BATTLE
ROYALE
〜 Body & Soul 〜
44
その声で、中村エリカ(女子6番)は携帯から指を離して振り返った。声は深海卓巳(男子5番)が脱出作戦の為に向かった方向からだった。『中村さん、逃げて!』聞き間違いのはずがない。静かな会場で叫び声は非常に通りが良い。エリカは背筋に冷たいものを覚えながら立ち上がり、スカートに差した自動拳銃グリフォン ゴールドを抜き出す。何が起きたのか、そして彼は無事なのだろうか。
慎重に周囲を窺いながら再び、木の密集する丘の斜面へと駆け出した。逃げろと言われて逃げるつもりもない。今やエリカと卓巳は運営共同体なのだから。
悪い予感がした。あの時は、兄が壊された時は希望の裏の絶望も知らず、能天気に構えていた。結果、家族の幸せや言葉、更に希望に満ちた未来を失った。しかし、あの時とは違う。リングの下で無力に家庭の崩壊を傍観するしかなかった少女ではない。
モデルとしての未来を失い、家族を失ってなおも逃げ続けた。それが、運命の帰結を先延ばしにする拙い抵抗で、唯一の手段だと思っていた。けれど、戦闘実験が命の瀬戸際を招き、追い詰められたエリカは反撃に転じるべく運命へと牙を剥いた。命を懸けて、未来を勝ち取る戦いに挑んでいるのだ。
その為には、卓巳を見捨てる事などできるはずがなかった。離れ際の彼の忠告に応じてすんなりと思考を切り替えて、優勝を目指せるほど賢くはなかった。それをするくらいなら馬鹿で結構だった。
もう、何者にも振り回されたくなかった。
卓巳が来ているはずの丘の斜面へとやってくると、彼が置いた携帯だけが残されていた。もう片方の携帯を置きに行っているのだろうか。そちらの方角へと目を投じたエリカは、大柄な人影を確認すると表情を険しくしてグリフォンを持ち上げた。
銀色のハンマーを肩に担いで斜面から下りてくる槇村彰(男子10番)と目が合う。彼はエリカの存在を確認すると、距離を置いて足を止めた。それから重そうにハンマーの先端を地面に落とす。感情を殺した表情に友好的な光は微塵も窺えない。
エリカは両膝を軽く曲げ、溜めを作った。非情な現実が次第に意識へと浸透してくる。彰のポケットから先端をはみ出させた発炎筒が全てを物語っていた。彼は敵だ。しかも仇敵だ。勿論、卓巳やエリカのような実験に反抗する生徒だけではないであろう事は理解していたけれど、よりによって、こんな――。
卓巳が殺されたという、最早確信に近い可能性は許容したくはない。けれど彰の背後の道を進んだ先には、きっと目を覆わんばかりの絶望が転がっているに違いなかった。
『この国の大人を、この奇跡で見返してやろう』
つい数分前、その言葉とともに誓い合った。一緒に実験を破壊し、政府の目をひん剥かせ、脱出して未来を紡いでみせると。数時間をかけて築いた絆、練り上げた作戦。それがものの数分で跡形もなくなった現実が、かつての中村家の崩壊とだぶった。
それで精神が崩壊しそうになった。なったけれど、寸前で踏み止まった。腰を深く落として彰へとグリフォンの狙いを定めた。言葉が出せない事もあったけれど、ともかく。話し合う必要すら感じなかった。
彰が左手から発炎筒を抜き出し、丁度栄養剤のCMのように親指の力だけで蓋を回すのが見えた。途端、凄まじい勢いで噴出する霧がエリカと彼の間に乳白色のカーテンを広げ、エリカは反射的にグリフォンの引き金を二度引いた。黄金色の薬莢が煙をバックに舞い、炎に弾かれた銃弾はその煙を貫いて視界から消えた。
刹那、その煙が大きく歪んだと思うや否や、中から彰が飛び出してきて驚愕する。彼はハンマーに拘泥せず、徒手でエリカへと突撃をしかけてきたのだ。回避は間に合いそうにない。
砲弾のような勢いの体当りを直撃したエリカは、軽く宙から浮いて吹っ飛ばされる。一方の彰も斜面を全力疾走した事で不恰好な前転をしながら斜面を転がった。
再び二人の間に距離が生まれる。位置的にはエリカが上、彰が下と先程とは真逆だ。手離したグリフォンは――二人の中間付近に転がっていた。神の悪戯が生んだような、実に微妙な戦況だ。
何故、彰はこんな凶行に走ったのか、わからない。ただ、強烈な生還への執着が感じ取れた。彼にも理由がある。そしてエリカにも。この状況で貫くは、想い一つ。わかっている事は、エリカ達と彰がこの戦場に於いて相容れない存在であるという事。それで充分だった。
言葉は要らない。
坂を下るというポジション上、先にグリフォンを掴んだのはエリカだった。しかしその銃口を突きつける前に、彰の渾身のタックルが再びエリカを捉えた。内臓の悲鳴と全身の骨が軋む音を聴きながらも、エリカは全力で指先に意識を留めた。結果、転倒してなおもエリカの手にグリフォンは残された。
――チェックメイト!
