BATTLE ROYALE 2
The Final Game




       [ 第十一部 / Finish ] Now 8 students remaining...

          < 53 > ファイナル・ラウンド(3)


  俺はやった、自分でできるところまで頑張った。
  もう――もうそろそろ、休んでもいいと思わないか・・・・・・?

  秋也はそう思った。
  戦意などというものは、もうとっくに鎮火していた。
  身体中がじりじりと痛んでいた。
  このまま死んでしまえば、もうこんな思いをしなくても済むかもしれない。
  秋也はおぼろげながらそう考えた。
  かつて、親友の国信慶時を失ったときのように、もうつらい別れを迎えなくても済むかもしれない。
  このままだと、いずれ自分は旗山快に殺されてしまうだろう。
  そしておそらく典子も、同じ運命を辿ることになるかもしれない。
  先に殺されてしまえば、少なくとも典子が殺されるという現実を直視することもないし、つらい思いをしなくて済む。
  いやそれどころか、もう痛みや苦しみなどというあらゆる感覚や感情から解放されて、慶時のもとへ行けるかもしれない。
  それは秋也にとって、おそろしく甘美な誘惑だった。
  そうですよ、お兄ちゃん。ようやく気づいたんですか? もう出発の時間なんですけど、乗るなら早くしてくださいよ。こっちも暇じゃないんですから。

  このまま死んでしまえば――すべてが終わる。楽になれる・・・・・・。
  もう終われる、このまますべてを消してしまえば・・・・・・。
  そう思ったときだった、その声が聞こえたのは。



 『いつも思ってたけど、秋也くんにはプラスのエネルギーがあるわね』



  それは、いつかどこかで聞いた、典子の言葉だった。
  声は秋也のいる空間全体に染み渡っていくようだった。
  ほっとする、そしてほんのりと心が温まる、そんな声だった。
  ・・・・・・プラスのエネルギー?
  秋也は訊き返した。



 『うまくいえないけど――生きることに対する積極性みたいなもの。いまの状況でいうと、絶対に生き残るっていうその意思』



  そんなものが俺にはあるっていうのかい、典子サン?
  いまの俺には、とてもそうは思えないけど。



 『それで――』



  典子の声は続けた。



 『あたしは、秋也くんのそういうところが、とても好きだな』



  ああ――秋也は思った。
  そうだった。
  典子が言ったその言葉――それはとても、とても大切なものだったはずなのに。
  俺はそれを、プラスのエネルギーを、捨てようとしている。
  それは、自分のことを好きでいてくれる典子を、手ひどく裏切るような行為に他ならない、と秋也は思った。
  あのとき――この言葉を言われたとき――俺はなんと答えただろう?

  ・・・・・・多分、俺がパーだからだよ、それは。

  まったくもってそのとおりじゃないか。
  俺はパーだ。いったいなにを考えていたのだろう。
  俺からその――典子の言うプラスのエネルギーをとったら、なにが残るっていうんだ、いったい?
  生きる意思を失って、そして典子にも嫌われてしまったとしたら、それこそなにも残らない。
  虚空と、喪失感と、そして限りない哀しみだけが残るのではないか?
  いやそんなものすら残らない、なにもなくなってしまう、本当に。
  それは秋也にとって、恐怖だった。
  夢でも幻でもない、厳然としてそこに存在する、『現実』の恐怖だった。
  それは秋也がこの場で消えたとしてもなくなることはない、『現実』なのだ。



 『――秋也、俺ちょっと、好きな子、できた』



  また、声が聞こえた。
  懐かしい、とても気持が安らぐ、それは声だった。
  ・・・・・・国信慶時。
  あらためて、秋也は自分の親友の――いや、かつては親友だった者の名前を脳裏によみがえらせてみた。
  それはとてもありきたりな言葉だったはずなのに、まったく使われないまま記憶としてのみ存在している言葉だった。
  まるで宝物を大切にするあまり、宝箱の隅で埃をかぶってしまっていたような、そんな感じ。
  秋也は慶時の顔を思い出そうとし――思い出せないことに気づいた。
  ぎょろりとした愛嬌のある目、優しそうな口元、少し太めの眉・・・・・・。
  しかし、それらがひとりの人間の『顔』として構成されることはなかった。
  ぼんやりと霞がかったような断片的な映像のみが、秋也の脳裏に飛来し、そして消えていった。
  3年という歳月は、人間がとても大切にしていたものの記憶まで、奪い去ってしまうものなのだろうか。
  そうやって、過去のつらい記憶を徐々に薄めていくことで、ひとは生きていけるのだろうか――。



 『いい友達ができて、よかった――』



  不意に去来したその声に、秋也は身体を震わせた。
  力強いながらも優しく、そして圧倒的な存在感を持つ声だった。
  ・・・・・・川田章吾。
  その言葉は、川田自身の口から聞いたものではなかった。
  しかし――それはあたかも川田が目の前で話しかけているように、秋也には聞こえた。
  緊張と、安らぎと、自信と、不安の入り混じった、とてもたくましく聞こえる声――。



 『典子サンを守れよ、七原。典子サンがいつか傷つけられそうになったら、そのときに、戦え』



  そうか・・・・・・。
  秋也はぎゅっと拳を握り締めた。
  そうだった――俺はこんなところで寝ている場合じゃないんだ。
  典子との約束を。
  慶時との約束を。
  川田との約束を。
  そして、三村信史や杉村弘樹、内海幸枝、それに――・・・・・・自分の大好きだった、クラスメイト全員の想いを。
  無駄にはできない。
  俺は、負けない、絶対に、絶対にだ。
  戦ってやる。
  それがたとえ大東亜共和国だろうが、専守防衛軍だろうが、人殺しが本職の工作員だろうが――。
  俺の未来は、俺が決める。
  俺は決めたんだ、3年前――今度はこのゲームに乗ると。
  そして――勝ってやる。
  こっちが勝つまで、続けてやる!



