BATTLE ROYALE 2
〜
The Final Game 〜
[ 第九部 / 終盤戦(中編) ] Now 15 students remaining...
< 44 > 仲間
雨上がりの大きな水たまりの中に、一滴の雫が落ちた。
とても小さな水の跳ねる音が周囲に響き、水たまりの表面を波紋が広がっていく。
水面には、虚空に輝く細い月が映っていたが、その月は波紋にかき乱されてぐにゃぐにゃと形を変えた。
しかしそれも一時のことで、しばらくすると水たまりは穏やかな水面を取り戻し、月は何事もなかったかのようにその姿をはっきりと固定させた。
空を覆っていた雨雲が途切れ、まばらではあるが星が見え始めていた。
それは東京の眩しいばかりのネオンやライト、工業排ガスによるスモッグに遮られた疲れたような星ではなかった。
人工の光がまったくないこの街では、星はそれこそ降るように輝き、見る者を一瞬のうちに遠い別の空間へ追い出してしまうほど美しかった。
「すごい星だな。さっきの雨が嘘みたいだ」
黒澤健司は、空を見上げて呟いた。
いま自分たちがいるのは、国道第十八号線沿いの小さな神社の境内だった。
典子がいるはずの総合病院まで、あともう少しのところである。
病院までは、あと15分も歩けば着けるだろう。
杉山貴志が眼鏡をかけ直しながら、言った。
「ここは光もないし、標高も高くて空気が澄んでるから、東京よりもずっとたくさんの星が見えるんだよ」
南由香里と中山諒子も、じっと空を眺めていた。
「私、こんなにたくさんの星を見たのって、はじめて。星ってこんなにあるんだね・・・・・・」
由香里がまるで独り言のように、小さく呟いた。
「ホント、怖いくらいね」
そう言って、諒子もちらっと笑みをこぼした。
感動していた、誰もが。
どうと言うことはない、ただ星を見ただけのはずなのに――なんだか涙が溢れてきそうだった。
ああ、と諒子は思った。
これが本当の感動なのかもしれない、多分。
映画を見ているときに感じる『感動』とは、どこか違うような気がした、どこが違うのかはわからないけれど。
とにかく――なんだか心が落ち着いて、でも精神は異様に昂ぶっていた。
どうしてなのかはわからない。
クラスメイト同士が殺しあっているこの状況で、何故ただの星空なんかに感動できるのか、全然わからなかった。
東京でも、見ようと思えばいつでも星なんて見れるのに。
諒子は、言った。
「なんだか――しあわせな感じがする、こういうの」
言ってから、自分がとんでもなく場違いなことを言ってしまったのに気がついた。
予想通り、慶吾をはじめ、貴志や健司、由香里までが不思議そうな表情で、諒子を見ていた。
当たり前だ、クラスメイトがたくさん死んで――しかも自分たちすら、いつ殺されてもおかしくない状況で――どうやったら幸せな感じになれるだろう?
とんだ失言に、諒子は慌てて付け足した。
「だ、だってほら、いまわたしたち、あのプログラムの最中なんだよ? なのに、三村さんや杉山くんや黒澤くん、飯田くんや、由香里ちゃんたちと一緒にいるんだもの」
「どういうこと?」
由香里が、意味を図りかねたように首を傾げながら聞き返した。
諒子は、ちょっと考えた。
言った。
「わたしたちって、すごく、しあわせだと思う。どんなときでも、信じられる人がいるっていうの、心強い気がする。誰もが疑心暗鬼になって、ついクラスメイトを疑っちゃったり、それで――恐怖のあまり殺してしまったり・・・・・・。でも、そんな状況の中でも、これだけの人が信じあえるっていうのは、しあわせだと思う。そうじゃない?」
諒子の言葉に、今まで黙っていた慶吾が頷いた。
「そうだ・・・・・・。しあわせだよ、俺たちは、間違いなく」
慶吾の声が、薄暗い境内に微かに響いた。
それで、慶吾は、周囲に少し視線を配った。
クラスメイトはかなり減っていて(喜ぶべきことではないのだけれど)しかも新たに禁止エリアが増えないうえに、前回の沖木島の会場より広い場所なので、別のクラスメイトが近くにいるという確率は高くはないが――注意するに越したことはなかった。
思った。
ちくしょう、いま何人生き残っているんだ? もし典子と合流できたとして、そいつらはどうする?
それが問題ですよ、おにいちゃん。ここまで生き残ってるってことは、それなりにゲームに『のった』と考えるのが妥当じゃないですか? 大人しく言うことを聞きますかね? それとも、残った人は皆殺しにします? 棺桶の準備なら整ってますけど?
