BATTLE
ROYALE
〜 The Gatekeeper 〜
第32話〜瞬間の章・3『眼前』
「嫌、嫌……嫌……」
同じ単語ばかりを繰り返し呟きながら、町田江里佳(女子15番)は歩いていた。その足取りはおぼつかず、右手に握られたピストレット・マカロフもその手の中で踊っている。
今江里佳が歩いているのは、会場の東の端――B−10エリア。
会場の北西部ほどではないが、ここもまた、周囲に民家が密集していて、一つの住宅街となっている。その中の道路を、彼女は歩いているのだ。
――記憶が消えない。消えないよ……。どうしたら良いの――?
夜明け前に見た、あの光景。男子生徒が、女子生徒を刃物で殺し……血に塗れたその武器を手にしている、その光景。それが脳裏に焼き付いて離れなくなってしまった。
そしてそれと同時に記憶の底から呼び起こされた、忌まわしい光景。
廃墟に転がる男たちの骸。そして、辺り一面に広がるクリムゾン・レッド。ほのかに憧れていた少年が入っていった、あの廃墟で見たもの。
江里佳の脳はその全てを記憶の底に無意識のうちに封じ込めていた。しかし、その忌まわしい記憶も完全にその封印から解き放たれてしまった。そして今、その記憶が江里佳の脳を、精神を蝕んでいる。
過去の記憶に呑み込まれ始めた江里佳は、確実に壊れ始めていたのだ。
――あの子、あんなに血まみれになって……血、血――あの時見た、血。怖い怖い、血。おぞましい、血。
そんな思考ばかりが、彼女の脳内を延々と回り続ける。
江里佳はあの後、結局荷物を抱えて逃げるように隠れていた店から出ていった。そのため、血に塗れて死んだ女子生徒が自分の友人である鞘原澄香(女子6番)であったことにも、彼女を殺した男子生徒が蜷川悠斗(男子13番)であることにも、そしてそのすぐ傍に光海冬子(女子16番)がいたことにも気づくことはなかった。
だがしかし、それを知ったところで彼女の心の崩壊を食い止める力とはなりもしなかったはずだ。そもそも御手洗均(男子16番)の死を見たその時点で、江里佳の心の崩壊は始まっていたのだから。
「血、血……血まみれに――嫌だ、嫌だ、嫌だ……」
江里佳はなおも、おぼつかない足取りで道路を歩く。彼女の脳内は、血に対する恐怖、そして自分がそうなることへの恐怖が渦巻いていた。
――これはプログラム。ということは、自分もあのおぞましい液体に塗れて死ぬのかもしれない。
御手洗均のように? それとも、あの時の女子生徒のように? 分からない。だが、このままだと確実にそうなる。誰かに撃たれるなり刺されるなりして死ぬのだ。それだけは、絶対に嫌だった。
「やられる前に、やらなくちゃ……やられる、前に――」
徐々に江里佳の心の中が、大きな殺意を生み出していく。その時だった。
道路の先、交差点の左の民家の陰で人影が見えた。その人影は、こちらに気づいて隠れるように角の奥へと消えた。
「……逃げちゃ、駄目だよ。あなた、私を殺す気でしょ? だから、やられる前にやらなきゃいけないの。血まみれにされる前に、血まみれにしなきゃいけないの」
江里佳は、その人影に話しかけるように独り言を呟く。その人影に対する、静かで、そして狂った殺意が確実に湧いてくる。同時に、江里佳は人影が隠れた左の角へ向かって駆け出した。
けっして運動は得意ではなかったが、その時の江里佳のスピードは彼女のものとは思えないほどに俊敏なものだった。狂気と本能に支配された者の成せる業だったのかもしれない。
素早く角を曲がり、視界に人影を捉えた。
その人影は、何故か月港中の制服であるセーラー服ではなく、黒い半袖シャツにジーンズ姿をした女子生徒だった。そしてその女子生徒に、江里佳は見覚えがなかった。
――誰? まあ、いいか。この子を殺さなきゃ、私が殺されるんだから。
少しずつ、自分が冷静になっていくように感じた。もちろん、それは彼女が完全に狂気にとらわれたことを意味していたのだが、彼女にはそのことは分かりはしない。そして右手に握られたマカロフの銃口を、女子生徒に向けた。同時に握りを両手に変える。銃を構えるのは初めてのことだったが、あまりにもスムーズに構えることができた。これも、妙に冷静になっていたからかもしれない。
目の前の女子生徒は、江里佳の尋常ではない雰囲気を察したのか、徐々に後ずさりし、やがて踵を返して江里佳とは反対方向へと走り出した。
――逃がさない。やらなきゃ、私が血まみれになるんだ。あんなものにまみれる前に、他の皆をやってやるんだ。
逃げていく女子生徒の背中に向かって、江里佳はマカロフの銃口を向け、そして引き金を引いた。一発、二発、三発。初めて引いたはずの引き金は、妙に軽く感じた。これなら、やられる前にやるのも簡単だ。江里佳は、そう思った。
放たれた銃弾は、三発とも女子生徒の背中に着弾した。弾は彼女の着ていた黒い半袖シャツに三つの穴を穿ち、彼女はうつ伏せに地面へと倒れ伏す。
そしてそれっきり、動かなかった。
「やった――やられる前に、やってやったんだ!」
その場で飛び上がりそうになるほどに、江里佳は狂喜した。そこに、もはや以前の彼女の姿は残っていない。
――私はやれる。やられる前にやれるんだ。これなら、私は血にまみれずに済むんだ。
心の中でそう叫びながら、江里佳は地に伏した女子生徒の持ち物などを確認することもなく、来た道を引き返していく。
彼女は気づいていない。先程の銃撃が全て当たったのは、偶然に過ぎないことに。初めて撃った銃の弾が、全て標的の胴体に当たるなどということはまずないと、彼女の壊れた心は考えることができなかった。
そしてもし彼女が正常な精神状態にあったなら、きっと気づけたことだろう。
目の前で倒れた女子生徒の身体からは、彼女が忌み嫌う緋色の液体は流れ出ていなかった、ということに。
当然、自分が立ち去った後でゆっくりとその身を起こす女子生徒の姿になど、気付けるはずがなかった。
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