞬しか見れませんから、映像を見ている者はそんな画像が挿入されていることには気づきません。しかし、脳にははっきりと焼きついており、それによって生理的な不快感を感じさせたりします。まあ、政府とマスメディアが手を組めば、国民の洗脳などというものはたいして難しくないのです」

  秋也は、むかし慈恵館で見たことがある“プログラム”のニュースを思い出していた。
  優勝した女生徒の気が狂ったような表情が、脳裏にまざまざとよみがえってきた。
  あんなものを――あんな映像を、1分間に6回も目にしていたというのだろうか、しかも自分が気づかないうちに?
  ぞっとした。
  そう言えば、光輪教とかいう新興宗教が洗脳ビデオを信者に見せているとかいないとか、そんな噂が一時期流れたが――結局それはデマだったようだけれど――とにかく、知らないうちに、自分たちは洗脳されていたのだ。
  一瞬、自分たちはみんな政府の操り人形で、いまこうしていることも実は計算のうちなのかもしれない、と考えて、やりようのない不安感に捕らわれた。
  秋也の横から、貴志が怒ったように吐き捨てた。
 「胸クソ悪い話だな」
 「まったくです」
  石田が頷いた。
 「しかし、それが逆に仇となった。ここのあたりは先程、典子さんに説明したのですが――1997年第12号プログラム。そのプログラムは、前代未聞のプログラムだった。ご存知でしょう?」
  石田は眼鏡の位置をなおしながら、秋也を見つめた。
  秋也は黙っていた。
  ご存知もなにも、それは自分が参加していたプログラムなのだ、3年前に。
  あのときの緊張と、それからゲーム中に出遭ったクラスメイトの顔、そして――言葉には表せられない、色々なものがよみがえってきた。
  石田は淡々と、説明するように話を続けた。
 「優勝者の川田章吾くん。そして、坂持担当教諭が殺された例のプログラムです。もちろん、そのこと自体に事件性はありましたし、政府としても詳しい情報が掴めていなかったので、報道規制はされませんでした。しかし調査の結果、2人の生徒がそのプログラムから脱走したということが明らかになりました。それが、七原秋也くんと、中川典子さんです。そうですね?」
  石田は確認するように、秋也と典子の顔を見比べた。
  秋也は頷いた、それはもうバレていることだったので。
  そこで、健司が、口を挟んだ。
 「それはわかった。三村――いや、七原と、そこの中川ってひとが、脱走したってのも理解した。それで、だから、なんなんだ? なにが言いたいんだ、あんたは?」
  健司の言葉に、石田がちらっと、笑みをこぼした。
  言った。
 「つまり、こういうことです。政府としては、優勝者と担当官が殺されたという事件があったことを、報道したつもりでした。しかし、2人の生徒が脱走していることがわかり、彼らの――まあここではあなた方のと言った方が適切ですが――足取りをまったく掴めていなかった政府は、情報提供を求めるつもりでそのことも報道してしまったのです。しかし――そう、しかしです。それによって、いままで行ってきたプログラムの意味をいっぺんに無に帰してしまうことになったのです。おわかりですか? いままでは、互いを信用することはできない、最後は自分しかいないということを国民に思い込ませるために行っていた報道が、まったくの逆効果になってしまった」
 「そうか――」
  諒子の瞳に、理解の色が浮かんだ。
 「それは、クラスメイトが殺し合うような極限状態でも、お互いを信用して、一緒に逃げ出した人間がいるということを、国民に知らしめる結果になってしまったわけね?」
  諒子の言葉に、石田は頷いた。
  続けた。
 「そういうことです。国民はそのことに気づいてしまった。あなた方2人の行動によって、この国の国民の意識が急激に変化してきたのです。他人を信じて思いやることの重要さを書いた書籍――政府はそれらを『有害図書』として規制していますが――が飛ぶように売れはじめました。そして政府に対しての反発が強くなり、国民の団結意識が高まってきた。そして、それらは“プログラム”にも影響を及ぼし始めました」
  そう言って、石田はゆっくりと秋也たちの顔を見た。
  1人ずつ、確かめるように眺めると、小さく頷いて、言った。
 「あなたがたは、仲間です。このいつ殺されるかもしれない極限状態にも関わらず、互いを信じ合い、仲間になることができた。秋也くん、君ならわかるはずです。あなたがはじめて参加したプログラムで、これほどの仲間がつくれましたか?」
  そう訊かれ、秋也ははっと目を見開いた。
  自分の知っている限り、3人以上でチームを組んでいるクラスメイトは、内海幸枝のチームぐらいだった。
  それは、もちろん、珍しいことではないと思っていたのだけれど。
  しかし今回は、学校を出た時点で、南由香里、黒澤健司、杉山貴志、太田芳明(そう言えば、太田は無事なのだろうか)が待っていてくれていたし、途中から中山諒子、千早由貴子(でも彼女は死んだ)、飯田浩太郎も加わった。
  3年前のプログラムからは考えられないほどの、仲間ができていたのだ、自分のまわりには。
  兵士石田は頷いた。
 「そうです。あなた方が逃げ出したプログラムを境に、クラスメイトを信じられる生徒が激増しました。もちろん、それで命を落とした生徒も何人もいますが――それ以上に、どうにか協力し合って、この“プログラム”から逃げようという生徒の数が増えました。去年、石川県能登半島の温泉街で行われた第5号プログラムでは、35人中10人もの生徒が協力し、脱走を試みています。もちろん、その全員は『処理』されましたが――とにかく、政府としては、もうこれ以上“プログラム”を続行させる意味がないという風潮が強まっていることは確かです」

