BATTLE
ROYALE
〜 LAY DOWN 〜
53
鏡に映る自分の姿。
ひどく憔悴しているようにも見えるし、元々そういう顔立ちだったようにも思える。
自分で自分の事がよく分からなかった。
自分という存在が曖昧になっていく。
覚悟は決めていたはずなのに。そう。あの時、中野夕子と話した時に。
頭にちらつくのは春香の姿。
自らを犠牲にしてまで裕太を助けようとして、自分に立ち向かってきた春香の姿。
あの姿を思い出す度に、自分の行動に疑問を覚えてしまう。
本当に彼女は正しいのだろうか。
ふと、そんな風に思って有紀は頭を振った。
間違ってるはずがない。誰より強くて、誰より優しくて、誰より穏やかな彼女に間違いなんてあるはずがない。
───有紀ちゃん。私ね、人を殺したのよ。
穏やかな微笑を浮かべてそう告げた彼女の姿を思い出す。
人を殺した。
”私も殺した……”
あの感触を思い出すと同時に、急に気分が悪くなった。
胃の中から込み上げてくる何か。
自覚する前に嘔吐していた。
これで二度目である。裕太と春香を殺した直後にも同じように嘔吐したのだ。
正しい事をしたのだと自分に言い聞かせて、平常心に戻るまで多少の時間がかかった。それなのに、またこれだ。
先程、あの場を離れてから頭にちらついて離れない。山口若菜の姿が。
あの森の中で戦ってから、ずっと心に引っ掛かっていた。何故か気になって仕方がなかった。
先程、再会した事でより一層大きくなったのか。
分からない。分からないという現実が、有紀の心をかき乱している。
何度か繰り返し嘔吐し続け、ようやく動悸が治まった頃、再び鏡の中の自分に瞳を向けかけ、すぐに逸らした。
彼女とは似ても似つかない女がそこにいた。
その女の肌に触れようと手を伸ばす。それとほぼ同時に、この女性用洗面所の扉が開かれた。
「赤坂さん……」
自分の名前を呼ぶ声。
鏡越しに後ろに立つ少女の姿を見つめた。
制服は血塗れで、触れただけで倒れそうに見える。
しばらく鏡越しに見つめ合っていた。
荒い息の彼女の視線が、壁の片隅に立てかけておいたものへと移る。
佳苗の遺品でもあるシャムシール。
青い光を放っていたはずの刀身は所々赤黒く染まっている。
「人を……殺したの……?」
「ええ」
掠れた声。自分の声のような気がしなかった。
鏡の向こう側から自分を見つめる森川葵は何も言わない。
しばらく、そのまま鏡越しに見つめ合っていた。
「どう……して……?」
沈黙を破ったのは葵の方からだった。
「どうして……皆、そんな簡単に人が殺せちゃうの……? ねえ、どうして?」
かき消えそうな程に小さな声だった。
鏡の中の葵は静かに涙を流している。
「仕方ないのよ……。だって、こうするしか……」
”あの人になる方法がないんだもの……。あの人と同じようにするしか……”
「生き残る……為に、これからも殺すの……?」
先程より幾分はっきりとした声で葵が問い掛けてくる。
「そうよ。そうして、私は───」
「させない!」
最後まで言い終わる前に葵が動いていた。
壁に立てかけておいたシャムシール。気付いた時には葵の手の中に収まっていた。
その剣先がこちらへと向けられる。
「もう誰も……殺させない……。ち、誓って……。もう……誰も……殺さないって……」
動いたからだろうか。葵の息が今まで以上に荒くなっているように思える。
「誓わないって言ったら?」
「あ、あなたを……殺すわ」
本気なのだろうか。いや、気持ちの上では本気なのだろう。
”でも……”
「あなたには出来ないわ」
ゆっくりと足を前に踏み出す。同時に、葵が後退した。もう一度、足を前に踏み出す。また後退。
「ほら、ね」
憎らしげな瞳で葵がこちらを見据える。
「もう止めなさい。あなたに私は止められないわ」
最後通告のつもりだった。
葵の体力は明らかに限界を超えている。本人も気付いているはずだ。自分の体を真っ直ぐに保つ事すら出来ていないのだから。
「死ぬわよ」
