BATTLE
ROYALE
〜 LAY DOWN 〜
77
昨日とは違って朝から妙に強い風が吹き荒んでいた。
肌を突き刺すような寒さは真夜中とそう変わらない。
「さみー」
冷たくなった両手を擦り合わせながら、若菜は小さくひとりごちた。
さすがに息が白くなる程ではなかったが、強い風のせいで六月とは思えない程の寒さになっている。
早朝の放送があった頃はまだ弱々しい風だったのだが、その後、急に強風となって襲い掛かってきたのだ。
ベランダの位置が海側でなくて本当に良かったと思った事は言うまでもない。
海からの風の冷たさは、幼い頃に一度だけ行った家族旅行のお陰で知っていた。
それが家族三人で行った最初で最後の旅行でもある。
”とーちゃん……”
今でも憧れの父親である。
父と母の菜摘と初めて行った海で、まだ小学校に上がったばかりなのに無理矢理遠泳をさせられ溺れて死にかけた思い出。
菜摘が制止するのも聞かず、強制的にサーフボードに若菜を乗せた挙句、波に巻き込まれ死にかけた思い出。
菜摘をナンパした男を半殺しにして警察のお世話になった思い出。その他、諸々、今でも忘れられない若菜の思い出である。
「って、よく考えたら、ろくな思い出がねーーっ!」
思わず、空を仰いで叫びを上げた若菜であった。
「ったく、あのクソ親父め」
小声でぼやいた時、自分の目から涙が零れ落ちてきている事に気付いた。
思い出すと悲しくなるのは自分が愛されていた事を知っているから。
自分が父を好きだったからだ。
若菜にとっての父は理想の男性像そのものだった。
強い父の背中をずっと見てきたのだ。
そんな自分がこんな所で泣いている場合ではない。
そう思って、若菜は制服の袖で涙を拭う。
”とーちゃん……あたしの事、見ててくれよな”
涙を振り払うように空に浮かぶ太陽を見つめた。
そんな若菜の髪を冷たい風が凪ぐ。
───強い女になれ、若菜。
母がよく自分に言っていた言葉。
正直、「強い女」というものがどのようなものであるのかは若菜には分からない。
それでも、そうありたいと願ってきた。
菜摘のように強い女でありたいと。
そして、夕子のように優しい女でありたい。
「夕子……どこにいんのかな……」
凛々しくて格好良いという意味で、夕子は菜摘に似ている気がする。だから、夕子の事が好きなのかもしれない。
穏やかで、優しくて、それでいて強い。
自分と同い年とは思えない程に「いい女」なのだ。中野夕子という少女は。
せめて見た目だけでも、と思ってはいるのだが。
「けど、なぁ……」
如何せん、夕子と張り合える程のスタイルは当然持ち合わせてはいない。
”せめて、あの胸があたしにあったら……”
そこまで考えて、若菜は小さく呟いた。
「む、むなしい……」
幼児体型と言ってもいい自分に夕子の豊満なバストが合わさった姿を想像した結果、虚しさの余り肩を落とした若菜であった。
”ま、まあ、胸なんてほっときゃでかくなるだろ。うん。きっと───”
自分に言い聞かせるように、強引に納得しようとした時だった。
視界の端に人の姿が映ったのは。
「あっ!」
思わず、ベランダの手すりから身を乗り出してそちら側へと目を向けた。
距離がある為、いまいち誰であるのか判別出来ないが、どうも女子のように見える。
息を呑んで、近付いて来る少女を見つめていた若菜だったのだが。
「あっ! あーーーっ!」
少女に向かって指を差すと同時に歓喜の声を上げた。
「ま、正巳ーーっ! 正巳! こっち! あたし、あたし!」
見間違えるはずなど絶対にない。
こちらに向かって来る少女。それは間違いなく、自分の親友の一人である高村正巳に他ならなかった。
表情までは、こちらからは良く見えなかったが正巳はこちらを見上げて立ち止まっているようだ。
「正巳! 今、下降りるから待ってろ!」
言うが早いか、勢いよくベランダの床を蹴った。
ちなみに当然、見張りの事など頭から吹っ飛んでいる。
ベランダを後にし部屋の扉を開けると、丁度、義人がこちらにやって来るところだった。
「おい! 大声を出すなと何度───」
「正巳が来たんだ!」
それだけ言って義人の傍をすり抜けるようにして階段を下っていく。
下りきった所に、唯が立っていた。
「や、山口さん?!」
目を丸くしている唯には、脇を走り抜け様、ブイサインで喜びを示してみせた。
”正巳! 正巳!”