  そこまで言って、石田は口を閉じた。
  明るい月がすうっと雲の切れ間から現れ、秋也たちの影をつくった。
  気持ちのよい夜風が吹いていたが、誰も言葉を発するものはなかった。
  ただ黙って、その場に立ち尽くしているだけだった。
  しばらくして――典子が言葉を紡いだ。
 「それは――あたしたちのしたことが、この国の人たちに信じる心を、与えることができたというこのとなのかしら・・・・・・?」
  石田は頷いた。
 「そう。“君たちがこの国を変えた”のです。それはわずかな変化ですが――この国にとっては、とても、大きな一歩であると思います。これからは、君たちの時代です。それを伝えるために、私はこんなところに来たんですよ」
  そう言うと、すっと右手に持っていたものを放った。
  首輪の爆弾を管理する、例のリモコンだった。
  リモコンはくるくると回転しながら宙を待っていたが、アスファルトで舗装された駐車場の地面の上に落ち、がしゃっと音を立てた。
  典子はそれを拾い上げた。
 「君たちには、もう首輪は必要ありません。『M』と『F』のボタンの横に『D』と『R』のボタンがあります。Dはデス、Rはリバースです。番号を打ち込んで、Rのボタンを押すと、首輪は簡単に外れますよ」
 「本当か!? おれたち、助かるのか!?」
  浩太郎が叫んだ。
  兵士石田はちらっと笑んだ。
  それから、左腕につけていた腕時計に視線を落とし、言った。
 「私はそろそろ時間がありますので、これで失礼させていただきます」
 「ちょっと待って!」
  クレスタのドアを開けて、すり抜けるようにして運転席のシートに座り込んだ石田を、典子が呼び止めた。
 「あなた、一体誰なの!? どうしてあたしたちを助けてくれるの!?」
  キュルルルッとセルがまわり、ひゅうんと高級車独特の小さい音がしてエンジンがかかった。
  石田はパワーウィンドウで窓を開けた。
  それから、右手を自分の顔に持っていくと、すっと銀フレームの眼鏡を外した。
  微笑みながら、典子に言った。
 「それは、またのちほどお話しましょう。ああ、それと――」
  石田がなにか言いかけたとき、いきなり強い突風が吹き、あたりに爆音が轟いた。
  秋也は咄嗟に空を見上げた。
  月はまた雲に隠れており、あたりは真っ暗でなにも見えなかったが、しかし思った。
  これは――ヘリコプターの音だ。なぜ、ヘリがこんなところに?
  すぐに石田に視線を移すと、石田はちらっと空を見上げ、溜息をついていた。
 「・・・・・・そろそろ時間です」
  ヘリのローター音に負けないように、少し大きな声で石田は言った。
 「“掃除屋”が君を狙っています。気をつけてください」
  それだけ言うと、石田はギアを入れてアクセルを思い切り踏み込んだ。
  タイヤに急激なトルクがかかって後輪が空転し、ゴムの焼けた臭いと煙が微かに鼻を刺激した。
  それも束の間、急激な前進運動のエネルギーを与えられた車は、ぐんと一気に加速した。
  停車している救急車ギリギリのところをパワースライドで通過し、歩道を乗り越えて車道に飛び出した。
  クレスタはどんどん加速していき、秋也たちの視界から消えた。
  それでもまだエンジン音は聞こえていたが、それもすぐに聞こえなくなり、それを追うようにしてヘリのローター音も聞こえなくなった。
  あたりに静寂が戻った。

