BATTLE
ROYALE
〜 Body & Soul 〜
28
自然に恵まれた栃木の山奥、その早朝。九月と言えど朝日はまだ早く、既に輪郭を山の向こうから現しつつある。それはまるで神聖なる山に後光が差しているかの如く。
しかしそこに清々しさは何一つない。血生臭く、そして無情なる現実が、少女にとって今そこにある全てと言えた。
引き上げた水死体を見下ろし、不動麻美(女子7番)は唇を噛み締める。悲哀よりも、激情のほうが先に立っていた。怒りという名の、真紅の激情だった。
血の通わぬ死体の首筋に手を這わせる。濡れた肌からは血の気が失せ、鼓動は指に返らない。饒舌だった彼女のなれの果て。衝撃ではあったが、出発地点でも死体を拝んでいたからか、予想外の動揺はなかった。
身近で生じた爆音を辿って川沿いを駆けていた麻美の前に、彼女は現れた。抵抗一つなく流れに身を任せ、木の葉の浮いた水面に顔を埋めて。既に魂が体を離れている事は、痙攣一つない様子からも明白だった。
川岸に下りる石階段を駆け下り、桃を回収するお婆さんさながら彼女を引き上げた。――そこに何一つ期待感はない。目立つ場所だけに危険性はあるが、支給品の自動拳銃S&W M39の存在が心強く、麻美をしばしこの場に留まらせる余裕を与えた。
水死体の濡れて張り付いた髪をかき上げると、悪霊に憑依されたかのように鬼気迫る表情がそこにあった。やはり――金子遠羽(女子3番)だった。
陽気な日々の表情など、初対面の人間ならば想像だにできないだろう。それほど、負の感情が凝縮された末期の顔だった。死の間際、遠羽は何を想ったのか。
「酷い」
そして――麻美は遠羽に同情を禁じえなかった。無抵抗で無残なその姿が、かつて目にした最愛の人物の惨状と被ったからだ。
両手首と両足首をそれぞれロープで結合された、見るも無残な亡骸。その口からは、たっぷりと飲み込んだ川の水が温泉にある獅子の彫り物よろしく垂れ流されている。腹部と太股に着弾跡らしきものはあるが、致命傷には見えない。
――この状態のまま、川に投げ込まれたのだ。
躊躇いなくそう考えた。犯人の目星も早々に付いた。各々に介在する理由から殺し合いに乗る生徒の存在はわかる。しかし、あえてここまでする人物は一人しか思い浮かばない。麻美が所持していた記憶のピースががっちりと、遠羽殺害者という灰色の空洞にピッタリと合致した。
「森綱祐樹……あたしが、絶対に殺す」
語尾を一際強調する。決心が鈍らないように。今は極めて邪魔な、潜在的な”優しさ”を封じるべく。艶やかな桜色の唇は、驚くほどに冷酷な言葉をいとも容易く紡ぎ出した。
声なき悲鳴が鼓膜の裏に伝わってくる。
聞き慣れた妹の、魂の嘆きが。
麻美の妹の夏美は、よくできた妹だった。
持ち前の積極性からか、垢抜けた性格に似合わず――という表現は失礼か――成績は麻美より優秀だった。だからと言って麻美が卑屈になる事はなかった。夏美は姉の長所をしっかりと見ており、及ばない場所をよく頼ってくれた。それで麻美も、姉としての尊厳を持ち続ける事ができた。
麻美と観に行く趣味の映画を日々楽しみにしており、麻美が食後の風呂タイムを終えてリビングに足を運ぶと、夏美は決まってソファに腰掛けながら映画情報誌に食い入っていた。右手にはお決まりのアイスチョコバー。大好物のそれを季節お構いなしに夏美は頬張っている。そんな食生活で一切太らない事が麻美は少し羨ましくも
あった。
『何か面白そうなんあった?』
