BATTLE ROYALE 2
〜
The Final Game 〜
[ 第七部 / 中盤戦(後編) ] Now some students remaining...
< 33 > 追跡
「はぁ、はぁ、はぁ――クソッ!」
太田芳明は、ズキズキと脳天を突き抜けるような痛みを堪えながら、走っていた。
ディバッグも武器も、何も持っていなかった。
今、誰かに出くわしてしまったら、殺されるしかないだろう――間違いなく。
しかし、あそこに戻ることはできなかった、あんなことをしてしまった後となっては。
思った。
まったく――なんて情けないんだ、俺は。
稲田奈津子に八つ当りをして――せっかく三村さんがまとめたチームを、台無しにしてしまった。
そう言えば、南由香利は無事なのだろうか?
防弾チョッキを着ていたはずだが――それでも、痛かったに違いない。
すまないことをした――
芳明は、後悔していた。
一時的な感情に流されて、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
奈津子は――奈津子に関しては、内村真由美から聞かされたことがあった(もちろん、生きていた頃にだ、チクショウ)。
『あの子は、ちょっと子供っぽいとこあるけど、でもやるべきことは分かってる子なの。だから――あのことで、あの子を責めないで』
真由美は、そう言っていたのに。
そんな真由美を、俺は――裏切ったんだ。
そう考えると、ボロボロと涙が出てくる――雨粒に混じって、泣いているとは分からなかったが。
そして、それよりも芳明がショックを受けたのは、貴志の言葉だった。
『チクショウ! 南さんを殺しやがって! てめぇなんか、仲間にしなきゃよかったぜ、クソ!』
てめぇなんか、仲間にしなきゃよかったぜ――
仲間にしなきゃよかったぜ――
仲間にしなきゃ――
貴志の言葉が、芳明の頭の中でぐるぐる回っていた。
もちろん貴志は、由香利が本当に死んだと思って言ったのだろう。
それでも――ショックだった。
例え、それが予期した言葉であったとしても。
頭の中で予想するのと、実際言われてみるのとでは、天と地との差があることに、芳明は気がついた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・」
芳明は、立ち止まった。
ただ闇雲に走っていたのだが(禁止エリアのことなんか、すっかり忘れていた)どうやら駅前のロータリーに来てしまったらしい。
寂れた商店があって、東の方に大きな総合デパート、西の方には長期滞在型アパートメント・ホテルが建っていた。
ロータリーの中央には、小さな交番があった。
その交番を見て、芳明は、すっと目を細めた。
交番の入口の所に、人影が見えたので。
その人影は、立っておらず、ただ交番のドアに背中を預けたまま、脚を手で抱え込んでじっと座っていた。
激しい雨がその人影をずぶ濡れにしていたが、その人物はそんなことはどうでもいいようだった。
刹那、ピカッとあたりが照らし出され、数秒経ってから激しい轟音が聞こえた。
雷だった。
その稲妻のおかげで、芳明は、その人物がセーラー服を着ているのが見て取ることができた。
女子のようだった。
芳明は、知らぬ間にそのクラスメイトの方に足を動かしていた。
あと数メートルという所まで来たとき、芳明の足の下で、水たまりの水がばしゃっと跳ねた。
その人影が、はっとして顔を上げた。
それで、芳明は、その人影が、清水奈緒美(女子十番)だということが分かった。
奈緒美は、ばっと立ち上がった。
手には、拳銃を持っていた(ルガー・スーパーブラックホークだった、どうでもいいことなのだが)。
芳明は、足を止めた。
奈緒美が一歩後退ろうとして――足のかかとが交番のドアに当たった。
言った。
「な、なに!? あ、あたしを――殺そうってつもりなの!?」
声が、微妙に震えていた。
声だけではない、身体もぶるぶると震えている。
芳明は、首を横に振った。
言った。
「別にそんなつもりはないんだ。ただ、こっちに来たら清水さんがいたから――」
手を大きく開いて見せた。
「ほら、武器も持ってない。清水さんを殺すつもりなんか、俺にはないよ」
奈緒美の視線が、芳明の右手の先に集中していた。
そこには、あるべきはずの指がなくなっていて、今もぽたぽたと血が落ちていた。
それで、奈緒美が、口を開いた。
「でも――怪我をしてるんじゃないの」
「ああ、ちょっと南さんにね」
芳明が言うと、奈緒美は、ちょっと、眉を寄せた。
「由香利ちゃんが――?」
訝しげな声だった。
芳明は、慌てて付け足した。
「ああ、いや、でもあれは俺の方が悪かったんだから。南さんは悪くないんだ」
「そう――」
奈緒美は、呟いた。
そして、また震え出した。
「あ、あたしも別に――太田くんを殺すつもりは、ない――から――」
その震え方が、なんだか不自然だった。
芳明は、眉を寄せた。
そのとき、がくんと奈緒美がバランスを崩した。
手の中の拳銃が、水たまりの中に、ばしゃっと落ちた。
おいおい、なんにもないところで、どうしてコケるんだ? 笑いでもとるとつもりだったのか、ここで?