 「・・・・・・なんなんだろう、あいつは?」
  ぽかんとした表情で、秋也は呟いた。
  よくわからないが、嵐のように現れてはすぐに過ぎ去っていってしまったような、奇妙な感覚だけが残っていた。
  なんだか――正体不明だった、まあ当たり前のことなのだけれど。
 「あのひと――」
  秋也の横で、典子が呟くように声を漏らした。
 「あのひと、あたし、どこかで見たような気がする・・・・・・。どこだかわからないけど、でも、なんか――」
  そう言ったきり、典子は黙り込んだ。
  秋也はふうと息をついて、「とにかく」と言った。
  典子が顔を上げて、秋也の方を見た。
 「典子が無事でよかった。心配だったんだ、政府のやつらが、アパートの方に行かなかったかい?」
 「ん・・・・・・」
  典子は曖昧な笑みを浮かべながら、頷いた。
  それで、秋也の表情が、少し強張った。
 「何かされたのか?」
 「ううん――そうじゃないけど」
  典子は逡巡した。
  本当ならば、ちゃんと説明をした方がいいのかもしれない。
  しかし、できることならば、秋也には本当のことを知ってもらいたくはなかった。
  自分が役人1人と兵士2人を殺してしまったなどということは――。
  まあ、どちらにせよ、後々説明しなければならなくなるのはわかっているのだけれど。
  だがとにかく、いまそんなことを言っても、建設的でない、この場合。
  典子はちょっと肩をすくめた。
 「何かされそうになったから、逃げ出しちゃった。結局、捕まっちゃったけど」
  そう言ってちらっと笑むと、秋也はほっと肩の力を抜いた。
  心から安堵しているようだった。
 「そうか・・・・・・。俺は、政府のやつらが典子に危害を加えたのかと思って・・・・・・」
 「ごめんね、心配ばっかり、かけちゃって」
 「いや、俺の方こそ、色々迷惑かけたな」
  秋也と典子は、お互いに顔を見合わせると、くすっと笑んだ。
  それから、秋也は思いついたように、うしろを振り返った。
 「そうだ。紹介しておかなきゃな。こいつが黒澤。そいつが杉山。で、この娘が南サンで、こっちが中山サン。それと、飯田だ。みんな、俺を助けてくれたんだ、今まで」
  典子は順番に健司たちの顔を見た。
  言った。
 「わたし、中川典子。よろしく願いします」