「はっ・・・・・・! はは! な、なに言ってるんだ、おまえら?」
突然、乾いた笑い声が聞こえたのは、その時だった。
全員が、その声を発した人物に視線を向けた。
今まで下を向いて、ずっと黙り込んでいた飯田浩太郎だった。
浩太郎が、顔をあげた。
それで、慶吾は思わず、ぎょっとした。
慶吾だけではない。
その場にいた誰もが浩太郎を見て、一様に驚いたような顔をしていた。
浩太郎は――真っ青になっていた。
目はくぼみ、頬の肉は落ち、焦点の合わない瞳がぎらぎらと月明かりに輝いていた。
精神的なストレスと肉体的疲労が限界にきているのは、誰の目にも明らかだった。
浩太郎は、叫んだ。
「しあわせだって!? この状況がか!? この殺し合いゲームがしあわせだって言うのか! 冗談じゃねぇよ! 信じられる!? 誰が!? 何を!? 誰も信じられるわけないじゃないか!」
「飯田ッ! 落ち着け! 誰かに聞かれるかもしれないだろ!」
貴志が低い声で怒鳴り、浩太郎をなだめようとした。
しかし、それが逆効果になった。
浩太郎は、ばっとその場から数歩退いた。
息が荒くなっていて、ぎらぎらと輝くその目は何か――肉食獣を思わせた。
浩太郎が、怒鳴った。
「なんだ杉山! お、おれを殺そうってのか!? そうだろ!? そうなんだろ! どいつもこいつも善人づらしやがって! け、結局最後はおれをこ、殺すつもりなんだろうっ!」
浩太郎はおもむろに、ポケットからコンビニで売っている制汗剤くらいの缶を出した。
それを握った左手がぶるぶると震えていた。
名前はなんだかわからないがとにかく――猛毒の神経系ガスが入っているはずだった、その缶の中には。
「そ、それ以上、おれに近づくなよっ! もし近づいたら、おれはこの毒はばら撒くからなっ! し、死にたくなきゃ、動くなよな!」
「飯田くん・・・・・・落ち着いて。話を聞いて」
由香里が言った。
ぎろり、と浩太郎の目が由香里を睨んだ。
「こ、今度は南か! おまえもおれを殺そうって言うんだな!? ほらみろ、やっぱり信じられないじゃないか、誰も! ちくしょう!」
浩太郎が缶を握り締めた。
右手は撃たれていたのでバルブを捻ることはできないのだけれど、浩太郎はそんなことすら気づいてはいなかった。
つまるところ浩太郎は――壊れてしまったのだ。
もうめちゃくちゃだった。
世界が――浩太郎のすべてが、何もかもめちゃくちゃだった。
いつ自分が死ぬかもしれないという恐怖。
誰かに裏切られるかもしれないという不安。
誰も信用できないという不信。
ここから逃げ出すことはできないという絶望。
そういった精神的なストレスが、徐々に浩太郎の正気を食い潰していった。
睡眠不足と疲労もたたって、この神社に着くまでは浩太郎はばろぼろになっていた。
そこに、慶吾の一言だ。
しあわせだよ、俺たちは、間違いなく。
冗談ではなかった。
これが幸せなはずがなかった――ぼろぼろの身体で、いつ死ぬかわからない状況で、暗闇をただひたすら歩いている――こんな幸せがあるか?
そして、思った。
もしかしたら、不幸なのは自分だけなのかもしれない。
他の奴らはみんな幸せで、実は自分だけが不幸なのかもしれない。
そんなの許せるはずがないじゃないか!
自分が徐々に正気を失ってきていることに、浩太郎自身が気づくことはなかった。
精神崩壊、というほどのものではないけれど、それに近い状態になっていたのだ、浩太郎は。
頭の中が真っ白で、いま自分がなにをやっているのか、なにを言っているのか、まったくわからなくなっていた。
浩太郎は、泣いていた。
「もう――誰も信じられない! だからみんな死んじゃえ! どうせ僕を殺すんだろう! いつかはみんな僕を裏切るんだろう! 死んじゃえ! 死んじゃえ。死んじゃえ、死んじゃえ――死んじゃえよぉっ!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、毒ガスの入った缶を持った左手をぶんぶんと振って、大声で泣いていた。
それは、デパートのおもちゃ売り場で子供が母親に泣きながら「あれ買って!」と訴えているような、そんな感じだった。
内容が随分と物騒ではあったけれども。
「飯田くん・・・・・・」
諒子が呟いた。
その声が、幾分涙声になっていた。
どうしてかはわからない――なんだか、哀しかった。
そう、とても、哀しかった。
自分たちが浩太郎に信用されなかったから、ではなく、誰も信用することができなくなってしまった浩太郎が。
人は互いに支えあわなければ生きてはいけない。
そしていま、浩太郎は『信用』という支柱を失ってしまった。
支柱を失ってしまった人間の行く末は、大黒柱を失ってしまった建物と同じ・・・・・・一気に崩壊するしかない。
「飯田くん、お願い・・・・・・。もうやめて・・・・・・」
諒子は言った。
しかし浩太郎は、虚ろな目でぎょろりと諒子を睨みつけた。
「死んじゃえよ・・・・・・。もうみんな・・・・・・死んじゃえよ・・・・・・」