そんなことはともかく、芳明は、倒れそうになった奈緒美の身体を、慌てて抱きとめた。
そして、分かった――奈緒美がどういう状態にあるのかということが。
芳明は慌てて、奈緒美の額を手で――怪我をしていない方の手だ、もちろん――触った。
めちゃくちゃに熱かった。
「熱がある! いつからここにいたんだ!?」
「あ、あたし――はじめの放送があった後から――」
芳明が言うと、奈緒美は苦しそうに言った。
「12時間も前から!? どうしてもっと安全な所に行かなかったんだ!?」
「あ、あたし――さ、佐々井くんを殺してしまって――殺すつもりはなかったんだけど、でも――」
仰向けに寝かせた奈緒美の瞳から、涙が溢れた。
それは、雨に混じって、あとからあとから流れていってしまった。
交番の入口の屋根は小さく、とても雨宿りに適している場所とは言いがたかった。
奈緒美は、雨が降ってきてもずっとここにいて、風邪を引いてしまったに違いなかった。
芳明は、思った。
チクショウ、こんなことなら、風邪薬のひとつでも持ってきておけばよかった!
まったく、その通りですよ、おにいちゃん。あなた、ついさっきまで、薬に囲まれた場所にいたんですから。
だが、とにかく、風邪薬などは持っていなかった、芳明は。
しかしこのまま放っておけば、風邪をこじらせて肺炎になってしまうかもしれない。
肺炎で死ぬことだって、いくらでもあるのだ、医療が進んでいるこの大東亜共和国であっても。
「ハッ、ハッ、ハッ・・・・・・」
奈緒美の呼吸が、早くなっていた。
苦しそうに胸を上下させて、時折小さなうめき声を発している。
どう見ても、このままではまずかった。
このままでは――
「クソッ! いいか、ここからちょっと移動するから、頑張ってくれ。もうちょっとだから」
そう言うと、芳明は奈緒美の身体を背中に負ぶった。
雨水を大量に吸ったセーラー服は、予想以上に重くなっていた。
しかし脱がせるわけにもいかないし(当然だろ、バカヤロウ!)この状態のまま行くしかなかった。
あの薬局に行けば、何とかなるかもしれなかった。
そう考えた芳明は、しかし、ふと思った。
貴志は――また戻ってきた自分を許すだろうか?