  秋也は正気を取り戻した。
  同時に、いままでぼんやりとしか感じられなかった身体の痛みが、一気に鋭さを増した。
  身体中を鋭利な刃物で切りつけられているような新しい痛みが次々に秋也を襲った。
  だが――それに負けるわけにはいかなかった。
  ぎりっと歯を食いしばり、それに耐えた。
  瞳の焦点が徐々に合い、いままで視界にかかっていた霞がすうっと晴れた。
  最初に秋也の目に飛び込んできたのは、銀色に光る金属製の筒だった。
  まっすぐと自分に向けられているその筒からは、ぽたぽたと透明な雫が垂れていた。
  大型のオートマチック拳銃、ピエトロ・ベレッタ・M92FSだ。
  3年前の“プログラム”で三村信史に支給され、持ち主の意思とは別に飯島敬太の命を奪い、桐山和雄の手に渡り、それからすぐに稲田瑞穂の命も奪い、秋也の手に渡り、アメリカでステンレス製に改良されて、巡り巡って再びこのクソゲームに参加している、ある意味とても歴史のある銃だった。
  しかしもちろん――その歴史すべてを知るものは、その銃自身の他には一人もいなかったのだけれど。
  秋也はゆっくりと視線を銃口の少し上、その向こうに動かした。
  旗山快の細面な横顔が見えた。
  感覚と視覚に次いで、聴覚と嗅覚が戻ってきた。
  火薬のにおいと、雨のにおいと、そして何かが焼けただれるにおいと――。
  快の怒声が、秋也の鼓膜を震わせた。
  あの快がここまで感情を露にしているところを、いままで一度も見たことがなかった。
  秋也にはわかっていた、――快がまだ幼い子供だということが。
  実際の年齢では秋也の方が上なのは明らかだったが、そういう意味ではない、この場合。
  前までは、一見、冷静沈着で中学生離れした、少し大人っぽいやつというイメージが秋也の中であったのだけれど、実際はその逆だったのだ。
  快は精神的にほとんど成長していない――いつからということは知らないが、たぶん幼い頃に精神的に過負荷がかかる事件か事故に巻き込まれたか何かして、快は自ら心の成長を止めてしまったのではないだろうか、と秋也は思っていた。
  そう思ったのは、ほんの少し前、秋也が快と戦っている最中だった。
  もっとも、なにか確証があるわけではなかったし、それは秋也の勝手な勘違いかもしれない。
  ただ――そう、感じるのだ。消えることのない憂いと、哀しみと、そしてそれに相反する強さの怒り・・・・・・。
 “幼い頃にとても大切な何かを失ったことのあるもの”の、一種においと言うか、雰囲気と言うか、とにかくそういうものが快にはあった。
  秋也はそういう同じ境遇にある人たちの中で育ってきたから(秋也が養われていた『慈恵館』という施設はそういう子供を多く引き取っていた)、そのことに関して鋭いのは当然と言えば当然かもしれないが。
  だから、とにかく、快がどういう理由でかは知らないけれど、自分の心の成長を止めてしまったのだ、と秋也は思っていた。
  子供っぽい言葉づかいや言動、そういったものが、快にはまだ残っていた。
  そして――『自分が生きている理由』や『自分の行動』に対する意識が乏しく、平気で人を殺すことができると言うよりは、人を殺したときにどういう感情を覚えたらいいのかよくわからない、というタイプなのだ。
  かつて川田章吾は桐山和雄をこう評した、――とても空虚なタイプだ、と。
  だが快は違う。快は空虚なわけではない。
  ただ、『自分の意思で生きていく』ことができないのだ、快は。
  誰かの命令(この場合は軍部だ)に従ってその場限りで行動するだけで、自分の意思では何もしない、いや、したくともどうすればいいのかわからない。
  そういうことなのだと思う。

  本当のところ、秋也は快を殺したくはなかった。
  べつに罪悪感とかでそう思っているわけではない(もちろんそれもあるのだけれど)。
  ただ、こういう状況に快がいるのは、決して快のせいではないということがわかってしまったからだ。
  誰が悪いわけではない、快も、秋也も、実のところ政府や軍部の人間だって、べつに悪くないのかもしれない。
  ただその場の状況に流されて何もしない――だから“プログラム”も廃止できない――、『自分の意志』で動ける人間が、とても少ないと言うことに他ならなかった、この国の国民が。
  それがたとえ、自分のためであっても。
  しかし、だからこそ、秋也は快を殺すのだ。
  自分のために。そしてなによりも、典子のために。
  秋也の右手が、ポケットの中に入っている硬いものに触った。
  快はまた誰かに向かって怒鳴っていた。
  激しかった耳鳴りがだいぶ収まり、はるか遠くにいるような音量で快の声が耳に届いた。
 「そんなものは関係ない、戦場ではけっきょく最後まで立っていたやつの勝ちだ!」
  そう言った快の横顔が、なんだか切羽詰ったような、自分自身を否定されているような、ひどく儚いもののように見えた。 
  秋也はその横顔をしばらく見つめ――そしてゆっくりと目を閉じた。
  そうだ、旗山。そのとおりだ。
  秋也は思った。
  この状況こそ、秋也がじっと待っていたものだった。
 “そういう状況”は、誰もが「自分は勝った」と思った瞬間に訪れる。
  どんなに優秀な人間でも、幾多もの死線を潜り抜けてきた工作員でも、最後の最後に陥りやすい罠――それは“油断”だった。
  秋也は、それにつけ込んだ。

  秋也はゆっくりと目を開いた。
  ゆっくりと唇を動かした。
  言った。
 「おまえの負けだ、旗山」
  同時に、制服のポケットの布地の上から人差し指を軽く引っ掛け、押し込んだ。
  パン、という、まるで風船が割れたかのような乾いた音がし、秋也の制服のポケットの布地が破裂した。
  その破れた布地の奥から、小さなポケットピストル、22口径2連発デリンジャーの不恰好な銃身が覗いていた。
  快は驚いたような瞳を秋也に向け――そのときにはもう、弾丸のなかでも最小口径の22口径弾が快の喉元を貫いていた。
  ピィンというハープの弦がまとめて切れたような音がした。
  半瞬遅れて、雨のような真っ赤な鮮血が噴き出した。
  快が数歩後ろに下がり――そしてゆっくりと地面に膝をついた。




       §

  ピィン、という強く張った弦が切れたような音が聞こえたかと思うと、次の瞬間、快は喉をなにか冷たいものが突き抜けていく感覚を覚えた。
  その奇妙な感覚は、はじめにじわじわと熱に変わり、次いで鋭い痛みに変わっていった。
  しゅぱあっという音を立てて、快の喉から鮮血の飛沫があたりに飛び散っていた。
  喉に焼きつくような痛みを感じながら、頚動脈が傷ついたかな、と快は冷静に判断した。
  そしてこうも思った。

  どうして七原秋也は、再び戦うことを選んだのだろう・・・・・・?

