BATTLE
ROYALE
〜 LAY DOWN 〜
58
吹き付ける風が、強くなってきている気がした。
単純に屋上だからだろうか。それとも、そういう場面なのか。
作られたドラマの盛り上がるシーンで雨が降り出すような、そんな感じ。
今、自分達がいるこの空間に雨が落ちてくる様子はないけれど、それでもこの瞬間が何かのワンシーンのように感じた。
そう思わせる何かが今の彼女にはあるような気がする。
この島で最初に会った時に夕子に似ていると思ったのは間違いかもしれない。
こんな風な表情は、夕子は決してしない。いつだって誰より優しい夕子が、こんな表情をするはずがない。
目の前にいる赤坂有紀の瞳は、何も映していないかのように無機質なものだ。
真っ向から射抜くように、その瞳を睨み返してみた。
それでも有紀の視界に自分はいないような気がする。
しばらくの間、そうして見つめ合っていた。その間、一度として本当の意味で有紀が自分を見る事はなかったけれど。
沈黙の時間が終わったのは、どれくらいの時間が経ってからだろうか。
声を出したのは若菜でも有紀でもなかった。
「いつまで見つめ合ってるつもりだ?」
屋上の鉄柵に凭れながら告げたのは坂井友也だった。
「てめえにゃ関係ねえな」
「それが、そうでもなくてな」
「そういや、坂井の事気にしてたな、お前」
この病院内で有紀と再会した時の事を思い出した。あの時、有紀は友也を探しているような感じだった気がする。
二人の関係については、やはり分かりはしないが。
また短い沈黙が走った。
有紀は一向に口を開こうとはしない。
しばらくして、友也が有紀の方を見やりながら口を開いた。
「山口ならお前に答えをくれるぜ。きっとな……」
促がされたかのように、有紀がこちらに瞳を向けた。その瞳には、やはり射抜くような強さは感じられない。
「ようやくあたしを見たな。ぼーっとしやがって」
応えるかのように、有紀が微笑を見せた。
つい今しがたの有紀とは別人のような気さえする。疲れたような、それでいてどこまでも優しい微笑。
「あか……さか?」
「その目……」
ひとり言のような小さな呟き。
「あなたに会えて良かった」
「な、何……?」
「あの人と正反対のあなたなら答えをくれるような気がする……」
何が言いたいのだろうか。
ひとり言のように淡々と告げる有紀の瞳は、どこまでも優しさに満ち溢れている。目の前にいるのが有紀ではなく夕子なのではないかと錯覚しそうな程に。
「私は……きっとあなたにはなれない。どんなに望んでも……」
静かな声で有紀が告げた。その視線は、既にこちらから友也へと移っている。
「あなたが羨ましいわ……」
友也は何も言わなかった。ただ黙って有紀を見つめている。
しばらく、見つめ合っていた二人だったが、ややして有紀の瞳がこちらを見つめた。
先程と同じように優しい表情。
「山口若菜。あなたなら教えてくれるような気がする」
「何をだよ?」
戸惑いつつ有紀を見つめ返す。
「私が正しいのか。間違ってるのかを……」
「あ、赤坂?」
有紀の左手が若菜の頬に触れた。冷たい手だった。
「綺麗な瞳……」
そう言った瞬間、有紀が若菜の目に口付けた。
「わっ、わっ。な、なんだ、お前?!」
驚きの余り、有紀を突き飛ばして後ずさった。
「レ、レズか、てめえ……」
「かもしれないわ」
次の瞬間、有紀が右手の刀剣を振り上げる。
それが合図になった。
床を蹴った有紀が、刀剣をこちらに振り翳して来る。突然の襲撃に驚き、転びかけながらバックステップで退けると、若菜はそのまま身を屈めた。有紀の方は全くお構いなしとばかりに猛然と迫ってくる。周囲に障害物がない為か、有紀の方が圧倒的に有利だった。その事実に舌打ちしつつも、有紀の懐に入る隙を探した。右利きの有紀が刀剣を振るう時、必ず右胸の辺りががら空きになる。それが若菜が見出した唯一の隙だったが、まず間違いなく斬撃を喰らう事は想像に容易い。他に何かないものだろうか。考えている間にも有紀の猛攻は続いていた。若菜の方は逃げ回る事くらいしか出来ない。一瞬、友也に助けを求めようかと思い、有紀から視線を外した。その瞬間。
「右だ!」
唐突に上がった声に、反射的に首を振り向かせる。
いつの間にか有紀がすぐ傍まで来ていた。こちらの一瞬の隙も見逃さない。
目の前に現れた刀剣の刃先に、思わず腰を落とした。
「うわっ! タンマ! ちょっと待て!」