いや、許すはずがない、あんなことをしたのだから。
だが、まったく関係ない清水奈緒美が一緒となると、話は別だ。
風邪薬を投与して、ゆっくり休ませれば直るはずだ、きっと。
奈緒美を預けてから、こっそりと、また逃げ出せばいいだけのことではないか。
芳明は、自分に言い聞かせて、足を動かした。
奈緒美の高熱が、濡れた制服を通して、伝わってきた。
身体を支えている手は、めちゃくちゃな痛みを伴っていたが、芳明は我慢した。
真由美を裏切った自分への罪だろうと、思った。
きっと、由香利は、そのために自分に一発撃ったんだ、と思った。
叱責のために−−
§
「ハァ、ハァ、うぅ・・・・・・」
奈緒美が、苦しそうにうめいた。
芳明は、ちっと舌打ちをした。
「クソ、これじゃ時間がかかり過ぎる。ちょっと危険だけど――近道をするよ?」
芳明の言葉に、奈緒美は小さく首を振った。
「ダメよ――そんなことして、あたしのために太田くんを――危険にさらすわけには・・・・・・」
「俺は大丈夫だから。ほら、しっかりしろ」
そう言ってはみるものの、奈緒美は明らかに衰弱しているのが、芳明には容易に分かった。
身体の震えが、だんだん激しくなっていた。
体温も、めちゃくちゃに高いままだ。
ひょっとしたら、39度を超えているかもしれない。
何かの本で見たような気がするが、人間は体温が42度以上になると、身体の蛋白質が硬化してゆで卵みたいになってしまうらしい。
そして、もちろん――死んでしまうのだ。
早く手当てをしないと、手遅れになってしまう。
手遅れになってしまうのに――目的地の薬局へは、なかなか辿り着けなかった。
まず芳明の体力的問題もあったし、なにより、禁止エリアとやらのせいで、大通りの梅頭町商店街が通れなくなっていたのだ。
仮に通れていたとしても、上り坂のそこは、この豪雨のせいでまるで川のようになっていた。
歩道車道を問わず、一体どこから集まったんだと聞きたくなるくらいの量の水が、道路に大きな川の流れを作っていた。
排水口には泥やごみが溜まっていて、まったく役目を果たしていない。
そこで、芳明は、なんとなく薬局に行けそうな裏道を進むことにしたのだ。
おにいちゃん。ちょっとアバウトすぎやしませんか、それは? もしかして、全然違う方に出ちゃうかもしれませんよ?
それは――その通りだった。
ひょっとしたら、逆に遠回りになるかもしれない。
しかし――確実に時間がかかる道よりも、より早く着ける可能性がある道に、芳明は賭けてみたのである。
裏道は、大通りよりも少し高い位置を通っているのか、雨水はすべて大通りの方へ流れ込んでいた。
「おい、もうちょっとだから、頑張ってくれ」
そう言い、芳明が顔を脇道に向けた、そのときだった。
芳明は、自分の顔の筋肉が、一気に強張っていくのが分かった。
自分の目の前に、自分の身長よりも頭一つ分大きい人間が、立っていたので。
その手の中に、もう文字通り時代遅れになりつつある時代劇なんかで登場する、長い刀剣が握られていたので。
その大男は、倉沢圭吾(男子八番)だった。
剣道部の主将で、県大会で優勝し、全国大会では惜しくも3回戦で敗れたが――とにかく、これほど使用する人間とベストマッチした武器は、他にはないだろう。
しかも、それは竹で作られた竹刀ではない――
真剣なのだ、正真正銘の。
それで、芳明は、思い出した。
時代劇のワンシーン。
ちょっと疲れたような着物を着た俳優たちが、圭吾の持っているような刀で悪者を切っていくのだ。
それに出てくる男は決まって、チョンマゲというサイケな髪形をしていた。
まったく、あんな髪型してる国が、この地球上でどこにある? バカか、こいつら?
芳明は、『時代劇』と言うものを見るたび思ったものだが、それはもちろん、教科書に載っている歴史(大東亜史という)が間違っているからであって、もしそれが大東亜共和国の原型となる国のことであると分かったら、そんなことは思わなかっただろう。
だが、とにかく、そう言うテレビの中でしか見たことのないものを、実際持っている奴がいるのだ――目の前に。
ごくっと音を立てて、芳明は唾を飲み込んだ。
圭吾は、その刀(それは、『正宗』という名刀なのだが、そんなことは芳明の知ったことではなかった)を握ったまま、恐ろしい形相で芳明を睨みつけていた。
芳明は、思った。
チクショウ。まったく、なんだってこんなときに――!
