BATTLE ROYALE 2
〜
The Final Game 〜
[ 第十一部 / Finish ] Now 8 students remaining...
< 52 > ファイナル・ラウンド(2)
冷たい雨が快の身体を軽く叩いていた。
仰向けに倒れている快を、秋也は少し離れた位置から見下ろしていた。
そこそこに長い髪が目のあたりまでかかっていた。
快が倒れている少し向こうには、秋也がショットガンで弾き飛ばしたグレネード・ランチャーが転がっていた。
図太い砲身に、申しわけ程度にくっついているようなグリップが、はなはだ不恰好だ。
その砲身とグリップの付け根のあたり、三日月形の金属製のトリガーがぽっきりと折れて、そのさらに向こうに落ちていた。
トリガーは金属製ではあるが、比較的細くて壊れやすい部分である。
おそらく秋也がショットガンを乱射した際、その散弾の幾つかが快の手からグレネード・ランチャーを弾き飛ばし、そのうえさらに別の散弾がトリガーにあたって壊れたのだろう。
いくら恐ろしいほどの破壊力を持つ無反動砲でも、弾を撃ち出すことができなければただの筒に過ぎなかった。
あれはもう使えないだろう、と秋也は考えた。
そして再び快に視線を移した。
いきなり近づくのは危険だったので少し距離をおいていたが、快はぴくりとも動かなかった。
本当に――死んだのだろうか。
杉山のあの一発は、おそらく快にとっても予想だにしていなかったに違いない。
秋也は杉山の方にばかり気を取られていたので、快が撃たれたその瞬間は見ていなかったのだけれど。
しかし、なんでも大抵はこなしてしまうことができる杉山のこと、拳銃の扱いも、その弾丸が快の左胸に命中したのは疑う余地がなかった。
快が胸から突き飛ばされるような感じで地面に倒れるところは、秋也も見ていたので。
ふつう心臓を撃たれて死なない人間など、いるはずがない。
秋也は一歩、足を踏み出した。
もう泥にまみれてどこのメーカーだかわからなくなったスニーカーの底で、びちゃっと水が跳ねた。
途端に、地面がぐらりと傾いた感じがした。
なんとか膝をつかずにいれたものの、自分が思っている以上に肉体的な限界が近いようだった。
秋也は、今度はしっかりと両足に力を込め、ゆっくりと快に近づいていった。
もちろん、ウージーはいつでも撃ち出せるように、セーフティは解除した状態だった。
快が横たわっている場所まであと3歩程度というところで、秋也は歩みを止めた。
そこからでも、快が自分と同程度の傷を負っているのが見てとれた。
快のワイシャツはほとんど血で赤く染まっており、鋭いもので引き裂かれたのか、所々破れていた。
秋也との戦い(と言っても一方的な攻撃だったのだけれど)では、こんな怪我を負うはずがなかった。
これまでのあいだに、誰かと戦って負った傷に違いなかった。
それも、自分が生き残るためではなく、ただ命令に従って受けた傷なのだ。
――こいつもある意味かわいそうな奴なのかもしれない。
秋也は一瞬、そう思った。
軽く頭を振った。
そういう考えはするべきではない、この状況では。
自分の甘さをつくづく実感した気がした。
それから、ゆっくりとウージーの銃口を快の眉間に向けた。
生きているか死んでいるかわからない場合は、自分の手で確実にとどめを刺さなければ安心はできない。
もうこれ以上、自分の不注意で犠牲を増やしたくはなかった。
あとは――人差し指でトリガーを押し込むだけだ。
次の瞬間には、ウージーが唸りをあげて、9ミリパラベラム弾の束で快の頭部を粉砕するはずだった。
しかし秋也は、しばらくその姿勢のまま固まっていた。
まるで冷やし過ぎたゼリーのように、そこから先の動作をすることができなかった。
・・・・・・なにを躊躇っているんだ、俺はいまさら。
秋也は思った。
こいつは敵なんだ。倒すべき相手だ。いまやらなければ、逆に自分がやられてしまうかもしれない。
そう冷静に判断している自分がいた。
だが――脳みその片隅、それを否定したがっている自分もまた、存在していた。
やらなきゃ、やられる。
それじゃいつまでたっても終わらないじゃないか。
いつまでも、いつまでたっても、自分のために誰かを犠牲にするしかない。
同じことの繰り返しになってしまうんじゃないか・・・・・・?