疲れたような声でぶつぶつと呟きながら、浩太郎はすとんと地面に腰を下ろした。
いや、倒れ込んだと言ったほうが正確かもしれない。
それで、とにかく、左手に持っていた缶がぽろりと手を離れ、少し離れたところまで転がっていって、止まった。
もう浩太郎は、それを取ろうとはしなかった。
ただ、濡れた地面にしりもちをついた状態で、壊れたテープレコーダーのように「死んじゃえよ」をぶつぶつと繰り返しているだけだった。
目の焦点が完全にずれていて、光がなかった。
「終わったな・・・・・・」
健司が言った。
浩太郎に歩み寄り、そばに落ちている缶を拾い上げると、しゅっとオーバースローで投げ上げた。
缶はくるくると回りながらきれいな二次方程式のグラフのような放物線を描き――かん、と神社の屋根の上にのって、雪止めに引っかかってとまった。
「――で、どうするんだ?」
健司は慶吾の方に顔を向け、訊いた。
「・・・・・・なにをだ?」
慶吾が言った。
なんだか――とことん疲れきっていた。
何かを考えるのすら、嫌だった。
健司が答えた。
「飯田のことだ。このままにしておくわけにもいかないだろ?」
それは、その通りかもしれなかった。
このまま慶吾たちが浩太郎を置いていけば、いつかは必ず浩太郎は殺されるだろう。
それは誰かに見つかってかもしれないし、本部のコンピュータが復旧したときに首輪を爆破されてかもしれない。
とにかく、浩太郎をこのままにしておくわけにはいかなかった。
しかし――連れて行くわけにもいかないのも、事実だった。
協力して担いで行けばできないことはないのだが、怪我人もいるし(実際、慶吾は自分で歩くのが精一杯で、とても浩太郎を担いで歩ける状態ではなかった)いくら二人いるといっても女子が浩太郎を担げるわけがなかった。
あとの選択肢としては・・・・・・。
慶吾はそこまで考え、慌てて頭を振った。
どうしました? ああ、いっそのことここで殺してしまおうとか考えたんですか、ひょっとして? いい案だと思いますけど、私は。
思った。
それは、とにかく、なにがあっても、例外だ。
浩太郎を立ち直らせなくてはならない、なんとしても。
もしこれで生き残れたとしても、生きていることにはならない、この状況では。
一生精神科の病院のベッドの上で植物人間だ。
自殺してしまう可能性もある。
そうなったら、せっかく生き残ったのが無駄になってしまう。
とにかく、一時的な処置ではなく、今後のことを考えても浩太郎を立ち直らせなくてはならなかった。
「飯田・・・・・・」
慶吾は、浩太郎を呼んだ。
虚ろな目をした浩太郎の身体が、ぴくっと動いた。
しかしそれだけで、あとはまた「みんな死んじゃえ」を呪文のように繰り返していた。
「・・・・・・」
慶吾はなにか言おうと口を開き――しかし言葉につまり、なにも言うことはできなかった。
唇がかさかさに乾いていて、水でも飲みたい気分だった。
思った。
かんべんしてくれよ。俺にカウンセラーをやれって言うのか? いくらなんでも無理に決まってる、精神病院じゃあるまいし。
そもそも慶吾は、こういう状態の人間を相手にするのははじめてと言ってよかった。
米帝では、まあそこらへんの小汚いストリートに座り込んでいる精神病者(きつい薬物でもやりすぎたのだろう。既に廃人同様になっている者も何人かいたと思う)のような奴らはいたのだけれど、もちろんそんな奴らと親しかったわけでもないし、典子をできるだけ危険な目に合わせないようにそういう所は避けて通っていたので。
恐怖と不安で精神失調に陥ってしまった人間にどんな言葉をかけてやればいいのか、わかるはずがなかった。
そういえばおにいちゃん、あんまり国語は得意じゃありませんでしたよね。得意なのは音楽だけなんですか? レクイエムでも歌ってあげたらどうです?
それで、慶吾は、はっと息を呑んだ。
――音楽。
慶吾が浩太郎と共通する唯一の道は、音楽だけだった、今となっては。
もちろんそれで浩太郎が正気を取り戻せると言う保障はどこにもないのだけれど――しかしとにかく、何もしないよりはマシなはずだった。
思った。
典子も言っていたではないか、俺にはプラスのエネルギーがあると。
そうだ、今までなにを弱気になってたんだ、俺は!
ロックンロールの新星――それが七原秋也だろ!
慶吾は浩太郎の前に立ち、大きく息を吸い込んだ。
思った。
ちくしょう、ギターのないロックはちょっとなさけないぞ。
だがまあ、仕方のないことではあるのだけれど。
そして――慶吾は歌った、大声で。
ひょっとすると、さっきの浩太郎の叫び声よりもよく通っていたかもしれない。わからない。
健司や貴志も、いきなり大声を出して歌い始めた慶吾にびっくりしていたようだったが、止めようとはしなかった、誰も。
とにかく、そんなことはどうでもよくなっていた、慶吾には。
誰か来るかもしれないって? だからなんだ? 俺はこのゲームにのったんだ、3年前に! なにがあっても、こっちが勝つまで、続けてやる!
