BATTLE
ROYALE
〜 Body & Soul 〜
20
ぎっとりとした汗が絶えず全身を濡らしている。悲鳴を挙げる臓器に抗う事なく、橋本哲也(男子8番)は飛び込んだ建物の中で倒れ込んだ。
元々狭く思えた生還への門、その門戸が一層狭くなって想像のビジョンに映り込んでいた。宮本真理(女子9番)の妥協なき強さと容赦のない言動を目の当たりにして、絶望だけが先に立つ。
躊躇なく戦うつもりだった。それは自分が誰よりも優位な部分だと確信していた。一般的な長所に乏しい自分の、唯一のアドバンテージだと。
戸惑う者は負ける。早い段階で割り切った自分はそこだけ勝っている。その自信はたった一戦で跡形もなく崩壊した。
そして今。真理を越える凄絶な恐怖心が哲也を支配している。完全なる殺意、哲也の拙い脳味噌で、”彼”はそう表現されていた。
もう哲也は音一つ立てず潜伏するより他なかった。
ぬるい土で頬を汚し、支給品の菓子パンを千切って頬張る。唾液で湿ったパンはすぐに体積を減らし、物足りない塊となって喉に流れていく。
温かい絨毯に寝転がり、人気アニメを見ながらケーキを食す日々が懐かしかった。一昨日までは望まずとも毎日そこにあった時間。両親の有難味が身に染みたが、既に時は遅し。哲也の声は届かない。
足音が近付いてくる。哲也を追跡してきた”彼”のものだろう。願いも空しく、足音の主は哲也がいる衣装屋(D−3)へと入ってきた。
哲也は両の指を組み合わせ、懸命に”彼”が去る事を願った。
衣装屋は哲也が最初に潜伏していた川沿いの大食堂の裏手、赤い橋を渡った場所にある。大食堂は潜伏にはもってこいだったが、真理に発見された以上、長居は躊躇われた。
そして移動中に”彼”と出くわし、今に至る。
”彼”はやる気だった。炎を彷彿させる逆立てた茶髪の下、その顔は歓喜に歪んでいた。真理とは違う。”彼”は心底この戦いを楽しんでいる。そう断定させるに充分な表情だった。
軒先を踏み越えてすぐの場所には織物が重ねられて展示されており、奥には吊るされた色とりどりの着物が無数存在している。いずれも目を惹く模様ばかりだが、見入る余裕などない。
喉による笑い声が響き続けている。哲也は息を殺し、震える体を縮めて衣装棚の影で危機が去るのを祈った。
「あっれぇ? ……チッ、ここじゃねぇのかよ」
”彼の”独り言が部屋の中央付近で聞こえ、何かが勢い良く蹴り倒される音が響いた。続いて駆け足の音が建物の外へと遠ざかっていく。
どうやら”彼”をやり過ごせたようだ。
安堵感から大きく一息吐き、衣装棚の影から身を出し、残った菓子パンを口に放り込んだ。運は味方している。哲也の中で、再び生還への希望の糸が繋がった。
しかしそれは、ほんの一瞬の事だったけれど。
パンを胃に下した瞬間、その胃に鋭い痛みが走る。肉のたっぷりとついた脇腹を捻って崩れ落ちる刹那、軒先で薄笑いを浮かべる”彼”――杜綱祐樹(男子12番)の姿が見えた。
横向きに倒れ、汗を散らしながら悶絶する。見ると腹部には細身のナイフの柄と思わしき物が刺さっていた。
刺された。その衝撃と同時に、簡単にこういった所業をしてみせる祐樹に改めて人ならざる脅威を感じる。
「全力で走ったせいで、体から湯気出まくっちゃってたぜ? 上手に隠れても意味ねぇよなぁ。マジ傑作、ははは」
祐樹が声を上げて笑いながら近寄り、靴の底で哲也の腹に刺さったナイフを押し込む。筆舌に尽くし難い痛みと共に、狂わんばかりの絶叫を放つ。
「ぶぶぶわぁあぁ」
「何だよ豚ちゃん? デカイ声も出せるじゃねぇか。いつもぼそぼそ声のくせによ。いい悲鳴上げてくれるねぇ。それにしても……」
無駄とはわかっていたが、せずにはいられない。涙目で首を振り、必死に助命を懇願する。温かい家庭の映像が更に遠ざかっていくのを感じた。
まだやりたい事がある。具体的に口に出来る目標はないけれど、これから見つけて、自分に秘められた可能性の結果を見届けたい。そんな些細な願いすら、この国では叶わないというのか。
祐樹は意に介せず、懐から新たなるナイフを数本取り出してきた。哲也は腰を引き、土を擦りながら後退を試みる。
「やっぱ的がデカイと命中するな。ご機嫌だぜ」
祐樹は哲也の腹に生えたナイフと同じ物を、手品師宜しく両手でお手玉のように交互に舞わせている。陽気な表情の中に、猟奇的な眼光が見えた。哲也の閉じた口元から、赤子のような鳴き声が漏れる。
「ちゃっちゃっちゃちゃっ、ちゃらららっ」
陽気なリズムで何かのテーマ曲を口ずさみながら、祐樹が両手を振り上げる。時間差で腕は振り下ろされ、これまた時間差の痛みが走った。新たに二本のナイフが、哲也のふくよかな太股へと刺さっていた。
新たなる痛みに悶えながら、哲也は迫る死に震えていた。
――何でこんな事ができるんだ。中学生だろ、お前も!