  戦場ではふつう、一度戦意を喪失して死を覚悟してしまったものが、また再び立ち上がるなどと言うことはまずなかった。
  もちろん、戦場では誰もが訓練された一級の兵士であり、その生死の境目となるデッドラインはとても微妙なものらしい、まだ越えたことはない快にはわからないが。
  たとえいままで自分が優勢だったとしても、ほんの一瞬でも不安や恐怖、そして負けることを考えた瞬間、その兵士はおそらくその場で、人生という舞台から退場を余儀なくされることだろう。
  だから快は、一度死を覚悟してしまった秋也は、もうここまでだと思ったのだ。
  勝負が決まるのは相手を殺したときではない、相手に『もう駄目だ』と思わせたその瞬間、すでに決着はついているものなのである。
  それはある意味、当然のことなのかもしれない。
 『死』を覚悟すれば、そこに逃げ道が生まれ、そしてふつうの人間ならば数限りある選択肢の中で一番楽な道を選ぶものだ。
  死ぬことは一番楽な選択肢を選ぶことに他ならない、これ以上生きる苦しみを味わわなくて済むのだから。
  しかも、覚悟した『死』を乗り越えることは尋常でない精神力を使うもので、そんなことができる人間はまずいないはずだった。 
  特に人と人とが直接殺し合いをする戦争というものにおいて、それは顕著に現われる。
  最前線で銃を取り、敵の兵士も味方の兵士も、頭部を撃ち抜かれ、腸を引き裂かれて、内臓をはみ出させながら、劫火の中で死んでゆく、その光景を幾度となく目の当たりにしてきた快だからこそ言えるのである。
  その苦しみは、それこそ「死んだ方がマシ」と思わせるに十分こと足りることなのかもしれない。
  だからこそ快は、「いつ死んでもいい」と思うようにしてきたのだ、これまでは。
  快は思っていた。
  死んだ方がマシと思えるほどの苦しみにぶち当たったら、わざわざ無理して生きることにしがみつく必要はないじゃないか。
  結局は死ぬのだから自分でその苦しみを伸ばすようなことをしても意味がない――。

  だが、実際に死んでいく多くの兵士たちが最後に口にする言葉は、いつもこうであった。

 「まだ――死にたくない・・・・・・」

  その言葉を吐き出した直後にはもう、生きてはいないというのに。
  快にはそれが理解できなかった。
  なぜ、死にたくないと思うのだろう。
  なぜ、生き延びたいと思うのだろう。
  生き延びることができたところで、またつらい現実に直面しなければならないだけではないか。
  べつに、なにも怖いことでははないはずだ、死ぬということは。
  ただなにかを考えることができなくなって、なにも感じることができなくなって、存在そのものが消えてしまうだけではないのか。
  怖くはない、なにも怖いことなんてない――。
  だから快は、泣きながらそう呟く彼らの眉間に自分の銃口を当て、引き金を引くしかなかった。
  苦しんでいるのなら、苦しまない場所へ行けばいい――それがたとえ本人たちの希望でなくとも。
  そう思って。



  痛みのためか多量の出血のためか、曖昧になった快の脳裏にふっとある光景が浮かび上がった。
  がっちりとした身体、薄汚れた白衣、太い眉、角張った頬骨、低い声、不機嫌そうな顔、ときおり見せる――笑顔。
  4年前、神戸のスラム街で出会った外科医だった。
  外科医は、3日近くも食事にありつけず、ふらふらになっている快を自分の家に連れ帰り、質素だったけれどもとても美味いご飯を食べさせてくれた。
  人生のなかでいちばん充実した温かい時間を過ごしたのは、彼のもとではなかっただろうかと思う。
  その外科医は貧乏ではあったけれども、強面な雰囲気とは裏腹に意外と人懐っこい表情を浮かべる人だったことを、快はよく覚えていた。
  自分の息子のことを、まるで半分自慢するように、また半分茶化すような言い方で話し、快を喜ばせてくれた。
  楽しい時間だった――ほんとうに、とても、楽しい時間だった。
  その楽しい時間も、ほんのわずかなひとときだったのだけれど。
  快が心の底から笑うことができたその場所は、まるで儚い夢のように消え去ってしまった。
  荒々しく叩かれたスリガラスの玄関。
  どかどかと無骨な音で踏み荒らされる診察室。
  兵士が外科医に突きつけた、一枚の紙切れと“プログラム”という残酷な言葉。
  激しく抵抗し、あらん限り相手を罵る言葉を発した、医師の声。
  そして、――響き渡る、撃発音。
  薬ビンが砕け、安っぽいベッドのスポンジがちぎれとび、手術道具が床に散らばる、その音。
  驚愕に見開かれた、医師の目。
  そして、彼の最後の叫び声――てめぇら全員、死んじまえ!
  穴だらけの手術台の上にゆっくり崩れ落ちていく、医師の身体。
  じわじわと鮮血に染まった純白のシーツ。
  その赤い池の真ん中で、いっぱいに涙を浮かべながら、なにも映すことのなくなった、虚ろな医師の瞳。
  快の目の前が真っ白になる。
  脚ががくがくと震えだし、部屋中に充満した血のにおいで息が詰まる。
  まるですべてを焼き尽くしてしまうような燃え上がる感情――怒り。
  そして――気付いたときには、自分の目の前に血まみれになった兵士がひとり。
  狼狽した表情のもうひとりの兵士。
  彼がサブマシンガンの銃口をこちらに向ける前に、快は薄汚れたリノリウムの床を力強く蹴っていた。
  全体重をかけて、その兵士の喉もとにメスを突き立てたときの、肉を裂く感触。
  頚動脈の束が裂け、気管を破り、頚骨に突き刺さってもなお、快は力を加え続けた。
  声にならない、兵士の叫び。
  裂けた気管から空気が漏れてヒューヒューという音とともに、かろうじて絞り出された最後の言葉。
 「助けてくれ、まだ、死にたくない――!」
  しかし、快は容赦なく、脂にまみれた鋭い刃を抜き取った。
  噴き上がる鮮血。
  そしてすでに事切れた兵士の瞳。
  呆然と立ち尽くす自分、その右手には血と脂にまみれたちっぽけな刃物が握られていた。
  視線を転じると、そこには白衣を赤く染め上げた外科医の身体があった。
  人が死ぬということは、いったいどういうことなんだろう。
  快はぼうっとした頭でそう考え――そして何年経ってもその疑問が晴れることはなかったのだ。
  それは快が、命令された任務以外で、はじめて自分の意思で人を殺したときの記憶だった。
  次第に大きくなってくるパトカーのサイレンの音。
  そして、赤くなった医師の白衣は、どかどかと土足で踏み込んできた警官と兵士たちの軍靴の下に踏みつけられた。
  手首に二重に手錠をかけられ、パトカーに引っ張り込まれるまで、快はじっと黙っていた。
  パトカーが走り出したとき、快は一度だけリアウィンドウから後方を振り返った。
  そこには何台ものパトカーと政府の桃印をつけた車が停まっていた。
 『川田診療所』と書かれた古ぼけた看板を、誰かが剥ぎ取っているところだった。
  そこから先は――もう、快は覚えていなかった。
  だがそれでも、まぶたを閉じれば、いまも脳裏に焼ついたように離れない、あの医師の表情。
  その表情は苦痛に歪み、もう感じるはずのない苦しみと痛み、そして哀しみと怒りが表れていた・・・・・・。