指と足で軽快にリズムを取りながら、慶吾は歌った。
久々のロックだった(いやはや、実に2日ぶりだ、修学旅行の前日は練習をサボってしまったので)。
曲は、典子にも聞かせた慶吾の(そして川田の)一番のお気に入り――スプリングスティーンの『明日なき暴走』だ。
“ウェンディ、二人一緒なら哀しみを抱えていても生きていけるだろう、俺は君を、俺の魂の中の狂気すべてで愛したい。
いつか――いつとは知らないけれど、俺たちは俺たちがほんとうに望んでいる場所へたどり着けるだろう、そしてそこで、陽の光の中を歩けるだろう。
でも、それまでは、俺たちみたいな流れ者は走り続けるしかない。
そのように生まれてしまったんだ、俺たちは”
徐々に、声が大きくなっていった。
由香里と諒子が、リズムに合わせて手拍子を打ち始めたので。
貴志が、すぐそれに続いた。
健司も苦笑しながら、加わった。
慶吾はさらに、英語でも歌った、もちろん本場米帝の完璧な発音でだ。
“トラムプスライクアス、ベイビィウィアボーントゥラン・・・・・・!”
歌が終わった。
由香里たちの手拍子も聞こえなくなった。
しばらくの沈黙が訪れた。
神社の神木の枝がかさかさとざわめき、月の光が木漏れ日のようにちらちらと模様を作っていた。
慶吾が言った、静かな声で。
「・・・・・・俺たちだって怖いんだ、飯田。俺だって死ぬのは怖い、裏切られるのも怖い。だから、俺たち、お前のその恐怖はよくわかる。おんなじなんだよ、俺たちは」
そこで一端、言葉を切った。
唇をちょっと舐めてから、続けた。
「だけど、いやだからこそ俺たちは信じ合わないと生きていけないんだ。裏切られるのを恐れて、いつまでも一人ぼっちでいるつもりか? 誰かを信じることなく、このまま死ぬのか、飯田? そんなの、哀しいだけじゃないか」
そこでまた、一呼吸おいた。
慶吾は少し顎をひき、微かに目を細めた。
あまり思い出したくない過去の記憶を呼び起こすためだった。
もうすっかり心の奥にしまっておいたはずの記憶が、頭の中に次々と甦ってきた。
「こんな話がある――」
少し重い口調で、言葉をつむいだ。
「3年前・・・・・・香川県城岩中学校のあるクラスが、このゲームの対象に選ばれたんだが――」
「あっ。それって、担当教諭と優勝者が死んじゃって、二人の男の子と女の子だけが逃げたっていう、あの?」
諒子の言葉に、慶吾は小さく頷いた。
続けた。
「その優勝者なんだが、そいつは――川田章吾っていうんだが、とにかくそいつは、実はその前年のプログラムに選ばれた奴だったんだ」
「なんだって? じゃあ前年のプログラムの優勝者が入ってたのか? あの・・・・・・1997年の第十二号プログラムに?」
健司が驚いたように呟いた。
他の誰もが、一様に驚いたような表情をしていた。
慶吾は答えず、また言葉を紡いだ。
「その川田って奴には、とても気の合う恋人がいた――らしい。第何号かは知らないが、1996年にこのゲームに選ばれるまで。大貫慶子っていう名前だったな」
そこで、ごくっと唾を飲んだ。
頭の中に、川田と彼女が笑顔で並んでいる光景が浮かんでいた。
川田が見せてくれた、パスケースの中に入っている写真と同じ光景だった。
イチョウ並木のビルボード。
黄色い車が映り込んでいる神戸の大通りだ。
「あいつは――川田は、このクソゲームが始まってからずっと、その慶子って娘を探し回った。詳しいことはわからないが、とにかく、運命的にも川田はその娘に会うことができたんだ」
由香里が、ちょっと身を乗り出した。
言った。
「じゃあ、その川田――くんって人は、彼女と一緒になれたのね?」
「いや――」
慶吾はちらっと苦笑して、首を横に振った。
「逃げたらしい、彼女は。自分の恋人を見て」
「えっ・・・・・・」
由香里が絶句した。
慶吾はゆっくりと、視線を浩太郎に戻した。
続けた。
「そのあとも川田は彼女を探して歩き回った。自分を殺そうと襲い掛かってくるクラスメイトをかわして、やっとまた見つけたが、しかしその時には彼女はもう――」
言葉の語尾が、微かに震えた。
慶吾は泣き出したいのをこらえて、学生服の胸ポケットから茶色い革の、端が折れたぼろぼろのパスケースを取り出した。
