BATTLE
ROYALE
〜 Body & Soul 〜
27
宿場町の一角にある長屋(C−2)にも、湿気を帯びた朝靄が広がっている。江戸村の中でも特に生活感が見られるこの場所だが、奇抜で派手な建物の多い会場全体と比較すれば、こじんまりとした部類に入る。
その中の一軒、桶と複数の障子が軒先に置かれた建物では、一時間前より何者かの存在があった。
かつては草であった名残りとして、青臭い香りが畳から仄かに漂っている。その上では少女が、正座を崩したいわゆる女の子座りで紙を広げていた。
少女は無言のまま、白魚のような指を震わせている。指が触れている生徒名簿が、振動を受けて紙特有の不快な音を立てていた。
彫りの深さを化粧でカバーし、垢抜けた感じに仕上げた顔。言葉はなく、しかしアーチ状に反った両眉が彼女――金子遠羽(女子3番)の歓喜の様子を如実に示していた。
プログラム開始から六時間。進行度合は思いの外、順調だった。これならば今夜中に愛しの我が家に帰れるかもしれない。大した事ないじゃん、と鼻歌混じりで名簿をディパックへと戻す。
――まっきー、死んじゃうし。反則的に早いっしょ。屋敷出たら空気に溶けちゃったの? くらいの素早さ。
出発地、友人の遠藤真紀(女子2番)が待っている可能性も考えたが、冷たい夜空の下、現実としてやはり遠羽は孤独な出発となった。互いに信用し合える間柄とは思っていなかったし、仮に待たれていても置いていくつもりだった。プライドは多少傷付いたが、それはそれだけの事だ。
彼女の退場を聞き、何の感傷も湧かなかった。むしろ爽快感すら覚えた。見捨てた罰。逆に彼女のほうが運に見捨てられた。
「興味、なっ」
首を上向け、首を往復させる。コキコキと骨の鳴る音がして、肩が軽くなった。最早遠羽の意識はクラスメイトには固執していなかった。
――最愛の継父が遠羽を迎え、愛情たっぷりの抱擁を交わすその瞬間に、飛んでいた。
遠羽の周囲には常に流行の先端を司る服達が存在していた。
才に恵まれた母親の考えた婦人服は決まってターゲットの年齢層を鷲掴みにし、町では自宅で見慣れた服がいつも歩いている。金子家は流行発信基地と言えるかもしれない。
遠羽はその恩恵を受け、クラスでも裕福な暮らしができていた。とは言え母親に感謝するでもなく、生まれる際に自分がいい家を選べた、という感覚であり、特に尊敬の念は抱いていないけれど。
彼女が母親をそう見るにはもう一つ、男癖の悪さに対する嫌悪感があったからだ。血の繋がった父親など、物心付いた時には家から消えていた。以後はずっと母方の金子姓。
時折見知らぬ男を家で見かけても、耐性が付いた今では初対面でも気軽に挨拶を交わせている。どうせすぐに干され、未来の父親などにはならない。ゆえの粗雑な挨拶。その通り、男達は五度見かければ上々といったところだった。
最新モデルを生む際に生じるストレスを、真新しい使い捨ての愛で癒す母。これもまた特に憤慨するでもなく割り切っていた。
それは何にせよ、女手一つで遠羽を育てている母親への無意識下での配慮だったのかもしれない。しかしそれは、遠羽から恋愛感情を麻痺させる一因となっていた事も確かだった。
――好きって、互いの利を貪る仮定に生じる合言葉でしかない。
色の白さと適度な小柄さ、顔立ちも決して悪くはない遠羽だが、これまで異性をそういう意味で跳ね除けてきた理由がそこにあった。
どんな甘い言葉にも、どんな情熱的な告白にも、客観的で無機質な目を送った。それしかできなかったというのが適切な表現だろう。
既に闇の支配から解放され、その姿を灯りなしにくっきりと映し出している手榴弾を、緩く両手でお手玉しながら物思いに耽る。大人びた輪郭と、少し厚めの唇。今は母親と共に遠羽の帰りを待っているだろうか。
会いたい。胸が締め付けられる。欲求と言う名の衝動だが、物を求めるそれとは少し感じが異なる。これが恋愛感情なのだろうか。
封じられていた深層の扉が開かれたのは、数ヶ月前の事だった。
自宅で遭遇した彼は、最早何代目か数える気のしない母親の男で。けれど彼は何かが違った。心の広さ、包容力と言えばいいだろうか。