  一通りの自己紹介が終わると、健司が言った。
 「それで? これからどうする?」
 「どうするって、逃げるしかないじゃないか」
  浩太郎が言った。
  健司は首を振った。
 「そんなことを言ってるんじゃない。逃げるのは当然として、その方法と、逃げ出してから、どうするのかって言ってるんだ、俺は」
 「逃げ出してから?」
  諒子が首を傾けながら訊いた。
  健司に代わって、秋也が口を開いた。
 「そうだな。首輪は当座、問題ないとしても、この人数でいっぺんに動くのは少し危険すぎる。大人数だと、全体として行動が鈍くなるから、捕まる可能性も大きい。それに、逃げ出したとして、俺たちは指名手配犯だ。俺はべつにかまわないが――おまえたちは、もう親や、他のクラスの友達と会うのはできないと思ったほうがいい」
  秋也の言葉に、諒子がはっと息を呑んだ。
  そう――仮にここから脱出できたとしても、もういままでの生活は送れないだろう、もちろんのことながら。
  毎日が命がけの逃亡生活――なんだかどこかの映画みたいだった、そんなに格好いいものではないのだけれど。
 「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
  浩太郎が、興奮気味に叫んだ。
 「じゃ、じゃあ――おれたちは逃げ出してもどうしようもないじゃないか! この国にいたら、いつかは捕まっちゃうんだろ!? 結局、逃げても無駄じゃないか!」
 「だから、考えるんだろうが、みんなで。それとも、飯田はここでこのまま殺し合いを続けたいのか、俺たちがみんな死んで最後の1人になるまで?」
  健司がいくぶん、強い口調で言った。
  それで、浩太郎は、口をつぐんだ。
 「でも――」
  由香里が口を挟んだ。
 「飯田くんの言っていることも、一理あると思う。この国にいたら、いつかは捕まっちゃうわ、あたしたち」
 「それはそうだけど――」
  諒子が呟くように言った。
  秋也は思った。
  捕まるだけならまだいい方だ――。
  3年前、大阪の梅田駅ターミナルで警察官に見つかったことがあったが、あのときは逃げ出しただけで警官はすぐに発砲してきたのだ、あの人が大勢いる中で(さいわい誰にも当らなかったようだが)。
  政府はおそらく、自分たちを見つけ次第、殺しにかかってくるはずだ。
  とにかく、どのみち、この国にはいられないだろう。
  全員が黙り込んでいたので、秋也は言った。
 「打開策なら、俺は少なくとも二つだけ思いつく。ひとつは、国外脱出だ。俺たちも3年前に経験したが、まあ、条件さえ整えば方法がないわけじゃない。半韓民国でも、濠帝(オーストラリアのことだ)でも、大英帝国でも、とにかくこの国から離れられればそれでいいんだ。この人数でいっぺんに行くのはちょっとつらいが――金さえあれば、半韓民国の漁船を使って何回かピストン輸送してもらえるはずだ。その後は、裏ルートを使って別の国に行く。米帝あたりは、臨時政府が立ってはいるが、混乱の最中だから、比較的入りやすいだろう」
  それで、全員が、秋也の顔を見た。
  貴志が言った。
 「それは、この国を捨てるってことか?」
 「そうだ」
  秋也は頷いた。
 「こんな腐った国は、たとえほっぽり出したとしても、誰も文句は言わない。そうだろ?」
  秋也が貴志の顔を見ると、貴志は曖昧に頷いた。
 「まあ、そりゃそうだろうけど――。それで、もうひとつの策ってのは?」
 「それは――」
  秋也は言いかけて、しかし思いとどまった。
  それは、到底できそうにない方法だったので。
  ひょっとしたら、なにかうまい方法を使えば、一万分の一、いや百万分の一、一兆分の一の確率で、そうなることもあるかもしれない。
  しかし、そんなことは――机上の空論だった。到底、できるはずがない。
  自分たちが、この大東亜共和国政府を倒して新しい国家を建設するなどということは――
  3年前、ロックの話をしたときの、川田の言葉が思い出された。