秋也は考えた。
しかし、それは考えてはいけないことだった。
少なくとも有能な軍人は、そう言われ続けているはずだった。
何故なら、その考えが生まれたとき、ひとは迷いも同時に生み出してしまうからである。
そして迷いが生じた瞬間――戦場で待っているのは、『死』しかなかった。
秋也は一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
手に持っていたはずのウージーが、いつのまにか弾き飛ばされていた。
だが、すぐに理解した。
横たわっていた快の蹴りが、ウージーの銃身を捕らえたのだ。
秋也自身は1メートルちょっとの安全マージンをとっているはずだったのだが、ウージーを快に向けた際、その銃身の長さ分だけ快に近づいていたのだ。
それは、快の脚がウージーの銃身を蹴り上げるのには十分とは言えないまでも、やろうと思えば無理ではない距離だった。
だが、そんなことよりも秋也が真っ先に思ったのは、快のことだった。
何故こいつはまだ生きているのだろう、杉山に胸を撃ち抜かれたはずなのに――!
もっとも、そう思ったのは束の間のことだった。
秋也は反射的に腰に突っ込んであるベレッタを抜き出した。
ほとんど同時に、引き金を引いた。
銃口が快の方に向いていようといまいと、とにかく牽制できればよかった。
ばん、ばん、ばん、と三発立て続けにベレッタが炎を吹き出し、一番最後の一発が快の腹に突き刺さった。
しかし快は微かに呻き声を出しただけで、うさぎのような俊敏さでさっと身体を回転させると、ほとんどあっという間に立ち上がっていた。
防弾チョッキを着ているのは明らかだった。
そして、秋也が快に銃口を向けるのと、快がポケットからあらかじめ取り出していた“なにか”を投げつけるのとは、ほぼ同時だった。
次の瞬間、秋也の手に鈍い、けれども強烈な痛みが襲い、手からベレッタがこぼれ落ちた。
秋也の手を直撃したのは、重い鉛の塊だった。
それには長い鎖がついていて、その先は快の手にしっかりと握られていた。
鎖分銅、というやつだろうか?
秋也は痛みで明暗する意識の中、おぼろげにそう考えた。
いまどき子供番組の忍者でも使いそうにない代物だったが、強力な凶器になることは間違いなかった。
だが、とにかく、感心している場合ではない(べつに感心しているわけではないのだけれど)。
秋也はすぐさまベレッタを拾い上げようとし、――今度も快の方がわずかに早かった。
快のすぐ近くにも無反動砲と(もっともこれは使えないが)イングラムが落ちていたが、快は銃器に拘泥せずに、まっすぐ秋也に体当たりをくれていた。
銃器に気を取られた分だけ反応の遅かった秋也は、快の体重をかけた体当たりをもろに喰らい、体勢を大きく崩した。
それに乗じて、快が殴りかかってきた。
左の拳が、秋也の右頬をしたたかに打った。
脳味噌がぐらっと揺れて、目の前がチカチカと明暗した。
快が右のストレートをもう一発見舞おうとしていたが、さすがにそれを受けてやるほど秋也は愚かではなかった。
身体を思い切り左に回転させ、快の右ストレート――しかもその拳には分銅つきの鎖が巻きついていた。あんなもので殴られたら肉が裂けるだけでは済まないだろう――をなんとかかわすと、快の身体に両腕でしがみついて思い切り地面に引き倒した。
「ちっ・・・・・・!」
快の舌打ちをする音が微かに聞こえた。
典子か誰かが叫んでいるようだったが、耳に入らなかった。
それで秋也には、快の狙いがようやく理解できた。
この状態で快が一番恐れているのは、銃器の使用に他ならなかった。
快がいくら銃器の扱いに長けているとはいえ、一度に扱える銃器は多くとも2つまでしかない(当然だ、腕は2本しかないのだから。足を含めればあと2つは使えるかもしれないけれど)。
そうすると、距離を置いた状態で健司や典子から連携した銃撃を浴びせかけられれば、快としてはどうしようもない。
