BATTLE
ROYALE
〜 LAY DOWN 〜
48
涙を堪えるのに必死だった。
気を抜くと、今にも涙が溢れてきそうで。
ここで泣いてはいけない。その意識だけで持ちこたえている感じだ。
それが逆に張り詰めた空気を作っていると分かっていても、そうせざるを得ない。
恐怖からだけではない。何より自分の無力さが辛かった。
いくらか前から銃声は止んでいるものの、現状は何ら変化を見せていない。
これから、どうすればいいのか。
目の前で苦しそうに呻く絵里の為に自分に何が出来るのか。
知識のない自分にも、絵里がどれほど危険な状態かは、さすがに理解出来た。
このまま放っておけば間違いなく助からないだろう。だが、少なくともこの病室には手当てに使えそうな物は何一つ存在しなかった。
「絵里ちゃん!」
室内に綾の悲痛な叫びが上がる。
促がされるように、葵もそちらに瞳を向けた。
これまで弱々しい吐息を吐くだけだった絵里が、ここに来て苦しそうに呻きを上げ始めている。
「森川さん! どうしよう?! 絵里ちゃんが……」
「落ち着いて、紺野さん……」
どうすればいい。一人の人間の生命がかかっている状況で、今自分に出来る事は。
とにかく痛み止めでも何でも良い。出来得る限りの手を尽くして、絵里から痛みを取り払ってあげなければ。
”もう……考えてる暇なんてない”
荒く息を吐く絵里の顔を見つめながら、葵は両の拳を握り締めた。
「紺野さん」
呼ばれて綾が振り返る。その瞳は既に涙で濡れていた。
「私、探して来るわ。何か手当てに使える物。病院なんだから必ずあるはずだわ」
「う、うん。私も一緒に……」
立ち上がりかけた綾を見て、葵は首を振った。
「だめよ。木内さんを一人には出来ない」
「でも! それじゃ森川さんが一人になっちゃう……」
「私は大丈夫よ。今のところ怪我もしてないし、危なそうだったら逃げるから」
そう言って、綾に向けて笑みを作って見せた。
自然な笑みになるように。自分の怯えを見せないように。出来るだけ気を使いながら。
「多分……分からないけど、一階まで行けば何かあると思う。診察室になってたでしょう?」
ここに来たばかりの時に、ほんの少し見ただけだったが、確かそうだった気がする。
「し、下に行くの?」
葵達が今いるのは四階の病室だ。
この病室に逃げ込んでから、何度も銃声らしき音を耳にした。それらは全て下の階から聞こえてきたものだ。三十分程前など、何かが爆発するような音まで聞こえてきた。
下の階が危険極まりない状況にあるのは分かっているが、それでも行くしかない。
小さく頷くと、葵は綾の両肩に手を置いた。
「私が戻って来るまで、木内さんをお願い」
涙に濡れる綾の瞳が少し揺れる。
「絶対……皆で助かろう!」
綾の心に響くように、力を込めて告げた。
呆然と揺れる綾の瞳から、葵は瞳を逸らさない。そこに意思の力を込めて見つめた。
しばらく、その状態が続き、やがて綾も瞳を向けてくる。
ゆっくりと頷いたのが分かった。
「約束だよ、森川さん。皆で生きて帰ろうね?」
「勿論よ」
頷き返すと、葵は綾に背を向けた。
扉へと足を向ける。
心臓の鼓動が激しくなってきている事に気付いた。
それでも恐怖に押し潰されるわけにはいかない。
扉に手をかけ、一度大きく頷いた。それから、ゆっくりと扉を開け後ろ手で閉める。
一歩、前へと踏み出し、窓の外に瞳を向けた。
変わらず緑に囲まれた美しい景色。その景色が視界に映し出された瞬間。
息が出来なくなった。
”え? 何?”
自分で自分の現状が理解出来ない。
突然の出来事に頭が混乱しかける。何がどうなっているのか。
首を絞められている。その事実に気付くまでに、数秒の時を要した。
自分の呻き声。このままでは殺される。思った瞬間に全身の力を振り絞って暴れだす。
自分は絵里を助けなくてはいけないのに。綾と約束したのに。
そうだ。自分がここで死んだら次は中にいる綾と絵里だ。
”そんな事させない……!”