かなり大柄な圭吾は、刀をぎゅっと握ったまま、じっと固まったように動かない。
鬼に金棒だ――いや、剣道部員に刀剣か? まあ、どっちでもいい、この際は。
しかし、とにかく、今は一刻も早く奈緒美を薬局へ連れて行かなければならないのだ。
こんな奴に関わっている時間は――ない。
それに、もし芳明が殺されれば、必然的に奈緒美も死ぬことになる――例え圭吾が奈緒美を殺さなかったとしても。
そう思った芳明は、無意識のうちに、ベルトの間に挟んであった拳銃に手が伸びていた。
芳明の指先が(左手の、だ。利き手ではないのだが、仕方がない)拳銃のグリップに、触れた。
それが引き金となった。
圭吾は、ばっと刀の鞘を抜き払うと、一直線に芳明に向かって突進してきた。
その刀は、見るからによく切れそうな色をしていた。
ちょっとそこの奥さん! よく切れる包丁の実演販売だよ! ほら、こんな魚の骨も、一刀両断! どうだい、凄いだろ?
なるほど? ええ、そうですね。
ひゅっと空を切る音がして、芳明にその刀が襲いかかった。
芳明は慌てて、後方にバックステップで避けた。
しかし、着ていた制服は見事に切られ、だらんと垂れた切り口からは、下に着ているYシャツが見えていた。
「クソッ!」
芳明は、歯噛みした。
どう見ても、不利だった。
芳明は利き手である右手を使えないし、制服は雨を吸って重くなっているし、体格も体力もリーチの長さも歴然の差があった。
そしてなにより――奈緒美を背負っているのだ、芳明は。
奈緒美を下ろせば何とか自分だけでも逃げ出せるだろうが、そんなことはできるわけがなかった。
とにかく、それは絶対だった。
圭吾は、芳明に拳銃を遣わせまいと、絶え間のない猛攻を繰り返していた。
振り切られる真剣の切っ先を、芳明はすんでのところで避け続けていた。
「ぐおぉっ!」
圭吾が、獣のような雄叫びを上げて、芳明に突進する。
芳明にとって唯一救いとなっていることは、圭吾が完全に冷静さを失っていることだった。
もしちょっとでも冷静に――例えばそう、剣道の試合かなにかのように――攻撃されていたら、芳明は今ごろ、身体が真っ二つに分裂していたことだろう。
細胞分裂を繰り返す人間、太田芳明。さぁ、1人が2人、2人が4人。4人が――・・・・・・。
まったく、ろくでもない。
しゅっと凄い勢いで、芳明の鼻先数センチのところを、『正宗』の先端がかすめた。
あまりにも勢いをつけ過ぎたのだろう、『正宗』はその勢いのまま、痩せ細って今にも枯れてしまいそうな街路樹に突き刺さった。
チャンスだった――多分、最初で最後の。
芳明は、圭吾が木から刀を抜こうと必死になっている間に、ベルトの間から拳銃を出した。
奈緒美に支給された、スーパーブラックホークだった。
左手の親指で、その重い撃鉄を起こす。
がちっという音がして、44マグナム弾が入っている大型の弾倉が回転した。
その銃口を、たったいま木から刀を抜き取ったばかりの圭吾に向けた。
叫んだ。
「ちくしょう――チクショウ!」
そして、引き金を――引いた。
圭吾の目が、びっくりしたように見開かれたのが分かった。
芳明は、思った。
ついに人を殺してしまった、俺は――
――かちん。
撃鉄が落ち、火薬の撃発音がして凄まじい反動がくる(44マグナムという大口径の銃なので、その反動は凄まじいものなのだ、454マグナムを撃ち出す中山諒子のカースルほどではないが)と予想していた芳明は、間の抜けたようなその音に、呆然とした。
「なっ・・・・・・!?」
圭吾の方も、なんだか拍子抜けした表情になっていた。
芳明は、慌てて再度撃鉄を起こした。
引き金を引く。
かちん、という音が、空しく響いた。
芳明の表情が、見る見る苦々しいものになっていく。
「くっそ・・・・・・」
芳明は、うめいた。
スーパーブラックホークの銃口からは、弾丸ではなく、ぽたぽたと水滴が垂れているだけだった。
それで、芳明は、思い出した。
奈緒美がバランスを崩して倒れるとき、この拳銃は手から離れて――水たまりの中へ。
もしそのとき、なにかの拍子で火薬が湿ってしまったとしたら?