はじめから秋也たちがそうしなかったのは、快に郁美という盾(この言い方は相応しくないかもしれない)がいたからに他ならかなった。
その郁美が快から離れたいま、快としてはなんとしても銃撃戦にだけは持ち込まないようにしなければならないのだ。
そして、快はそれを実行して見せたのである。
防弾チョッキを利用して相手を油断させてから、近接戦へと持ち込んで外からの銃器の介入を封じてしまったのである。
快と秋也が取っ組み合っているあいだは、健司も典子も、銃を使うわけにはいかないだろう。
フル・オートで弾をばら撒くサブマシンガンなどは、論外だった。
「――の野郎ッ!」
秋也は渾身の力を込めて快の水月のあたりを殴りつけた。
しかし、腕は奇妙な弾力があるものにめり込んだ感触が伝わっただけだった。
防弾チョッキだった。
ほとんどゼロ距離で放たれた銃弾を受け止めることのできる防弾チョッキのこと、秋也の拳を受け止めるくらいは造作もないことなのだろう。
とにかく、快のボディへの攻撃は無駄だということである。
ならば――顔面だ。さっきの礼を利子つきで返してやる。
秋也は快の上にまたがり、快の顔面に思い切り拳を叩きつけた。
肉を打つ鈍い音がして、快がぐっとうめいた。
快の口元から鮮血がほとばしった。
もう一発、今度は逆の左の拳を振り下ろしたが、快はその拳を右手で受け止めた。
快の鋭い視線が、秋也を射抜いた。
「この程度でぼくを殺そうってのか?」
快はそう言葉を紡ぎ――にやっと笑った。
まるで子供のくだらない遊びを嘲笑う大人のように、それは冷たい笑みだった。
秋也の拳を握った快の手に、ぐっと力がこもった。
その力は万力のように強力で、秋也は思わず顔を歪めた。
刹那、秋也の背中に快の膝が入っていた。
仰向けになった快に秋也がまたがる格好になっていたものの、快の下半身はほとんど自由な状態だったので。
「ぐっ!」
思わず前屈みになった秋也の制服の襟首を快が握った。
そしてそのまま、体育のマット運動のときの後方回転の要領で、快は秋也の身体ごとごろりと回転した。
一瞬のあいだに上下が逆になった。
「どこまでもお人好しなんだな、あんたは! ひとを殺す覚悟すらできていないフヤけたやつが、ぼくを殺せるとでも思ってるのか!?」
まるで秋也を叱り飛ばすような怒声をあげて、快の拳が秋也を襲った。
快の右の拳が、秋也の脇腹あたりにめり込んだ。
「がっ!」
耐え切れず、身体を捻じ曲げて秋也が叫んだ。
当然だ、ほんの一部とはいえ、ショットガンの散弾をぶち込まれているのだから。
ふさがりかけていた傷口が再び開き、じっとりと湿った感触が腹部まで伝わってきた。
雨に濡れた制服のせいではないだろう、もちろん血液に違いなかった。
激痛のあまり手足がびくびくと痙攣していた。
「たいそうな重症だな。どうせこれも相手をあまく見た結果だろう?」
快が、妙にねちっこい、だが刃物のように鋭い口調でそう言った。
そして再び、その傷に拳を打ち込んだ。
今度こそ、秋也は声にならない叫び声を上げた。
ズキズキと身体中に痛みが走っている、というよりは、脇腹の痛みのせいで他の小さな傷の痛みなど感じられなくなっていた。
ぼうっとした意識の中、なぜ俺はこんなことをしているんだろうかと秋也は思った。
なんだかわからないうちにまた“プログラム”に巻き込まれて、そしてまた死にそうにつらい思いをしている。
いや、ひょっとしたらこのまま死んでしまうのかもしれない。
なんで俺がこんな目に会わなければならないんだ?
どうして俺は戦っているんだ、こんなにぼろぼろになるまで――?
そう考えると、何もかもが馬鹿らしく思えてきた。
旗山快は軍人だ。ひとを殺すことが職業の工作員だ。
どうやったって、そんなやつに勝てるはずがないじゃないか。
俺はやった、自分でできるところまで頑張った。
もう――もうそろそろ、休んでもいいと思わないか・・・・・・?
