BATTLE
ROYALE
〜 LAY DOWN 〜
35
先程まで掴んでいた暖かい手の感触は、未だ消えてはいない。
自分の右手を見つめながら、有紀は瞳を細めた。
何故、あのような行動を取ったのだろうか。
無意識の内に身体が動いていた。
自ら死地へ旅立とうとした雪村佳苗という少女の心の内を覗いてみたかったのかもしれない。
それとも死を望んだ佳苗の中に彼女の姿を見たのか。
どちらにせよ、自分はきっと佳苗の想いを西村涼に伝えるだろう。それだけは分かっている。
探すべき人間が二人に増えたというだけの事のような気もするし、そうではないような気もする。
自分には分からない。
彼女にならば分かるだろうか。
また脳裏にあの音が甦ってくる。
旋律は彼女の心音。時折、混ざる彼女の笑い声。思い出せないその先を思い出そうとして、何度諦めた事か。
瞳を瞑ると、彼女の顔が浮かんでくるような気がした。
*
「誰かのお見舞いに来たの?」
白いベンチに隣り合って腰掛けた彼女が微笑を見せる。
「あ、はい。母の……」
「そうなんだ。いい病院よ、ここは」
遠くへと向けられた彼女の視線の先を追おうとしたが、特に何かがあるようには見えなかった。
何より、ここから見えるのは自然に包まれている森だけだ。
最近は晴れの日が続いているが、それでも少し遠くに見える山には、数日前に降った初雪が未だに残っているのが分かる。
そんな外界と切り離されたような場所にあるのが、この病院だった。
肌寒いけれども澄んだ空気は、日常生活の疲れを癒すのにも適しているのかもしれない。
実際に病気の治療の為ではなく療養などの名目で入院している人もいるらしい。
有紀の母も、この病院の入院患者の一人だった。
病名は肺癌。正確には胸腺腫と言うらしい。
春先にあった会社の健康診断でレントゲンを撮った際に、偶然発見されたのだ。
手術すれば治る可能性が高い。医師はそう言ったが、母は耳を貸そうともしなかった。
自分の未来に絶望した母は、ショックからか精神に異常をきたしてしまい、言葉を忘れてしまったかのように誰とも喋らなくなってしまったのだ。
父や自分が、どんなに声をかけても母には届かなかった。
それから数ヵ月後、母の事を心配した父の知人による紹介でこの病院の事を知ったのだ。
藁にも縋る思いで入院させてみたものの、母の状態に変化は見られなかった。
そんな状態が早一ヶ月。
学校の休みを利用して泊り込みで見舞いにやって来たのだが、相変わらず母が心を開く様子は見られなかった。
明日には有給休暇を取った父もやって来る予定になっている。
幸いこの病院は患者の家族の為の施設なども完備されており、有紀も昨日からそこで寝泊りしているのだが。
本音を言うと、もう家に帰りたいと思っていた。
母は一向に良くなる気配がなく、自分が何の力にもなれないのだという事を知ってしまったから。
無力な自分に気付いた時、有紀は母の事を諦めたのだ。
もう決して良くはならないだろうと。
「どうしたの?」
思わず顔を伏せってしまっていたらしい。
先程と変わらない微笑を浮かべたまま、彼女がこちらを向いていた。
「あ、すいません。何でもないん、です」
適当にごまかしの言葉を言おうと思ったが、何も浮かんではこなかった。
こちらを見つめる瞳が不思議そうに揺れている。
とても綺麗な瞳だと思った。
二日前、ここにやって来てすぐに、ピアノを弾く彼女を見かけたのだ。それから、その日の晩。そして昨日、今日と、ピアノを弾く彼女に出会った。音楽に興味のない自分が、何故こんなに彼女の事が気になったのかは分からない。ただ単純に、その時、彼女が奏でた音に癒されたからかもしれない。
幼い少女のような雰囲気と、清廉された大人の女の雰囲気を同居させる不思議な女性。それが彼女に抱いた印象である。
「あの……ここへは、やっぱりお見舞いで?」
無意識に、そんな言葉が口から出ていた。
彼女に対する興味が言わせた言葉かもしれない。
有紀が見つめる先で、彼女が小さく首を振るのが分かった。
「あ、そうだったんですか。元気そうに見えたから、てっきり……」
「違うわ」
透き通ったような声が耳に入ってくる。
見つめると、少し困ったような表情の微笑を見せていた。
「お礼を言いに来たの。私も一昨年まで、ここにお世話になってたから」
それだけ言うと、別の方向へと瞳を向けてしまう。
「あの……何を見てるんですか?」
「あのコ達」
彼女が指差した先。そこにいるのは二羽の白い鳩である。
「鳩?」
頷くと同時に立ち上がり、彼女が鳩のいる場所へと歩み寄って行く。
それを追うように有紀も腰を上げた。
丁度、大きな木の根元で戯れている鳩達は、自分達の姿を見ても逃げ出したりはしなかった。
「きっと姉弟ね。どっちがお姉さんかな?」
「恋人同士かもしれませんよ」
「そう、ね。けど、もし、そうだったら、このコ達もいつか終わるのね」