言葉の中に様々な意味を込めて告げた。
自分が手を下さなくても森川葵はもう長くない。背中から滴り落ちている多量な血液がそれを物語っていた。
葵は何も喋らない。ただ荒く息を吐きながら、こちらを見つめているだけだ。
しばらく、そんな葵の姿を見つめていた。
有紀の脳裏に別の少女の姿が映ったのは、少ししてからの事である。
先程、自分の身を挺して立ち向かってきた少女の姿。
「どうしてなの?」
呟くように問い掛けた。
今、自分の目の前にいるのは葵であり、春香でもある。
理解不能だった春香の行動。
あの行動の真意を問い掛ける。
「理解出来ないわ。あなたも、岡沢さんも。死んでもいいと思ってるの?」
葵が何か言おうと口を開きかける。だが、次の瞬間、右手を口に当てて咳き込み始めた。
二、三回小さく咳き込み、床に膝を落とす。同時にシャムシールも手放してしまう。
そのまま膝立ちの格好で、両手を口に当て一度大きく咳き込んだ。
その瞬間、床一面に血液が撒き散らされる。
見る見るうちに真っ赤に染まっていく床。
「あなた……」
葵はまだ咳き込み続けていて、その度に血を吐き出している。
しばらくの間、その光景を見つめていた有紀だったが、やがて床に落ちていたシャムシールを拾い上げると、そのまま扉へ向けて歩き始めた。だが、すぐに立ち止まる。
スカートを掴まれていた。掴んでいるのは他の誰でもない葵だ。
左手で有紀のスカートを掴んでいる葵は、未だ咳き込み続けている。有紀の位置からでは見えないが、まだ血を吐き出し続けているのだろう。
”どうして、そうまでして……?”
理解出来ない。分からない。だけど、岡沢春香はもう死んでしまった。森川葵はもう口も聞けない。誰か教えて欲しい。彼女なら分かるだろうか。教えて欲しい。自分の知らない事を。世界を。下唇を噛み締める。血の味。自分の血液。葵の血。春香の血。裕太の血。佳苗の血。教えて欲しい。この先に何があるのかを。あなたが見ている世界を。教えて欲しい。それを知りたくて、自分は今ここにいる。あなたを知りたくて。あなたになりたくて。
───ウソツキ。
彼女の声。
───本当は知ってるくせに。
”なにを……?”
───自分の気持ちが分からないのね。可哀想な有紀ちゃん。
聞きたくない言葉。
”言わないで……”
思い切り頭を降って想像の中の彼女をかき消した。
「私は……」
瞳を瞑った。ゆっくりとシャムシールを持ち上げる。そのまま葵の背中に向かって突き立てた。
一度、呻きを上げ、そのままその場に崩れ落ちて行く。
葵の体が完全に床に落ちるのを見届ける前に、有紀は廊下に飛び出した。
廊下の光景はこれまでと変わらない。
窓の向こう側の光景も変わらない。
それが有紀の気分を不快にさせる。強く下唇を噛み血を舐め取った。
窓枠に手を置いて、ゆっくりと歩き始めようとして、すぐに立ち止まる。
自分の行こうとしていた先から聞こえてきた足音。
その場に立ち止まって、廊下の向こう側に見えてきた姿を見やる。
「また会ったな」
笑みを浮かべながら歩み寄って来たのは、先程会ったばかりの柴隆人であった。
「柴君……」
「さっきも思ったが、あんたそんなキャラだったか? 学校じゃ目立たない感じだったのにな」
何かを見透かすような視線。
顔は笑っているのに、目だけは真剣そのもので、どこか不快な気分にさせる。
「坂井に会ってどうする?」
「あなたに関係ないわ」
作った微笑を顔に貼り付けてから告げた。
目の前の隆人も笑みを浮かべたままだ。
「お前と坂井の関係にゃ興味はないが、坂井個人には興味がある」
言い終わると同時に、隆人の顔から笑みが消える。
応えるように、有紀も微笑を消して隆人を見つめ返した。
「お前も、俺や坂井と同じか」
「どういう意味?」
「言ったままの意味さ。お前は俺や坂井と同じだ」
隆人の右手がゆっくりと上に持ち上げられる。
全てがスローモーションだった。気付いた時には、有紀の首を隆人の右手が掴んでいる。