秋也は思った。
それっきり、秋也は意識を失った。
§
ぐったりとした秋也を見て、快はようやく秋也を殴る腕を止めた。
秋也は四肢の力を抜き、濡れた地面に両手足を投げ出していた。
小雨がしとしとと秋也の身体を叩いていたが、秋也にはそれが冷たいということなど感じていないだろう。
快はふっと一息つくと、両足に力を込めた。
正直なところ、このゲームが始まってからほとんど眠っていなかったし、さんざん身体に負った傷のせいで、体力もそろそろ限界にきていた。
しかし、ちょっと気を抜くと膝が震えそうになる疲労を押し隠し、快は何事もなかったかのように平然と立ち上がった。
少しやつれてはいたが、その顔には疲労の色は微塵も感じられなかった。
ただそのかわり――明らかな怒気と不機嫌さが微妙にブレンドされた表情を湛えていたのだけれど。
事実、快は不機嫌だった、七原秋也に勝ったにもかかわらず。
だが別にそれは今回に限ったことではなかった。
いつも任務が終わると、たとえそれが完璧に遂行ができたとしても、快はとても不機嫌になるのだった。
もっとも今回は、その中でも最大級の不快感だったのだけれど。
その原因が何なのか、快にはわからなかったし、別にわかろうとも思わなかったが。
快は、ゆっくりとした、しかし自然な仕草で少し離れたところに落ちていたベレッタを拾い上げると、トリガーを起こし、その銃口を地面に横たわっている秋也に向けた。
「やめてッ! もうやめてぇッ!」
典子の悲鳴が聞こえた。
快は頭をわずかに傾げて典子の方に視線を向けた。
言った。
「無駄に騒ぎ立てないでくれないかな。恋人の顔が目の前でジャムバターになるのを見たいのかい?」
静かな――しかし絶対的な迫力のある声だった。
それで、秋也に駆け寄ろうとしていた典子の足が、セメントに突っ込んだように固まった。
「君もだ黒澤。余計な考えは起こさないほうが身のためだ」
そう言って、快はクルツを構えようとした健司に視線を移した。
そして、ちらと健司のそばで病院の壁にもたれかかっている郁美を見た。
どうやら先ほどの爆発の際に気を失ったらしく、硬く目蓋を閉じたままゆっくりと呼吸をしていた。
顔や、スカートから露出している足の皮膚に小さな擦り傷などが増えていたが、致命傷は負っていないようだった。
とにかく、死んではいなかった。
微かに口元に笑みを閃かせた快は、しかしすぐに表情を引き締めた。
果たして郁美が秋也と出会い、どういう行動をとるのか、快には興味があったのだけれど、もうそのことに関しては考える必要がなさそうだった。
郁美が秋也と対面するのは、すべてが終わってからになるだろう。
それは、快に殺された秋也の死体との対面――という意味ではあったが。
戦場において生きる気力を失ったものは、その瞬間に、必然的に敗者になるのだ。
いま、目の前に横たわっている秋也の表情は、すでに生きることを諦めかけたそれだった。
だがしかし、秋也を撃ち殺したところで、快もすぐに後を追うことになるだろう、健司か典子の手によって。
郁美と秋也の感動の対面シーンは、どちらにせよ見れそうになかった。
だから快は、すぐに余計な思考を頭の中から追い払った。
左手で切れた唇の端から垂れていた血を拭い、意識を現実世界に集中させた。
ちりっと微かな痛みが走り、酸化鉄を舐めたような味が舌に染みた。
もう慣れた味だった。
「さっきの放送は聞こえたかな? ここにきて政府も自暴自棄になったようだね。いよいよ強硬手段に出てきたというわけだ」
さらさらと降る雨音にかき消されてしまいそうなくらいの声だったが、それでも落ち着いた調子で、快は言った。
快は、先程の坂待の臨時放送を聞いているときも、たいして驚いたりはしなかった。
こういう結果になるであろうことは、大体予想はできていたので。
もちろん、ここまで早く政府が軍部にプログラム自体の『処理』を要請するとは思ってもいなかったが。
結局、中央政府の役人は、マニュアルに書かれていない『非常事態』というやつには対処できなかったというだけのことだ。
その非常事態を一番効率的に、しかも手っ取り早く解決する方法として、軍部に頼った全面攻撃しか思い浮かばなかったに違いない。
快は思った。
ばかばかしい――途中で放り出すくらいならば、もとからやらなければいいだろうに。
まあ、もっとも、そんなことは快の知ったことではなかったし、正直なところどちらでもいいことだった、快にとっては。
軍部がプログラム会場に対する全面攻撃を決定したとはいえ、べつにもともとの快の任務が消滅したわけではなかったので。
早い話、このプログラムがどういう結果を迎えるとしても、快の生存はあり得ないということだった。
自殺か他殺か、ひょっとしたら時間切れで全員仲良く木っ端微塵になるという場合もあっただろうがとにかく――自分の知ったことじゃない、そんなことは。
快は自分の腕時計にちらと視線を落とした。
午前0時まであと・・・・・・40分弱。
「もう時間はあまりないけど、君たちはこれからどうするつもりかな」
