BATTLE
ROYALE
〜 The Gatekeeper 〜
第89話〜後悔の章・6『家族』
井本直美の家族は、ごくごく平凡な家族だった。所轄署の刑事として働く父、専業主婦の母。
父は、いつも忙しく働いていた。夜遅くまで帰ってこないことも多かったし、なかなか休みを取れないことも多く、直美はそんな父のことを不満に思うことがあった。
--おとうさんは、わたしのことなんてどうでもいいっておもってるんだ。
そんなことを言ったのは、多分5歳くらいの頃だったはずだ。誕生日には家族みんなでお祝いをしようと約束したのに、父が仕事で帰れなくなったのだ。一言、電話でそう連絡してきただけで。その素っ気なさに、その時直美は大泣きして、父のことを母の前で詰った。
--お父さんはそんな人じゃないわ。
母は、そう言って直美を宥めた。でも、まだ幼い直美は変わらず父を責めた。
その時だった。生まれて初めて、母に手をあげられたのは。
ぱしん、と、乾いた音が家中に響いた気がした。
母に平手打ちを食らったのだと、理解するのには時間がかかった。
--お父さんは、そんな人じゃない。お父さんは、お母さんたちを守るために働いているの。
--お母さん、あの人のことは、誰よりも分かっているつもりよ。だから、直美。あなたもお父さんの気持ちを信じてあげて……。
そう言って、母は私の眼をじっと見据えた。母の眼は、少し潤んでいた。今思えば、あれは娘に手をあげた後悔の涙だったのかもしれない。
--ごめん、なさい。おかあさん。
--良いのよ。お母さんも、叩いたりしてごめんなさいね。
母は、そう言うと直美の頭をそっと撫でた。それ以来、直美は母にぶたれた記憶がない。あれが、最初で最後の、母に激しく怒られた記憶だ。
しばらく経ったある日、直美が眼を覚ますと、枕元にクマのぬいぐるみが一つ置いてあった。そのぬいぐるみは、正直言ってあまり直美の好みではなかった。だが、その首にかけられていたメッセージカードを見て、直美は驚いた。
『誕生日おめでとう、直美。この間は帰れなくてごめんな。次は、一緒にお祝いをしよう。父』
父の言葉が、そこにあった。父の精一杯の言葉が、綴られていた。
直美は、そのぬいぐるみとメッセージカードを、今も大事にとっておいている。あれが、父の温かみの記憶だから。
五年前のある日から、父の仕事はまた忙しくなった。その頃にはある程度父の仕事を理解していた直美は、さすがにかつてのように不満を口にすることはなかった。
でも、寂しかった。
ある時、母の口から聞いた。父が今調べているのは、最近になって隣の学区の廃ビルで起きた殺人事件のことだと。
その事件のことは、直美も学校の噂で聞いたことがあった。隣の小学校の生徒たちが遊び場に使っていた廃ビルで、四人の男が死んでいた、という話だ。
また父が忙しくなるのは寂しいが、父が頑張って平和を作ってくれるのだと信じ、直美は父の帰りを待った。
しかし、事件は解決しなかった。父がどんなに忙しく働いても、足を棒にして駆けずり回っても、事件の犯人は見つかることはなかった。やがて世間は事件のことを少しずつ風化させていったが、父は諦めなかった。
ある時、少しだけ休みが取れた時に父は、直美にこう言っていた。
--……誰かが死ぬというのは、その分だけ悲しむ人が増えるということなんだ。どんな人間でも、誰もその死を悲しまない人はいないと思う。一人死ねば、どこかで一つ悲しみが増えるんだ。
--それはとてもとても、辛いことなんだよ? 直美。
--それが嫌だから、お父さんは刑事になったんだ。
父の心が、生き様が。その言葉に込められていた。今になって直美は、そう思う。
そんな父に、そして井本家に悲劇が降りかかったのは、直美が中学三年になってすぐのことだった。日没後、ひどく雨の降っていた日。
父が事故に遭った。その報せを、直美は自宅で受けた。夜遅く、いつになく慌てた様子の母に叩き起こされ、直美は訳も分からずに街の病院へ向かった。
父は、集中治療室にいた。色々な管に繋がれて、眼を閉じたままぴくりとも動かない。そんな父の姿が直美には受け入れられず、ひたすらに呼びかけ続けた。
お父さん。お父さん。
でも、ガラス壁の向こうの父は、返事をしてくれなかった。直美は、大きな声をあげて泣いた。目の前の現実を受け入れたくなくて、泣いた。
医者の話だと、父は仕事を終えて帰宅しようとした時に、帰路にある歩道橋の階段で足を滑らせて転落したということだ。その際に強く頭を打ち、意識不明の状態がずっと続いている、と。
--この雨で、濡れた階段に足を滑らせたんでしょうなぁ。
父の上司だという、中年の男がそう言った。
受け入れるしかなかった。父が事故に遭ったこと。眼を覚まさないこと。全てを受け入れて、明日を迎えるしか。
結局、父はいつまで経っても眼を覚まさなかった。
きっと今も、あの病院のベッドで眠り続けているに違いない。
その後、父の所持していた品々が井本家に持ち帰られた。
直美はそれらの品を母と共にチェックしていたのだが……その時、あることに気付いた。
父がいつも肌身離さず持ち歩いていた手帳が、なくなっていた。父がいつも、仕事用に使っていた、茶色の革の手帳。昔、直美がこっそり中身を見ようとして叱られたことがあるから、よく覚えていたのである。
--なんで、あの手帳が……。
疑問に思った直美は、このことを母に伝えた。母も直美と同じように思ったようだった。
あの手帳だけがなくなるというのは、おかしい。父の周辺で、何かがあったのではないか?
