BATTLE
ROYALE
〜 LAY DOWN 〜
59
初めて会った時、意志の強い彼女の瞳に惹かれた。
一緒に生きる事は、もう出来ないけれど、彼女は生きている。
その事実があれば、もう他には何もいらない。
彼女が生きてさえいれば、それだけで自分は穏やかに死んでいける。
*
家に帰り着いた時、親父はソファに座り本を読んでいた。
戸を開けた音で気付いたのか、視線をこちらに向けた親父が笑みを見せる。
「似合うじゃねえか」
「そうかな? 俺は堅苦しくて嫌なんだけど」
そう言って制服を脱ぐと、ヤニで黄色くなった歯を見せて親父が笑った。
「まあ仕方ねえな。三年間我慢すりゃいいだけの話だ」
それだけ言うと、またすぐに本に目を戻した。
親父が読んでいるのは、将棋か何かの講座らしく赤ペン片手に重要な所にマーキングまでしているようだ。
中学に入学してから二ヶ月程経つが、制服姿で親父に会ったのは初めてかもしれない。
ここ最近、親父は仕事で家を空けていた為、ほとんど一人暮らしの状態だったのだ。
親父がどんな仕事をしているのかは知らない。
ただ長年一緒に暮らしているだけに、まともな仕事でない事だけは分かっていた。時には病院で久々の再会をする事まであった程だ。
籍こそ入れていなかったとはいえ気苦労は絶えなかっただろう。そう思って、千絵の好きだった月下美人の花を眺めた。
千絵は親父の女だったが、去年の秋に死んだ。
人と話す事が苦手だった点以外は、ごく普通の女だった。
自分と初めて会った時も何も喋らず、親父が一人で話していたような記憶がある。一緒に暮らし始めてから数ヶ月して慣れてきた頃、千絵自身から他人と付き合う事が得意ではないというような話を聞いた。
両親や親類がどこでどうしているのかは全く分からなかった。もしかしたら、そういった血縁者自体いなかったのかもしれない。
死んでからも特に葬儀などは行わず火葬しただけだった。出席したのも自分と親父の二人だけだ。
千絵がいなくなってから、親父は大きな仕事をするようになった。何週間、何ヶ月という単位で家を空けて、帰って来た時には大金を稼いできているのだ。
「おい、トモ」
急に親父に呼ばれて、月下美人から視線を外した。
「今日の晩から、また新しいヤマがある」
ヤマというのは親父の言うところの仕事の事である。
「また突然だな」
「まあな。それはともかく、また家を離れなきゃなんねえからよ。行く前に美味い酒でも飲みてえと思ってな」
その先は言われなくても理解出来た。
「買って来いってか?」
「ま、そういう事だ。年寄りは労われよ」
「普通のじじいなら、そうしてるよ」
親父が笑いながら何枚かの札を放ってくる。それを受け取ったのを見て、親父が言った。
「きついラムだ」
「ちょっと寄るとこあるから遅くなる」
背を向けながら、応えるように金を掴んだままの右手を振った。
目的地まで電車で二時間弱。
同じ東京ではあったが、そこはもう小さな田舎街といったところだった。
まだ夜の10時を回ったところだったが、駅のホームは無人で周囲にも誰もいない。
駅前の小さな商店や住宅が立ち並ぶ道をすり抜け、川を跨ぐ道を渡ると急激に静謐な雰囲気になる。そこに墓地があった。
親父が仕事に行く前には、必ず来るようにしていた。特別な理由があるわけではない。ただ何となく、そうする事に決めたのだ。
階段を上がってすぐの右手に、千絵の眠る墓はあった。
ここが千絵の生まれ育った街だったらしい。それを知っていたから、親父はこの墓地に墓を立てたのだろう。
周囲にも多くの墓が立ち並んでいるが、さすがにこの時間では自分以外には誰もいないようだ。
ポケットに手を突っ込んだまま、千絵の墓石を見つめた。
「またヤマだってさ」
苦笑しながら、そこにいない千絵に向かって話しかける。
───私達は祈る事しか出来ないわ。
生きていた頃、千絵が自分に言っていた言葉だ。それを今は逆に自分が千絵に言っている。
しばらく、そのまま墓石を見つめていたが、急に騒がしい声が上がりそちらに目を向けた。
何人かいるらしく、どうやら肝試しでもするつもりでやって来たらしい。確かにこの周辺では、唯一の墓地である為、規模も大きいのだが、さすがに呆れてしまう。
少しの間、若者達の様子を眺めていたが、やがて興味も失せ立ち去ろうと思った。その時、急に彼等のものとは違う声が響いた。
「ここをどこだと思ってるの?」
驚いて再び若者達の方に目を向けると、自分と同年代と思われる少女がそこに立っていた。
「何だ、このガキ?」
「お嬢ちゃん、何時だと思ってるのー? ママが心配してるわよー」
若い男の一人が声音を変えて言うと、仲間達が爆笑し始めた。だが、それも一瞬の事となった。
乾いた音が辺りに響く。
若者達の笑い声が消え、同時に自分も息を呑んだ。
少女が男の一人を引っ叩いたのだ。
「てめえ。ガキのくせにふざけんじゃねえぞ!」
言うや否や、男が少女を蹴り飛ばした。それを受けて少女が地面に倒れる。
「舐めやがって」
「まあまあ落ち着けよ。おら、今みたく痛い目に遭いたくなかったらお家に帰んな」
蹴った方の男を宥めながら、もう一人の男が言った。
「帰るのはあなた達の方よ! ふざけないで!」
立ち上がった少女が叫ぶ。
若者達が顔を歪める。同時に、男の一人が少女の髪を引っ掴んだ。先程、蹴った男を宥めていた方の男だ。
「マジで痛い目に遭わねえと分かんねえみたいだな」
「放っときなよ、そんなコ」