そのまま一気に玄関へと突き進み、目の前の扉を勢いよく開いた。
そこに女子の中で一番の長身である正巳は立っていた。
一番背が高いけれども、誰より可愛い正巳。
ようやく再会出来た。自分の親友。
開け放した玄関の前で、若菜と正巳は一瞬黙って見つめ合った。
「若菜ちゃん……」
「ま、正巳……」
知らず涙が溢れてきていたが、今度はもう構わなかった。
気がついた時には飛びついていた。
嗚咽交じりで泣きながら、正巳の身体を抱き締める。
感動と安堵と嬉しさと様々なものが頭の中を巡って若菜は声を上げて泣いた。
「若菜ちゃん……」
正巳の両手が、一回り小さい若菜の細い身体を抱き締め返す。
涙で滲んだ視界に、自分と同じように涙を流す正巳の顔が見えた。
「若菜ちゃん……若菜ちゃん……」
「まさみぃ……」
涙と鼻水でぼろぼろになった顔を正巳の胸に押し当てて、若菜はひたすら泣き続ける。
話したい事、聞いて欲しい事が沢山ある。
葵の事。これからの事。
どこまでも心を許せる相手だからこそ伝えたい事が沢山ある。
どのくらいの時間、抱き合って泣いていただろうか。
肩を叩かれて、ようやく正巳の胸から顔を離した。
「山口。高村を中に入れてやれ」
「あ、天野」
振り返った先に、穏やかに笑んでいる義人の顔があった。その隣には菊池と唯もいる。
「うん。うん!」
大きく頷いて正巳の方に目を戻した。
「中入ろうぜ、正巳。天野と手塚と菊池が一緒なんだ。菊池とかバカでヤンキーだけど意外といい奴だから怖がんなくていいからさ!」
「お、お前なぁ」
がっくり肩を落としてうなだれた菊池だったが、すぐに顔を上げた。
「まあ、高村に免じて今回は見逃してやるよ。見張りは俺が代わってやる」
「うん。サンキュ!」
「え? あ……ああ……」
若菜が言うと、菊池は踵を返して頭をかいた。
「何、照れてるんだ、お前は」
「い、いや、何か……」
「や、山口さんって可愛い……」
そんな義人、菊池、唯の会話は耳に入る事はなく、すぐに正巳の方に向き直り制服の袖を引っ張った。
「ほら、行こうぜ!」
「あ、あの……若菜ちゃん……私……あの……」
家の中に入る事を拒むかのように正巳はその場から動かない。
しばらく、袖を引っ張って促がしていたが、やがて泣き顔のまま正巳は俯いてしまった。
「ま、正巳?」
「若菜ちゃん、私……」
「だ、大丈夫だって! さっきも言ったけど菊池は仲間だぜ! 天野もいっつも怒ってるみたいな顔だけどいい奴だし! 手塚は全然いいだろ? 大丈夫だから───」
そこまで言った時、正巳が大きく首を横に振った。
「ち、違うの。あの……どうしても……若菜ちゃんと二人で……話、したい……」
「あ、うん。それはいいけど」
様子がおかしい正巳に困惑しつつ、若菜は後ろを振り返った。
義人も菊池も唯も、様子がおかしい事を知ってかその場に立ち尽くしたままこちらを見つめている。
「あ、えっと、何か正巳が二人で話したいっつーから」
「分かった。早く安心させてやれ」
微笑を浮かべて言うと、義人が踵を返して家の中へと戻って行く。
「良かったね、山口さん」
「俺の誤解も解いといてくれよな。結構ショックなんだぜ」
瞳を潤ませて唯が言い、続いて苦笑しながら菊池がぼやいた。
「うん。ありがとな、手塚。菊池はどうでもいいけど」
「てっめえ。後で覚えてろよ」
「ああ、後でな!」
右手を高々と挙げて答えると、菊池と唯も義人の後を追って家の中へと戻って行った。
それを見届けて、正巳の方へと向き直る。
正巳はまだ俯いたままだ。
「ごめんな、正巳……」
「え……?」
正巳をこんなにまで怯えさせてしまった理由の一端は自分にある事がようやく分かった。
「あたし、お前の事、待ってやれなかった……」
「あ、そんな……。違うの! そうじゃない! そうじゃ……ないの……」
泣きそうな顔で正巳が首を振る。
「でも、あたし、最初、葵と一緒にいたんだ。でも、色々あって待ってやれなかった……」
少なくとも今正巳がこうして怯えていなければならない理由を作ったのは、その時、言い合いをしていた自分と葵だった。
鈴子が出発した事にさえ気付いていれば、きっと正巳とも梨香とも合流する事が出来たのだから。
自分が夕子と行ったとしても、少なくとも葵だけは皆と合流する事が出来たのだ。
そうすれば葵は死ぬ運命になどならなかったかもしれない。
「泣かないで、若菜ちゃん……」
正巳の両腕が優しく若菜の事を包む。
そのまま正巳は若菜の左肩に顔を埋めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。ごめんなさい……。ごめん……」
何故か謝罪の言葉を口にする正巳の声が、次第にかすれて聞こえなくなってくる。
「正巳?」
訳が分からないまま、泣き続ける正巳の髪を手で撫でてやる。
どのくらいの間、そうしていただろうか。
正巳がようやく顔を上げる。
そのまま、しばらく見つめ合った後、正巳がひとり言のように小さく呟いた。
「許して、若菜ちゃん……」
「え? 正巳……?」
「一緒に来て欲しいところがあるの……」
それだけ言って、正巳はまた俯いてしまう。その肩は何故だかひどく震えていた。
「来てって。それはいい、けど……」
様子がおかしい事が心配だったが、とりあえず頷いた時、一瞬、正巳と目が合った。
その瞬間、正巳の顔がひどく悲しそうに見えて声をかけようとしたのだが。
「行こう……」
何かを振り切るように背を向けると、正巳が若菜の右手を取った。
その手が微かに震えている。
「まさ……み……?」
「あったかい、若菜ちゃんの手……」
背を向けたままで小さく呟いた正巳の表情は分からない。
手を握る力が少しずつ強くなってくる。
「痛いよ……。正巳……」
強く握る手の先にある正巳の肩が大きく震えていた。
泣いているのだ。
どうしてかは分からない。
それでも悲しい気持ちが正巳の手を通じて伝わってきた。
悲しみを伝える手はとても冷えきっていて、強く握ると壊れてしまいそうだ。
確かに手を繋ぎ合わせて繋がっているのに、どうしてこんなに悲しいのか。
分からない。
「正巳……」
名前を呼んでも正巳は振り返らない。
やがて若菜の手を強く握り締めたまま歩き出した。
冷たい風が二人を包み込む。
周囲には正巳の小さな泣き声だけが響いていた。
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