BATTLE
ROYALE
〜 黒衣の太陽・外伝2 〜
02
2001年3月22日(木)午後17時27分
笹本香織(1年1組 女子10番)は、自分の失敗を悔やんだ。
今日は配達が多いことを忘れていたのだ。
「腐る物じゃないんだから、夜でもいいじゃない・・・」
思わず、そんな言葉が口を突く。
確かに香織の言うことは間違っていない。
彼女の家はクリーニング屋だったからだ。
娘が働かなくてはならない位、流行っていないという事ではない。
むしろ、近隣のクリーニング屋の中では繁盛をしている方であろう。
しかし、それはクリーニング技術だけではなく、他の雑多な事も含めたものだった。
写真のDPE、宅配便の受付、簡単な裾直しやかけつぎ等々・・・。
汚れ物を引き取りにいく事と配達をする事も、サービスのうちの一つであった。
一年前までは香織の兄が手伝っていたのだが、高校で野球部に入ったため家の手伝いなどしている暇などなくなり、かくして現在は香織がその役目を継ぐことに相成ったわけである。
当初は成り行きだと思って機械的にやっていたのだが、夏休みの強烈な暑さの中での配達は香織のヤル気を急速に奪って行った。
運動部でもない香織が、日焼けで真っ黒になり
「毎日、練習あったの・・・?」
と、同じクラスの迫水良子(1年1組 女子9番)に言われた時には泣きそうになった。
それでも香織は配達を辞めなかった。
密かな楽しみがあったからだ。
いつも配達を依頼してくるお得意様の中に、あの国立帝塚山歌劇団のトップスター 春風碧(はるかぜ みどり)がいるのだ。
香織は、碧の顔を(無料で)見れるだけで配達の苦労を忘れられるのだった。
「華組の公演は来週だから、碧さんの邪魔にならないようにしないとね」
マンションの前で自分自身に言い聞かせるようにつぶやくと、自転車の後部に取り付けてあるボックスを外し、エレベーターホールへと向かった。
オートロックを解除してもらう為に碧の部屋番号を押そうとしたところ、エレベーターホールへ続く自動ドアが開いた。
「あっ、こんにちは!」
ドアをくぐった人物を見た香織が元気よく挨拶をして頭を下げると
「びっくりした・・・クリーニング屋の香織ちゃんか。こんにちは、今日は配達?」
と、朝比奈 桃音(あさひな もね)が目を丸くしながら答えた。
蝶組娘役トップの桃音もこのマンションの住人で、笹本クリーニング店のお得意様なのだ。
香織は営業用でなく、ナチュラルな笑顔で
「はいっ! あっ、今月の東京公演お疲れ様でした」
と言ってお辞儀をした。
どの組が公演中で、どの組がオフになるのか、頭に入っているのだ。
桃音も舞台用とは違う笑顔を香織に返し「ありがとう」と、言ってくれた。続けて
「華組のお姉さま方は昨日遅かったみたいだから、用が済んだら早目に帰ったほうがいいよ。特に絵美さんは煮詰まっていたみたいだから・・・」
と、凛とした口調で教えてくれた。
『絵美』と桃音が呼んだのは、華組ナンバー2の飛鳥 橙羽(あすか とわ)の事だ。
碧とは違ったタイプの美人だが、言いたい事をズバズバ言うタイプなので、香織は苦手だった。
彼女は碧の隣室に居を構え、同じように笹本クリーニング店を利用してくれていた。
「あまりしつこくインターホンを鳴らさないようにします」
顔を引きつらせながら言う香織に
「それがいい。後でウチにも寄ってもらえるかな? タップリと洗濯物あるんだ。もちろん、お土産もね・・・」
と、桃音は軽くあごを上げながら言った。
舞台では娘役なのだが、本当は男役になりたかったらしく、普段は非常に男っぽい。
どちらかと言えばコケティッシュな顔立ちに薄化粧を施した桃音は、思わず抱きしめたくなるような魅力に溢れていた。
