BATTLE ROYALE
〜 LAY DOWN 〜


73

 冷たい。
 一番最初に感じたのは、頬に触れる冷たい何かだった。
 暗い。
 それから、視界に広がる世界を見つめた。
 ここはどこだろう。
 どうやら自分は眠っていたようだが、一体ここはどこなのか。
 まるで見覚えのない場所だった。
 電気の灯っていない薄暗い室内。
 それも床の上で寝ていたらしい。
 未だはっきりしない頭のまま何となく周囲を見回そうとして、矢口冴子は顔を顰めた。
 右腕に焼けるような痛みが走ったのだ。余りの痛みに呻きが漏れる。
 その瞬間、初めて自分の置かれた状況を思い出した。
 プログラム。
 戦闘実験という名目の元で行われる中学生同士の殺し合い。
 一年間で全国から五十の学級が選ばれるという『それ』に、正に自分は今参加させられているのだ。
 その事実を再認識すると同時に、冴子の全身に緊張が走った。
 ”誰かいる!”
 その事実に気が付いた瞬間、全身から血の気が引いた。
 話し声が聞こえたのだ。
 それも、すぐ近くからである。
 相手は勿論、自分がここにいる事は知っているだろう。
 それでいて殺されていないのだから安全な相手である可能性もあったが、潜在意識が危険信号を送っていた。
 自分が目覚めている事は絶対に気付かれてはならない。
 何故かは分からないが直感がそう告げている。
 全身に走る震え、痛み、緊張、それら全てを堪えたまま、冴子は息を殺して話し声がする方に神経を集中させた。
 聞こえてくる声からして話しているのは男女のようだ。だが、声だけで誰であるか判別する事は出来なかった。普段、自分との付き合いが薄い者であるのだろう。
 つまり少なくとも自分の友人達ではないという事だ。友人達の声ならば自分に分からないはずはない。
 男女の会話を聞き取ろうと耳を澄ましてみたが、言葉の端々しか聞こえない為、内容を理解するまでには至らなかった。だが、男女の会話に出て来た単語だけで、状況の悪さはすぐに理解出来た。
 ”何とかしなきゃ……”
 いつの間にか全身に冷や汗をかいている。
 とにかく、今すぐにでもここから逃げ出す必要がある。
 どういう経緯で自分が今ここにいるかまでは分からなかったが、あの二人の男女は間違いなく危険な存在だった。
 彼らからしてみれば、今の自分など格好の獲物だ。
 どうにかして彼らに気付かれずにここから逃げ出さなくてはならなかった。
 ”だけど、どうやって?”
 二人はすぐ近くにいるのだ。少し動いただけでも、ほぼ間違いなく気付かれてしまうだろう。だが、ぐずぐずしている暇もない。
 話が終われば、二人は自分をどうにかするつもりだろう。
 殺すか、はたまた連行でもするか。
 勿論、どちらも御免である。
 いつ二人の会話が終わるか分からない以上、ともかく急がなくてはならない。
 動けば見つかる。怪我はしている。しかも、相手は二人。
 ”何か……何かないの?”
 冴子は薄く瞳を開けると、絶対に物音を立てないように気を使いながら首だけ動かして周囲を見回してみた。
 そうして、初めて窓が開いている事に気付いた。いや、開いているのではない。割られてしまっているのだ。
 一体、誰が。
 分からないけれど、活路があるとしたらこれしかないかもしれない。
 あの二人よりも、自分の方が近い位置にある唯一の逃げ道。
 少なくとも他に何も浮かばない以上は、これに賭けるしかなかった。
 起き上がると同時に駆け出して、あの窓を飛び越える。それしかないだろう。
 万が一、右腕に痛みが走っても絶対に足を止めてはならない。スピードを落とす事すら許されない。
 ”純。力を貸して……”
 冴子は一度、強く目を瞑ると、親友である遠藤純の優しい笑顔を瞼の裏に浮かべた。
 ”純。必ずここから逃げ出して会いにいくから……。だから……”
 静かに目を開くと、次の瞬間、冴子は全身をバネにして跳ね起きた。
 ”……待ってて! 純!”