思わず、彼女の顔を凝視していた。
彼女の口から発せられた声の、これまでと違いすぎる温度差に驚いて。
「どうして……ですか?」
「さあ、どうしてかしらね」
振り向いた彼女が、再び微笑を見せる。同時に、自分の背中越しに彼女を呼ぶ声が聞こえた。
つられるようにして瞳を向けると、その先に中年の男の姿が見える。
安っぽいスーツにくたびれたネクタイを引っ掛けた五十絡みの男は、興味深そうに顎に手を当てたままこちらへと近付いて来た。
「そっちの嬢ちゃんは?」
「さっき知り合ったんです。えっと……」
それで初めて、自己紹介すらしていなかった事に気が付いた。
「あ、ごめんなさい。私、赤坂有紀って言います」
「誰かのお見舞いか何かかい?」
男がポケットから取り出した煙草を口に咥えた。
「え、ええ。母の見舞いで」
有紀が言うと同時に、男が吐き出した煙がこちらに流れてきて顔を顰めた。
生理的に受け付けないタイプの人間と言うのはいるものである。有紀にとって、この男はそういう類の人間であった。
中庭とはいえ、明らかに禁煙を義務付けられている場所で、堂々と煙草を吸う男の神経が理解出来ない。
こんな男が彼女とどういう知り合いであるというのだろうか。
「母親の見舞いか。いい病院だろう、ここは? 空気も美味いし、設備も整ってる」
「ええ、そうですね」
応えると、男が口端を上げて笑みを見せた。
「まあ、いい事ばかりじゃないがね。この姉ちゃんもここが苦痛だった口だ」
彼女の方に目を向けて男が笑う。
「もっとも、姉ちゃんにゃ、あいつが───」
「先生」
それまで黙していた彼女が唐突に声を上げる。
「お喋りな男は長生きしないって……知ってます?」
感情を全く伴っていないような冷たい声。
瞳を向けた先にいる彼女は、それまでと寸分違わぬ笑みを見せているが。
「相変わらず、だな。おっかねえ女だよ、お前さんは」
「有紀ちゃん」
男の言葉を無視するように、彼女がこちらへと瞳を向ける。
「あ、はい」
「またね」
穏やかな微笑を見せると、彼女はそのまま背を向けて歩き出してしまう。
「嬢ちゃんよ。忠告しとくが、あれは普通の女じゃない。あんま関わんねえ方がいいぜ」
吸っていた煙草を常備していたらしい携帯灰皿に捨てると、男も彼女の後を追って歩いて行ってしまった。
普通の女じゃない。その言葉が示す意味が何なのか、有紀には分からなかった。
ただ、この日、彼女に出会った瞬間から有紀の中にある何かが変質したのだ。少しずつ自分でも気付かない内に。
まるで彼女の意識が自分の中に入ってくるかのように。
*
彼女との関係は、あの日以来続いている。
同じ東京の同じ街に住んでいる事が分かった時は、さすがに驚いたものだが。
お陰で触れ合う機会は次第に多くなっていった。
それと同時に彼女に対して畏怖にも似た憧憬の念を抱き始めたのだ。
彼女の存在そのものが一種の麻薬のようなものだと思う。
あの微笑を一度でも見たものなら思うであろう。いつまでも、この存在と共にありたいと。
類稀な美貌の持ち主などと言う簡単な言葉では片付けられない。
どこか哀しげな表情と、時折垣間見せる冷たいだけの瞳。
そのギャップがこんなにも自分を惹きつけるのだろうか。
ただ一つだけ。頭から離れない彼女の言葉。
───いつか何もかもが解き放たれればいいのに……。
言葉の意味は分からない。
ただ、それがどういう意味かは分かっているつもりだ。
彼女の哀しげな瞳が映し出すのは、この腐敗した世界。
彼女の冷たい瞳が映し出すのは、生きる意味のない人々。
いつだったか彼女が自分に言った事がある。この世界には生きているべき人間と、そうではない人間がいると。
その時はどういう意味なのか分からなかったが、プログラムに巻き込まれた今ようやく理解出来た。
今の自分は後者。クラスメイトも後者。現実を認識している彼女は前者。数年前、プログラムから脱出したと噂になった二人も前者。政府は後者。生きる事を諦めて病をこじらせて死んだ母も後者。同様に生きる事を諦めた佳苗も後者。
この世界には生きていなくてもいい人間が溢れている。そして、自分もその一人だ。だが、変わる。
生きているべき人間へと変わってみせる。それを生き残る事で証明してみせる。
これは彼女と同等になる為の道。これは彼女になる為の道なのだ。だが、果たして自分に殺人など出来るのだろうか。
自殺志願者であった佳苗を止めようとは思わなかったが、自ら進んで生き残る為に行動する事など出来るとは思えない。
教えて欲しい。今、自分が為すべき行動を。
強く瞳を瞑り彼女の姿を思い浮かべようとした。その瞬間、背中越しに何かの気配を感じて、思わず振り返った。
今いる場所は佳苗がいた所から、数十メートル離れただけの位置。
ここが深い森でなければ佳苗の亡骸も見える距離だろう。
その佳苗がいる方角から、草木を掻き分けてこちらに向かって来る女生徒の姿があった。
一瞬、瞳を疑った。