二人いる女の内の一人が諌めようとしたが、それよりも早く男が少女の顔を殴り飛ばした。
女が小さく悲鳴を上げる。男の方は今の一発で気が収まったのか、倒れた少女の方へ唾を吐くと背を向けて立ち去ろうとした。
「帰りなさいって言ってるでしょ……」
再び、少女が立ち上がる。
若者達はさすがに驚いたような表情で少女を見つめていたが、やがて先程の男がまた前へと躍り出た。
「殺すぞ、クソガキ」
「あなたなんかに殺されない!」
男が拳を鳴らしながら、少女へと近付いて行く。一方の少女は怯む事なく男を睨み付けている。
後一歩で男が拳を振るうだろうという距離まで近付いたところで、舌打ちと同時に地面を蹴った。
その場に現れた新たな人物である自分に、若者達の視線が一斉に注がれる。それを無視して男の前までやって来ると、有無を言わさず腹を殴りつけた。男が身を捩って小さく呻く。その横っ面に更に蹴りをお見舞いしてやった。バランスを崩して男が倒れる。
一瞬で変化した状況に若者達は呆然としていたが、ややして最初に少女を蹴った男が怒声を上げてこちらに駆けてきた。
捕まる前に、少女の細い腕を掴んで叫んだ。
「逃げるぞ!」
驚いた表情で自分を見つめる少女を無理矢理引っ張って駆け出した。
どれくらい走ったのか。
しばらくして、立ち止まった少女が膝を落とした時には住宅街へと入って来ていた。
荒く息を吐いていた少女が、ゆっくりとこちらに瞳を向ける。
「逃げ切ったみたいだな。俺らの勝ちだ」
少女は少し驚いたような表情をしていたが、やがて破顔するとあどけない笑みを見せた。
「すごいのね」
「ど、どうも」
改めて見てみると、少女はかなり可愛らしい顔立ちをしていて、先程までの若者達への態度が嘘のように愛らしい女の子だった。
「びっくりしちゃった。いきなり出てくるんだもの」
「あ、ああ。ごめん」
「謝らなくていいのに。助けてくれたんだから」
少女が笑う。
何となく、心が穏やかになるような笑みだと思った。
「それにしても、あんた、何でこんな事したんだ? こんな目に遭ってまで」
「下の道をたまたま通りかかったら、あの人達の声がしたから、何だろうって思って来たの。そしたら、あの人達が騒いでたから注意しなきゃって思って」
少女が少し怒ったような表情を見せる。先程の若者達の事を思い返したのだろうが。
「注意ったって、あれじゃ喧嘩売ってるようなもんだぜ」
「だって、あの人達がしようとしてた事は間違ってる事でしょう?」
正論を突かれて、思わず言葉を失いそうになった。確かにその通りだ。だが、大抵の人なら見て見ぬ振りを決め込むところだろう。
「そうだな。まあ、何にせよ、大したもんだよ」
再び少女が微笑した。
吸い寄せられるような笑みに見とれそうになる。体のどこかが熱くなったような気がした。
「ありがとう、助けてくれて」
言葉と同時に差し出された折れそうな程に細い手を握り返すと、少女は少しだけ恥ずかしそうに微笑した。
それが二人の始まりだった。
*
若菜の姿が、いつかの彼女と重なって見えた。
朱に染まった顔で微笑していた彼女。
あの時、どうして止められなかったのか。
思考から彼女の姿を追い出そうと、一度、頭を振ってから若菜の方へ近付いていく。
若菜は有紀に抱かれて眠っていた。
戦い疲れか、泣き疲れか、有紀の肩に顔を埋めたまま眠ってしまったようだ。
その寝顔を見つめて、友也は目を細めた。
「大したもんだよ、お前は」
何となく、そう呟いてみる。
「連れて行くの?」
有紀が眠る若菜を見つめたまま呟いた。
「もうすぐ禁止エリアだからな」
「そう、ね」
この病院の半分が禁止エリアとなるまで後数十分。若菜を置いて行けるはずもない。
「お前も来るだろ」
言ってみたが、本当にそう思っているのかは友也自身にも分からなかった。
ほんの一瞬、見つめ合った後、静かに有紀が微笑した。
「私は……いけないわ」
少し悲しげな表情で有紀が続ける。
「山口さんをお願い……」
有紀の視線が自分から若菜へと移ったのが分かった。
不思議なものを見るような瞳で、有紀は若菜を見つめている。
「森の中で会った時から、山口さんはどこか違うような気がしてた。私ともあの人とも他の人達とも」
そこまで言って言葉を区切ると、優しい微笑を浮かべ若菜の頬に手を触れた。
「だから惹かれたの。あの人と同じくらい、山口さんに惹かれた」
「馬鹿なだけだ。こんな人間、俺は世界で二人しか知らない」
彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
誰より優しくて、誰より厳しくて、真っ直ぐだった彼女の笑顔。
「もう一人はどんな人なの?」
「俺の女だよ……」
一瞬、有紀が目を瞠ったような気がした。
「もう……終わってしまったの?」
有紀を見つめた。何かを彼女から聞いたのかもしれない。
終わってはいない。それでも共に生きる事は出来ない。罪を償わなくてはならないから。
問い掛けに答える事はせずに、有紀に抱かれていた若菜の身体を受け取った。
有紀は悲しげな瞳をこちらに向けたまま微笑している。
若菜の身体を背負ったまま、しばらく有紀と見つめ合い、ややして無言のまま背を向けた。
想像した以上に軽い若菜を背負いながら歩き始める。
扉の前まで来たところで、有紀の声が聞こえた。
「さよなら」
黙ったまま、友也は屋上の扉を開けた。
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