彼は母親の仕事と絡むCG関連の仕事で、忙しい毎日を送ってはいた。そんな中で母親との愛が芽生えたのは、一人で上京した事による孤独感の穴埋めでもあったかもしれない。
母親も何かこれまでとは違う意識を抱いたらしく、二人は籍を入れ、遠羽に十数年ぶりの父親ができた。自分と十も違わぬ、若い父親だった。
ともかく、彼にとって初めてとなる”父としての家庭”を、彼は大切にした。空いた時間は極力遠羽達と共に過ごす事に努めた。
最初は嘲笑混じりに見ていたのだが、他の男達とは違う彼の”色”に、次第に心揺り動かされていった。若さゆえのひたむきさある一面が、遠羽の心を何らかの形で掴んだのかもしれない。
手榴弾を畳に置き、代わりに水入りのペットボトルを手に取った。白い蓋を回し、開いた口から流れ出る水を喉で受け止める。喉は潤せても心は潤せない。
「愛してる、愛してる、愛してるよぉ……」
そんな言葉を吐息混じりに連呼する。それだけで心の隙間が多少満たされる気がした。――言葉は頼りないものだと思っているけれど、それでも。
遠羽が向ける情愛の念に、彼は気付いていただろうか。冗談めかして言う「愛してる」に、彼の心は何らかの反応を及ぼしただろうか。
結局、心も体も彼とは通じてはいない。それでも、恋愛経験値の低い遠羽にはこの感情だけで充分な刺激だった。
恋するって悪くない。それも相手は母親の男、つまり義理の父だ。
禁断の園は予想外に居心地が良かった。遠羽は継父と交わす愛の言葉一つ一つに興奮を覚え、その背徳感に身を焦がした。
「会ーいーたーいー、会ーいーたーいー……」
彼との再会にはしばしの我慢が必要だ。最悪、誰かしらをこの手榴弾で粉微塵にしなければならない。リスクは少なからず、ある。
次第に鬱積してきた感情は、やはりあの長身女性教官へと向いた。
『貴方……死相が見えているわよ。この一時間は特に気を付けてね』
定時放送での占いコーナーとやらで、不幸度一位などとのたまわれた日には、それこそ怒り心頭するというものだ。一体、何の恨みがあって。
――あんのゴリラ婆ちゃん、アタッマ来る!
早くも空になったペットボトルを力一杯壁に投げ付け、深呼吸する。水飛沫が飛散し、壁に透明の筋を描いて垂れていく。その様を眺め終わった後、脳裏に浮かぶのはもう教官ではなく愛しい継父の顔だった。
帰ったら彼に抱擁してもらおう。告白だってするんだ。父親だって何だっていい。そのくらいのご褒美、バチ当たらないよね。
そこで遠羽は突然生じた軒先からの物音を聞き取り、視線を動かす。右手は早速手榴弾の一つへと伸びた。集中させた聴覚に再び物音が届いた刹那、遠羽はピンを抜いた手榴弾を軒先へと投じていた。
足の痺れに舌打ちしつつ、ディパックを掴んで奥の部屋へと駆け込む。遅れて背後の空間が破裂音と共に白く白く染まった。強烈な光の破片を捻じ込まれた角膜が痛み、思わず両目を瞑る。
ギャッ、という声。続いて何かが走り去る足音が遅れて届いた。あの軽さは人ではない。野良猫という推察に間違いはなさそうだ。
拍子抜けはしたが、人ではなくて助かったという思いは大きい。肉片と死臭の中でエリア滞在リミットまで過ごすのは正直たまらないからだ。
「ふぅ……驚かせるなぉ猫タン」
ピンチを脱した事で、微笑すら浮かんでいた。
少しして視力が回復したので、奥の部屋から軒先を窺う。特に変化のないその場所を眺めて生じる違和感。その正体に辿り着く前に、再度聴覚に物音が届いた。間違いない、今度は人の足音だ。第二の手榴弾を携え、壁を背に身構える。
足音は軒先で止まり、次の瞬間轟音と共に部屋の奥の壁の一部が砕け散った。軒先直通、銃弾エキスプレス。相手は銃を持っている! そして挨拶一つなしの一撃。敵は”やる気”だ。
「誰かいるんでしょ? ねえ、そこの光の人?」
声で杜綱祐樹(男子12番)だと理解した。タチの悪い生徒だが女子には気さくで、遠羽も上っ面ながら多少の付き合いはある。説得する気もされる気もないが、とりあえず彼が銃を所持している点に関心は向かった。
――手榴弾、あと6つしかないし、早いうちに銃をキープできればベリーベストなんだよねー。手榴弾で壊れないかな?