幻覚を見ているのかと思った。
そうではないと気付く前に、相手の方から語り掛けてきた。
「こんにちわ、赤坂さん」
そう言って薄い微笑を浮かべている姿には見覚えがあった。
勿論、彼女であるはずもない。
「中野さん……」
どうして見間違えたりしたのだろう。彼女と中野夕子(女子14番)を。
雰囲気が似ていると言われれば、そんなような気もするが。
「向こうに雪村さんがいたけど、見た?」
佳苗がいる方角を振り返りながら夕子が告げる。
「最期を看取ったわ」
「そう。あなた、傍にいたのね。可哀想に。あのコ、あなたが手当てしてれば死なずに済んだのにね」
「どういう意味?」
どこか、嘲るような夕子の物言いに不快感を覚えた。
「生きてたわよ。ついさっきまで」
「え? だって、そんな」
乾いた唾が喉を伝っていくのを感じて顔を顰めた。
「生きてたわ。大体、手首を切ったくらいで死ぬわけないじゃない?」
何と応えて良いのか分からず、ただ夕子を見つめる事しか出来ない。
「け、ど、雪村さんは確かに意識を……」
「ショック状態でしょ? 手首切ったくらいで死ねれば苦労しないわ。それも、あんな浅い傷じゃね」
浅い傷。そうなのだろうか。確かに佳苗は死ぬ覚悟だったはずだ。だからこそ、涼への気持ちを打ち明けたのではないのか。
「でも、彼女は確かに死のうとしてたわ。なのに、どうして?」
「人は無意識に生を求める生き物よ。死のうとしてたって、土壇場で自己抑制が働く。そういうものだわ」
額から汗が流れ落ちてくるのが分かる。
「つまり彼女は───」
「そう。死に切れなかった」
それは、自分が彼女を見殺しにしたという事なのだろうか。
「それじゃ彼女を殺したのは……」
「それは私よ」
あっさりと言い放った夕子に驚いて、有紀は瞳を丸くした。
「死にかけの雪村さんを見かけたから、止めを刺しておいたわ」
「何故、あなたがそんな事を?」
「どうせ死のうとしてたんだし、あのまま目覚めてもまた自殺しようとするだけでしょう?」
表情を変えぬまま夕子が先を続ける。
「気に食わないって表情ね。私を非難でもしてみる?」
「そんなつもりはないわ。ただ、一つだけ分かった事がある。あなたはやる気なのね?」
ほんの少し汗ばんだ右手に力を込める。
今、自分の右手には佳苗の持ち物であったシャムシールが握られていた。
遺品の代わりに頂戴して来たものだが、こんな形で使う事になろうとは。
「私は死ぬわけにはいかない」
夕子の前にシャムシールを突き出して見せる。だが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「勘違いしないで。私は殺し合いなんかに何の興味も無いわ」
「なら、どうして雪村さんを?」
「それが彼女の望みだったから」
即答してみせた夕子の表情は、やはり変わらない。
「それじゃあ、私の望みも叶えてもらいたいものね」
目の前にいるこの女を試すような気持ちで告げた。
「死にたいの?」
無機質な瞳のまま夕子が返してくる。
「まさか。その逆よ。私は生き残りたいの」
「なら、その為の行動をしなさい」
「殺されてくれるっていう事?」
言い終わると同時に唾を飲み込んだ。
「冗談を。私には私の目的があるの。こんな所で、あなたなんかに殺されるつもりはないわ」
「その目的の為なら、人を殺すのね」
「そうね」
その言葉で自分の中で何かが弾けたような気がした。
「勉強になったわ、中野さん。お陰で、するべき事が見えた」
自然と口が笑みの形になるのが分かった。
「そう? それは良かったわね」
「ええ。だから、感謝の意味も込めて……見逃してあげるわ」
シャムシールを下ろし、もう一度夕子と見詰め合う。
一瞬、俯いたままの夕子が笑ったような気がした。同時に、有紀は走り出す。
今は出来るだけ夕子から離れようと思った。
夕子が銃を持っていないとは限らない。それに、あれだけはっきりと目的の為なら人を殺すと言ってのけたのだ。ならば、今の自分は特に夕子の目的の障害になるはず。そんな自分を生かしておく必要など、どう考えてもありはしないだろう。
後戻り出来ない道なら、確実に進んで行くべきだ。
自分の目的の為に、障害となる者は排除する。それしか方法がない現状では、それは仕方のない事だったのだ。
自ら行動し始めた時、初めて人は目的を成就する権利を得られる。だから、自分は優勝する為に行動する。
後戻り出来ない道だからこそ、行動するしかない。行動出来ない者は、佳苗同様生きるのを諦めた者に過ぎない。それは正に生きていなくてもいい人間。自分はそうではない。生きているべき人間になるのだ。
今、ようやく自分は走り始めたのだ。
この道こそが、彼女になる為の道。
有紀は走り続ける。
彼女が待つこの道の終着地点へと。
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