『うーんとね、こっちの恋愛系もええし、こっちは主演が銀城君やからこれはこれでチェックやね。麻美おねーちゃんどっちがいい?』
『私は別にどっちでもええよ。週末までまだあるんやし、急がんでもね。風呂入りながら決めればええやん。お湯冷めるで?』
『そーやね。りょーかいっ』
姉に懐き、己の才に驕らず、まっすぐな瞳が誰もを魅了する。夏美は麻美にとって自慢の妹だった。
その妹の笑顔を奪い、未来へのビジョンを濁らせた奴がいる。
引越しの下見として栃木に訪れた不動姉妹は、住み慣れた土地を離れる寂しさと共に、新たなる場所への期待感も心に同居させていた。
あの日、アイスバーを買いにコンビニに向かった夏美に付き添っていれば。露店の装飾品に気を取られていなければ。
戻るのが遅い事を気にはしなかった。ついでに立ち読みをしている事など夏美の日常茶飯事だったからだ。麻美は大阪ではその姿を見ない銀細工の露店に、ただ魅入っていた。
『これもええなあ。これは夏美に似合うやろな』
全ては遅い。帰りの遅い妹はコンビニにはおらず、すぐ脇の路地で変わり果てた姿で転がされていた。命があっただけ幸いか。いや、命があった事が幸せだったのか、麻美にはわからない。
半裸の無防備な体をさらし、姉の登場にも呆然と空を仰いでいる夏美。周囲は不自然なぬるい空気が流れており、悪意に満ちた異様な臭気が鼻を突く。
妹が壊された――。脳裏に送られた残酷な情報。否定しようにも残酷な現実は今度は五感全てを経由して麻美に伝わってくる。
吐き気を覚え、手を口へと当てる。喉に戻した嘔吐物の酸っぱさがえらく胃に染みた。浮かぶ涙は酸味が突いたせいだけでは、ない。
夏美の手袋は放り捨てられ、無残にも引き裂かれていた。脱がすだけならまだしも、あえて裂いた理由。おそらくは反応によってその手袋が夏美にとって大切な、思い入れのある物だと知った上でそうしたのだろう。
それは夏美の誕生日に麻美がプレゼントしたものだった。冬生まれの夏美には冬物のプレゼントをする事が多く、雪の降る季節には見覚えのある服が夏美の体を飾る。
麻美の家は団地住まいで猫が飼えなかった。猫好きの夏美は度々捨て猫を拾ってきては、親に怒られ泣く泣く返しにいっていた。
夏美は猫のワンポイントが付いたその黒い手袋を嬉しそうに抱き抱え、大切にすると何度も言っていた。引越し先の栃木の家は一戸建てで、猫が飼えると喜んでいた。
そんな些細な喜びや期待も、もう夏美は忘れてしまったのだろう。
麻美が手袋を購入してから、僅か十日後。夏美が十四歳になってから、僅か十日後の出来事だった。
事件を境に夏美は自宅に引きこもるようになった。そして転校直前、夏美は自殺未遂をした。麻美の部屋の前で昏睡状態で倒れ込む夏美を発見したのは、他でもない麻美だった。転がっている薬瓶と、非常識に大きな夏美のいびきが、直ちに夏美の危機を感知させた。
夏美は一命は取り留めたが、その心は深い闇の奥へと閉ざされた。――麻美を含む唯一つの家族にすらも。
悔しくてたまらない。こうしたのは誰だ。自分の事も責めた。しかしそれだけではどうにも収まらない腹の内があった。
その日、麻美は無機質な夏美の瞳を一晩中眺めた。夏美は反応こそしないものの、眠る事なくずっと麻美と視線を合わせ続けていた。
悲しき姉妹が交わした、無言の時間。互いに去来した想いは共通していただろうか。
結局、栃木へは麻美だけがやってきた。もうこの栃木という土地に安心感も期待もなかった。あるのは夏美を汚した者への復讐心のみ。