とは言えそれしか武器がない以上、その時は仕方ないと考えた。裏口から逃げる手もあるが、やはり銃の為には彼を吹き飛ばすしかない。
「やっほー、ツナ」
「ああ、トワかよ!」
返った声の調子から察するに、自分は期待に副える相手だったようだ。一方でこの緊張感のなさが、彼に対する警戒心を増幅させていた。
何か、やばい。もしかすると。
「ね、ね、まっきー殺したの、もしかしてツナ?」
「ん? 遠藤は違ぇよ。俺は橋本だけ」
平静を努めて放った質問に、こちらは素で平静なのだろう、祐樹が答える。言葉の節々に余裕とやる気感が十二分に伝わってきた。空いている左手を手榴弾のピンに掛ける。
「……金子は踊ってくれそうだよな」
どこか高揚感のある言葉が見えない軒先から届いた。
その言葉を聞くまでもなく彼の殺意は理解していたが、改めて口にされるとぞくりと背中を撫でられる感覚があった。遠羽に勝る”経験”がそうさせるのか。否、彼の底に生来宿る闇が花開いただけなのかもしれない。
それでも、動揺すれば死と自らを諭す。
――帰るんだ。だから邪魔する人はコレで消えてもらうよッ!
「えへへ、ダンスは上手いよ、確かにー。でもね、知らないうちに赤い靴履いてるのって……」
手榴弾のピンを抜き、ディパックを肩に掛ける。爆発までのタイムラグに関しては説明書にもあったが、先の一撃から概ね秒数は確認した。一、二、三。
「ツナじゃね?」
多少早いがそれを放り、裏口へと駆ける。先程とは比較にならない爆音が木霊し、音の衝撃で思わずつんのめった。さすがにこれはほぼ全ての生徒が聞きつけたはずだ。即刻、離脱しなければならない。
扉を開け、薄い青色の空が広がる外へと飛び出した。周囲の並びに人の姿は見えない。避けるべき目立つルートを目で迅速に選び、歩を進めだしたその時――聞き覚えのある轟音と共に、遠羽の爪先が中空へと浮いた。
「ん?」
間抜けた声だ、と自分でも思った。そのまま地面へと体を擦り付ける。脇腹に痛みがあった。押さえた手の隙間から、沸々と流れ出る鮮血。
「ウッソ、マジ、何で……?」
拡大した鈍痛が蒼白の顔を歪める。回復を始めた聴覚が、背後からの誰かの接近を捉えた。正体を確認すべく振り返る。――祐樹だった。
「ウッソ、マジ、何……」
言葉を終えるより早く、彼の手にした拳銃から炎が迸った。鋭い圧力と共に肉が弾ける絶望的な感触。新たに被弾した右太股を眺め、遠羽は嘆きの吐息を漏らす。
「オッメェよ、鼓膜馬鹿になっただろ」
耳を摩る祐樹の体には傷一つない。回避できるタイミングではなかったはずだ。しかし、無傷。そう言えば最初の手榴弾を使用した際も軒先は傷一つなかった事を思い出す。そして二度目の爆発では、あの目の眩む光はなかった。
「――あ」
まさか。致命的な失態に、歯噛みする歯すら合わない。七色手榴弾と銘打たれた遠羽の支給品は、七色の冠が示すとおり、単純に殺傷性のある物だけとは限らなかったのではないか。
さしずめ猫に放ったのは閃光弾、祐樹には多分、音だけのもの。単純に七つだから七色なのだと解釈した自分のこの浅はかさ。そしてどうやら名誉回復の機会は永遠に訪れなさそうである。
懇願するような表情で祐樹を見上げる。その背後には継父の幻影。きっと帰りを待っている。会いたい、会いたい、けれどもう、その声は届かない。
掴みかけた何かが、胸元から離れていく虚無感があった。入れ違いに収まったのは、深い絶望と、眼前の祐樹に対する未曾有の恐怖。
「い……いやだぁ……」
「踊る為の靴、自分で履いちまったな。じゃあお姫さん、会場にご案内しますよぉ? きははっ」
端整な顔を厭らしく歪め、祐樹が喉を鳴らした。拳銃を背中へと仕舞い、周囲を確認した後に遠羽へと距離を詰めてくる。さながらじらすかのように。
遂に継父の幻影が砕け散る。誰に助けを求める事もできない。救いのない孤独な死を眼前に控えて、声のない嗚咽が漏れる。
「パーティよ、パーティ」
懐からロープを取り出して祐樹が嘲笑する。心底楽しそうな彼を前に、遠羽は傷付いた体を震わせる事しかできない。白いブレザーを濡らす血は地面を汚し始め、意識が段々と朦朧としてくる。
見上げる空が、どこまでも冷たく無力に感じた。
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