その中には――あの写真が入っていた。
3年前に見たときと変わらず、川田と、そして慶子という女性が二人、はにかんだような笑顔を慶吾に向けていた。
あの時――川田が二人を撃ったふりをして首輪をはずし終えたあと、必要なことだけを手短に説明し、最後にこう言った。
『これはおまえが持っていてくれないか、七原。俺と、おまえが、ここでこうして生き残ったことの証みたいなもんだ。その写真がある限り、俺はおまえと典子サンが仲良く生きてることを確認できるからな』
それ以来、慶吾はこのパスケースを離したことはなかった。
その写真を、浩太郎の目の前に突きつけた。
浩太郎の虚ろな目が、その笑顔の二人を映し出した。
言った。
「見てみろ、飯田。こんな幸せそうに笑っていた恋人同士ですら、信じ合うことができなかったんだ! わかるか!? 川田は――あいつは、愛する者に一度裏切られても、それでも諦めずに彼女を探し続けたんだ! 飯田、おまえ、そのときの川田の気持ちがわかるか!?」
最後のほうは、もうほとんど怒鳴っていた。
それで、息を整えるために、少し間をおいた。
思った。
ああ。クソ――なにを熱くなってんだ、俺は。
ふぅ、とひとつ深呼吸をした。
それで幾分、落ち着きを取り戻せたようだった。
慶吾は、続けた。
「もちろん、慶子サンもただ怖かっただけだと俺は思う。飯田、おまえもただ怖いだけなんだ。そりゃ誰でも怖いさ。でも、怖がっているだけじゃ――怖がって誰も信じられないようじゃ、生きていけないんだ、この世界では」
慶吾が言い放つと、浩太郎の目が微かに動いて、慶吾を捉えた。
まだ虚ろではあったけれども――微かな光が戻っているように慶吾には見えた。
「そんなこと――そんなこと――」
浩太郎が、弱々しく息を吐いた。
風邪でかき消されてしまうほどの小さな声が、浩太郎の口から漏れていた。
「だって――僕は――裏切られたくないんだ、もう。誰も僕のことなんか、考えてくれないんだもの。誰も信じられない。信じたくないんだ。でも死にたくないんだ! 僕はまだ死にたくない!」
浩太郎は、目をかっと開いて立ち上がった。
また錯乱状態になったかと慶吾は思ったが、しかし浩太郎の目には確実に光が戻ってきていた。
浩太郎が、叫んだ。
「僕はまだ死にたくない! 死ねないんだ! やりたいことだって、たくさんあるんだ! 僕には――」
虚ろだった浩太郎の目に、光が宿った。
今まで翳っていた月の光が、さっと射し込んだようだった。
浩太郎が言った、はっきりとした声で。
「僕には、夢があるんだ。だから、死ねない。死ぬわけにはいかないんだ!」
そんな浩太郎を、慶吾は正面から見つめた。
そして――ふっと笑んだ。
言った。
「その言葉が聞きたかった・・・・・・。おまえはこんなところで休んでいられない、そうだろう? だったら、生きる努力をしろ。現実から目をそむけるな。いいか?」
「でも、僕は――」
「わかってる。人を信じるってことは、難しい、とても。なんだかんだ言っても結局は自分ひとりだからな。ただ、生きるためには、仲間くらいいたって邪魔にはならない、そうだろ?」
「・・・・・・」
浩太郎は黙り込んだ。
目尻に、微かに涙がたまっていた。
仲間くらいいたって邪魔にはならない・・・・・・。
仲間くらいいたって――・・・・・・。
仲間――・・・・・・。
「僕を、仲間にしてくれるの? 二度も命を助けてもらったのに、二度も裏切ろうとしたこの僕を?」
浩太郎が訊いた。
「なに言ってんだ」
慶吾が笑んだ。
浩太郎の肩にぽん、と手をおいた。
言った。
「おまえはとっくに仲間だったじゃないか。同じクラスになった時点で、もう立派な仲間だろ」
「そうよ、飯田くん。私たち、みんなで逃げましょう、ここから!」
由香里が言った。
『みんなで』という言葉を、少しだけ強調していた。
「私もみんなでここから逃げたい! そして、どこか平和な国の田舎で、みんなで暮らそうよ。こんな国、思い切って捨てちゃってさあ!」
諒子が笑いながら、言った。
ああ、この国は危険物ですね。はいはい、ちゃんと分別してくださいよ。え? 米帝? ああ、それは粗大ゴミね。はいこっちこっち。
