BATTLE
ROYALE
〜 荒波を越えて 〜
21
一面に生い茂った低木の間を、水窪恵梨(女子19番)はひたすら真っ直ぐに歩いていた。
早足ではあったが、むしろ足音を立てない事の方に気を使っていた。
突如、恵梨は足を止めた。
はるか前方の切り株に腰掛けている人影が見える。どうやら男子のようだ。
恵梨は気配を殺しながらゆっくりと接近した。
そして相手を確認できた時、恵梨の頬は自然と緩んだ。
男子は、正しく恵梨が追ってきた岸川信太郎(男子8番)であった。
小さくガッツポーズをした恵梨だったが、そこで途方に暮れた。
信太郎のいるところまでの距離は10メートル足らずだが、これ以上不用意に近づいたり、声をかけたりすれば、先刻と同じように逃げられてしまうかもしれない。
どうすれば、信太郎とゆっくり会話できるだろうか。
恵梨は一旦木の陰に身を隠しながら考え始めた。
恵梨は、父が小学校の校長で母が専業主婦という家庭の娘だった。
母は趣味の豊富な人で、恵梨が幼少の頃からパッチワークとか木目込み人形作りなどを習っていたが、どれも長続きはしなかった。
しかし、恵梨が小2の頃に始めた油絵が最も母には向いていたらしく、母の腕はみるみるうちに上達し、最近では毎年のように大東亜展に入選するほどになっていた。
そして、今年の春も母の手元には入選通知が届いていた。
満面の笑みを浮かべた母は、通知の葉書を恵梨に見せびらかそうとしたが、恵梨はあまり興味がなかった。
なぜなら、母はセミプロのように油絵に嵌っている影響で料理や掃除などの家事が手抜きになりがちだったため、恵梨は頻繁に家事を手伝わねばならなかったからだ。いや、最早恵梨が主婦になっているといっても過言ではなかった。
この状況が続けば、高校受験にも支障がありそうだった。
恵梨にとっては、母が入選できなくなって油絵を止めてくれる方が嬉しいぐらいだったのだ。
そんな恵梨の気持ちは母には伝わっていないようで、母は恵梨の目の前で、習っている先生に報告を兼ねたお礼の電話をした。
電話を終えた母は、恵梨の方を向いてにこやかな表情で言った。
「驚いたわよ。恵梨の学校の生徒さんが入選してるらしいわよ。先生も名前まではご存じないみたいだけど、学校で聞いてない?」
え? うちの学校で?
少し驚いたが、特に学校で噂になっているようなことはなかった。
尤も自分の学年とは限らないわけで、下級生のことならばよく分からない。
美術部に親しい人はいないし、全く思い当たらない。
結局、こう答えるしかなかった。
「そんなの全然聞いたことない」
「あら、知らないの。どんな子だろうね」
母は興味津々のようだったが、恵梨にとってそんなことはどうでもよかった。
展覧会が始まって、例年のごとく恵梨と父は強引に美術館に連れて行かれた。
毎年、母は自分の絵を家族に見せたがるのだが、母の絵は制作中に自宅で何度も見せられているのだから何も珍しくはない。
大東亜展に自分の絵が展示されていることを誇りたい気持ちは理解できなくもなかったけれど。
立派な額に入っているからかもしれないが、母の絵は自宅で見たときよりは素敵に見えた。
だが、恵梨は母に普通の主婦に戻って欲しい気持ちが強かったので、褒め言葉を発する気持ちにはなれず、思わず視線を隣の絵に向けた。
恵梨ははっと息を呑んだ。
その絵は大木に背を預けて立っているセーラー服姿の少女が読書している場面を描いたものだったが、そのセーラー服が自分たちのセーラー服と酷似しているように見えたからだ。
恵梨は、その絵の正面に立ち位置を変えてじっと見た。母の絵を見るよりもはるかに真剣な眼差しだった。
そして、確認した。
セーラー服は間違いなく豊原第二中学のものだったし、背景も見間違うはずもなく二中のグランドだった。
描かれている女生徒は、3年2組の美術部員の子によく似ているように思われた。
どうやらこれが、母が言っていた二中の生徒の作品のようだ。
恵梨の視線は、自然と額の下の作者名に注がれていた。
“読書をする少女”という題名の下に書かれていた名前は、“岸川信太郎”であった。
思わぬところで見つけたクラスメートの名前に、恵梨は目を丸くした。
信太郎というと、地味な美術部員というイメージしかなかった。
殆ど会話したこともなく、人物像が掴みきれていない。
だが、この絵のタッチに恵梨はとても共感した。何か引き込まれるような思いがした。
いつしか、自分は絵の中の女生徒と同化していた。
今まで母の絵を見ても感動したことなどなかったのだが、信太郎の絵を見て絵画の素晴らしさに目覚めたような気がした。
その気持ちで母の絵に視線を移すと、今までになく美しく見えた。
よく考えたら母の絵を真剣に見たことなど一度もない。いつも無理矢理見せられていたのだ。
初めて母の絵を素晴らしいと思った。その絵を描いた母も尊敬できた。今後は母の趣味を応援していこうと思った。
結局、恵梨は両親に声をかけられるまで、2枚の絵を一歩も動かずに見詰め続けたのだった。
その日から、恵梨は信太郎に対して強い憧れの気持ちを抱くようになった。
あのような素敵な絵を描く人物ならば、絶対的に信頼して付いていけると直感した。
間近に迫った修学旅行で、信太郎に話しかける機会を窺おうとしていたのだったが・・・