そんな言葉が勝手に口から出てきたが、当然受け入れられるはずもなく、尻餅をついた若菜目掛けて再び刀剣が振り下ろされる。その刃先が視界に入った瞬間、目を瞑った。無意識に両腕で顔面をガードする。次の瞬間、顔を庇った両腕に熱が走る。熱はすぐに痛みへと変わり、若菜に悲鳴を上げさせた。痛みに呻きながら目を開くと、次の斬撃はもう目の前まで迫って来ている。生と死。二つの未来が交互に脳内を駆け抜ける。強烈な生への欲求。死への恐怖。それらが揺り起こすのは、若菜の中に眠っていた野生の本能。
次の瞬間、野生動物の咆哮が周囲を駆け巡った。
肩口に刀剣が突き刺さったのにも構わず、勢いに任せて有紀の懐に体当たりをかます。そのまま有紀の上に覆い被さるようにして倒れ込んだ若菜だったが、すぐに身を起こすと腹部目掛けて思い切り拳を突き刺した。二発目を入れたところで、有紀が転がるようにして若菜から逃れる。同時に有紀が駆け出そうとして、すぐに立ち止まった。
有紀の視線の先には友也がいた。その右手には、有紀の物である刀剣が握られている。
「こいつは預かっとくぜ」
一言そう告げただけで、友也はまた鉄柵のところまで戻っていく。
ぼんやりとその光景を眺めていた若菜だったが、友也が再び鉄柵に凭れたところで我に返った。
意識がなかったわけではないのに、無意識に身体を動かしていたような気がする。不思議な感覚を若菜は感じていた。
何となく、友也の方に視線を向けると、偶然なのか目が合った。
一体、何を考えているのだろう。少なくとも自分と有紀の戦いに介入しようという気はないらしい。ただアドバイスをくれたり、有紀から刀剣を奪ったところを見ると、どちらかと言えば自分の味方であるように思えるが。
そんな事を考えていたが、すぐに現実に引き戻された。
有紀は刀剣を失った事を大して気にしていないのか、すぐにこちらに駆けてきた。その右手には小さく光る刃が握られている。他にも武器を隠し持っていたのか。有紀がどんな表情をしているのかは、黒髪に隠れていて見えない。ただ、一瞬その口元が笑みの形を描いているように見えた。次の瞬間、有紀の持つ光る刃が、若菜の目の前を横に凪いだ。間一髪で避けたが、想像以上に有紀の動きが速い。すぐに次の攻撃が繰り出される。刀剣と違って武器自体が小さい為、隙も見つからない。
”どうする?”
自分に問いかける。その間にも有紀の攻撃は止まらない。
一方的に攻め続けているとはいえ、この細い身体のどこにそんな体力が潜んでいるのか。
喧嘩慣れしているのは自分の方なのに明らかに気圧されている。このままでは敗色濃厚だ。そして、喧嘩ではなく殺し合いであるこの場合、敗北イコール死に繋がる。
”ふざっけんな! 誰がくたばるか!”
「あたしはぜってー勝つ!」
叫ぶと同時に腕を前に突き出した。有紀が光る刃を突き出す。鋭い痛みが走ったが、気にせず右足を有紀の左脇腹目掛けて放つ。有紀が小さく呻きを上げて顔を顰める。その隙を見逃さなかった。すかさず後ろに回りこみ首を絞めた。有紀がくぐもった声で呻く。だが、力を緩めはしない。
「はっ! あたしの勝ちだ! あきらめ───」
最後まで言う前に、首を絞めていた右腕に鋭い痛みが走り、思わず力を緩めてしまう。見るまでもなかった。有紀が若菜の右腕に噛み付いたのだ。それも腕の肉を噛み切るくらいに力を込めて。
痛みに耐え切れずに首から腕を放すと同時に、有紀が振り返る。視線がぶつかったと思った時には、有紀はもう動いていた。小さな刃が視界に迫ってくる。かろうじて左に飛び刃を避けたが、すぐさま体勢を整えた有紀が追撃してくる。だが、今度は若菜の動きが勝った。スライディングの要領で有紀の足を蹴り飛ばす。バランスを崩した有紀がコンクリートの地面に倒れ込む。その上に若菜が飛び掛る。馬乗りの体勢になり絶対優勢になったと思った瞬間、右腕に激痛が走って顔を顰めた。有紀が小さな刃物を若菜の右腕に突き刺している。それが手術で使うような鋏であった事を、この時、初めて知った。この病院内で拝借したのだろうが。
一瞬の躊躇が若菜の優勢を暗転させた。突き刺した鋏を引き抜いた有紀が、更に同じ箇所を狙ってくる。動物の防衛本能か、それを避けようと有紀の上から飛び退いた。同時に有紀が立ち上がり、顔面を爪先で蹴り付けてくる。避けきれずに後ろに倒れた若菜の上に、有紀が馬乗りになった。一瞬前と立場が入れ替わったこの状況で、久方振りに有紀の顔を見たような気した。
「教えて……」
呟いた有紀は、悲しい表情をしていた。