快の言葉に、典子がちょっと眉をひそめた。
大人びた、しかしそれでいて棘の感じさせない端整な顔立ちには少し不釣合いな仕草だ、と快は思った。
「・・・・・・どういうこと?」
典子が訊いた。
快は答えた。
「どうもこうも――選択権は君たちにあるんだよ。ぼくがここにいるのは七原秋也を殺すため、そして――」
ちら、と例の救急車の陰に隠れてこちらの様子をうかがっている飯田浩太郎に視線を向けた。
快の視線を受けた浩太郎は、びくっと身体を硬直させたかと思うと、慌てて影に引っ込んでしまった。
一瞬、快は冷たい笑みを含んだ、侮蔑の表情を閃かせた。
思った。
まあ――もうひとつの任務の方は、とりあえず問題ないか。
今回の『命令』を快に与えた張本人は、快が所属している部隊の連隊長、飯田少将であった。
そして彼は、快の『クラスメイト』である飯田浩太郎の父親でもあった。
都立第壱中学校3年B組のプログラムが決定したその日に、快は浩太郎の父親に呼び出され、そして今回の命令状を受けたのである。
それは当初は『学校側の要人に政府に反する思想を持つ人物がいる恐れがあるため調査せよ』という内容のものであったが、プログラム開始の1週間前になってそれは『七原秋也という第一級指名手配犯をプログラムのルールに則って処理せよ』という内容に変更された。
けれども快は、その命令状の本文に何の意味もないことをすぐに見抜いていた。
その命令状には、ご丁寧にも最後の一行に『任務外の事項においては自らの判断により軍部が是とする行動をすること』と書かれていた。
軍部という言葉が使われているが、その意味は上司の喜ぶことをしろ、つまりは自分の息子をなんとしても優勝させろと言っているのと同じだった。
つまるところ、この今回の任務において最も優先すべきは最後の一文であって、七原秋也の暗殺は建前に過ぎなかったのだ。
しかし、快としては秋也との戦いの方が興味があったし、だいいち、いくら快とはいえ40人を相手にたった1人を守ることなどできるわけがない。
そういうわけで、プログラムが始まってから、いちおう浩太郎を探すような素振りはしていたものの、『運がよければ』という程度のものであったし、たとえ偽りの命令文だとしても本来の任務は秋也の暗殺ということになっていたので、快は浩太郎のことはあまり考えていなかった。
だがとにかく、秋也と浩太郎が一緒にいることで、少なくともどちらか片方の任務は果たせそうだった。
このまま秋也たちのチームが脱出するなり何なりすれば、必然的に浩太郎も助かるだろう。
時間切れなどで脱出しきれない場合もあるが、そこまで快が責任を負う義務はなかった。
もし快が浩太郎を助けられなければ、快の上司である飯田少将はおそらく快を殺すだろう。
どのみち快に『生存』の二文字など、残されてはいないのだから――。
「――とにかく、君たちを殺すためじゃない」
快は、軽い口調でそう言った。
「ふざけるな。中山を撃っておいて、いまさら殺すつもりはないだと? 戯言もいい加減にしろ」
鋭い口調で健司が返した。
快はおやおや、というように大袈裟に肩をすくめて見せた。
言った。
「あれはべつに殺す気だったわけじゃない。適当に撃った弾が、たまたま当たっただけだろう。彼女の運が悪かっただけさ」
言いながら、馬鹿らしいな、と快は思った。
大嘘もはなはだしかった。
快ははじめから、諒子を狙って撃ったのだ。
いや、諒子とわかって撃ったのではなかったが、少なくともそこに『人』がいることはわかっていた。
雲間から微かに月光が差し込んだときに、美しいステンレス製の拳銃(カースルのことだ)がきらきらと光っていたので。
快はそれを狙って撃ったに過ぎない。
まあそれも、どうでもいいことだった。
もっとも、自分に言わせると世の中のほとんどのことが『どうでもいいこと』になってしまうのだけれど。
§
快が言った。
「それよりも、逃げるのならいまのうちだよ。七原秋也をおいてこのまま逃げるのなら、あえて後を追って殺すような真似はしない。ぼくも疲れているしね」
快の言葉に、典子はこくっと喉を鳴らした。
典子には続きの台詞が、ある程度予想できていたので。
快が続けた。
典子の予想通りの言葉だった。
「しかし、七腹秋也を助けようとか、くだらないことを考えているんだとしたら、ぼくは君たちを殺す。君たち全員をね。さあ、どうするのかな?」
「そんな・・・・・・」
典子は喘いだ。
どうするもなにも――選べるはずがない、そんなことは。
秋也を見捨てれば、重症の中山諒子をはじめ、典子を含めて6人もの命を助けてもらえるかもしれない。
もし秋也を見捨てずに助けようとするならば、快はあくまで全員を殺すつもりだと言った。
しかも本当に快が約束を守るという保障はどこにもないのだ。
典子にしてみれば、秋也を見捨てて自分だけ逃げるなどということは、絶対にするつもりはなかった。
それによって自分の身が危険にさらされようとも、甘んじてそれを受け入れるつもりだった。
だが、他の者までが犠牲になるのだとしたら――?