 すぐに床を蹴って走り出す。声が聞こえた。男の声。自分の名前を呼んでいる。だが、構ってはいられない。割れた窓ガラス。窓枠に手をかけると同時に、焼けるような痛みが右腕を突き抜けた。だが、それも無視した。壁に掛けた足をバネにして、勢いよく窓の外へと飛び出す。当然、上手く着地出来るはずもなく地面に転がってしまった。右腕の痛みはいつの間にか全身に広がっていて、もうどこが痛いのかすら分からない。歯を喰いしばって立ち上がると、またすぐに地面を蹴って駆け出した。
 周囲の様子など目に入らない。二人が追って来ているのかどうかも分からない。ただ地面がある場所を全力で走り続ける。痛みで朦朧としている為か、何度か地面に落ちていた小石か何かに足を取られて転んだが、その度に起き上がってはまた走り始めた。
 そのまま冴子は走り続けていたが、やがて力尽きるかのように森の中で倒れ込んだ。
 それまでの間に、どのくらいの距離を駆け抜けたのかは冴子自身にも分からない。
 横になって倒れていた身体をどうにか上半身だけ起き上がらせ、近くにあった大振りの木の下まで這って行く。
 その際にも突き抜けるような痛みが右腕を中心に走ったが、痛みに慣れてしまったのかさほど気にはならなかった。
 ようやく木の根元まで来ると、そこに背中を預け足を投げ出した。
 荒い息を吐きながら、左手で自分の右腕を擦ってみる。
 感覚はない。
 あるのは変わらない痛みだけだ。
 しばらく、自分の右腕を見つめ続けた後、冴子は茂る木の向こうに見える暗い空を見つめた。
 皆はどこにいるのだろう。
 どうにかあの二人から逃げ切ったまではいいが、どこを探せば良いのか皆目見当もつかない。
 そこまで考えて、ようやくここまでの自分の行動を思い返し始めた。
 ───許して!
 真島裕太。彼はまだ自分を探しているのだろうか。
 教室で担当官である西郷に撃たれた右腕を手当てしてくれた裕太に対して、自分はチェーンを叩き付けて足止めして逃走したのだ。
 ”最低だな、私”と思って冴子は自嘲した。
 けれども、そうしてでもしなくてはならない事が自分にはあるのだ。
 友達を守りたい。
 冴子を突き動かすのは、その一念のみだった。
 とにかく早く皆を見つけないと。と、そこまで思って、ふとある事に気付いて冴子は腕時計に目をやった。
 午前4時18分。
 今の時刻を知った瞬間、冴子は顔を強張らせた。
 にわかには信じられない。
 ”わ、私……何時間、眠ってたの?”
 記憶を遡ってみたが、最後に時計を見た時の時刻はよく思い出せなかった。
 覚えているのは早朝だった事くらいだ。
 そう。二度目の放送が終わって少し経った頃、いきなり誰かが銃を撃ってきて走って逃げたのだ。それから逃げ切ったと思った途端、誰かに首を絞められて、また逃げて、すぐにまた違う誰かに撃たれて倒れた。
 その後の事は全く覚えていない。目が覚めた時には、あの男女二人がいた建物の中にいたのだ。
 撃たれた後、誰かと話をしたような気もするがはっきりとは思い出せない。
 どちらにせよ、それからおよそ二十時間も眠り続けていたという事か。
 その事実に冴子は思わず息を呑んだ。
 自分が知らない空白の二十時間の間に、一体何人が殺し合いをし、何人が死んでしまったのか。
 純は無事なのか。他の友人達は無事でいてくれているだろうか。
 とにかく、こうしている場合ではない。
 誰でもいいから探し出して、今どういう状況なのかを聞かなくてはならない。
 早速、出発しようと腰を上げかけた冴子だったが、またすぐに地面に腰を落とす事となった。
 禁止エリアというものがあった事を唐突に思い出したのだ。
 そして、今冴子にはそれを知る術はない。
 それどころか地図も武器もデイパックすらも持っていない。
 愕然としたまま、冴子は暗い空を仰いだ。
 下手に動けば禁止エリアに引っ掛かって死んでしまうかもしれない。だが、この場に留まっていても同じなのだ。今自分がどこにいるのかも分からないのだから、ここが禁止エリアに指定されたとしても分からない。
 動いても、動かなくても、知らない間に禁止エリアに引っ掛かって首輪が爆破されるかもしれないのだ。
 死という現実が頭を過ぎる。
 ”どうしよう……。どうすればいいの……”
 禁止エリアに引っ掛かって死ぬという可能性があるという事実に気付いてしまった以上、もう動く事は出来ない。だが、このままここにいるわけにもいかない。
 爪を噛んで必死にこの状況を打破する方法を考えていた冴子だったが、ふと顔を上げて耳を澄ました。
 木々のざわめきが聴こえる。
 その中に鳥の鳴き声のようなものも聴こえる。
 しばらく、瞳を閉じて自然が出す音に耳を傾けていた冴子は、やがてゆっくりと立ち上がると静かに息を吸い込んだ。
 自分から誰かを探す事が出来ないなら、誰かに自分を見つけてもらえばいい。
 多分、他に方法はない。
 信じるしかない。自分のクラスメイトを。
 既に二人が死んでしまっている上、自分自身殺し合いに乗った者に遭遇してしまっているが、きっとほとんどの者は殺し合いになど乗っていないはずだ。
 どの道、このままここにいるわけにもいかない。
 全てのクラスメイトを信じて、その結果、殺し合いに乗った者に見つかり殺される事になっても、何もせずに禁止エリアに引っ掛かって死んでしまうよりはよっぽどいい。
 意を決すると、冴子は大きく口を開いて叫んだ。
「誰かーーーっ! お願い! 近くにいたら出て来てーーーっ!」
 勿論、たった一回叫んだくらいで誰かがやって来るはずもない。
 冴子は再び大声を上げる。
 何度か叫んだ後、少し休み周囲の様子を窺う。誰も来る気配がない事が分かると、また声を上げる。
 それを何度も何度も繰り返した。
 五回。十回。二十回近く繰り返しても誰もやって来る気配はなかった。
 それでも冴子は繰り返す。
 喉が潰れてしまっても声が出る限りは続けようと思った。
 今、自分に出来る事はこれだけだったから。
 ”お願い、ここに来て……。誰でもいいから……。お願い!”