 『一旦できあがったシステムをぶっ壊すってことは、口で言うほど容易じゃないぜ』
 
 「――とにかく、これはいま言っても仕方のないことだ。当座、ここから出ないと、その先の計画は意味がなくなってしまうからな」
  秋也はそう言って、ポケットから小さく折り畳まれた、ぼろぼろの紙を引っ張り出した。
  ディパックの中に入っていた地図だった。
  幾つかのエリアに鉛筆でざっと斜線が引いてあり、その枠の中に小さく時間が書かれていた。
  まあ、今回のプログラムでは、それはあまり使われることはなかったが。
  秋也はその地図をびりびりと破り、数枚のパーツに分けた。
  それから、それぞれの紙に鉛筆で文字と数字を殴り書きした(我ながら汚い字だった、いやはや)。
 「とりあえず、ここから逃げ出したあと、俺たちがバラバラになったときのために、一人一枚ずつメモを渡しておく。このメモにはそれぞれ、べつの時間と場所を書いてあるから、もしはぐれてしまったら、指定した時間にその場所に行ってくれ。俺もそこに行くようにするから」
  その紙を小さく折り畳んで、一人一人に手渡した。
  由香里が開こうとすると、秋也は「ああ、ちょっと待った」と言ってそれを制した。
 「いま見る必要はない。あくまで、俺たちがバラバラになったときのためだ。時間と場所をそれぞれ変えたのは、まあ、1人が政府に捕まったときに、その場所をしゃべってしまうことを防ぐためだ。全員が同じ場所だったら、俺たち、すぐに捕まっちまうかもしれないからな」
 「わかったわ。いまは見ないことにする」
  由香里はそう言い、そのメモをスカートのポケットの中にきちんとしまった。
  健司も小さく肩をすくめると、学生服の胸ポケットにそれを入れた。
  それから、言った。
 「このメモはいいとして、全員の場所を知っているのはあんただけなんだろ? それなら、万が一、あんたが捕まったときは、俺たちは合流する手立てはないんじゃないか?」
 「そうか――。それなら典子にも、メモを渡しておくよ。こいつには、全員の場所と時間を書いておくから、俺になにかあったときは――」
 「そんなこと」
  典子が、秋也の言葉を遮った。
  かなり強めの口調だった、典子にしては。
 「なにかあったらなんて、そんなこと、言わないで。あたしたちは、ずっと一緒にいるって、約束したんだから」
  典子が言った。
  周囲の人間が聞いていたら、まるでのろけているような台詞だったかもしれないが、典子の瞳は真剣だった。
  秋也は典子の瞳を見つめ返し、それから、頷いた。
  破った地図の残りをすべて使って、乱雑な字で、それぞれ指定したの場所と時間を書くと、典子に渡した。
  典子はちらっと目を通すと、それを折り畳み、大切そうにポケットにしまった。

 「とにかく――」
  秋也が言った。
 「まずは、この犬みたいなクソやくたいもない首輪を外そう。まあ、本当に外れるかどうかは知らないが――」
  秋也がちらっと典子の方を見た。
  典子は、自分の手の中にある電卓のようなリモコンに視線を落とした。
  あの石田とかいう男の話が本当ならば、これを使えば首輪はすぐに外れるはずだった。
  それは、確かに、本部が設置されている中学校の一室で、坂待が典子に見せたものと同じだったのだけれど――本当にそれでこの首輪が外れるという保障は、どこにもなかった。
  石田という男の言うことがどこまで信用できるのかも、まだわからなかった。
  そもそも、話がうますぎるような気がする、なんだか。
  しかし、だからといって、それが嘘だという確証がないのも確かだった。
 「だ、誰からやるの――?」
  由香里が口を開いた。
  微かに震えているその声は、吸い込まれるように闇の中に溶けていた。
  少しのあいだ、沈黙が流れた。
 「俺がやろうか?」
  秋也が口を開いた。
  典子が、驚いたように秋也の顔を見た。
 「やめとけ」
  声がした。
  秋也は、声を出した人物の方に向き直った。
  健司だった。
 「万が一、それが偽物だったとしたら、どうなるかわからないだろ。あんたに、そんな危ない橋を渡ってもらっちゃ、こっちが困る」
 「しかし――誰かがやらないことには何も変わらないだろう? いつまでもこうしているわけにはいかないんだ」
  秋也が言った。
  健司が頷いた。
 「そんなことはわかってる。だから――」
  健司が続けた。
 「だから、そいつは俺が引き受ける。いま、七原に死んでもらっちゃ、今後のプランが立てられないからな。ここから上手く逃げ出せたとして、全員の例のメモに書いてあった行き先を知ってるのは、あんたなんだからな」
 「それはそうだが・・・・・・」
  秋也が言葉に詰まっていると、健司は典子に向かってすっと右手を出しだした。
  典子はちらっと秋也の方に視線を移し――しかし、秋也が仕方ない、といったふうに頷くのを見て、持っていたリモコンを健司に渡した。
  健司はそれを受け取り、文字盤やディスプレイ、リモコンの裏側をしげしげと観察していたが、問題ないと判断したのか、キャリコを持った左手でおもむろにキーを押した。
  ピッ、ピッっという音がして、ディスプレイに『M9』という数字が表示された。
  あとは『R』のキーを押せば首輪が外れるはずだった、このリモコンが本当に本物だとしたら。
  健司は最後のキーに人差し指を持っていき――そこで一旦、息を吐いた。
  少しばかり緊張していた。
 「・・・・・・いいか?」
  健司は、秋也に視線を移して訊いた。
  秋也は小さく頷いた。
 「黒澤くん」
  健司がキーを押そうとしたとき、由香里が声をかけた。
  それで、健司は、力を込めかけた人差し指をぴたっと止めた。
 「あの――が、頑張ってね」
  由香里が、しどろもどろになりながら、そう言った。
  健司はちらっと苦笑した。
  思った。
  なにをどう頑張ればいいんだ、一体? そんなに力がいるのか、この電卓のキーを押すのには?
  いつもの毒舌が喉を突いて出かかったが、言葉に言葉にすることはやめておいた。
  由香里も、健司のことを思って言ったことなのだ。
  いやはや。それにしてもお嬢さん、「頑張って」はないでしょう、この場合? もっといい言葉は見つからなかったんですか、他には? 国語辞典、お貸しします?