水たまりの水が中に入ってしまって、雷管がイカレてしまっていたとしたら――?
この弾丸は――いま入っているこの弾丸は、使えないだろう。
そして、新しい弾丸を入れ替えている余裕は――もう、ないのだ。
「は、ははっ――太田ぁ、使えねぇみてーだな、それ」
それを証明するように、『正宗』を持った圭吾が、勝ち誇った表情で近づいてきていた。
弾の出ない拳銃など、ただのカナヅチに等しい。
圭吾が大きく刀を振り上げたとき、芳明は背負っていた奈緒美をそのまま地面に下ろした。
逃げ出すつもりは、なかった。
このままではどうしようもない状態で、一時的に、奈緒美を手放さなければならなかったのだ。
そして、芳明は横に跳んだ。
そのとき、ああ――と思った。
そうか、こう言うことだったのか。
やはり稲山奈津子が真由美を置いてその場を離れたのは、ただ自分が逃げるためではなかったのだ。
奈津子は、自分のことと真由美のこととを考え、一番賢明な判断を下しただけなのだ。
いま、自分が奈緒美を下ろしたように、奈津子も一時的に真由美から離れたのだ。
もしこの状態で、奈緒美を背負ったまま避けようとしていたら、芳明が斬られていたか――ひょっとしたら奈緒美の方が斬られていたかもしれない。
それと同じことで――仕方なかったのだ、奈津子のしたことは。
あのとき、とり得る方法の中で、一番正しい判断だったに違いない――
刀を避けながら、芳明はそんなことを考えていた。
だから、突然、空中で刀の軌道が変わったことに対処することは、不可能だった。
圭吾が振るった刀は、一瞬ぴたっと空中で停止し――それから振り下ろされた、芳明の背中に。
ザーザーと降りしきる雨の音とともに、芳明は、ぐしゅっという湿った音を聞いた。
しばらくして、背中が熱くなり、それは急激に痛みとなって、芳明を襲った。
「ぐっ――ああぁ!」
芳明が、叫んだ。
叫び声とともに、口から血の塊がどばっと出てきた。
そして、見た。
怪しく光るその刀が、背中から入って自分を貫き、腹から出ている光景を。
刀の刃を伝って、真っ赤な鮮血が、自分の腹からポタポタポタポタと垂れていた。
「おっ、太田――くんっ!?」
苦しそうな叫び声が、キーンと耳鳴りがする耳に届いた。
奈緒美だった。
芳明は、口を動かした。
「に、逃げ――」
芳明が言い終わる前に、圭吾はその刀を芳明の背中から抜き取った。
「があぁっ!」
再び、芳明が叫んだ。
息をするたび、口からは血が溢れ出してくる。
思った。
胃を貫かれたかもしれない――俺は、死ぬ――のか――?
雨が叩きつけるアスファルトの上に、ぼんやりとうつ伏せに寝転がった芳明には、不思議と恐怖はなかった。
ただ――悔しい。
奈緒美を――病気の女の子ひとり護ってやれない、だらしのない男ではないか。
ちくしょう――チクショウチクショウチクショウチクショウ――!
「ぐ・・・・・・ふっ!」
叫びたかったが、芳明の口から出たのは、血と微かな空気だけだった。
圭吾が、無気味な笑いをたたえながら、芳明に近づいてきた。
とどめを刺すつもりなのだろう。
芳明は、腹の傷口を指のない手で押さえながら、立ち上がった。
指の痛みとは比較にもならない痛みが腹で跳びはね、傷口から内臓が出るのではないかと思った。
しかし、とにかく、芳明は――勝たなければならなかった。
銃は、もう道端に投げ出され、降りしきる雨に濡れていた。
それはもう、どうでもいい、使えないのだから。
思った。
何かないか、武器になるものは?