二人でその可能性にたどり着き、警察にその話をすることにした。その直後だった。母が車にはねられそうになったのは。
直美と共に警察に行く途中、交差点で信号待ちをしていた母が、突然赤信号で道路に飛び出したのである。幸い、通行人によって母は助け出されたが、母はその時、恐怖に震えながら言ったのである。
--誰かに、背中を押されたの。
……以来、直美も母も、その手帳のことは口にしなくなった。
直美は、薄々感づいていた。きっと父の手帳は、何者かによって奪われたのだと。そしてあの手帳について触れようとする者を、その何者かは決して許さない、と。
そしてその何者かはきっと、父を事故に見せかけて--。
その想像をするたびに、直美は身震いした。そんな恐ろしいことが、現実に自分の周囲で起こるなど考えもしていなかった。こんな二時間ドラマのようなことが。でもきっと、これは紛れもない事実なのだろう。
後日、井本家に警察の人間がやって来て、父の手帳を届けてくれた。
説明によれば、事故現場でその手帳が落ちているのが見つかったという。しかし、直美はそれが信じられなかった。きっと手帳を奪った何者かが、この件を収束させるために--。
手帳を開くと、あの廃ビル殺人事件に関係した記述は一切なかった。いや、正確には『五年前以降の記述が全て破り取られていた』というのが正しい。
直美は、全てを確信した。父の事故の裏にある、黒い悪意。そして直美たちを監視する、その視線の存在を。
怖かった。ただただ怖かった。
父の信念など、忘れてしまいそうなほどに、自分たちを見ている何者かの視線が怖かったのだ。
そして、思った。自分が手帳の話をしたから、母は殺されかけた。ならば自分は、この話を隠し続けなければならない。そうなれば、友人たちに何者かの手が及びかねない。
だから必死で隠し通すことにした。でも、一つだけ懸念があった。それが、愛する人である蜷川悠斗の存在だった。
悠斗といると、いつも直美は心が安らいだ。悠斗にならば、何でも打ち明けられそうな気がしていた。だが、この話だけはしてはいけなかった。そうすることで、悠斗を危険から遠ざけなければならない。そう感じたのである。
直美は、悠斗から離れることを決めた。
悠斗を守るため。大切な人を、苦しめないため。そう信じて。
でも、現実にはそうはいかないことを、このプログラムに参加させられて知った。
自分がどんなに悠斗を求めていたか、それを思い知らされた。耐えられずに悠斗を探し、そして死にゆく悠斗と出会った。
そこで直美は気づいた。自分の判断が、かえって悠斗を苦しめていたことに。そして清川永市からプログラムでの悠斗の様子を聞くに至って、直美の心は張り裂けんばかりに苦しみぬいた。
--悠斗、ごめんなさい。
--私は、悠斗のためだと思ってた。でもそれは……結局、ただの身勝手だったね。
--そして、ありがとう。こんな勝手な私を、大好きだって言ってくれて。
--だから私は、今度こそあなたの思いに応えたい。
--どこまでも、精一杯に生きる。
--逃げないで、戦い続ける。もう、後悔なんてしないために。
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