BATTLE ROYALE
The Gatekeeper


第85話〜瞬間の章・6『解放』

 町田江里佳(女子15番)は、右手に握ったピストレット・マカロフの引き金を引く。放たれた鉛弾が、その場を離れようとしていた北岡弓(女子4番)目掛けて飛んでいく。
 しかし、その銃弾は弓を捉えることはなかった。江里佳が引き金を引く直前に、弓はその身体を横に飛び退かせていたのだから。普段ならばとてもできそうにはない芸当だが、この極限状況での本能的な動きだったのかもしれない。
 それでも、江里佳と弓の間にははっきりとした差がある。
 江里佳の方はマカロフと、
戸叶光(女子10番)から手に入れたS&WM686がある。そして弓に対して、すぐに攻撃を仕掛けられるだけの準備はできている。一方の弓は、確かに手には拳銃が握られているが、未だ攻撃できる態勢に入れていない。そして最初の銃撃から逃れた際に、体勢を崩している。

――何も問題はない。ただ狩れば良い。全て真っ赤に染め上げてしまえば良い。
――そう、何もかも……。

 江里佳は、自分でも驚くほどに冷静だった。
 難しいことなど考えなくて良い。それが江里佳の感覚を研ぎ澄ましているのだろうか。はっきりとしたことは分からない。
 ただ、今のこの気持ち……無性にこの世界を真っ赤に染め上げたい、というこの感情に従えば良い。それが何よりも楽だし、そして心地良い。江里佳はただ、目の前の弓を狩ることのみ考えれば良いのだ。そうすれば、甘美な心地に浸ることができて、狂おしいほどの歓喜が全身に満たされていくのだから。
 もう一度、江里佳は弓に向かってマカロフの銃口を向ける。
 最初は江里佳から離れようとしていたらしい弓も、この状況では逃れるのは困難と判断したのだろうか? 手に持っていた拳銃を握りしめてこちらを見据えてくる。

「……私は、死にたくない。やらなきゃ、こっちがやられるんだ。だからあんたも……殺される前に、殺してやる」
 そんな弓の呟きが、江里佳の耳に届く。弓の声は、まるで己を鼓舞するかのように、もう一度響いた。
「そう……あんたをぶっ殺してやる! そうしなきゃ、私が死ぬんだ。今ここで、あんたを私がぶっ殺してやるわよっ!」
 腹の底からの絶叫。しかし、それは弓自身の鼓舞以外の効果はない。目の前の存在を狩ることに徹している今の江里佳の精神は、その一声では揺さぶられることもない。
 弓の言葉が終わった直後、江里佳は弓に向けてもう一度マカロフの引き金を引く。
 一発の銃声。だが、弓はまたしてもその直前に身を翻した。彼女はもう一度、近くの木陰に身を隠して反撃に転じようとしているようだ。

――その前に、赤く染まってしまえ。

 江里佳がもう一度、マカロフを撃つ。木陰に身を隠そうとする弓の左脇腹辺りを、その弾丸は貫いた。穿たれた銃創から、微かに鮮血が花を咲かせる。
「ぐう……っ」
 弓の呻き声。しかし、彼女は怯まなかった。一瞬振り返り、こちらに向けて拳銃を一発、二発と撃った。弾丸は明後日の方向に飛んでいったが、江里佳はそこで僅かに動く。
 彼女の戦意は強固だ。
度会奈保(女子18番)のように、銃声だけで恐怖に震えて逃げ惑うようなことはない。おそらくは彼女も、多くのクラスメイトを狩ってきたのだろう。その経験を感じさせる動きだった。
 しかし、それ以上に優先すべきことが江里佳にはある。今一瞬だけ咲いた、血の花だ。世界を真っ赤に染め上げるのも良いが、あんなに綺麗な花が咲くことには今気が付いた。
――何て勿体ないことをしていたんだろう。
 江里佳は素直にそう思った。
 もっと狩れば、もっとあの花が見られる。もう一つ、狩りの楽しみが増えた。だから、早く弓を狩ってあの花をもっと綺麗に咲かせなくてはならない。