人の所業とは思えない。あの時の夏美の気持ちを思うと、心が潰されそうになる。幼い夏美を意図的にくまなく壊し、それを楽しめる神経。窺おうにも拒絶感で嘔吐しそうになる。
手掛かりはあった。地域で知れた悪童、森綱祐樹。この名に辿り着きその顔を拝んだ時、胸の底の黒い炎が一際激しく渦巻いた。確かに彼は、麻美がコンビニへと向かった際に擦れ違った、柄の悪い集団の中央にいた少年だった。彼のにやついた笑顔を、脳は鮮明に記憶していた。
神の悪戯により、麻美は祐樹と机を並べる事になった。
機会を待った。いっそ”罪は上等”と祐樹と刺し違える事も考えた。けれど残された妹や両親が、それで森綱の家にどのような仕打ちを受けるかと考えると、躊躇ってしまった。祐樹は結構な”お坊ちゃん”なのだ。
だが、今。合法的に祐樹を殺せる舞台が用意された。気紛れな神は今度は麻美に究極の選択肢を与えたのだ。
――しかし、迷わなかった。
一切合財の記憶を胸に、麻美はこのプログラムでの行動を決めた。そして決意した。力及ばなかった姉として、親愛なる妹へ、明日なき贖罪を。
握った指が固まりかけていた。今、心を”置く”のはいけない。自らを嗜め、ぼやけた視界を回復させるべく遠くの山へと顔を上げかけた矢先。
「不動」
背後の声に振り返る。茶髪の中のメッシュが存在を強く主張しているロン毛の男子生徒が、いつの間にかそこに居た。冷や汗と共に失態を後悔したが、不幸中の幸いか、彼――井口政志(男子1番)はその両手に何も所持してはいない。更に言えば、あえて麻美に声を掛けたという事で、”やる気”ではない可能性は高そうだ。
ここは適当に話を交わし、逸早くさよならしたいところだ。
「何をしてるんだ」
「……別に。あたし、井口と話す事何もないで。誰とも会っとらんし、教えられる情報何一つないんや」
「不動は愛想悪いなあ、相変わらず」
政志がはにかんでみせた。この命を懸けた戦場でも彼はこういったいい加減な表情を見せる。その事が不快でたまらず、つい語気が荒くなる。
「井口に愛想良くせなあかん理由がないんや! どっか行ってくれん?」
困窮の表情を向けている政志に、容赦なく言い放つ。
政志に関して深く詮索するつもりは毛頭ない。夏美の件もあり、異性嫌悪著しい麻美としては男子と言葉を交わすだけで胃を磨耗させるのだ。ましてや相手は性格の軽い政志ときている。
互いに数秒の沈黙を保ち、業を煮やした麻美は背を向けて歩き始める。その背中に再び政志が尋ねかけてきた。
「どこ行くんだよ、不動」
彼の物分りの悪さに辟易した。いい加減、銃を突きつけたくなる。襲うでもなく、政志は一体何がしたいのか。とは言え実際に銃を向けてはいらない争いの種だ。渋々、低いトーンの声で返答する。
「当てはないけど、終点はわかっとる」
そう言って一歩進む。背後で砂利の擦れる音がして、政志が歩いたのがわかった。続いて彼が息を呑んだ気配に振り返る。彼にとって死角となっていた遠羽の遺体が、ご対面を果たしていた。
「金子か」
政志が訊いてくる。見ればわかるだろう事を、とまた憤慨したが、彼の予想外の落ち着きようが不思議だ。
「あまり驚かんのやね」
「まあな」
多くは語らない政志だったが、既にどこかで死体を見ているのだろう。彼が誰かを殺したようには見えない。――殺せる勇気があるようにも思えなかったが。
「……ほな。もう会わん事願うわ、本気で。あたしと井口、合わんし」
「好きな奴探してる感じじゃねーな。止めとけよ、後味悪いだけだって」
半ば強引に去ろうとしたが、なおも政志は食いついてくる。さすがに堪忍袋の緒が切れ、激情に任せて振り返った。