自分の首に絡みつく腕を無理矢理剥ぎ取ろうとした。だが、更に力は強まるばかり。
ほとんど出ない声を振り絞って叫びを上げる。
目の前の扉がゆっくりと音を立てて開き始めたのは、その時だった。
「森川さん……!」
悲鳴にも似た綾の叫び。同時に葵の首を締め上げていた力が抜けた。
それに気付いて息を吸い込もうとした瞬間、背中に鋭い痛みが走る。
何が起こったのか分からないまま、その場に両膝を付いて崩れ落ちた。
「も、森川さん! 森川さん!」
綾の悲鳴。大丈夫。まだ生きている。伝えようとして瞳を上げた。
その視界に何か真っ赤なものが映し出される。
訳が分からないまま、それを呆然と見つめた。
自分に降りかかる赤。
一瞬、思考が止まった。血、だ。
それに気付いた瞬間、葵は絶叫した。
喉から血を噴いて、こちらに倒れてくる綾。そのまま葵の胸の中に崩れ落ちるように倒れて来た。
綾の細くて黒い髪が葵の肌に触れる。まだ暖かい綾の体。
右耳についているシルバーのピアスが瞳に映る。おっとりとしていて大人しい綾がピアスをしている事なんて知らなかった。あんな風に笑うのだという事を知らなかった。あんな風に泣くのだという事を知らなかった。
これから、沢山知っていけるはずだったのに。
呆然としたまま、既に事切れているであろう綾の髪を撫でようとして、再び襲ってきた鋭い痛みに顔を顰めた。
肩口を切り付けられている。反射的に振り向いた。瞳に映るその顔。知っている顔であり、知らない表情だ。叫んだ。恐怖、怒り、悲しみ、そして自分の想い全てを込めた腹の底からの叫び。全身でぶつかって行った。相手が少しだけバランスを崩すのが見えた。同時に、勢い余って葵もまた床に倒れこんでしまう。その瞳に半分開かれたままの病室の扉が映し出される。絵里。まだ中にいるのだ。そして絵里は抵抗など出来る状態ではない。助ける。絵里だけでも助けてみせる。
そう思った瞬間に立ち上がっていた。背中に熱を感じて顔を顰める。また斬り付けられたのかもしれない。どうでも良かった。走れ。絵里から引き離せ。絵里を助けるんだ。
それだけを念じて葵は駆け出して行く。曲がり角が視界に映し出される。振り返った。追ってきている。もっと引き離せ。あの病室に戻る気がなくなるくらいまで引き離せ。
目の前に階段が映し出された。それを一気に駆け下りる。踊り場を抜けて三階へ。その途中で葵は階段から叩き落された。後ろから押されただけなのか、また背中を斬り付けられたのかは分からなかったが。全身を階段に打ち付けながら転がり落ちて行く自分を感じる。
瞬間の衝撃を何度も感じ、最後の衝撃を感じたと同時に全身が悲鳴を上げた。
瞳を上げる。視界に映る全てがぼやけて見えた。自分は泣いているのかもしれない。
そう思った瞬間、背中に鋭い痛みが走った。
痛みは一瞬にして全身へと拡大していく。身体の中から何かがせり上がってくるような気がした。同時に咳き込む。
自然に口元へと運ばれた右の手の平が赤く染まっていた。
瞳を見開いたまま呆然とそれを見つめていた葵だったが、やがて全身が震えている事に気付いた。
死。目の前に突きつけられた現実が恐怖となって葵を震えさせる。
震えたまま後方に立つ人物を振り返ろうとしたが、首を少し動かした瞬間に再び喀血してしまう。
自分の視界が真っ赤に染まる。
更に何度か咳き込み、その度に血液を吐き出す。
もう、すぐ傍にいる人物の事は頭から消えていた。ただ恐怖と苦痛だけが葵を支配している。
やがて何度目かに血を吐き出した時、葵の意識は寸断され闇へと落ちた。
*
足音。
暗い世界に足音が聞こえる。
足音は少しずつ大きくなってきている気がした。
自分のものではない。違う誰かの存在をそこに感じる。
それが暖かいものであるのか、そうではないのかは分からなかったけれど。
他人の存在を認識する事で、自分がまだ生きているのだという事が分かった。
「ひどい怪我ね、森川さん」
どこかで聞いた事のある声。
”誰?”
「いい気味だわ」
嘲るような声。
”誰?”
「あんたがいなくなればいい」
自分に向けられた暗い憎悪の念。
”誰?”
「安心して。すぐに山口さんも後を追う事になるから」
”若菜?”
───葵!
「…か、な?」
頭の中に響いた親友の声が意識を現実へと引き戻す。
ようやく開いた瞳の向こうに、ぼんやりと彼女の姿が映った。
暗い瞳でこちらを見据える麻由美の姿。
何が可笑しいのか薄く笑んでいるようにも見える。
まだはっきりしない意識のまま麻由美を見つめた。
「さよなら、委員長」
麻由美が告げる。
その言葉が聞こえたと思った途端、首に圧迫感を覚える。
絞め殺すつもりだ。気付いた時には体の方が動いていた。同時にぼんやりとしていた意識が完全に覚醒する。
手を離させようと、麻由美の腕を掴むが、首を絞める力は中々弱まらない。
次第に意識が遠のいていくような感覚が襲ってきた。
目前に迫った死という恐怖に抗おうと、葵はその場で滅茶苦茶に暴れだす。
もう腕を掴んで離させようとも思っていなかった。ただ、幼い駄々っ子のようにその場で体を左右に振ったり、手や足を滅茶苦茶に振り回しただけだ。
何度、それを繰り返したか分からない。だが、突然、首を絞めていた圧迫感が消えた。
荒い息を吐きながら、涙目で前方を見やる。
その視界に映る麻由美の姿。
麻由美は今も目の前にいる。だが、床に蹲ったまま動かない。
その顔からは鼻血が流れ出ている。
がむしゃらの抵抗が功を奏したのか、振り回していた足が蹴りになって顔に当たったらしかった。だが、安堵している場合でもない。
まだ終わってない。
これが奇跡でも、ただの偶然でも、自分の生はまだ続いている。
全身に走る激痛に歯を食いしばりながら、葵は立ち上がる。
蹲ったままの麻由美が何か叫んだ。だが、叫んだという事が分かっただけで言葉を理解する事は出来なかった。いや、理解しようとする前に動いていた。床を蹴る。ただ前だけを見ていた。
逃げろ。逃げろ。
何かに急かされるように、それだけが頭の中に響く。背中越しに声が聞こえたような気がした。どうでもいい。今は走るだけだ。廊下を駆け抜ける足音。それが自分のものなのかどうかも分からない。息遣い。痛み。何もかもが他人のもののようだった。
無意識の世界を駆け抜ける。
葵を突き動かすものは望み。生への希望。渇望。
───約束だよ、森川さん。
まだ繋がっている。終わってはいない。
未来へと続く道は、まだ続いている。
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