BATTLE ROYALE
〜 背徳の瞳 〜




 季節は初夏ながらその蒸し暑さは今年指折りのものに感じられる夜だった。しかしそれも冷や汗で相殺され、震えが一つ体を襲う。
 随分と疾走した後、村上陶子は井戸のある家の広い軒先で足を止めた。昔ながらの一戸建て家屋は山から見下ろした中でもとりわけ大きく、村長の家かもしれないと思った。
 追撃者の足跡は既に途絶えていた。途端にどっと疲労感が増し、脱力しながら膝を着く。内蔵が悲鳴を上げており、酸素の薄れた脳が圧迫される感触が不快だ。
 上杉龍二の強襲から逃れて三分、距離にすれば一キロ近く走った気がした。相手があの状態では話し合いの余地すらなかった。飢えた獣のように血走った双眸には、追い詰められた者の脅威がありありと窺えた。
 陶子も同様に窮鼠の状況なわけだが、紙一重の差で理性を留める事ができていた。心を支えてくれる人物の存在が大きかったわけだが、おそらく同様に誰かに支えられていたであろう龍二は己を崩壊させてしまっている。紙一重だ、と心の中で繰り返した。
 安堵の息を漏らすと共に、喉が渇きを訴えてきた。水は予備の銃弾などと共にディパックの中で、そのディパックは不幸な事に山頂へ置き去りにしてきてしまった。自然と目が古びた井戸へと向く。
 力を込めると鈍い痺れが足を襲ったが、眉間にシワを寄せつつ懸命に立ち上がる。今襲撃されたらと思うと不安でたまらないが、右手に握られた自動拳銃BERSA サンダー9の存在が頼もしく、それで一欠けらの勇気を維持する事ができていた。不本意かつ癪ではあるが。
 重い足取りで井戸へと歩を進めた。井戸の四隅には朽ちかけた四本の木の柱があり、滑車の付いた簡易屋根を支える形となっている。滑車には当然輪っか状にロープがかかっており、その片側は井戸の底に湛えられた水の中へと沈んでいた。
 目を細め、暗がりに揺れる水面を眺める。月が映り込んだそれは一見綺麗そうだが、井戸の内壁に見えるコケなどを見る限りとても飲料に適しているとは思えない。
 生唾を呑み込みながら、苦渋の思いで飲用を断念した。また一層疲労感が増し、井戸を背もたれにして崩れ込んだ。
 自分が貧乏くじの中でも大当たりを引いた気がしてたまらなかった。それは先ほど振り払った思いだったが、気を抜けばすぐに囁きとして陶子の脳裏を満たしてくる。
 恋人の中谷圭吾や親しい友人と一緒に旅立てたほうがどれだけ幸せだったろうか。当然帰りを待つ両親の事を思うと胸が締め付けられる思いだが、皆が死んだ以上そこは割り切ってもらえたのではないか。
 そんな弱音が心中に渦巻くが、深く吐息して雑念を振り払った。兵士の参加要請に毅然と応えてみせたのは自分であるし、既に自分は圭吾達のいない世界の大地を踏み締めている。皆が辿り着く事が叶わなかった未来に存在しているのだ。
 自分が皆の存在証明になるなどと殊勝な事は思わない。しかし皆と共に過ごした時間、その記憶を無駄にしたくはなかった。この運命の意味を見出したかった。そうでなければ死んでもしにきれない。そしてそこに皆が存在した意義も付帯してくる。
 だからこそ生き続けようと思った。勿論それで殺人を犯すとなると抵抗感は拭えないのだが。
 未来への構想は頓挫し、静寂の中で龍二への畏怖が残る。今にも背後から斧を構えて現れそうな、そんな危機感だけが胸の中に生じていた。
 どこを向いても常に背後に人の気配を感じる。逃走を試みるにはやや不利だが、やはり屋内のほうが安全と判断し、家の中に入る決断をした。
 龍二は今、どこにいるだろうか。まだ山にいるのか、それとも陶子を探してどこかを徘徊しているのか。背筋を悪寒が撫で上げる感覚を覚えながら、引き戸へと手を掛けた。
 引き戸はガラガラと音を立ててあっさりと開いたが、前方に出現した玄関先には気を留めず、陶子は物凄い速度で背後へと身を翻した。戸を開く瞬間、その磨りガラスに人の姿が映り込んでいたのだ。