「お前の仮面、剥がしてやろうか?」
「私の……仮面?」
「お前はお前であってお前じゃない。俺と同じだ」
首を掴む右手に少しだけ力が加えられる。
それでも、まだ苦しくはなかった。
ただ、怖かった。何に対しての恐怖なのかは分からなかったけれど。
この男は危険だ。自分を惑わせる。ともすると、呑まれそうになる。
「俺を殺すか?」
右手を掴む感触があった。
ゆっくりと視線を動かす。隆人の左手。
シャムシールを持った右手が、いつの間にか持ち上がっていた。自分の意志ではない。
その右手を強く掴まれている。
その状態のまま、しばらく見つめ合っていたが、ややして隆人の顔に表情が生まれた。
「違ったみたいだな」
笑みを浮かべた隆人の手が首と右手から離される。
呆然としたまま、有紀は無意識に自分の首を手で擦っていた。
「あなた……何なの?」
「俺は───」
隆人が口を開くのと、傍にある女性用洗面所の扉が開くのが同時だった。
中から出て来るのは、一人しかいない。
「森川」
隆人の言葉に促がされるように、有紀も葵の方に瞳を向けた。
意識があるのかないのか、幽鬼のような表情の葵がこちらに視線を動かす。
その表情が一瞬変わったように見えた。だが、葵はすぐに踵を返すと、壁に手をついて歩き始めた。いや、走っているつもりなのかもしれない。
「生きた死体だな」
葵の背中を見つめたまま、隆人が呟いた。それから、ゆっくりと足を踏み出す。
その足がすぐに止まった。
「赤坂」
知らず、身体が動いていた。無意識の内に、シャムシールの剣先を隆人へと向けている。
そのままの状態がしばらく続いた。葵はもう何処かに行ってしまったようだ。
この空間にいるのは自分と隆人の二人だけ。
隆人は動かない。ただ、こちらを見つめているだけだ。
ふと、隆人の纏う空気が変わったような気がした。
ぞっとする程に冷たい。残酷な視線。以前にも、どこかで見た事があるような気がする。
いつだろう。どこで。
───このコ達もいつか終わるのね。
”う、そ……”
この感覚を知っている。相対するだけで全身に走る過度の緊張。絶対的な敗北感。
そうだ。初めて彼女に会った時に感じた。
”恐怖……?”
「行けよ、坂井に会いに」
”この人……怖い……”
「お前と会ってあいつに何か変化があるのか。楽しみだ」
”私はこの人を恐れてる……? じゃあ、あの人の事は……?”
自分は彼女に恐怖を感じていたのだろうか。思い出せない。もし、そうだったとしたら、どこで変質したのだろう。分からない。思い出せない。教えて欲しい。誰か。誰か。私にとって、あの人は何なのか。教えて欲しい。あの人は正しいはずなのに。こんなにも信じているのに。何かが違うような気がするのは、何故なのか。誰か教えて。助けて。何が正しいのか教えて欲しい。あの人になりたくて、あの人を追って来た道は間違ってたのだろうか。教えて欲しい。自分が自分でいられなくなってしまいそうだから。
”本当に正しいのは誰? 誰か、誰か……”
───上等! あたしは絶対死なねえ!
強い意志。真っ直ぐな目。彼女とは、まるで違う。
まるで違うのに、心の中に小さな棘となって残った少女の姿。
”あのコなら……”
そうだ。初めから、心のどこかに引っ掛かっていた。
”あのコは、どこかが他の人と違うから……”
だから、教えてくれるかもしれない。
「会わ……なきゃ……。山口さんに……」
無意識に呟くと、踵を返して、有紀は歩き出した。
頭の中にあるのは、かつて有紀の心に入り込んで来た女と、今心の中に入り込もうとしている少女の姿。
───有紀ちゃん。
───赤坂!
「山口若菜、か」
隆人の呟きも、今の有紀には聞こえない。
今、有紀の耳に聴こえるのは二つの声だけだ。
それだけを追って有紀は歩いていく。まるで救いを求めるかのように。
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