BATTLE
ROYALE
〜 LAY DOWN 〜
60
彼女の事が好きだった。
それだけは今も変わらない。
部分的にしか思い出せない曲を口ずさみながら有紀は眼下の景色を眺めていた。
こちら側からは真下にある中庭と森、そして遥か遠くにだが海も見える。
時折、強く風が吹き木々がざわめく以外は、物音一つしない。
今吹いている風は生温かったが、夜には冷たい風に変わっているだろう。
人も同じようにして変わっていくのか。自分が少しずつ変わっていったように。
もしかしたら、彼女も変わったのかもしれない。
自分の知らない彼女の過去を聞かされても、不思議と好きであるという気持ちだけは変わらなかった。
どんな人間にも過去というものはある。
今の彼女しか知らない自分にとっては、彼女の過去など関係のないものだと思った。
それでも、友也がどのように彼女を見ているかだけは分かったような気がする。
悲しんでいるのだ。
その事実を彼女は知っているのだろうか。
友也の事を語る時、彼女は幸せそうに見えた。けれど、微笑の中に時折感じた暗い何か。
その何かこそが、彼女の友也への想いだったのかもしれない。いや、それはもう妄執なのか。
どちらにせよ、自分がいなくても友也さえ生きていれば彼女は生き続けるだろう。それでいいと思った。それと同時に苦笑を漏らす。
やはり自分はレズビアンだったのかもしれない。
彼女の言う事は全て正しくて、信じたくて、そうする事で今よりもっと自分を見てもらえるのでは。ずっとそう思ってきた。
それは紛れもない恋愛感情。
もし、そうだったとしたら、自分は彼女に対して失恋したと同時に、新しい恋をした。山口若菜という少女に。
若菜の強さに惹かれた。
彼女にも若菜にも受け入れられはしないだろうけれど、それでも二人の事が好きだと思う。
そう。自分は彼女になりたかったのではない。
”私は……あの人の事が好きだったんだ……”
あの綺麗な瞳で見つめられると胸が高鳴った。笑いかけられると嬉しかった。一緒にいると、それだけで幸せな気持ちになれた。
それが恋愛感情だったのだとしても、ただの憧れだったのだとしても、今となってはどちらでもいい。
この想いが自分の全てだったという事に変わりはないのだから。
瞳を瞑って彼女の顔を思い浮かべようとした時、友也が去ったその扉が再び開いた。
ゆっくりとそちらに瞳を向ける。
二人の人間が、こちらに向かって歩いてきていた。
鉄柵に凭れるようにして座り込んでいた有紀の目の前で立ち止まる。
「よう、坂井にゃ会えたのか?」
普段と全く変わらない様子で関口が口を開いた。
「ええ」
「何を話したの?」
会話に割って入ってきたのは中野夕子である。
やはり、どこか彼女と似ているような気がした。
容姿の美しさだけではなく、もっと深いところで彼女に通じるものがあるような気がする。
「あなた達には関係のない話よ」
「ま、確かに関係はねえな。ところで、その怪我、誰にやられた?」
再び関口が口を開く。その目は傷だらけの自分を映しているようであった。
「山口さんに」
「やっぱか。一人で勝手に動きやがって」
舌打ちと同時に、関口が顔を顰める。
それを横目で見ながら、夕子の方へと視線を移動させた。
「私、山口さんを殺そうとしたわ」
「それで?」
変わらない表情の中で、その瞳に宿る冷たさだけが感じ取れた。
「負けたわ。けど、あのコのお陰で自分の事が分かったような気がするわ」
「そう。言いたい事はそれだけ?」
ぞっとする程、冷たい瞳だった。綺麗な容姿が逆にその残酷さを剥き出しにして見せているような。
「本当のあなたを知ったら、山口さんはきっと悲しむわ」
「あなたが心配する必要はないわ。若菜は必ず幸せになるから」
夕子が薄く微笑を浮かべる。瞳の冷たさは変わらない。
短い沈黙が走った後、夕子へと微笑を投げかけた。
「私を殺すのね?」
「ええ」
