BATTLE ROYALE
〜 Body & Soul 〜


22

 どこをどう走ったのか、それすらも把握できない。
 混濁しつつある世界に一人。いつも平然と受け入れられていた孤独感が、今ばかりは胸を壊さんばかりに締め付ける。
 疲れ果てた体は、ある波動を感知すると無意識に足をそちらへと向けた。綾瀬澪奈(女子1番)は川沿いの大食堂(E−4)へと入り、細めた目で室内を見回す。
 そこには誰もいなかった。誰かが長く潜伏してはいたのだろうけれど、既に立ち去った後のようだ。一気に脱力感が遅い、頬を地面に擦りながら倒れ伏す。温かい陽気ながら、地面は比較的冷たく感じた。
 出血もそうだが、真っ赤に染まったブレザーの裾下からのぞく細い内臓が、幾ばくもない澪奈の命を如実に示していた。
 助かるはずがない。壊す者はいれど治す者はこの会場には存在しないのだ。何より皆と距離を置いていた澪奈を誰が救いたいと願うだろう。
 
 嘆息し、視界を閉ざす。瞑った瞼の裏にこれまでの記憶が次々と甦ってきた。
 母はいつ見ても苦労ばかりしていた。辛そうな顔ばかりが記憶に残っている。澪奈にたまに見せる笑顔にも無理が見え、それが返って痛々しく映ったものだ。
 父親は政府が定めた相手という事だが――カムロ計画の関係者らしい――澪奈は彼を見た事はない。小さな兎小屋のような家で、母子二人で生きてきた。
 母が他界したのは五年前、最期も家の中だった。白い顔を一層白くさせ、歯を震わせる姿を連日眺めながら看病をした。
「澪奈、強く生きるのよ……」
 例の無理な笑顔の裏には秘められた何かがあった。その時の母の波動は、見た事のないほど穏やかならぬ揺れを見せていた。
 何かを口にしたいけれど、必死に言い留めていた。そう感じた。
 母はあの時、どういった言葉を澪奈へと残したかったのか。
 自分ならどうだろうか。娘がいるとして、いまわの際、死への秒読みを刻みながら何を想い、言い残すか――。

 色んなものに触れて欲しい。カムロとしての生き方では生涯体験できえぬかもしれない、別の自分が見つけ出せる場所がある。
 最期にしろそれを体感できた自分は、それを子にも感じて欲しいと思う。用意された道から手で空想の土を掘り進み、新たな道を歩んで欲しい。
 ――母もまた、澪奈にそう言い残したかったのではないか。
 カムロとしての禁句。だから胸に封じた言葉。それは多分、澪奈が自らの道を選んで処刑される事を恐れたゆえに。
 これもまたカムロの禁句。澪奈は今、遂にその言葉を口にした。湧き上がる強い激情が、澪奈の心を裸にさせた。
「この国は、狂っているわ」
 全てはもう遅いけれど、口にせずにはいられなかった。