 井戸の脇に、斧を構えた上杉龍二が立っていた。

 斧は強い光を放ち、龍二の殺気立った眼光もまた、ぎらぎらと鮮烈に輝いている。土で汚れた学生服が、先の戦いの激しさを象徴していた。
 左手には何か四角い箱が握られていたが、そんな事よりも真っ先に浮かんだ疑問は、何故こんなに早く自分が発見されたのかという事だった。その箱――彼の支給品である探知機こそが答えである事など知るはずもない。
 彼の体が前傾を始めるのに合わせ、陶子もまた腰を沈めながらサンダー9の銃口を持ち上げる。龍二の顔が驚きに歪むのが見えた。
「うばぁぁぁ!」
 回避困難と判断したのか、龍二が斧を手放して横へと飛び退いた。陶子は銃弾を発射できぬまま、体を捻って龍二を追う。龍二が井戸の裏へと身を潜めた事で、威嚇の意味で一撃発砲を試みた。
 空を突く破裂音が鼓膜を叩き、反動で腕の筋肉に圧力がかかる。跳ね上がった銃口の先から銃弾が飛び出して丁度井戸の上、滑車へと命中した。滑車は火花を発しながら揺れ、屋根が軋む音がフェードアウトする銃声の中で響いた。
「ひぇぇぇぇ!」
 急に情けない悲鳴が井戸の向こうで聞こえ、威嚇の効果が覿面だった事を理解する。
「な、何だよ! どうして殺そうとするんだよ!」
 正直、龍二のその発言には呆れるより他なかった。緊迫した空気が一気に覚めた感じだった。陶子はサンダー9の銃口はそのままで、嘆息混じりに口を開く。
「先に手を……」
 出したのは、と続けようとしたのだが、またも響いた龍二の声で再び口を噤む。今度の声は涙声に変わっていた。
「どうして……俺が、殺し合いなんてしなきゃ……いけないんだよぉ……!」
 懇願するような目が陶子を向いていたが、当然陶子がどうできるはずもない。今陶子にできる事は彼を見逃す事だが、到底この危険分子を放置できるわけがなかった。反応に困窮し、ただ龍二を見詰め続ける。
「こんなの名誉でも何でもないじゃないかよぉ……」
「そんな事、自分の頭で考えればすぐにわかる事でしょ」
 ゆっくりと井戸の裏から姿を現した龍二の呟きに、陶子は冷ややかに返す。ただ立っているだけの龍二の頼りない姿は、彼の抜け殻のようにも見えた。余程銃の威嚇が効いたのか、彼の戦意は根こそぎ削がれてしまったようだ。
 龍二とはクラスでも疎遠だったが、ここまで精神面が脆い人物とは想像していなかった。”成績が良く、自宅が政府系”程度の認識しかなかった彼の根っ子はこんなに容易く折れた。
 こんな部分でも住む世界の違いを感じた。龍二は信頼していた政府に裏切られ、陶子は信頼を寄せていた友人や恋人達の思いを胸に支えられている。龍二の事が不憫に感じられた。
 陶子はレールを選び道を進んできた。それゆえの障害だから割り切って立ち向かう意志を持てている部分もあるはずだ。龍二はきっと違ったのだろうと思った。親の敷いた一本道の先に崖が待ち受けており、しかもそれが回避できないならば。
 自らを重ね合わせ、龍二の不幸にぎゅっと唇を噛む。生まれた同情の余地は、死闘の決着を如実に表していた。
「死にたくない……」
 叫んで気が晴れたのか、抵抗を含めたあらゆる事柄に疲れ果てたようにも見える。呟きを地に落とし、龍二の膝が力を失い地面へと沈んだ。
 その姿を陶子はしばらく眺め続けていた。目標を失ったサンダー9の銃口もゆっくりと足元へ移り、再び待機状態へと戻った。
 戦いを終えたその場に勝者は存在しなかった。少なくとも陶子はそう感じている。
 そして絶望に打ちのめされた自分達を前に、ここからが真の戦いなのだと実感した。


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