芳明は、苦し紛れにポケットに手を伸ばし――そして思い出した。
自分に支給された武器のことを。
これこそ本当に、最後の武器だった。
芳明はポケットから、その武器を取り出した。
圭吾は、そのことに気付いていないようだった(無理もない、この距離では、目に見えるかどうか怪しいものなのだから)。
それは、ピアノ線だった。
とても細く、そしてとても強靭で、切れるということを知らない糸――
芳明は、その両端を両手で持った(指がなくて、持ちにくかったけれど)。
そうしてひとつ深呼吸をすると、血でぐっしょりと濡れた脚に力を込めて――突進した。
「うぉおおおおおっ!」
芳明が、叫んだ。
圭吾の方は、余裕の笑みを浮かべながら、『正宗』を構え直す。
『正宗』の刃渡りの1.5倍ほどの距離まで芳明が近づいたとき、圭吾は、その鋭く光る刀を、芳明に向かって突き出した。
胸を狙ったつもりだったが、身長差のためか、それは芳明の肩を貫いただけだった。
しかし、それでも、芳明は前進を止めなかった。
芳明の背中のあたりから、身体を貫いて赤く染まった刀が突き出した。
それを抜こうと、圭吾が手前に刀を引いたとき、それにつられるように芳明の両腕が伸びてきた。
そして――圭吾は、気がついた。
自分の首に、なにか細い糸のようなものがかかっていることに。
次の瞬間、それは、猛烈な力で締め上げられた。
「ぐぇええぁ!」
カエルが車にひかれたときような声が、喉から搾り出された、圭吾にとっては不本意だったけれども。
息ができなかった。
圭吾は慌てて、芳明に刺さったままの刀をめちゃくちゃに動かした。
肉が裂ける音が聞こえたが、芳明は、その手を緩めなかった。
首の肉に、その糸――ピアノ線が食い込み、血が滲み出してきた。
圭吾の顔が、どす黒く膨れ上がり出した。
「ぐ、ぎぎぎ――」
今度は喉から、木が軋むような音が出てきた。
そして――突然、芳明が右手に握っていたピアノ線の端を離した。
もう一方の端を握ったままの左手を、思い切り引いた。
刹那、しゅぱあっと音がして、圭吾の喉が綺麗に裂けた。
子供が絵を描いているときなどによくやる、紙の隅で指を切ってしまうのと同じ原理だ、多分。
カッターナイフで切ったときよりも鋭い切り口から、思い出したように鮮血が噴き出した。
その血は、雨のように芳明に降りかかる、雨も降っているのだけれど。
なにが起こったのかよく理解できない、ぼけっとした表情のまま、倉沢圭吾は地面にぺたんとしりもちをついた。
あんぐりと口をあけ、そこからは、ダムのようにごぼごぼと黒い血が溢れ出してきた。
名刀『正宗』から、するっと圭吾の手から離れ、だらんと力なくアスファルトの上に落ちた。。
見開かれた圭吾の目に、白い幕がかかっていった。
その数秒後、肩に刀が刺さった状態のまま、圭吾に覆い被さるようにして、芳明が倒れ込んだ。
「おっ、太田――くんッ・・・・・・!」
奈緒美は立ち上がろうとし――立ち上がれないことを悟った。
世界がぐるぐると回りだし、キーンと言う耳鳴りばかりが頭に響く。
しかし、そんなことを気にしている場合ではないのだ、今は。
太田芳明が瀕死の状態にあることは、見ただけで分かる。
なにしろ倒れている芳明の肩には、まだ深深と赤く光る刀が刺さっているのだから。
その刀は、こう告げていた。
早く抜いてやれよ。刀が刺さってんだぜ? 痛いじゃんか。何とかしてやんないと、こいつ、死ぬぜ、マジで。
だが奈緒美には、そうしてやることはできなかった。
いっそう激しい耳鳴りと、頭蓋骨にヒビが入るかと思うほどの頭痛がして、程なく奈津子は、意識を失った。
【残り**人/端末損傷の為、モニター不能】