香織は頬を若干紅く染めながら
「はいっ。喜んでお伺いします」
と、どこかの居酒屋のようなフレーズで答えた。
桃音は、フッと笑いながら
「ちょっとコンビニまで行ってくるから・・・」と言って手を振ると、ホールを出て行った。
香織は、桃音の事も嫌いではなかった。
碧が手の届かない存在であるのに対し、桃音は「近所に住むキレイなお姉さん」の様な感じなのだ。
「嬉しいな。お土産まで買ってくれているなんて・・・」
エレベーターに乗りながら香織はつぶやいた。
配達先へのボタンを押すとドアが閉まり、香織だけの個室となったそれは静かに上昇を始めた。
「でも、綾さん・・・あんなに家事が苦手で、この先大丈夫かな?」
香織は少し心配になった。
男っぽいから…という訳ではあるまいが、桃音は結構大雑把だった。
たまたま彼女の夕飯時に配達をした時に招き入れられた香織は、桃音の作った料理を食べたのだが、かなりダイナミックだったのだ。
それは味付けのみならず、料理の色や形にも及んだ。
器の中には、どす黒い野菜がほぼ原型を留めたまま こんもりと盛り付けてあった。
においから、かろうじて肉じゃがだと判明したが、お世辞にもおいしいとは言えなかった。
洗濯も得意ではないらしく、ほとんど香織の店に依頼しているようだ。
以前、下着を出してきたこともあったらしいので、相当なものだ。
同じ組の男役トップ、諏訪 紫苑(すわ しおん)が何かと世話をしていたようだが、紫苑に彼氏が出来てからは香織の店に依頼してくる衣類も増えていった。
「ずっと、ウチに洗濯物を出してくれたら嬉しいな・・・」
他の配達をしながら、香織はつぶやいていた。
そして香織は12階へのボタンを押した。
おごそかに上がっていくエレベーターがもどかしかった。
帝劇では、公演が始まるとジェンヌは、ほぼカンヅメ状態となる。
明確な規則がある訳ではないが、伝統的かつ自主的にそうするのだ。
帝塚山劇場での公演が50日。
東京の国立劇場での公演が40日。
リハーサルの期間を入れると、およそ半年の間、碧と会えない事になる。
香織は一刻も早く、そして一瞬でも長く碧と居たかった。
はやる香織に意地悪をするように、エレベーターのドアはゆっくりと開いた。
自然と早くなる胸の鼓動と足の運びを抑えながら、香織は廊下を曲がった。
『SEIKO AOTA』
無機質なゴシック体で書かれた表札は、きらびやかな帝塚山ジェンヌの存在を隠すためだろうか。
それとも、ここを境に春風碧から蒼田聖子へ、或いは逆の存在へと戻る為の呪文なのだろうか。
この表札を見上げる度に、後者の方を想像してしまうのだった。
香織はいつもそうするように、腕時計を見た。
17:45
この時間を選ぶようにしているのだ。
統計上、碧がくつろいでいるか、特に何もしていない時間である可能性が一番高いためであった。
深呼吸を二度すると、軽く気合を入れてからインターホンを押した。
なかなか碧は姿を現さなかった。
数秒待って、もう一度押してみた。
しかし、沈黙という応えが返ってくるだけだった。
「どうしたんだろう? いつもの時間なんだけどな・・・」
三度目にボタンを押した時、妙な不安感が香織の胸を包んだ。
ためらいながらドアノブに手を掛けると、ほとんど抵抗無く動いた。
「開いて・・・あっ、チェーンロックは掛けてあるんだ・・・」
申し訳なさそうにドアを閉めようとしたその視界に、あるものが飛び込んできた。
───えっ、なに?
香織は一瞬、ソーイング用のマネキンが倒れているのかと思った。
当然そんな訳は無い。
そこに倒れているのは、帝劇トップスター春風碧であった。