典子は自分ひとりの考えで安易に決断を下すことができないことは、痛いほど理解していた。
どうしたらいいのだろう・・・・・・。
典子は思った。
どうもこうも、どうしようもなかった、典子には。
このプログラムに関して、いやこのクラスに関しては完全な部外者である典子には、それを決定する権利はなかった。
少なくとも、典子はその権利が自分にあるとは思わなかった。
典子が返答に窮していると、健司が小さくため息をついた。
快も、典子も、健司の方に視線を向けた。
2人の視線を受けた健司は、しかしまったくと言っていいほど無表情で、ただじっと眠りこけたように気を失っている郁美の顔を、見下ろすような形で見つめていた。
その瞳の色が独特の光をたたえているように、典子には思えた。
それは、秋也が典子を見るときの瞳の色と同じか、少なくともそれに似た色だった。
あるいは典子が秋也を見るときも、同じような目をしているのかもしれない。
ただの友人ではない、少なくとも友人以上の者を見る瞳に、他ならなかった。
典子は思った。
ひょっとしたら、彼は足元で眠っている女の子に、特別な感情を抱いているのかもしれない――と。
典子の言う『特別な感情』とは、一般に言う恋愛感情のことであったのだが、実のところそれは半分あたりで、半分ははずれだった。
健司は郁美を「ふつう以上の友人」であることは認めていたが、それが恋愛感情であるとは思っていなかったので。
だが、そんなことを出会って間もない典子が知るはずもなかったし、仮に知っていたとしても意味のないことだった。
典子が一番不安に思ったことは、自分の大切な人を助けるために、秋也を犠牲にするという選択をするのではないかということだった。
しかし、その行為自体を典子が責める権利はなかった、自分も同じようなものなので。
いままで秋也を助けたいという一心のために、どれだけのものを犠牲にしてきただろうか――。
それは典子がはじめて人を殺すという経験をした桐山和雄に始まり、役人やら、兵士やら、自分でも数え切れないくらいの人数にのぼるはずだった。
やがて健司の唇が微かに動いた。
「・・・・・・俺たちが七原を見捨てたとして、それでおまえが俺たちを殺さない保証がどこにある? 油断させておいて背後から一気に――なんて考えてるんじゃないのか?」
健司の言葉に、快は健司の方を見ながら、首を横に振った。
「いや、そのつもりはないよ。どうしても信じられないのなら、ぼくが七原秋也を撃ち殺した直後にそいつでぼくを殺せばいい。トリガーをひいた直後なら、さすがにぼくも対応しきれないからね」
快は顎で健司の肩に吊るしてあるクルツ・サブマシンガンを指した。
「なんなら君が先に撃ってもいい。ぼくはこのままトリガーを引くだけなんだから」
こともなげに、さらりと言った。
そんな快の言葉に、健司は軽く苦笑して首を振った。
いや、口元が引きつっていただけなのかもしれないが、とにかく典子には健司が笑っているように見えた。
「・・・・・・気に入らないな」
健司が呟いた。
「そうかい。べつにぼくは君に気に入られるつもりもないし、気に入られたいとも思わないけど?」
快の言葉に、健司が再び首を横に振った。
「そうじゃない。おまえのその、おれはいつ死んでもいい、っていう考え方が気に入らないんだ、俺は」
健司が快の瞳を見据えた。
続けた。
「俺はいままで七原と一緒に行動してきて、そいつについてひとつわかったことがある」
「自分の意思では人ひとり殺すことのできない甘さかな、それは?」
快が混ぜっ返した。
健司はちらっと肩をすくめるような仕草をした。
「それもあるな。しかしそれだけじゃない。『生』への執着だ。なんとしても生き延びてやろうっていう強い意志だ」
快は片方の眉を上げ、納得できないような表情をした。
健司は続けた。