  しかし、とにかく、それで健司は少し肩の力を抜いた。
  大きく一回深呼吸をし、それから、目を見開いた。
 「いくぞ? いいな?」
 「ああ・・・・・・」
  健司の言葉に、秋也が頷いた。
  意を決して、健司が『R』のキーを押そうとした、そのときだった。
  ぱしゃっという、バケツの水かこぼれたような、あるいは水風船を割ってしまったときのような、不思議な音が聞こえた。
  次の瞬間、健司の持っていたリモコンは、まるでバットで叩きつけられたかのように砕け散った。
  コンデンサーや集積回路、それを留めていた基板が、バラバラと地面に落ちた。
  秋也にもなにが起こったのか理解できないうちに、また、ばしゃっという音が聞こえた。
 「きゃあぁぁっ!」
  諒子が、叫んだ。
 「諒子ちゃんっ!? どうしたのッ!?」
  由香里の強張った声が聞こえた。
  そのとき月がすうっと雲の中に隠れ、あたりが真っ暗になった。
  なにも見えなかった――なにが起こっているのかすら、わからなかった。
 「騒ぐなッ! その場に伏せろッ!」
  秋也が怒鳴った。
  ちくしょう、なんだ、なにが起こってるんだ一体!?
  姿勢を低くした状態で、秋也はポンプ・アクションをしてショットガンにシェルを装填した。
 「七原さんッ! 中山サンが――!」
  貴志の声が秋也の耳に届いた。
  秋也はすぐに、その声のした方に走った。
  そして――はっと息を呑んだ。
  諒子が地面に倒れていた。
  そしてその太股のあたりから血がどくどくと流れ出しているのが、暗闇の中で微かに見てとれた。
  月明かりがなかったのでよくわからなかったが、もしこれが明るい照明かなにかがあるところだったら、それは大東亜共和国の国旗と同じ、深いクリムズンレッドをしているに違いなかった。
  真っ赤に染まった諒子の太股には、秋也の小指ほどもある穴が空いていて、そこから壊れた水道管のように鮮血が吹き出していた。
  銃創であることは明らかだった。
  諒子はときおり、苦しそうな呻き声をあげていた。
  太股は、人間の急所が集まった、重要な部分である。
  そこを撃ち抜かれるということは――即死には至らなかったものの、明らかに致命傷であった。
  しかしこの出血からすると――静脈層を撃ち抜かれたのかもしれない。
 「クソ――」
  秋也はぎりっと唇を噛んだ。
  どこだ? どこから撃ってきた?
  目を凝らしてみたが、どこから撃ってきたのか、まったく見当がつかなかった。
  そもそも撃発音すら聞こえなかったのだ。
  この暗闇のかなで位置を特定することは不可能に近かった。
  秋也が考えていると、また、ぱしゃっというとても小さな音が聞こえた。
  刹那、秋也の耳元をなにか熱いものが高速で通過した。
  秋也はなにも考えず、それが発射されたと思われる方に向かってショットガンを撃った。
  凄まじい撃発音が鼓膜を振動させ、銃口から火炎放射器のような炎が吹き出して、あたりを一瞬、照らし出した。
  ぼん、となにかが粉砕される音がした(おそらく自動車のガラスかなにかだろう)。
  秋也がポンプ・アクションをしようとすると、間髪おかずに、ぱららららららっという乾いた連射音が聞こえた。
  あの軽い音はイングラム系のサブマシンガンだな・・・・・・。
  秋也は思った。
 「秋也くんッ!」
  典子の叫び声が聞こえた。
 「いいから、みんなを連れて安全なところに隠れろ!」
  秋也は怒鳴った。
  不意に、さっきの石田の言葉がよみがえってきた。