  そこまで思い出したとき、ふっと快の頭のなかで、その医師の顔が別の人物の顔と重なった。
  名前も、年齢も、家族構成すら知らない、ただの男だった。
  そして彼は、快が専守防衛軍の特殊工作員になってから、はじめて殺した人間だった。
  なぜ彼が暗殺の対象になったのか、詳しいことはわからなかった。
  ただ『政府に危害を加えようとする不穏の気配ありとして抹殺対象に認定』という命令状が渡されただけだった。
  はじめての単独任務――しかも暗殺の――だというのに、快はこれといって動揺もしなかったし、狼狽もしなかった。
  与えられた任務を果たすこと、それがすべてだった。
  その男は、香川県のある機械工場に勤めていた。
  快は彼が夜勤の日をあらかじめ調べておいて、彼がひとりになったところを襲った。
  計画は、前もって綿密な計算と予測を立て、もし失敗したときの標的の逃走経路から、逆に襲い掛かってきたときの対処法まで、ありとあらゆる可能性を想定していた。
  快はまず、最後の従業員が帰宅したのを確認したあと、工場内のセキュリティシステムを確認した。
  たいして大きくない町工場のこと、セキュリティといっても防犯ベル程度のもので、あとは火災用のスプリンクラー設備が整っているのみだった。
  防犯ベルのスイッチを切ると、あらかじめ用意しておいたゴム製のボディスーツに着替え、帽子をかぶり、標的の前に堂々と姿を現わしたのだ。
  従業員でない(しかもまだ小学生くらいの)快に、相手は訝しげな視線を向けた。
 「どうしたんだ、君? こんな時間にこんなところにいるなんて不自然だな。迷子かい?」
  そう話しかけてきた相手に、快はちょっと首を傾げてこう言った。
 「たばこは吸うかい、おじさん?」
 「え? いや、吸わないが・・・・・・?」
 「そうかい、それはよかった」
  快の言葉に不審そうに目を細めた男だったが、すぐにはっと気づいたように目を見開いた。
  シューという風船の空気が抜けているような音が聞こえたのだろう。
  男の瞳に緊張の光が閃いた。
 「アセチレンだよ。ガス溶接用のボンベがそこにあった」
 「・・・・・・どういうつもりだ?」
  そう言った男に、快は懐から取り出したグロック17自動拳銃を向けた。
  それで男はすべてを悟ったようだった。
 「政府の使いか? それにしては少し年齢が若すぎるな、俺の甥よりもかなり年下に見える、姪とおなじくらいか?」
  銃口を向けられているというのに、男は取り乱すことなくそう言った。
  いずれはこの瞬間がくることが、ある程度予想できていたのかもしれない。わからない。
  とにかく、男は落ち着いていた。
 「それを使えばおそらく君も無事ではすまないぞ。いいのか?」
 「うん。ぼくはべつにかまわないと思うよ」
  男の言葉に、快は首を少し傾げて答えた。
  それから、グロックの銃口を真上に向けた。
  引き金を引いた、パン、と火薬が炸裂する音が狭い工場内に大きく響いた。
  その瞬間、ずずんと地面が揺れたような音と共に、あっという間にあたりに炎が燃え広がった。
  激発時に出る火炎がアセチレンに引火したのだ。
  火災報知機のけたたましいベルが鳴り響き、スプリンクラーが作動した。
  冷たい水が天井から散布され、火災はすぐに鎮火した。
  しかし、これこそ快がはじめから目論んでいたものだったのだ。
  水の勢いに押され、すっと煙が晴れると、その向こうに煤まみれになった男がまだ立っていた。
  一方、快の方は、少なくともグロックを持っていた右腕にかなりの火傷を負っていた。
  冷たい水が焼けただれた皮膚にあたり、心地よかった。
 「随分と無謀なことをするな。君は死ぬことが怖くないのか?」
  男が訊いた。
  声は落ち着いていたが、なにかに対する怒りを堪えているようにも聞こえた。
 「死ぬことは怖くはないよ。ぼくはいつ死んでもいいと思っているんだ。いつもそう言われているしね」
  快の言葉に、男がはじめて顔を歪めた。
 「・・・・・・この国は、君たちのような若いものの未来まで奪おうというのか・・・・・・」
  その言葉は半ば独り言のようであった。
  男は怒りを露わにしていたが、それは自分を殺しにきた幼い暗殺者へ向けての怒りではないようだった。
  この国に向けての、いや、この世界全体に向けての怒りだったように思う、いまとなっては。
  快はグロックをしまった。
  そして、すぐそばにあった旋盤(金属切削用の工作機械だ)の電源スイッチに手をかけた。
 「これで終わりだよ、おじさん。銃を使うと事故死に見せかけるのが大変だからね」
  快は無表情に告げた。
  男は目を細め、穏やかな視線で快の瞳を射抜いた。
 「君は、まだ若いのに随分と悲しい瞳をしているな。そしてやるせない怒りを持っている。とても大切なものを失ったことのある人間の瞳だ。俺と同じだな」
 「・・・・・・」
  快は黙っていた。
  男も、べつに答えを必要とはしていないと思ったので。
  それに――どのみち快には、否定も肯定もできなかったので。
  だから快は、無言のままに機械的な動作で旋盤の電源スイッチを入れた。
  バチッと蒼白い光があたりを照らし、工場内の蛍光灯がすべて切れ、水浸しになった床に電気が流れた。
  男の身体が、びくんと仰け反るのがわかった。
  全身に水を被っている男の身体に電気が走り心臓を麻痺させたのだろう、しばらく直立不動でいたが、ブレーカーが落ちて通電が遮断されると同時に濡れた床に崩れ落ちた。
  快も全身水浸しだったのだが、絶縁体でできたボディスーツを着込んでいたため、感電はしなかったのだ。
  しかし頭部はずぶ濡れで剥き出しだったし、そのボディスーツ以外はこれと言って絶縁材料をつけているわけではなかったので、これは予定通りと言うよりは、運良く命を落とさなかったと言った方が正しいのかもしれない。
  だが快は、もとより動きが鈍くなるような重装備をしていくつもりはなかったし、――死ぬなら死ぬでべつにいいと思っていたのだ、はっきり言って。
  片づけを済ませ、普段着に着替えると(表を歩くには普段着の方が目立たない)、一度だけ、自分が命を奪った男の顔を見た。
  そういえば――その表情は、いつか見た医師の表情とまったく同じだったような気がする、いま考えてみると。
  もちろん、顔かたちや雰囲気はまったく違ったのだけれど。
  この歪んだ、あるいは歪んだように見える世界を変えたくても変えられないことに対する、どうしようもない怒り、悔恨、憎悪、そして哀しみ・・・・・・。
  そういう表情だった。