「あなたは私を殺したい?」
「何……言って……」
「私はあなたに死んで欲しくない。けど、殺さなくちゃ嫌われてしまうかもしれない……」
有紀が何を言おうとしているのか全く分からなかった。
「怖いの。あの人に嫌われるのが……。あの人と同じものを見て、同じ事を感じて、同じ事をして。そうしていなくちゃ嫌われてしまうかもしれないから……」
今にも泣き出しそうな表情だった。
その瞳を見つめている内に、若菜は気付いた。
怯えているのだ。赤坂有紀は。『あの人』に嫌われるのを有紀は恐れている。
「誰だよ、あの人って。あたしの知ってる奴か?」
「中野夕子と同じ、あなたと正反対の瞳をした人よ……」
何か悲しいものを見るような瞳で、有紀は若菜を見つめていた。
「夕子と……同じ?」
「ええ。あなたとは対極にいる人よ……」
「何、言ってっか全然分かんねえよ」
静かな沈黙が走った後、ようやく有紀が口を開く。
「生きていればいつか気付いたはずよ。でも、私はあなたを殺すわ」
「死なねえよ、あたしは」
言い返すと、もう一度、有紀が小さく微笑した。
「あなたの事、好きよ……」
「赤坂……」
「絶対死なないって言ってたでしょう? あの、森の中で」
ほんの数時間前だ。まだ一日も経っていない。あの森の中で有紀と戦った。
「あなたの強さが……羨ましいわ」
言葉と同時に有紀が鋏を振り上げる。
何も考えなかった。心臓に向けて振り下ろされる鋭利な刃先。それに真っ直ぐに左手を突き出す。
降りかかる血飛沫を顔に浴びながら、赤い幕の向こうの有紀を見つめた。
揺れる瞳を射抜くように睨み付け、鋏が貫通している左手で有紀の右手を掴む。同時に上半身だけ身を起こし、顔目掛けて頭突きを入れる。馬乗りの姿勢のままよろけた有紀から逃れ後ろに回りこむ。脇腹から手を回し、その細い身体を持ち上げた。全身が激痛を訴えてきたが、それら全てを弾き飛ばすように吼え声を上げる。そのまま全ての力を総動員して、後方に放り投げるように床に叩き付けた。
次の瞬間、無音の世界へと意識が持っていかれる。聴こえてくるものは、自らの吐く荒い息と全身が上げる悲鳴。
ゆっくりと頭を動かし、有紀の方を見やる。丁度、倒れていた有紀が起き上がろうとしているところだった。
後頭部を強打した為、平衡感覚が正常に働いていないのか、有紀はよろけながらこちらに向かって来る。
その様子を若菜は黙って見つめていた。
何が有紀にここまでさせるのだろう。やはり『あの人』という存在が、それをさせるのか。
『あの人』に嫌われたくないから。たった、それだけの理由で。
「バカ」
小さくひとりごち、俯いたまま若菜は一歩前に踏み出した。
「バーカ」
もう一歩、前に踏み出す。
「バカ……」
有紀はよろけながら目の前まで歩み寄って来ていた。だが、手を伸ばせば届く距離まで来たところで、とうとう身体を支えきれなくなったのか崩れ落ちそうになる。
その細い身体を抱きとめた。
「山口さん……」
今にもかき消えそうな程、小さな声だった。
「あの人だか何だか知らねえけど、何怖がってんだよ! お前がそいつを好きなら、それでいいじゃねえか! 少なくとも、お前の気持ちは本物だし、そいつにだって伝わってる! だから、そいつにはっきり言ってやれよ! 好きだって言ってやれ! それで、もし、お前がそいつにふられたら……」
「もし、ふられたら……?」
有紀が瞳をあげた。優しい表情だった。
「あたしがお前を慰めてやる! 元気になるまで傍にいてやる! お前が笑えるまで、一生ずっと一緒にいてやるから───」
「ありがとう」
遮るように有紀が呟いた。
柔らかで暖かい瞳。
そのまま、しばらく見つめ合っていたが、次第に目の前の有紀の表情がぼやけてきた。
それで、自分が泣いているのだという事が分かった。
自分の腕の中にいた有紀がゆっくり手を伸ばして、若菜の涙を拭う。
「泣かないで……」
小さく呟いた有紀の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「ばかやろう……」
涙と鼻水混じりの声で若菜が呟く。
若菜の胸に顔を埋めた有紀は泣いている。
抱きしめる腕に少しだけ力を込めて、若菜も有紀の肩に顔を埋めた。
───あなたの事、好きよ……。
いつしか若菜が泣き止んだ頃、有紀がもう一度だけ、その瞳に優しくキスをした。
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