「ただ生き延びてやろうって意思だけなら、“プログラム”に参加したほとんどのやつが持ってただろうがな。七原の場合はなんとしても生き延びて、そして命を賭けても守りたい人間がいた。たとえ自分が死んでも、その人には生き残って欲しいと思っている者がな」
そう言いながら、健司はほんの一瞬だけ、典子の方に視線を移した。
それで典子は、胸を鷲掴みにされたような感覚にとらわれた。
典子がそうであったように、秋也もまた、自分の身を危険にさらしてまで何とかしようと懸命に努力をしていたのだ――典子のために。
泣きたくなるような切ない感情に、典子はぐっと喉の奥に力を込めた。
「矛盾しているな。死ぬために生き延びることに意味があるかい?」
快が、さもくだらなそうに吐き捨てた。
健司の口元が微かに歪んだ。
「あるな。少なくとも生きるための意味がある。あいつのおかげで、俺はまだ生きていられる」
「ふぅん・・・・・・。まあ、弱いもの同士お互いの傷を舐め合うってのも生き残る手段のひとつということかな」
「弱いもの同士・・・・・・?」
そう吐き捨てた健司の口元が、明らかに笑みの形を作った。
続けた。
「いちばん弱いのはおまえだ、旗山」
その瞬間、空気がぴしっと音を立てて凍りついたようだった。
微かな余裕さえ見せていた快の表情が、見る見る強張っていった。
「自分で生きる意志すら――生きる意味すら持たない弱いやつだよ、おまえは」
まるでかき氷の中にドライアイスを突っ込んだように、健司が冷た過ぎるとどめの言葉を紡いだ。
絶対零度の言葉というものがあれば、おそらくこんな感じなのだろう、と典子は思った。
「・・・・・・ぼくには、生き残るだけの意味がないというのかい?」
快が言った。
怒りとも、恐怖とも、絶望ともとれない口調だった。
健司が答えた。
「少し違うな。おまえには生き延びたいという意思を持たせる絶対的な『なにか』が欠けているということだ。人間が生きるために必要不可欠な要素とでもいうのか?」
「なんだい、それは?」
快の問いに、健司はお得意の毒舌を吐くときの表情を作って見せた。
言った。
「それがなにかは、おまえが一番よく知っているんじゃないのか?」
明らかに相手を見下したような、あるいは敢えてそう装っているかのような態度が、快の精神に亀裂を作った。
超然とした態度が途端に崩れ、快の表情が侮辱に歪んだ。
冷静で強靭な肉体と精神力を持つ優秀な工作員の仮面が剥がれ、いままで絶対的な差があるように感じられた快が、対等な中学3年生に転がり落ちてきた。
「・・・・・・わかったような口を利くな。殺されたいのか?」
快の口調が変わった。
明らかに怒気の要素を帯びていた。
しかし健司はそんなことには気づいたふうもなく(はたまたやはり気づいていないふうを装っているのか)、言った。
「殺されたいと思っているのはおまえの方だろ?」
「個人の意思なんか必要ない。ぼくは命令に従って任務を遂行すればそれでいい!」
「でかい組織にぶらさがってるだけで、自分で考えて行動することすらできない哀れなヤツだよ、まったく」
哀れなヤツだと言っている割には、全然哀れんでいない口調だった。
ムキになった子供のように反論する快に向かって、健司は不敵な笑みを浮かべた。
言った。
「そんなやつが、自分以外の大切な誰かを守ろうと必死になっているやつに、勝てるはずがないだろう」
「黙れッ! そんなものは関係ない、戦場ではけっきょく最後まで立っていたやつの勝ちだ!」
「そのとおりだ。だから――」
健司が言った。
「――おまえの負けだ、旗山」
健司ではない、別の声があたりに響いた。
パン、という風船の割れたような音が周囲に響いたのは、そのときだった。
こうして、“プログラム”は終幕への坂道を勢いよく転がり始めたのだった。
【終了まで残り約40分】