夕子の表情は変わらない。
「そう。その前に少しいいかしら?」
言葉の途中で視線を関口へと移した。
夕子も同じようにして、隣に立つ関口に瞳を向けている。
「分かったよ。邪魔者は消えろって事か」
「若菜はまだきっと病院内にいるわ。追って」
右手を軽く挙げてそれに応えると、関口は背中を向けようとした。その時、ふとある事を思い出して口を開いた。
「待って」
関口が立ち止まって、自分の方へと目を向けた。
自分はもうじき夕子に殺される。そして、夕子にはこの願いは託せない。
「お願いがあるの」
こちらを見つめる関口の表情は真剣なものだった。
「遺言よ。だから、決して忘れないで」
「俺に、かよ」
苦笑気味に関口が告げる。
「私のじゃないわ」
一度、夕子に瞳を向け、またすぐに関口へと戻した。
「もしも、どこかで西村君に会ったら伝えて欲しいの。雪村さんがあなたの事をずっと好きだった、って」
「雪村の遺言か……」
呟いた関口の目が細くなったような気がした。
「ええ。聞いてもらえるかしら?」
「ああ。引き受けた」
「ありがとう」
何故だか、関口の言葉で安堵出来た。
これで自分が死んでしまっても、佳苗の想いは伝わる。
どんな形でしたものとはいえ約束は約束だ。そして、それがたまたま遺言となっただけの事だ。
一度だけ、こちらを見つめ、それから関口は歩き出した。
そのまま振り返る事もなく、扉の向こうに消えて行く。その扉が閉じられると同時に、夕子が口を開いた。
「優しいのね」
夕子は微笑していた。
思わず見とれそうになる程に綺麗な微笑み。その微笑を消す事もせずに夕子が続ける。
「それで、私に何か話でも?」
夕子に聞きたい事があるわけではなかった。ただ夕子なら自分自身の疑問に答えてくれるような気がする。夕子ならば彼女が言うであろう答えと同じ答えを導き出してくれるような気がした。
少し考えてから、有紀は子供の頃に読んだ小説『紅い海』の内容をかいつまんで話す事にした。
嵐に巻き込まれた船の船員達の話だ。
船員達は老船長を助けるのだが、一人助けられた老船長は後に仲間の後を追ってしまう。その行動の真意を知りたかった。それが分かったところで、自分には何の意味もないけれど。
幼い頃に感じた疑問を、今とても知りたいと思う。
話している間、夕子はただ黙って話に耳を傾けているように見えた。
「好きだったからよ、きっと」
それが夕子の答えのようだった。
好きだったから自殺したというのだろうか。船員達の想いを無視して。
「その船長は船員達を愛してた。一緒に生きたいと思ってた」
「どういう意味?」
「一緒に生きたいという事は、一緒に死にたいという事と同じ事よ」
夕子の表情は至極真剣なものに変わっている。
「船員達は生きて欲しいと思ってたのに?」
「他人は関係ないのよ。大切なのは自分がどう思うか、だわ。その船長は、船員達のいない世界で生きていても意味がないって思ったんでしょうね」
「意味が、ない……」
生きる事の意味。生きている理由。そんな事は考えた事もなかった。
それならば、自分は何の為に生きているのだろうか。産んでくれた親の為だろうか。それとも、彼女の為だろうか。
「私には、分からないわ……」
「別に理解する必要なんてないわ。あなたは、その船長じゃないんだから。別の考えがあって当たり前なのよ」
「あなたには……何かあるの? 生きている理由が……」
問い掛けると、夕子は少し悲しそうな表情になってから呟くように告げた。
「あるわ」
初めて見る夕子の表情だった。
困ったように微笑する夕子の瞳に冷たさは見えず、ただ深い悲しみだけが浮かんでいるような気がする。
それ以上は追求出来なかった。踏み込んではならない何かのような気がする。
それから、しばらくの間、無言で夕子を見つめていた。
この綺麗な瞳は、今何を映し出しているのだろう。そこには山口若菜のみが映っているのだろうか。