――早く、早くあの花を咲かせたい。

 江里佳の心が歓喜に震える。思わず口元が緩む。しかしその間に、弓は木の陰に隠れてしまったらしく、姿が見えなくなっていた。
――気を抜いちゃいけない。確実に狩らなければ。
 改めて気を引き締め直し、江里佳は周囲を気にしながら弓の姿を探す。戦力ではこちらが有利。おまけに弓は傷を負っている。ならば、こちらから身を隠しつつ、奇襲を仕掛けてくるつもりかもしれない。
 だったら、決して油断せずに周囲を警戒し、先制攻撃するしかない。
 慎重に、江里佳は周囲を伺って弓の姿を捉えようとする。だが、その眼に弓の影は捉えられない。
――一体どこに……。
 その時、江里佳の耳に微かな物音が聞こえた。雨でぬかるんだ土を踏んだような、濡れた音。それに、江里佳は素早く反応した。これまでで一番早いといえる、そんなスピードで。
 音が聞こえた方角へ、マカロフの銃口を向ける。そこには怪我で動きの鈍った弓の姿が――なかった。
「違う……」
 そこにあったのは、江里佳が今まで見たことのない物。いわゆる、クロスボウというものだ。それが、ぬかるんだ地面に落ちている。先程の濡れた音は、これが地面に落ちた時の音だったらしい。
 そのことに気づいた瞬間、江里佳の左腕に強烈な痛みが走った。痛みに耐えかねて左手の力が抜け、M686を取り落とす。見ると、江里佳の左腕――上腕二頭筋に一つの穴ができていた。そしてその穴から――暗い赤に染まった液体……血が一本の筋となって流れ出始めていた。
「あ……あああ……」
 江里佳は、一瞬にして全てを理解した。自分が、弓に撃たれたということに。そして、高ぶっていた感情が全て等身大へと還っていくのを感じた。
 地面に落ちたクロスボウ。それは弓が一か八かで仕掛けた作戦の一つだった。これを敢えて投げ捨て、弓の足音と誤認させようとしたもので、その作戦は上手くはまったのだが……もはや江里佳に、それを理解することはできていなかった。
「血……血……血まみれになる? 嫌、嫌だ……嫌だぁぁァぁ亜ぁァ!」
 江里佳は絶叫した。喉が涸れそうになるほどの絶叫。それは、狩りに徹することで狂気をコントロールしていた彼女の精神が、痛みを知ることによって狂気との戦いに負けた瞬間だった。
 もはや、戦えなかった。狂気と恐怖が全てに勝ってしまった江里佳には、もう怯える以外の選択肢はなかった。

 江里佳の脳裏に、あの日見た光景がフラッシュバックする。
 廃墟の一部屋で見た、男たちの無残な死体の山。血にまみれたガラス片と、鉄パイプ。
 男たちの頭蓋骨は砕け、骨は折れ、首はぱっくりと裂けて傷口からとめどなく鉄臭い液体が溢れだしている。呆然とする江里佳の足元に、その液体が流れてきて……彼女の靴を赤く染め上げた。
――どうしてこんなものを見ているのか。
 それは、あの子がいたからだ。
 小学校で同じクラスの、ちょっと良いなと思っていた少年。多分、江里佳の初恋の相手だった少年。彼がこの廃墟に入っていくのを見たからで――。
――彼の名前は、何と言ったのだろう。
 あの日の記憶から抜け落ちていた、その少年の名前。それを今になって、江里佳は思い出す。彼の名は――そう、岡元哲弥……。

「ははっ。あははっ。あひゃははっ」
 思わず笑い声が漏れた。どうしようもなく、笑えた。
 何のことはなかった。自分を狂わせたもの、そのきっかけは己の初恋にあった。そして知らず知らずのうちに、自分はその彼――
岡元哲弥(男子3番)と同じクラスになっていた。
 今の今まで、何故彼のことだけ抜け落ちていたのか。それは分からない。でも全ての原因はそこにあって――。
「はははははははははははははははははははは――」
 もう、まともな思考はそれ以上できなかった。いや、既に江里佳の思考は遠くの彼方へあったのかもしれない。全て整理することなどもはやできない。ましてや、すぐ傍には自分を現実へ引き戻した張本人である弓がいることも、もう理解していなかった。

 その弓は、狂った笑い声を上げ続ける江里佳を不気味そうに見つめていた。
 江里佳は確かにまともではなかったが、一発撃たれただけでここまでおかしくなるとは、弓自身思っていなかったに違いない。
「……とにかく、私の勝ちだね。やらなきゃやられるんだ。恨まないでよね」
 そう呟いて、弓はその手に握られたコルト・ガバメントを江里佳の後頭部にポイントする。そして、一発の銃声。
 放たれた弾丸が、江里佳の後頭部を撃ち抜いて眉間から貫通する。彼女の頭部は爆ぜ、その狂った思考を完全に停止させた。やがてその笑い声も止み、その場に静寂が残る。そしてゆっくりと、力を失った江里佳の身体が地面に仰向けに叩き付けられる。
 一度だけ、水っぽい音が倒れる時に響いて、それきりだった。
 完全に江里佳の生命活動が停止していることを確認した弓は、彼女が取り落としたM686と右手に持ったままのマカロフを拾い上げると、江里佳のデイパックを手に取ってその場を去った。
 後に残ったのは、全てから解き放たれた骸のみだった。

 <PM20:59> 女子15番 町田江里佳 ゲーム退場――(瞬間の章・完)

<残り13人>


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