心の叫びは、奇しくも真理への啖呵と同じ言葉となった。しかし、言葉の意図は微妙に異なる。何故、彼は殺人に禁忌を感じないのかという疑問が込められていた。
祐樹も桃園愛里(女子10番)や六波羅舞花(女子12番)同様に良家のお坊ちゃんで、子供がするには背伸びし過ぎた悪戯も多々行っていると聞いた事がある。しかし哲也達と机を並べている以上は人としての限度は弁えていると思っていた。所詮、彼も等身大の中学生だと。
今の祐樹はまるで殺人に慣れているかのようだ。その違和感が、哲也の恐怖を益々増大させ、迫る死の実感を増していた。
気付けば哲也の首には祐樹の手によってロープが巻かれていた。
首に巻きついたロープを解こうと必死に指を這わせるが、固結びをされた上に結び目が首の裏側ではどうにもならない。
背中を蹴り付けられ、うつ伏せに倒れる。刺さったナイフが一層肉へと食い込み、汗が止め処なく流れ出してきた。
腹を打ち付けた痛みどころではなく、息苦しさだけが哲也を支配していた。呼吸が叶わぬ事がこれほどまでに辛いとは思わなかった。死の足音、そしてクラスメイトに殺されるという衝撃。
下唇に冷たく鋭い感触があり、ナイフを当てられている事を察知する。――察知したが、それどころではない。目下、窒息死の危機に陥っているのだ。
様々な方向からの恐怖と焦りが更に哲也の混乱を招く。腹部から噴出する血は、力む度に服を赤く濡らしていた。
「く、狂ってる」
「それが人間の本質じゃねぇのか」
祐樹があっさりと言ってのける。続いて哲也の唇に激痛が走り、その唇が両の手で強引に裂き開かれた。
言語を絶するとはこの事か、哲也は火事場の馬鹿力で祐樹を跳ね除け、立ち上がると壁へと体をぶつけながら叫び狂う。祐樹の笑い声の中、もう何が何だか認識できない。
「豚、最期くらい意地みせてみろよ」
その声に応じ、哲也は怒りと苦悶に満ちた顔を祐樹へと向ける。腹からナイフを抜き、痛みも構わずに駆け出した。
――殺してやる、殺してやる、殺してやる!
自己満足に等しいけれど、やり場のない怒りの全てを祐樹へとぶつけにかかる。体温を奪われ始めた体が最後の発熱を生じ、哲也の無念を晴らすべく今燃え上がる。
血濡れのナイフを振り上げ、祐樹へあと数歩へと迫った。祐樹は余裕の表情で、懐から新たに何かを抜き出す。
最後に目にした映像は祐樹が手に握った黒い塊から迸る炎で、聴覚は単発の轟音を捉えた直後にその役目を終えた。
砕けた額から一筋の血を散らし、哲也は地面に転がった。その体からは脈動も呼吸も、生の光も失われていた。
どういう事か哲也の支給品であるポラロイドカメラが前触れなく起動し、衣装屋が映り込んだ写真を吐き出す。祐樹は不可解そうにそれを一瞥した後、赤黒くなった哲也の顔を踏んで嘲笑した。
「きははっ、前向きってのが一番強ぇーわな。パーティー感覚よ。パーティー、パーティー」
両手を左右に広げてにやける祐樹の足元で、水と肉と脂肪の塊となった哲也の亡骸が無念そうに、衣装屋の天井を見上げていた。
天窓からは暗く冷たい空が静かに哲也を眺めていた。
退場者 橋本哲也(男子8番)
残り16人