諒子の口調に、由香里がくすくすと笑った。
それにつられて、慶吾も、貴志も思わず笑い出した。
浩太郎は、必死に笑顔を作ろうとしていた、涙で顔がぐちゃぐちゃだったのだけれども。
慶吾は笑いながら、浩太郎に向かって左手を差し出した。
「握手だ、飯田。これからも仲間だぜ」
「あ・・・・・・うん・・・・・・うん!」
浩太郎は左手で慶吾の手を握り返し、何度も何度も頷いた。
思った。
三村さんなら――少しは信用してもいいのかもしれない。
いや、きっと信用できるはずだ、この人なら――。
浩太郎は、はじめて他人を信用してみようと思ったのだった、
§
かさかさと神社の大木が揺れ、月の光がちらちら瞬いた。
時刻は、22時05分をまわったところだった。
慶吾はディパックの中に残りのパンとミネラル・ウォーターのボトルをしまい、立ち上がった。
「予定よりかなり遅れてる。みんな、もう食べ終わったか?」
「ああ・・・・・・いやちょっと待った」
貴志が残ったパンを一気にほおばり、ミネラル・ウォーターで飲み下した。
もごもごと口を動かしている貴志を見て、由香里がくすっと笑った。
「杉山くん、そんなに慌てて食べると喉に詰まっちゃうよ? それに食料とか水は貴重だから、もう少しゆっくり食べないと」
「まるでお袋みたいなこと言うな、南さんは」
貴志はなんとかパンを飲み込んで、苦笑しながら言った。
一般家庭の平和な夕食とは程遠いけれども――そりゃ遠すぎますよ、奥様。暖かい部屋の中でテーブルを囲んで食べる食事と、薄暗い神社の境内の脇にある公衆トイレの横で食べるんじゃ、アメリカ大陸の北から南までより違いますって――しかしとにかく、楽しい食事ではあった。
浩太郎はまだ食欲がないと言ってミネラル・ウォーターを飲んだだけだが、それでも顔色はかなりよくなっていた。
「ちょっとお手洗い、行ってくるね」
諒子は小さな声でそう言って、境内の脇の公衆トイレ(と言えるかどうかすら怪しい。工事現場で作業員が使う仮設トイレだ、はっきり言って)に入った。
「あ、私も」
由香里も、ぱんぱんとスカートのうしろを払って立ち上がった。
時期を見計らって慶吾はそっと立ち上がり、境内の反対側にまわった。
暗かったせいか誰も気がついていないようだった。
鳥居から少し入ったところに、雑草が生えている小さな広場があった。
「げほっ! ぐふっ・・・・・・!」
慶吾はその雑草の中にうずくまり、さっき食べたパンの欠片を吐き出した。
にがい胃液に、赤い血液が混じっていた。
「クソ・・・・・・」
最悪だ。神聖な神社でゲロをしてしまった。
ぎゅうっと腹の傷を押さえつけながら、また、吐いた。
痛み止めが切れてきているようだった。
ぎりぎりと焼けた火箸が突き刺さっているような痛みに、慶吾は思わずうめき声をあげた。
ちくしょう――やっぱり痛いもんだな、撃たれるってのは。
当たり前じゃないですか、おにいちゃん。いっそのこと死んだほうが楽ですよ、絶対。今なら初乗り料金で天国までお送りしますけど?
「くっ・・・・・・!」
慶吾は制服のポケットから、バンドエイドくらいの四角い箱を出した。
先ほど由香里にもらった鎮痛剤のようなものだった。
効能は、頭痛、腰痛、腹痛、生理痛など――。なお、ご利用の際は説明書をよくお読みのうえ、担当の医師の指示に従って適量をお飲みください。
慶吾はちらっと苦笑した。
まあ、なにも飲まないよりはマシだろう。
箱を開けて、プレートからカプセルを7〜8個出して口の中へ放った。
説明書をちゃんと読んでいないので何個くらいが適量なのかはわからないが――とにかく痛みが静まってくれればよかった、当座は。
ペットボトルのミネラル・ウォーターでカプセルを胃に流し込んだ。
ふう、と軽く息をついて、慶吾は立ち上がった。
薬を飲んだことで精神的に楽になったためか、痛みが多少やわらいだ感じがした、そんなに即効性の薬ではないのだけれど。
とにかく、こんなところでくたばるわけにはいかなかった。
考えてみろよ、神社なんだぜ、ここは。寺ならまだしも、神社で死ぬわけにはいかないだろ、いくらなんでも?