そんな状況だったので、先刻信太郎を見たときにはどうしても声をかけたかった。
だから信太郎が逃げ出したのはとても悲しかった。
それでも、我慢できなかった。もう二度と会えない可能性が十分にあるのだから。
引き止めようとした細久保理香(女子18番)と言いあっているうちに、信太郎の姿は見えなくなった。
古河千秋(女子17番)に襲われた時には理香に助けられているし、一緒にいるほうが無難なのは勿論解っていた。
そうだけれど、これだけは譲れなかった。
自分の説得に理香が応じるとは思えない。
腕力で理香をねじ伏せるのも不可能に近い。
一時的でもいいから、理香を足止めするには・・・
ほとんどヤケクソ気味に、理香の腹に拳を突き入れてみた。
不意打ちだったことと、上手く水月に命中したことで、どうにか理香の息を詰まらせて動けなくさせることが出来た。
理香に謝りながら、信太郎の逃げ去った方向へ走ってみたが、もはや影も形も見えなかった。
少し考えた。
信太郎は一目散に逃げ出した感じだったので、おそらく真っ直ぐに走り去っているだろう。
息切れしたところで休憩していると考えるのが自然だ。
自分が走って追いかければ、足音を聴きつけられて、またもや逃げられてしまうだろう。今度は別の方向に。
歩いて接近した方がチャンスはあるはずだ。
信太郎を発見できなければ理香のところへ帰るつもりだった。
理香の性格ならば、しばらくは待っていてくれるだろうし、丁寧に謝れば赦してくれると思われる。
そして、恵梨はまっすぐに歩き始めたのだった。
恵梨は、散々考えた挙句に決意した。
堂々と絵の話題で話しかけようと。それから告白に持ち込もうと。
それで逃げられたら、仕方が無いと。
体を木の陰から出して、信太郎に声をかけた。
「岸川君」
信太郎はビクッと体を震わせて立ち上がりながら振り向いた。
即座に言葉を重ねた。
「これ以上近寄らないって約束するから話を聞いて。今はあたし1人だし」
勿論、両手を広げて武器を持っていないことを示した。
信太郎は怪訝そうな表情で黙っている。
当然だろう。攻撃する意志がないのに、必死で追いかけてくる理由など思い当たらないだろうし。
「あたし、修学旅行中に岸川君に言いたいと思っていたことがあったの。どうしても言いたかったの。だから、邪魔した理香を殴ってまで追いかけてきちゃった」
信太郎は首をかしげている。ここは、一気にまくし立てるしかない。
「この間の大東亜展の絵、見てきたの。岸川君の絵に凄く感動したの、あたし」
信太郎が少し恥ずかしそうな表情になった。返事をしてくれた。
「え? 僕の絵を見てくれたの? 水窪さんが絵に興味があるなんて知らなかったよ」
会話が成立して上機嫌になった恵梨は話を続けた。
「母も大東亜展に入選してるから、強引に連れて行かれたの。で、岸川君の絵を見つけたの。本当に素敵だった。いっぺんに絵が好きになっちゃった。機会があったら、あたしをモデルにして描いて欲しいって言いたかったの」
プログラムに巻き込まれていることを忘れているような発言だが、とにかく自分の気持ちを伝えたかった。
ここまで来たら、最後まで言ってしまおう。
信太郎の返事を待たずに言った。
「できたら、専属モデルになりたいな」
信太郎は目をパチパチさせながら答えた。場違いな発言に困惑しているのは明らかだ。
「嬉しいけど、モデル料は払えないよ。それに、プログラムだし・・・」
駄目ね。ストレートに言わないと通じないみたい。
「モデル料なんかいらないの。貴方とお付き合いしたいの。プログラムだから生きては帰れないかもしれないけど、でも生きていられる間だけでも貴方と一緒にいたいの。お願い、あたしと一緒にいて。貴方の傍でなら、いつ死んでも悔いはないわ」
信太郎は本気で驚いた様子だった。
「驚いたな。そこまで想ってくれてたなんて。さっきの水窪さんの態度で何かあるとは思ってたけど。とても嬉しいよ。でもね、さっきも言ったけど僕はどうしても1人で行動しなきゃいけないんだ。万一、2人とも生きて帰れるようなことがあったら、その時にということで納得して欲しい」
恵梨は泣きそうだった。
「どうしてなの。嬉しいと言ってくれたなら、いいじゃないの。あたし、ここまでストレートに言う決意をするのに結構時間かかったのよ。さっきからそこの木の陰でじっと考えて、やっと勇気が出たのよ。お願い、解って・・・」
信太郎の顔色が変わった。
「ちょっと待って。さっきからずっとそこにいたのかい?」
恵梨は涙ぐみながら無言で頷いた。
信太郎が真剣な表情で言った。
「何分くらい前からいたの?」
恵梨は時計を見ながら答えた。
「えっと、丁度15分前からよ。でも、どうして?」
見ると、信太郎の体がガクガク震えている。一体どうしたというのだろう。
信太郎は、突然跪いて叫んだ。
「水窪さん、ゴメン。さっき教えればよかった」
え? 何なの一体?
訊こうと思った瞬間、恵梨は首の周囲が熱くなるのを感じた。それまでだった。
爆発音や血飛沫と共に、恵梨の頭部は胴体から離れて草の上に転がった。
それでも恵梨の見開かれた2つの目は、じっと信太郎の方を見すえていた。
女子19番 水窪恵梨 没
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