エリカは寝転んだままで、土壌に肘を固定した。焦燥した様子の彰が再び腰を持ち上げたが、その時にはグリフォンが咆哮を上げており、彼のブレザーの左胸を撃ち抜いていた。衝撃で身を傾けた彰は仰向いて斜面に倒れ、少し滑り落ちた後に動きを止めた。
勝負あり。けれど、虚しい勝利だった。硝煙の昇るグリフォンを下ろして、斜面の上を振り返る。この喧騒の中で彼が現れない事自体が最悪の結末を浮き彫りにしていた。もう、深海卓巳はこの世にいない。知的さと優しさを兼ね備えたスマートな笑顔を拝む事はもう、ないのだ。
少し考えてから、脱力で萎えた足を斜面の上へと運び始める。卓巳の死を確認するのは辛いけれど、それでも彼の顛末をしっかりと見届ける必要があると思った。エリカがもしも生き残る事ができて、混沌の連鎖を抜けた未来を掴めたならば、その過程でエリカに希望を与えてくれた彼をしっかりと記憶に残す必要があると思った。この戦いは最早、エリカ一人の戦いではないのだから。そこには少なからず尊い犠牲があったのだから。
踏み出す一歩が重い。卓巳を失い、エリカができる事は新たな仲間を見つけてこの作戦を再び実行に移す事だろう。それが彼の意思を無駄にしないという事だ。すっかり会場の残った生徒の数は減ってしまったけれど、それでも探すのだ。それが深海卓巳に捧げる、未来を紡いだ彼への返礼であり、希望という名の花束だと思った。彼は満足してくれるだろうか。
――そんな想いに耽った事がエリカの反応を遅れさせた。
気配に振り返った時には、身を捻りながら力任せに押し倒されていた。細い首に強い圧迫感、グリフォンを握る右手首にも同じ感覚があった。
見上げた先に、両手でエリカを封じる彰の必死な形相が眼前にあった。彰が体躯に恵まれた男子である事を差し引いても物凄い力だった。確かに左胸に銃創を刻み付けながら、この余力は一体何なのか。
声も出せず――元々出せないけれど――、身を捩じらせるがこの拘束は解けない。窒息する前に首の骨を折られそうだ。蹴り上げようとする膝も彰の太股が圧し掛かり一切の抵抗を許さない。
こんなところで、こんな事で、政府に、運命に一太刀も浴びせないまま死ぬなんて。悔し涙が目尻から亜麻色の髪へと伝い、その先へと流れた雫は土壌にささやかに染み渡った。
正しくはどこから運命は歯車を狂わせ始めたのだろうか。父親が自殺した時か、兄の敗北を告げるゴングが鳴り響いた時か、それともやはり、自身の不用意な声援からか、あるいは試合を受けた時か、それとも兄がボクシングを、いや、エリカがモデルとしてデビューした事から全ては始まったのか。だとしたら運命は無慈悲過ぎる。そんな運命に何の意味があるのだろう。そして自分は、中村エリカはこの大東亜に何かを刻めたのだろうか。寂しくこの丘で殺される結末に、何か意味を残す事ができたのだろうか。
最期に漏らした掠れた息の中に、懐かしい自分の声を聞いた気がした。
エリカが一切の抵抗を止め、鼓動を失ったのは三分後の事だった。色白の体は一部を顕著に紅潮させ、その分、残った部分をより蒼白にしたまま土壌に投げ出されている。長い髪は激しく乱れ、土に汚れてその潤いをくすませていた。また一つ、希望の残骸が新たに会場の中で転がる事となった。
彰は荒くなった呼吸を抑えながら立ち上がったが、眩暈と激痛を覚えて再び地面に膝を着いた。銃創のあるポケットを探り、真っ二つに破壊された携帯と、断面に埋まった銃弾を取り出す。もう役に立たなくなったそれを後ろ手に放ると、折れたらしい胸骨の付近を擦りながら小さく呻いた。
それからエリカのグリフォンを拾い上げ、転がったハンマーを回収すべく斜面の上へと歩いていった。葉を水滴が叩く音で一度空を見上げ、澱んだ色の雲を確認すると嘆息する。森に響く雨音は次第とその音量を増していった。それはまるで、運命に翻弄されたエリカと卓巳の涙雨のようでもあった。
こうして未曾有の脱出作戦”ショックウェーブ・パルサー”は二人の死を以ってその幕を下ろした。
退場者 中村エリカ(女子6番)
残り7人