  鮮明に、次々と浮かび上がってくる、過去の出来事。
  快は震えた。
  恐怖と、興奮と、不安と、哀しみと、怒りと――。
  それは快が身を置いていなければならない、ひとつの世界のはじまりの光景だった。
  あのときから、この世界はまわりはじめたのである。
 『軍隊』という特殊な機構を形成している組織の中で。
  生きることと。死ぬことと。それらが常に隣り合わせにある、極限状態で。
  できる限り多くの敵を殺すことはもちろん、必要ならば共に寝泊りをしたことのある味方をも殺した。
  他人の力に頼ってはならない、信じられるのは自分の力のみ――そういう世界。
  実に、毎日が“プログラム”だった。
  快はいままで、それ以外の世界を知らなかった。
  だが、ひょんなことから唐突に、快は別の世界を知ってしまったのだ。
  別の世界、別の記憶、その光景が浮かび上がってきた。



  すべてが赤く染まっている。
  しかしその赤は、いつも目にしている血の赤とはまるで違う。
  透明度のある、暖かでほのかな光だ。
  快は、夕焼けに染まった教室に、ひとりぼうっと佇んでいた。
  昼間はあんなに騒がしかった教室が、いまではもう誰もいなかった。
  そろそろ日が沈む。下校時刻が近いのかな・・・・・・。
  快はなんとなく、そう思った。
  大きな窓の向こう、木が切り倒され土を削られた山際に夕日が沈んでゆくところだった。
  その光に照らされて、スモッグに霞んで見える乱立した高層ビルの群れが赤く染まっていた。
  ビルだけではない、教室にあるもの――目に見えるものすべて。
  黒板。教卓。運動靴。生徒たちの机。誰かが忘れていった数学の宿題プリント・・・・・・。
  遠くでカラスが鳴いていた。
  快はほうっと小さくため息をついた。
  快の知識では、カラスなんて生き物は死んだ人間の肉をついばみにくる意地汚い動物に過ぎなかった。
  それが、この世界では、なんと平和に聞こえることだろう。
  そんなことを考えているうちに、下校時刻を告げるチャイムが響き渡った。
  窓から校庭(都会の学校の割にそこそこ広い)を見下ろしてみると、同じ服、同じ鞄を持った生徒たちが、ぞろぞろと列をなして校門をくぐっているところだった。
  まるで葬列だ、快は思った。
  全員がカラスのような真っ黒な制服を着て――けれど、あるものはおもしろそうに笑いながら、あるものは好き合っている異性と一緒に、あるものはひとり暇そうに――誰もが家路についている。
  そんな光景を眺めながら、羨ましいな、と微かに思った。
  本当にほんの少しだけ、ちょうどひとつまみぐらい。
  こんな世界は、自分のいるべき場所ではないとわかっていたので。
 「・・・・・・ぼくも帰るか」
  誰にともなしに呟いた。
  もっとも、政府が用意した薄暗くて汚い官舎(アパートということになっている)に帰っても、誰がいるわけでもないのだけれど。
  快は教室の窓を閉め、鍵をかけた。
  そのとき、がらがらと教室の引き戸が開いた。
  快が振り向くと、たったいま入ってきた女生徒と目が合った。
  小柄でか細い身体、活発そうに後ろで留められた髪、大きくて、しかし鋭い瞳。
  藤本華江だった。
 「・・・・・・やあ。こんな時間にどうしたんだい?」
  目が合ったのに無視するのも気がひけたので、快はとりあえずそう言った。
  華江は、その鋭い瞳で快を射抜き、つまらなさそうに言った。
 「べつに。あたしがいつどこにいたって、あんたには関係ないことでしょ?」
  にべもなかった。
 「うん。そうかもしれないね」
  だから快もそっけなく頷いた。
  華江は、快を無視してさっさと自分の机に向かうと、がたんと椅子を蹴り飛ばして引き出しの中からパスケースを掴み出した。
  どうやらそれを忘れて帰ろうとしてしまったらしい。
  快がぼうっとその光景を見ていると、華江がじろっとこっちを睨んだ。
 「・・・・・・なによ?」
  快は肩をすくめた。
  華江の瞳を見つめたとき、不意にひとつの言葉が浮かび上がった。