 『掃除屋が君を狙っています。気をつけてください』

  そのときは“掃除屋”というものが何なのかわからなかったのだけれど――ひょっとしたら、こいつが、それなのかもしれない。
  生き残っている生徒を片付ける、という意味なのだろうか、それは?
  あなたは雑巾でいいですね。それで、あなたはモップ。ああ、こういうしつこい汚れには、イングラムなどを使うと簡単に消せますよ?




       §

 「ちくしょう・・・・・・」
  秋也は唸った。
  もう一発、今度は適当に狙いを定めて、撃った。
  病院の白い壁に撃発音が反響し、こだまになってあたりに響き渡った。
  そのとき、すうっと月が雲間から現れ、地上に仄かな光が差し込んだ。
  真っ暗だった闇の中から、周囲の景色が徐々に浮かび上がった。
  病院の駐車場の向こう、背の低い植え込みが植わっているあたりに、人影が現れた。
  秋也は反射的にそちらにショットガンを向けかけ――絶句した。
 「動くな・・・・・・」
  その人影は、低い声で、そう言った。
  月の光に、血が滲んだ白いワイシャツが照らされ、服だけが浮かび上がっているように見えた。
  秋也はそれで、その人影が旗山快だということがわかった。
  快は、右手に拳銃、左手にサブマシンガンを持って、立っていた。
  イングラム・サブマシンガンの銃口はしっかりと秋也の方に向いていたが、拳銃の方はまったくべつの方向に向いていた。
 「郁美ッ!? おまえ、どうして――」
  秋也の背後で、健司が驚愕の声を上げた。
  そう、快が持っている拳銃は、快の少し前に立っている郁美の後頭部に向けられていたのだった。
 「け、健司くん――!?」
  郁美の方も健司の顔を見て、微かに狼狽したような声を上げた。
  さすがに郁美も、健司が秋也たちと一緒にいるとは思ってもいなかったので。
  郁美は健司の方に一歩踏み出そうとした。
  そのとき、快が小さな声で、言った。
 「そっちに行くのはかまわないが、その場合、ぼくが君を殺さずにいる必要もなくなるということを忘れているわけじゃないね?」
  それで、郁美は、びくっと身体を硬直させた。
  郁美が健司のもとへ駆け寄れば、きっと快は自分を殺すだろう。
  まあ、いまでも、自分の後頭部には銃口が押し付けられているのだけれど。
  だがもちろん、これは演技だった――そのはずだ、少なくとも、ここに来るまでに快が言っていたことを総合するとそういうことになる。
  つまり、快が郁美を人質にとっていることにするのだ。
  そうすれば、相手はどうにか郁美を助けようとするだろう(必ずしもそうなるとは限らないと郁美は思ったが、快は、それ以外の選択肢をまったく考えていないようだった)。
  これで、快と秋也は、戦わざるを得なくなるはずだった。
  快の目的は秋也を殺すことにあったから、当座、秋也との戦闘を始める口実ができれば、それでよかったのかもしれない。
  いきなり攻撃して行っても、それなりの戦いにはなるかもしれないが、それだと相手が交戦する意志を示さないかもしれなかったので。
  快としては、あくまで戦う気がある相手と互角な勝負をしたがっているようだった。
  郁美には快がわざわざ自分が死ぬ危険性がある方法を取っているような気がしないでもなかったがとにかく――秋也はショットガンを構えたまま、快に向かって言った。
 「やめろ。俺たちは戦う気なんてないんだ。ここから逃げる手立ては、まだ、ある。旗山、おまえも俺たちと一緒に――」