夕子が若菜を想うのも、やはりあの強さに惹かれたからなのか。
「少しだけ、あなたの事が好きになったわ」
ふと、夕子が呟いた。
その瞳に冷たさはなく、優しく穏やかな微笑だけが浮かんでいる。
「だけど、私はあなたを殺すわ」
死の宣告を告げてからも、夕子の表情は変わらない。
「ええ。山口さんを殺そうとした私を赦せるはずがないものね」
自らの死を受け入れようとする瞬間、自分がこんなにも穏やかな気持ちになれる事が不思議だった。
「でも、あなたが手を染める必要はないわ」
傍に転がっていた鋏に手を伸ばした。
若菜の左手を貫いた鋏。それをゆっくりと、自分の腹部に押し付ける。
瞳を閉じ、そのまま力を込めて自らの腹部を貫き、上に跳ね上げて抉った。
焼けるような痛みが全身に走る。それから鋏を手にした右手に生暖かいものが触れたのが分かった。
「何故?」
自分の行動に驚いたのか、夕子が瞳を見開いていた。
「あなたが手を汚せば、山口さんが悲しむわ……」
口を開く度に、腹部に痛みが走る。
「それと、あなたが自殺する事と何の関係があるの?」
「だ、って……私、も、山口さんの事、好きになった、から……」
夕子の瞳が細くなる。どこか慈愛に満ちた表情だ。
綺麗な瞳。優しさに溢れた瞳は、自分が知っている夕子のものとは別人のもののような気さえする。
一体、どれが本当の中野夕子なのだろうか。分からないけれど、今目の前にいる夕子は本物のような気がする。
やがて、視界がぼやけてきた頃、夕子が告げた。
「あのコもきっと、あなたの事、好きよ」
それだけ告げると、静かに背を向けた。
その背中をぼんやりと見つめながら、有紀は記憶に残る曲を呟くように口ずさんだ。
やはり途中で分からなくなったが、ふいに夕子が振り返った。
「レイダウン」
呟いた夕子の瞳は見開かれている。
「どこで……聴いた、の?」
首を振って答えた。思い出せない。どこで聴いた曲なのかも。誰の曲なのかも。
「そう」と夕子が呟いた。
そうして、また背を向ける。歩き出す直前、もう一度だけ夕子が呟いた。
瞳を瞠ったが、そうであれば自分がこの曲を好きになったのも頷ける。
遠ざかっていく夕子の背中に、彼女の後ろ姿を重ねた。
───またね、有紀ちゃん。
いつかの彼女の言葉が脳裏を過ぎる。
もしかしたら、今、自分は泣いているかもしれない。実際、どうなのかはもう分からないけれど。
もう感覚は痛みしか残されていない。腹部の痛みは全身を侵している。それだけが今の有紀にある感覚だった。
やがて、意識が薄れていき痛みも感じなくなってきた頃、何となく外の景色に瞳を向けてみた。
その視界にぼんやりと映し出されたものを見て、自然と口が動いた。
「あかい、うみ……」
自分の声すら、もう聞こえない。ただ、そこに映し出される光景に瞳を奪われていた。
日が落ちる寸前の夕焼けが反射した海。
それは紛れもなく紅い海だった。
”綺麗だな……”
死が迫ってきているのに、不思議と穏やかな気持ちだった。
もしかしたら、佳苗も同じような気持ちで死んでいったのかもしれない。
今なら死を選んだ佳苗の気持ちも分かるような気がした。同時に裕太と春香の最期が頭に浮かび、小さく胸が痛んだ。
最期の瞬間に後悔するという事は、自分が選んだ道は間違っていたのだろう。
どうすれば正しかったのかなど分からない。いや、正しい道など初めから存在しないのかもしれない。
誰かにとって正しい事でも、別の誰かにとっては間違っているかもしれない。だとしたら、正しい道とは一体何なのだろう。
彼女にもその答えは見出せないような気がする。
その時、瞳の裏に映った少女の姿を見て、有紀は微笑した。
自分にも、彼女にも、他の誰にも見出せないであろう答え。
”それでも……”
───あのコなら、きっと……。
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