ミネラル・ウォーターで口を漱いでから、慶吾は何事もなかったかのように健司たちのいる場所へ戻った。
「おいどこに行ってたんだ?」
慶吾を見つけるなり、健司が咎めるような口調で訊いた。
いや、ちょっとそこでゲロしてたんだ、などとは答えなかった、もちろんのことながら。
慶吾はちらっと笑んで、言った。
「せっかく神社にいるんだから、ちゃんと祈っとこうかと思ってな」
「祈るって・・・・・・この神社に?」
由香里が首を傾げながら訊いた。
思った。
ああそうか、祈るのはカソリック系の宗教だけか。
子供のときから慈恵館というカソリック系の施設にいて、しかもついこのあいだまでキリスト教が主流の米帝にいた慶吾が間違えてしまうのも、仕方のないことだった。
慶吾は頷いた、とりあえず。
健司が肩をすくめて言った。
「おいおい、神様にお願いしてたってのか、こんな時に。神様が何になる、この際? 敬謙な宗教家だったら、このクソゲームには選ばれないってのか?」
「それもそうね、本当に神様がいたら、こんなことは絶対に許さないわよ、きっと」
諒子までが納得したように頷いた。
「で? 結局なにをお祈りしたんだ、三村さんは?」
貴志が苦笑しながら、訊いた。
「あ、それ、私も聞きたいな」
由香里が身を乗り出した。
慶吾は片方の眉を上げて、悪戯っぽく笑った。
「みんなの夢が叶いますように――ってところかな」
「ゆめ・・・・・・?」
浩太郎が聞き返した。
「ああ」
慶吾は小さく二度、顎をひいた。
「そう。夢だ」
「どうか生きて帰れますように――とかじゃないのか?」
健司が言った。
慶吾はちらっと笑んで、ゆっくりと首を横に振った。
言った。
「そんなのは――」
さあっと風が吹き、あたたかな月の光が薄暗い神社の境内を包み込んだ。
慶吾は続けた。
「そんなのは関係ない。てんで問題にならない。みんなでここから逃げ出す――これは、絶対だからな。問題は、その先さ」
「その先って?」
諒子が訊いた。
慶吾は両手を制服のズボンのポケットに入れ、境内の裏で今にも崩れそうに傾いているブランコに腰をおろした。
ブランコがぎしっと悲鳴をあげ、キィと金属の鎖が擦れる音が響いた。
慶吾は言った。
「俺たちの目的は、ここから逃げ出すことじゃない。ここから逃げ出してから自分の夢を叶えることさ。そうだろ?」
「そりゃあ――でも、まず逃げ出さないことには、その先はないんじゃないか?」
「いや――」
貴志の言葉に、慶吾は首を振った。
「“少年よ、大志を抱け”――誰の言葉だったかな。とにかく、おまえたちみたいな若い連中はもっと先のことに目を据えていなきゃならない。そうした方がいいんだ。さいわい、俺はこのクソゲームから逃げるための方法を知っている。だから、おまえたちはもっと先の、自分の夢を叶える努力をするんだ」
「なんだと? 逃げる方法を知っている?」
健司の目が、鋭く光った。
慶吾は、正面から健司の瞳を見つめた。
冷ややかだが、その奥にはしっかりとした優しさを感じさせる、そんな瞳だった。
その健司の瞳が、はっと見開かれた。
なにかを思い出した――そんな感じだった。
慶吾は微笑んだ。
言った。
「どうやらやっと気づいたようだな」
「まさか――じゃあ、あのとき逃げ出した生徒ってのは?」
驚愕を隠せない健司に、慶吾は頷いて見せた。
「ねえ、ちょっとなに言ってるの? 黒澤くん?」
諒子は、よくわからないという表情で慶吾を見た。
貴志や浩太郎、由香里も、同じような顔をしていた。
慶吾は、ズボンのベルトの間からピエトロ・ベレッタを取り出した。
言った。
「杉山、覚えてるだろ? このプログラムの説明を受けているとき、飯田を助けたときに俺がこれを使おうとしたのを。そのとき、不思議に思わなかったか? なぜ武器が支給される前から、俺が拳銃を持っているのか」
「いや、それは――」
貴志は言葉をにごらせた。
確かに覚えている。
覚えてはいるが、それほど不思議なことだとは思っていなかった。
ゲームが進むにつれて、もう拳銃など特別なものだとは感じなくなっていたので。
次々に呼ばれるクラスメイトの名前が(坂待が楽しそうな声で呼ぶ死者の名前だ。クソ)貴志の神経を麻痺させてしまっていたので。
しかし考えてみれば不思議だった。
なんで銃を持ってたんだ、三村さんは?
「それに、さっき話した1997年の香川県で行われたプログラム、どうして俺がそんなことに詳しかったと思う? 優勝したやつの名前くらいは知っていてもおかしくはないが、俺がそいつの写真を持っていることが気にならなかったか?」
「あっ・・・・・・!」
諒子が、そう言えばそうかという風に、小さく声をあげた。
3年前のプログラムで死んでしまった優勝者の写真を、なぜ慶吾が持っているのだろうか?
いやそんなことよりも、ずっとアメリカで暮らしていたのではなかったのだろうか?