 一体、何回、繰り返した頃だろうか。
 冴子の耳に初めて、自分以外の人間の声が聞こえたのは。
 すぐに周囲を見回したが、人の姿は見えない。
 幻聴かと思って落胆しかけた時、再び声が聞こえた。
「誰だ?!」
 どこかで聞いた気がする少女の声だった。
 分かったのはそれだけで、声の主が誰であるのかまでは分からなかったが。
「矢口よ! あなたは?!」
 そう冴子が尋ねると同時に、ようやく声の主が姿を現した。
 その姿を見て、冴子は顔を強張らせてしまう。
「よう」
「そ、早田さん……」
 無意識に足を後退させていたのか、背中が木の幹にぶつかった。
 口端に笑みを湛えたまま、早田智美はゆっくりとこちらに歩み寄って来る。
 汗が額から流れ落ちてきた。
 危険を知らせるシグナル。逃げろ、と全身が叫んでいるような気がした。
「また会ったな」
 静かに智美はそう言った。
 この声を知っている。
 唐突に、自分が意識を失う寸前の光景が蘇ってきた。
 ───これで終わりだ。 
「あ……あんた……。あんたが、あの時の……」
 昨日の早朝、正に自分が意識を失うきっかけを作った銃弾を放った女。
 右手に握られた銃が持ち上げられる。
「あたしが怖いか?」
 そう告げる智美の顔の中央には、斜めに大きく何かで斬られたような傷跡がある。
 愛くるしい顔の中央に走る大きな傷跡。
 そのアンバランスさが、冴子の恐怖心を増幅させる。
 ”逃げ……なきゃ……”
 走り出そうとする前に智美の方から仕掛けて来た。
 銃ではなく、いきなりタックルをかましてくる。木の幹に背中を叩き付けられ激痛が走った。そのままその場に崩れ落ちる。
 それでもう終わりだった。
 抵抗すら出来ないまま、額に銃が押し付けられる。
「終わりだ」
「てめえもなぁ!」
 いきなり新たな声が響いて、冴子は視線を動かした。
 視線の先に新たな人物が立っている。
「いきなり銃が手に入りそうで良かったぜ」
 笑いながら、小柴省吾(男子8番)は拳を鳴らして近付いて来る。
 その様子を震えながら見つめていた冴子だったが、ふと銃口が自分から外れている事に気がついた。
 瞳を上げた先、智美は省吾の方に向けて銃を構えている。
 ”今しかない!”
 思うより早く、冴子は地面を蹴っていた。
「逃がすか、てめえ!」
 省吾の叫び声。
 それを認識した瞬間、銃声が響いた。悲鳴を上げて、一瞬立ち止まりかけたが、すぐにまた冴子は走り始める。
 今の自分では、相手が智美だろうが省吾だろうがどうする事も出来ない。
 悔しいけれど、それが現実だった。だから、今は逃げる。
 全身に痛みが走り、悲鳴を上げていたが、それでも冴子は走り続けた。
 今は逃げる事しか出来ない。
 ”でも、きっと純を見つけて……。みんなを見つけて───”
 そこまで考えた時、不意に足場が消失した。
 重力に逆らえずに冴子の身体は落下していく。
 自分の身体が浮遊する不思議な感覚。
 とても不思議な感覚だ。だが、それを感じた次の瞬間には、既に冴子の思考は途絶えていた。
 風が吹き、鳥が鳴く。
 先程までと変わらず、自然は音を出し続ける。
 いつまでも。いつまでも。
 まるで、泣き声のように。

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