 どれだけの時間が経過しただろうか。澪奈は沈みかけた意識の中、接近する足音を聞き止めた。
 足音が止まり、二つの波動が大食堂へと入ってくる。すぐに澪奈の体が反転され、視界一杯に天井が映った。その隅に中原泰天(男子7番)の体を有する桃園愛里(女子10番)の顔があった。
「綾瀬さん、しっかりして」
「酷い……誰がこんな事」
 そばには肥満体の水戸泉美(女子8番)も座していた。山本彩葉(女子11番)達とは違う、安らぎを覚えるふんわりとした波動が見えた。
「桃園さん、水戸さん」
「え?」
 澪奈の呼び返しに、愛里が怪訝とした表情を見せる。彼氏よりも敏感な反応だ。全て説明している暇はなく、告げるべき言葉と順番を脳内で即座に整理した。
「山本さんと槇村君、それから――島谷さんと森綱君。気を付けて」
 遭遇こそしていないが森綱祐樹(男子12番)達の殺意に満ちた波動も出発前に確認済みだった。特に脅威な危険牌だけは全て教えておきたかった。後藤雅彦(男子3番)は出発時に澪奈自身が屠っており、告げる必要はないと思った。言えば余計ややこしくなる。
「梨絵?」
 泉美が不思議そうに聞き返してきた。彼女も彩葉同様普段は偽りの仮面を被っていただけに、その反応は無理もない。
 しかし理解を求めれば泥沼になるばかりだ。波動がどうこう説明しても納得を得られるわけがない。ここは警戒心を抱かせるだけで充分だ。
 何より、まだ愛里に告げるべき事があった。
「奉行所のほうに、中原君がいるわ。時間は――」
 ここで倒れていた時間が数分ならば、あれからそう時間は経過していない。外に浮かぶ月はさほど居場所を変えてはいないようだ。
「――そんなに経っていないわ」
 言い終えた拍子に一気に体の力が抜ける。土に伏した瞬間よりも、随分と体が軽く感じた。看取られての最期、人に囲まれての最期は一人で迎えるものよりも安らぎを感じた。
「綾瀬さん、綾瀬さん!」
「綾瀬、綾瀬……くそっ!」
 急に重みを増した澪奈の体に、二人が必死に声を投げかける。あの泰天の口から敬語が放たれる滑稽さと、再び込み上げる温かい感情に、澪奈の顔は微笑みを作っていた。
「綾瀬……さん?」
「悲しまないで。私は人形……」
 動かす唇に抵抗があった。しかし言葉を続ける。
「としての役目を終えて、また眠るだけだから。私は感情もない、夢もない。ただ政府の為にそれが正しいと思って生きてきたの」
 胸がまた痛くなった。自らの言葉に拒絶を示す心の事はもう気付いていたけれど。事実を伝えたかった。秘めた全てを誰かに知って欲しかった。
「何それ、違うよ、綾瀬さん、人形なんかじゃない」
 か細いけれど芯の強い声で愛里が言った。その顔は涙で濡れている。本物の泰天が見たら怒るだろうな、とまた可笑しくなった。  
「保健室、覚えてる?」
 愛里の瞳の向こうに、保健室の白プレートと鉄製のドアが見えた。澪奈と愛里、保健室。三つの言葉から引き起こされた記憶があった。

 バレーの試合中に捻挫した愛里を澪奈が保健室へと連れて行った事があった。球技大会中で中断もできず、参加していた泉美達は澪奈に彼女を任せた。
 その日はとても多忙そうな保険医は顔を顰め、それでも澪奈は愛里を押し付けて部屋を出ようとした。背中に愛里の声が届いたのを覚えている。
「綾瀬さん、ありがとう」
 生徒と”触れる”事自体稀有な澪奈は、覚えた妙な感覚に愛里を振り返ったはずだ。答えが彼女にある気がしたからだ。
 愛里は微笑んでいた。自分は――覚えていない。一つ、「ええ」とだけ素っ気無く返して踵を返したと思う。
 ――否、他にも何か呟いた気がした。これは思い出せない。

 いよいよ愛里の姿がぼやけてくる。自分の血の臭いと、背を支える愛里の体温だけが意識にあった。愛里が涙声で続けた。
「肩を貸してくれた綾瀬さん、温かかった。保健室の窓から校庭を見ていた時、楽しそうな顔してた。私に笑ってくれた。それで――」
 瞬間、澪奈はあの時の言葉を思い出した。さぞかし愛里は意味を解しかねただろう。自身でも意味がわからず、しかし訂正もせずにそそくさと保健室を退出したのだ。
『ええ――私こそ』
 それは”ありがとう”に対する返礼だった。礼を言うべきは愛里だけのはずだった状況で、無意識に澪奈が口にした言葉。
 自分は知らず、見つけた道に足を踏み出していたのかもしれない。
 澪奈よりも、他人である愛里が澪奈の本当を見付けてくれていた。思えば愛里から声を掛けてくる事が比較的多かった気がする。
 自分は適当な対応に終始し、作業と認識していたけれど、少し正面から向き合えばその時既にこの胸の温かみを覚えていたのだろう。
 澪奈は人として見られていた。いや、やはり人だった。普通は誰もが当然と思う、それらの事実が嬉しかった。こんなに幸せな気持ちに包まれての最期は、母に対して申し訳なくすら思える。
「私は、人形じゃない」
「当たり前だよ。綾瀬さん、死んじゃ嫌だよ」
 体を揺さぶられ、傷口から更に鮮血が漏れたけれど、気にはならなかった。次第に薄れていく、生きているゆえの痛み。名残惜しくすら思えた。
「桃園、さん、私……ね」
 息継ぎをした拍子に意識が途絶えた。唇から伝った糸状の血が白い肌を縦に細く濡らす。澪奈の意識が再び水面に顔を出す事はなかった。
 ただその顔に浮かんだ微笑は、愛里に遺そうとした言葉を現していた。

 ――私ね、人である事の素晴らしさを貴方に教えてもらった。
   だから言わせて欲しい。……ありがとう、桃園さん。

 
 退場者 綾瀬澪奈(女子1番)
 残り15人



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