 「そんなことは、ぼくの知ったことじゃない。いま、この時点で存在する選択肢は――七原秋也。あんたが死ぬか、ぼくが死ぬかだ」
  快が轟然と言い放った。
  秋也は、快の言葉に絶句したように、眉根に深くしわを刻んだ。
 「どうして――知っているんだ? 俺が七原秋也だということを?」
 「どうしてだろうが、そんなことは関係ないね。一度はこの“プログラム”で最後まで残った人間だろう?」
  快は秋也を見下ろして(郁美たちがいるところは、秋也たちがいる駐車場よりも少し高くなった丘のようなところだった)、ふんと鼻で笑った。
  言った。
 「まさか人質がいるくらいで、敵を殺せなくなる程度の人間じゃないだろうな――稲山奈津子みたいに」
 「――な、なんだと!?」
  快の言葉にいち早く反応したのは、秋也でも健司でもなく、貴志だった。
  貴志は、快を睨みつけながら怒鳴った。
 「旗山! てめぇ、奈津子になにしやがった!」
 「なにって――」
  快は、不思議そうな表情で貴志を見つめた。
  そして――にやり、と小さく笑んだ。
  それは、以前、華江や郁美なんかに見せた笑顔とは似ても似つかないくらい、凶悪なものだった。
  言った。
 「彼女も同じさ。他人を殺すのを躊躇っていたから、ぼくが殺したんだ。これは、そういうゲームだ。それがどうかしたって言うのか?」
 「・・・・・・ッ!」
  貴志の表情が、見る見る強張っていった。
  スミス・アンド・ウェスンのグリップをぎゅうっと握り締めているその手は、ぶるぶると小刻みに震えていた。
  貴志は、まだ奈津子もどこかで生きていると信じていたので。
  首輪を外すか、逃げ出す準備をすべて整えてから、1人ででも探しに行こうと考えていたので。
  しかし奈津子は――殺されてしまっていたのだ、目の前にいる、旗山快の手によって。
 「なんだい? なにか問題でもあったか? 太田芳明と天道沙利美も一緒だから、まあ当座は寂しくないと思ったんだがな」
  快は、面白そうに言った。
  それが、引き金になった。
 「ふざけんなあッ! ぶっ殺してやる!」
  貴志が、叫んだ。
  普段は冷静で、頭もよくキレる貴志が、本気で怒っていた。
  貴志は、秋也を無理やり押しのけて前に出ると、スミス・アンド・ウェスンを構えた。
 「杉山ッ! よせっ!」
  秋也が叫んだ。
  ぱららららららららららっ――という連射音が、夜の闇を貫いた。
  撃発音が病院の壁に反響し、わんと空気を振動させた。



  いま、この瞬間、最後の戦いの火蓋が切って落とされたのだった。
  それはまるで、信じるとか信じないとか、善とか悪とか、そんなことは一切関係のない戦い――戦争のようだった。
  いつの間にか月は薄い雲に覆われ、空からはぽつりぽつりと冷たい水滴が降り始めていた。
  それはいつしか勢いを増し、ざあざあと音を立てて降る雨へと変わった。
  どこか、近くに水田でもあるのだろうか、ゲコゲコというかえるの声が聞こえていた。
  遠くで雷鳴が轟いた。
  それは、まるで、これまでに死んでいった死者を弔うレクイエムのように、徐々に大きくなっていった。
  こうして、『ラストバトル』は、始まった――

  【残り9人】


       [ 第十部 / 終盤戦(後編) 完  フィニッシュへ続く・・・・・・ ]


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