 『君はまだ若いのに随分と悲しい瞳をしているな。そしてやるせない怒りを持っている。とても大切なものを失ったことのある人間の瞳だ』

  いつか聞いた言葉だった。
  名前も知らない男が最期に残した言葉だった。
  快は自分でも気づかないうちに口を開いていた。
 「君もぼくと同じだね・・・・・・」
  その言葉に、華江が訝しげに眉を寄せた。
  快は、すっと華江の瞳から視線を外した。
  自分に華江の心(それはほんの表面に過ぎないのだろうけれど)がわかったように、華江にも快の心が悟られてしまうのではないかと思ったので。
  窓の外を見ると、いつのまにか日は完全に沈んでしまっていて、空はほのかな陽光の残滓から濃い蒼のコントラストに変わりはじめていた。
  快はまたため息をついた。
 「残念だな、夕焼けが一番きれいに見える時間を逃してしまった」
 「――ねぇちょっと。あからさまに無視しないでくれる?」
  妙に棘のある言い方で、華江が言った。
 「さて、ぼくはそろそろ帰らなくちゃ」
 「ちょっ――待ちなさいよっ!」
  華江が突っかかってきたが、快は無視した。
 「それじゃ、また明日――」
  そう言い残すと、鞄を肩にかけ、教室を出た。
  たったそれだけの、べつにどうということはない光景のひとつ。
  つまらない日常のひとコマ。
  しかし快にとっては、とても新鮮な情景だった。
  はじめての学校。はじめての生活。はじめてのクラスメイト。はじめての会話・・・・・・。
 『友達』と呼ぶには、おこがましいことかもしれない。
  彼らの平穏な生活――彼らがそれを平穏と呼ぶかどうかは別として――をぶち壊すために送り込まれた仕組まれた生徒なのだから。
  けれど、と快は思った。
  こういうのも、悪くない・・・・・・。
 『友達』と言葉を交わし、そして――、「また明日」と言って別れる日々も――。

  その世界では、とても穏やかに時間が流れていた。
  こういう世界が『平和』というのかもしれない。
  しかし、それは見せかけの平和に過ぎない。
  彼らのいう『平和』は、戦場で死んでいった多くの人によって支えられているものなのだから。
  大勢の人間を殺して生きてきた快のことを、大抵の人はこう言うだろう。
 「罪もない可哀想な人たちを殺した殺人者」。はたまた「戦うことしか能のない野蛮人」。あるいは「平和を脅かす極悪漢」――。
  そういう言葉を、いままで幾度となく聞いてきた。
  しかしその度に快は、そういった戯言を鼻で笑ってあしらってきた。
  確かに快が殺した人間からそう言われれば、反論の余地はない。
  けれど、のうのうと平和に生きてきたおまえらにそんなことを言われる筋合いはこれっぽっちもないんだよ、と快は思う。
  一見平和に見える片方の世界――その世界の平和を守るために、一日にどれだけの人間が戦場に倒れていると思っているのか。
  表の世界を維持するために、裏の世界が必要なのに。
  表の世界に住む人々は、裏の世界に住む人々を見下し、蔑み、口々に罵りあう。
  一方は、生きること、そして死ぬことが目の前にあって、人間のちっぽけな願いや望み、夢なんかは儚く押し潰されてしまう、冷たい現実。
  もう一方は、生きることや死ぬこととは一見無縁で、くだらないことを毎日笑いながらしゃべり合い、毎日変わらない生活を飽き飽きしながら送っている、生ぬるい現実。
  どちらも同じ現実で、この小さな星の上で同時に存在しているものだ。
  ある国の学生が試験の結果に一喜一憂しているあいだ、他の国では同じくらいの年齢の兵士が銃を持って戦っている。
  ある男女が公園のベンチで甘い言葉を囁きあっているそのときには、別の男女が傷つき倒れ死別を余儀なくされている。
  どちらがいいわけでも、どちらが悪いわけでもない。
  だたひとつ言えることは、一方の世界に住む人間は、もう一方の世界を知ることがないと言うことだ。
  いや、正確には、知ろうとしないと言った方が正しいのかもしれない。
  自分の世界で生きるのに精一杯で、別の世界で起こっていることなどは知ったことではない、というふうに。
  そして両方の世界の視点から自分のいままでを振り返った瞬間、快はすべてを悟っていたのだ。
  どちらか片方の世界にだけ身を置いていたら、そんなことにはならなかったはずなのに。