全員が、一様に押し黙っていた。
何らかの答えが出掛かっているのだが、しかしそれが何なのかはっきりとはわからない。
社会のテストで、歴史上の人物が行ったことは覚えているのに、どうしても名前が出てこない――そんな感じ。
「俺は――」
慶吾が、口を開いた。
「俺は別にずっとアメリカにいたわけじゃあない。たった3年間だ、アメリカにいたのは」
「3年・・・・・・?」
由香里が独り言のように、呟いた。
慶吾は続けた。
「その前まで、俺は香川県の城岩中学ってところの生徒だった」
「じゃ、じゃあまさか――?」
由香里が、震える声で聞き返した。
慶吾は頷いた。
「そうだ――」
言った。
「――1997年度第十二号プログラム。俺はあのとき、このプログラムから逃げ出した、生き残りだ」
慶吾の言葉が、静まり返った境内に響いた。
もちろんそれはそれほど大きな声ではなかったのだけれど。
気持ちのいい夜風が神社の大木を揺さぶり、緑の葉が擦れ合ってさわさわと静かな交響曲を奏でていった。
誰も、なにも言わなかった。
いや言えなかったといったほうが正しいかもしれない、この場合。
いつも冷静な健司ですら、信じられないといったように眉を寄せて黙り込んでいた。
慶吾はそんな仲間の顔を一通り見渡してから、ゆっくりと口を開いた。
「七原秋也――それが、俺の本名だ。当時は全国放送で流れたから、ちょっとした有名人ってやつだ。気付かなかったか?」
「・・・・・・気付くわけないだろう」
健司が低い声で言った。
慶吾は――いや秋也は軽く口の端を持ち上げた。
言った。
「全国指名手配犯だ。交番の前は通らないようにしているからよく知らないが、まあ写真くらいは出ているんじゃないのか?」
交番の掲示板。秋也の学生証に貼ってあるのと同じ、拡大された写真。その上にはウォンテッドの文字。
典型的な指名手配犯だ。殺人容疑の凶悪犯、七原秋也。グレイト。
「とにかくだ」
秋也が急に真顔になって言った。
「これでわかったろ? なぜ俺が、3年前のあのプログラムに詳しかったのか。そして――」
手にしたベレッタを、ちょっと持ち上げた。
「なぜ俺が拳銃を持っていたのか。それもこれも3年前のこのクソゲームのおかげさ、別に桃色政府に感謝するつもりはないがな」
そう吐き捨てて、秋也はブランコから立ち上がった。
ギギィ、という軋み音がして、ブランコが横に揺れた。
それはしばらく振り子のようにゆるゆると往復していたが、やがて動かなくなった。
「じゃあ、ええっと――」
諒子が口を開いた。
声が少し震えていた、無理もないことなのだけれど。
「七原だ。それでいいよ、これからは」
秋也が言った。
「じゃあ、七原――さんは知っていたの? このクラスが“プログラム”に選ばれるってことを?」
「いや」
秋也は首を横に振った。
少し長めの(でもロッカーにしては短めだと思っている、秋也は)軽くウェーブがかかった髪が、ふわっと揺れた。
「さすがに俺もそんなことは知らなかった。この拳銃は、いつも持ってるのさ、念のために。体育のとき以外はな」
それで、全員、ちらっと笑みをこぼした。
ちょっとおにいちゃん、そんな冗談、言ってる時間あるんですか? ほら、あと5時間もありませんよ、タイムリミットまで?
秋也はちらっと空を見上げた。
月が地球の自転によって、さっきとは微かに位置を変えていた。
秋也は目検討で月の移動角度を読み取った。
約5度くらいだった。
地球の自転周期は24時間――つまり24時間で360度動くわけなので、1時間は約15度だ。
つまり20分ほど経っているということになる。
つい先日、理科で習ったばかりの項目だ(そう言えば3年前にも同じことを習った、どうでもいいことなのだけれど)。
急がなければならない。
目的地は、すぐそこだった。
秋也はディパックを担いで、ショットガンを手に持った。
言った。
「詳しいことは、あとで話す。今は一刻も早く病院に行かなきゃならない」
「もう一人の――3年前の“プログラム”で一緒に脱出できた人がいるのかしら、その病院に?」
由香里が訊いた。
秋也は頷いた。
「そう。中川典子っていうんだが――まあとにかく、早くここを離れよう。ちょっと騒ぎ過ぎたからな、誰が向かってきているとも限らない」
「とりあえずは従うが・・・・・・あとでしっかり納得のいく説明を聞かせてもらうぞ」
健司は言い、ディパックを二つ(貴志の分だ)肩に担いだ。
貴志は眼鏡の位置をちょっと直して、左手にスミス・アンド・ウェスンを握った(右腕はほとんどと言っていいほど動かなかった)。
由香里はウージーを、諒子はカースルをそれぞれ持ち、ディパックをきちんと背負った。
「おまえ、これ、持ってろよ、一応」
そう言って健司は、左手で持っていたニューナンブを浩太郎に放った。
浩太郎はそれを慌てて受け止めた。
驚いたように健司を見ていた浩太郎だったが、ちょっと顎をひくと、言った。
「いいの?」
健司はちらっと苦笑して、軽く頭を振った。
思った。
俺も随分と甘くなったもんだな。七原の性格が感染してきてやがる、まったく――。
しかしすぐに、秋也に目を戻した。
「行こうぜ。確かに時間がないようだ」
「よし。行くぞ、みんな」
秋也は頷いて歩き出した。
そのあとを、健司、貴志、由香里、諒子、そして浩太郎が続いた。
小高い丘の上に、5階建ての白い壁の建造物が建っているのが見えた。
てっぺんには大東亜赤十字病院のマークがしっかりと入っていた。
あそこに典子がいるはずだった。
あそこに行けばー―会えるのだ、典子に。
それも、もう少しの辛抱だった。
思った。
ちくしょう、典子、もうすぐ行くからな。
聳え立つ病院の壁が徐々に大きくなってくるにつれ、秋也の歩みが自然と速くなっていった。
もう少しで、総合病院だった。
【残り15人/モニター表示のみ復旧完了】