「何も知らんで言わんといて!」
山の奥の陽光が麻美の足元に影を生み、伸びたそれが政志の足元からすうっと彼の体へとかかっていく。珍しく重い表情を見せていた政志だが、やがて口を開いた。
「……あー、まあ、確かにな。けど割と俺、お前を見てたつもりだぜ?」
「え」
少しだけいつもの軽さを潜めた物言いだった。脳より一瞬早く、締め付けられた胸が体での理解を証明した。軽く顎を引き、少し溜めを作った上で彼の視線が麻美を捉える。
「俺さ、不動の事好きだぜ。今もずっと、お前探してたんだし。あ、好きってのはアイラブユーな。ライクじゃねえから、って、わかってるか」
言い終えてから政志が苦笑いを浮かべる。告白に偽りはなさそうだ。
どうして自分を。好きになるのに理由は要らないというが、それにしても、そう思わずにはいられなかった。
とはいえ、今それを言われてどうしろというのか。残り三日もないリミットの中、誰とも相容れない世界で恋人ごっこをしろと? 麻美の心の暗雲は、それで晴れはしなかった。
眼前の政志が続ける。
「お前、何か抱えてるよな。深くて暗い何か。お前、それで変わったかもしれない。けど、俺はわかるぜ。お前、本当は明るくて優しい奴だって」
――何で、何でそんな事言えるのよ。これ、戦闘実験でしょ?
「俺、そういう奴よく知ってんだ。……不動、俺じゃ駄目か? 辛いのとか、抱えてる事とか、分け合えないか? 俺、受け入れる覚悟はあるぜ。こんな場所で、嘘言っても仕方ねえだろ」
政志には不似合いな告白が終わった。麻美の指は脱力し、引き金から離れる。嘆息するも息が途切れ、中途半端になった。
再び沈黙が訪れる。喉の奥から逆流する感情。息苦しそうな表情で反応を待つ政志を見詰めながら、募った想いは――怒りだった。
政志としては神妙に告げたつもりでも、言葉尻に垣間見える軽いアクセントが麻美の神経を逆撫でした。やっぱり彼は、自分を小馬鹿にし、騙し、あわよくば――ふざけてる。仮に告白が本音だとしても、到底許容できる心境ではなかった。
――あたしは辛い過去を抱えて、自分の事など投げ打って妹の為にただ森綱を裁くべく在り続けた。その間、井口は呑気に色恋なんかに!
理解されないのはわかっている。理不尽な怒りなのも重々承知だ。けれど割り切れない。彼を衝動の赴くままに罵倒する自分の姿しか浮かばない。
「来んといて。あたし、井口とは合わんわ。これで二度目や。三度目は言わせんといて。次は……これが火い噴くで」
陳腐な脅し文句だった。彼の反応など待てない。堪えきれずに、無言で走り出した。放置される遠羽が気の毒だったが、それを気にする精神的余裕はない。
「不動!」
鼓膜に届いたのは声だけで、足音はない。それに胸を撫で下ろしつつ、可愛くないな、と場違いに思った。それから内心冷笑する。可愛さなどとっくの昔に捨ててるし、自分にそれは必要ない。熱い吐息に特別な意味などない、はずだ。
――これから自分は、殺人者になるんやし。
――あとどれだけ、あたしは人としていられるんやろう。
――……もう、終わっているかもしれへんけど。
麻美は石階段を駆け上がり、家屋が密集する地域へとその姿を消していく。川沿いには政志と、遠羽の遺体だけが残された。
太陽が新たな朝を荘厳な光で演出する。その光を浴びながら、しかし心はその場にはなく。麻美は未だ闇の中に己を留めていた。
決して遠くはない、憎き妹の仇を討つその時まで。
退場者 金子遠羽(女子3番) 残り13人