 「一番弱いのはおまえだ、旗山」

  健司のその一言に、すべてが集約されていた。
  そう、自分は、怖かったのだ、すべての世界が。
  死ぬことも、生きることも――。
  だから、快は自分で生きることを止めたのである――生きようとする意思を捨て、死のうと思う意思も捨てた。
  健司の言ったとおりだった。
  一番弱いのは自分だったのかもしれない。
  いま思うと、快がこれまで脳裏に深く記憶を刻み込んでいる人々は、快にないものを持っていた。
  いやそれだからこそ、快は彼らを記憶に深く留めておいたのかもしれない、無意識のうちに。
  彼らの持っていたもの、それは――快にはよくわからない、実のところ。
  しかし黒澤健司の言葉を借りればこういうことになるのだろう。
  自分で生きる意志。あるいは自分が生きていると思えるための意味。
  自分が何のために生きているのか、自分に何ができるのか、そんなことは快は考えたこともなかった。
  しかし彼らは持っていた。
  自分の息子を想いながら兵士に殺された、あの外科医も。
  すべての世界を変えたいと思いながら変えられないことに強い悔恨を持ちながら死んでいった、あの男も。
  すべての世界を憎んで憎んで憎み続けて、そして最後の最後まで自分の意思のままに死んだ、藤本華江も。
  彼らは持っていた、――持っていたと、思う。
  そして、いま自分を瀕死の状態に追いやった張本人、七原秋也も。

  やれやれ――快は意識の中でため息をついた。
  走馬灯のような景色は消え、現実に引き戻されつつある感覚を快は感じた。
  ぼんやりとした幻想の世界を追い出され、快の神経に再び痛みが戻ってきた。  
  霞みがかかったような視界の向こうに七原秋也の顔が見えた。
  最後の最後に――とんだ失態だ。
  快は自嘲気味に笑ったが、顔の筋肉はぴくりと引きつっただけだった。
  あれ、と快は思った。
  急に視界が低くなったので。
  いつのまにか快は濡れた地面に膝をついていた。
  喉の傷から、血液が真空ポンプで吸い出されているかと思うほど噴き出しているような気がした。
  でも、まあ、まだ意識があるということは、即死に至るほどひどい傷というわけでもないのだろう。
  もっとも致命傷なのは確実だったけれども。
  ええ、そりゃあもう確実ですね、おにいちゃん、太陽が東から昇って西に沈むのと同じくらい。
  けれど、まあとにかく、即死ではない。
  それで十分だった、快にとっては。
  急速に狭く暗くなっていく視界の中で、快は思った。
  最期の一仕事を終えるまで、もう少しだけ、生きていなければならないようだ――。
  このとき快は、生まれてはじめて、『生きていたい』と感じていた。
 『死にたくない』と思うことは、分不相応という感じがしたので。
  いままでこんなことを感じたのは一度もなかった。
  そう、機関銃の弾丸が飛び交っている戦場でも、敵に半ば包囲されかけたときも、自分の後頭部に焼けただれた銃口を押し当てられたときですら、そんな感情は生まれなかった。
  ここで死ぬのならそれはそれでいい、とそう思っていた。
  さっきまでは、そうだった。
  しかし――いまでは、先程のような気持ちには到底、なれそうになかった。
  けれど少なくとも、死は確定だった。とりあえず、間違いない。
  そう考えたとき、快は小さく笑っていた――。





       §

  快の身体がゆっくりと地面に崩れ落ちた。
  喉の傷口からの出血は、もう噴き出すほどの勢いではないものの、決して軽いものとは言えなかった。
  秋也は脇腹の傷口を左手でしっかりと抑えて立ち上がり、快のもとへ近づいていった。
  傷口から滲み出した血液は、しかし着ているワイシャツと制服に吸収されて、地面に落ちることはなかった。
  かっきり1メートル手前、快を見下ろすような状態になったところで、秋也は歩みを止めた。
  そしてポケットに突っ込んでいた右手を出した。
  その手の中には、もちろん、デリンジャーが握られていた。
  それは、拳銃の中でも最小口径である22口径マグナム弾をたった2発きりしか装填できない銃ではあったけれど、それでも眉間に撃ち込めば確実にどんな生物でも殺せる代物だった。
  弾倉の中にはまだ1発残っていた。
  これだけあれば十分だった。
  秋也がデリンジャーを快の眉間に向けたとき、快がうっすらと目蓋を開いた。
  いや正確には無理やりこじ開けていると言った方が正しいかもしれない。
  真っ暗な深遠に落ち込みそうになる意識を必死にとどめているようだった。
  快が呼吸をするたびに、喉もとの傷口からヒューヒューと空気が抜けているような音がして、傷口にぶくぶくと血の泡がたっていた。
  小さな鉛の弾丸は、快の頚動脈とともに気管をも傷つけていたようだった。
  肺に酸素が十分送られないためか、それとも多量に出血したためなのか、快の顔面はほとんど蒼白だった。
  その快が小さく唇を動かした。
 「完敗・・・・・・だ。も、もう君はた――立つことは、ないとお、思ったん、だけどな・・・・・・」
 「――まあ、俺だけだったら立てなかったろうな」
  秋也は一言、そう言った。
  それで、快は理解したというふうに頷いた。
  快に銃を向けたまま見下ろしている秋也の肩に、とん、と誰かの手が乗せられた。
  健司だった。
 「七原」
  健司は言った。
  それ以上健司に言わせるようなことはせず、秋也は「わかってる」と返した。
  デリンジャーのトリガーに指をかけたところで、ふっとひとつ息を吐いた。
  快と視線がかち合った。
 “人を殺すときは相手の目を見てはならない”――。
  そんなことはどうでもよかった。
  目を見ようが、見まいが、人がひとり死ぬことに変わりはないのだから。
  いくら人の命を奪う側の人間が苦しんだところで、それはただの偽善に過ぎないのだから。
  だから、秋也は、快の視線を受け止めた、正面から。
  それは穏やかな――いやはや本当にいままでに見たことのないくらいに穏やかな瞳だった、まるでこれから死んでいく人間とは思えないくらいに。
  快の唇が、再びゆっくりと言葉を紡いだ。
 「じ、じ時間がない――手短に言う。そその首輪――6系統のシステムを――リンクさせてあるらしい、詳しい――ことはわからないけれどとにかくぼくが知っていることだけ――」
  そこまで一気に言うと、はっと苦しそうに息を吐いた。
  喉もとの傷口から、ぼこっと地の泡が吹き出した。
  快が続けた、いまにも消えそうな命を必死につなぎとめながら。
 「そ――そそれは新開発――バ、バッテリーを内蔵していて連続で2週間――稼動する。く首輪自体をこ、ここわ壊そうとすると常時微弱な電流を通電しているケ、ケ、ケーブルが断線して爆弾に起爆信号がはっ発信される仕組み――から、分解は不可能――」
  ごほっと快が咳をした。
  血の粒が飛び散った。
  秋也は黙って快の言葉に耳を傾けていた。
  なぜ快が秋也たちに協力するような発言を――しかもすぐにでも死んでしまうかもしれないというのに――するのか、などということは考えなかった。
  それが、快の意思であることは明白だったので。
  誰の命令でも、任務でもない。
  快自身が自らの意思で決定したことなのだ。
  それに自分たちが口を挟む権利など、あるはずがない。
  は、は、と快の呼吸が乱れた。
  しかし快はなおも続けた。
 「つつ通電が途切れるとば、爆弾が爆発――から、ぼ、ぼくの考え――た、た正しければ、逆のことをすればきっと――。ミッドウェーはガ、ガダルカナル、よりも回路が精密に組んであるし――、く首輪は電磁ロックだかからね」
  そこまで一気に言うと、快はふうっと大きなため息をついた。
  とりあえず、自分が言おうとしていたことは言った、という感じだった。
  快は、あえてすべてを語ろうとはしないようだった。
  まるで、最後の謎は自分の力で解いてみるといい、とでも言っているように。
  秋也もそれ以上は聞かなかった。
  それが快の、快らしいところなのかもしれない。
  快はゆっくりと目を閉じかけ――思い出したように再び開いた。
 「――そう言えばみ、三村信史というやつとは、仲がよかったんだって?」
  唐突に話が切り替わった。
  秋也は一瞬、自分の耳を疑った。
  なぜいきなりそういう話題になるのだろうか?
  いやそもそも、なぜ快が三村信史の名前を知っているのか――?
 「・・・・・・どうして三村のことを?」
  秋也は訊いた。
  次の瞬間、秋也は滅多に見ることのできない光景を見たような気がした。
  いつも冷淡な表情しか浮かべたことしかなかった快が、ふっと笑ったのだ。
  その笑いはなんというか――すべてをやり尽くした人間のような、あるいは子供が友達と遊び疲れて家に帰る途中の別れ際、「また明日」とでも話しかけてきそうな、そんな表情だった。
  しかし快はこう言った。
 「一度、会ってみたかったな・・・・・・」
  そうしてゆっくりと口を閉ざした。
  秋也もそれ以上は訊かなかった、快にそれを説明する意思も、時間もないとわかったので。
  だから、そのかわり、ゆっくりと一度はおろしたデリンジャーの銃口を快の眉間へ向けた。
  快はその銃口をまるでおもしろがるような表情で見つめていた。
  一度閉ざした口を、開いた。
  言った。
 「さ、さよなら、だ――・・・・・・」
  そう言うと、快は大きくほうっとため息をついた。
  それが快の最期の息吹だった。
 “さよならだ”の“だ”のときにはもう、周囲にパン、という小さな乾いた銃声が響き渡っていたので。
  子供の爪の先ほどの小さな22口径の弾丸は、無防備だった快の眉間に小さな小さな穴を穿っていた。
  回転する鉛弾が頭蓋骨をえぐり取り、前頭葉を巻き込んで快の大脳に尋常ならざる被害を与えた。
  快の身体がびくん、と跳ね上がり、両手脚はがくがくと痙攣を繰り返していた。
  しかし、それもすぐにおさまった。
  しばらくして秋也が快の首筋に手を当てたときには、もう息をしていなかった。
  頭部から流れ出た赤い血液が、とろとろと周囲に広がっていった。

  こうして、大東亜共和国の悪名高い専守防衛軍屈指の工作員は、短い生涯を閉じたのだった、――旗山快、享年15歳。
  彼は最期の言葉は、「苦しい」でも、「死にたくない」でも、ましてや「助けてくれ」でもなかった。

  さようなら。

  その一言のみだった。
  そして、快本人にとってはそれで十分だったのだ、と秋也は思った。
  ちなみに、秋也が知るはずもないことだが、快の存在はこれまでに間接的に、しかし少なからぬ影響を秋也に与えていたことになる。
  3年前、秋也と典子は、川田章吾という精神的にも年齢的にもおよそ中学生離れしたひとりの人物がいなかったとしたら、現在生きてはいないだろう、とてもではないが。
  そしてその川田の父親の最期を看取ったのが、他ならぬ旗山快であったのだ。
  またこちらは年齢的には正真正銘の中学生だったものの、知識と冷静さではまるで中学生とは思えなかった親友――三村信史とも、間接的にだが関係していた。
  それはすなわち――信史の尊敬していた彼の叔父を、事故死と見せかけて暗殺したのが、旗山快だったのである。
  旗山快は、直接的にではないものの、大きく遠回りをして秋也と典子の運命を決定づけた人物といっても過言ではなかった。
  ただもっとも――それは旗山快本人ですら、まったく与り知るところではなかったのだけれど。

  このように、人間は自分の意思とは無関係に、まったく別の人間に大きく影響を与えているものである。
  それは時として直接的であるかもしれないし、はたまた間接的であるかもしれない、わからない、そんなことは。
  ひとつだけ言えること――それは、人間は他人なくしてはあり得ないということだった、いまの秋也と典子がそうであるように。
  人間は、自分の知らないうちに他人を助け、また自分の知らないうちに他人を傷つけていたりする。
  そしてそれに気がついたときにはもう、事態は自分の手の届かないところへ行ってしまっていたりするのだ。
  この“プログラム”が、まさしくそれであった。
  時間は刻一刻と、まるで大きな河の流れであるかのように果てなく進んでいた、あらゆるものを“現在”から“過去”へと押し流して。
  いったん崩れ始めた状況は、はじめから作り直す以外に方法はないのである。
  だがもちろんそんなことができるはずもなく、“プログラム”は秋也にも、典子にも、坂待にも、そして政府にも手の届かない方向へ、加速度を増しつつあった。
  その先にあるものが何なのか、もちろん誰も知るはずがなかった。
  この時点では、まだ――・・・・・・


  【終了まで残り約30分】


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